正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

5 一日の始まりは明るい挨拶から

注意事項を確認する


 改造すればスタンド込みのサッカー場ができると思われるほど、展示ホールは広大だ。天井高も、通常の建物の数階分に相当すると見える。そしてその内部を占める膨大な量の空気は、熱気と言って差し支えないものだった。
 今さら、と思いつつも、裕也はため息をつく。
「うへえ。中へ入れば涼しいかと思ったが、所詮この広さと人数じゃあクーラーも効かないか」
「みたいねー。それにどうせ開場したら、その辺のシャッターとか盛大に開けちゃうんだから、空調切られちゃうだろうし」
「おいおい殺す気かよ。何だってシャッターを開けるんだ」
 瞬間湯沸し機的に、運営組織に対する殺意がこみ上げてくる。しかし美月は軽く首を振って受け流した。
「考えてもみてよ。周辺にいたあの人数が、時間になれば全部中へ入って来ようとするのよ。この建物の中だけで、足りると思う? 外のスペースまで使ってようやくぎりぎりって所よ」
「考えさせないでくれ。余計に暑くなる」
「じゃあ黙ってなさい。タオルと飲み物を持って来させた訳、分かったでしょ?」
「ああ、否応なしに汗をかくから、水分を取らなきゃ楽に脱水症状で死ねる」
 脱水症状は、人体にとって極めて危険な状態である。水分は、体内のほぼ全ての活動に欠くことができないからだ。下手な疾患や外傷よりもよほど怖ろしい。
 中学か高校の時に教わったそんなことを、裕也は覚えていた。今はすっかりぐうたら人間だが、当時はかなり真面目に体育会系をやっていたのである。激しい運動をするにあたって必要な正しい知識も、一通り身につけている。精神論が先行して科学的根拠に欠ける、そんな体に不要な負担をかける単なる「しごき」は、裕也にとって過去の世代の話である。
「しかしタオルはともかく、ジュースくらい売ってないのかね、ここ」
 首回りを拭きながらあたりを見渡してみる。ホールの隅のほうに、屋台のような店が見えた。
「売ってるけど、考えることはみんな同じだから。売り切れや行列で必要なときに手に入らない、なんて、怖いでしょ」
「なるほど。頭のいい人間は自衛をするってことか」
「そういうこと」
 そんな会話を聞いているのかいないのか、光樹は淡々と質問した。
「それで、君のスペースとやらはどこにあるんだ」
「ああ、うんと、えっとねえ…」
 美月は光樹が持っているカタログを覗き込む。鬱陶しげに、彼は手を振った。
「番号を言え。それで分かる」
「コの48のa」
「ならあのあたりだ」
 さっとあたりに視線を走らせると、光樹はそれらしい位置を指で示した。
「はー、良く分かるわね」
「お前が言うな」
 感心した美月に裕也はすかさずツッコミを入れる。彼女がここまで彼と光樹を連れてきたのだから、少なくともこの三人の中では彼女が内部の事情を把握しているべきだ。それは正論であったが、しかし光樹が首を振った。
「概して女は地図が読めない」
「男の中でも光樹くんは特に、人の様子に無頓着だもんね」
 すかさず美月が切り返す。しかしそれに彼は動じることもなく、流した。
「上に案内板が下げてある。それを見れば分かる」
「ああ、なるほど」
 今この二人の間に入ったら確実に、とにかく口の良く回る人間と、その気さえあればいくらでも弁の立つ人間の集中砲火を食らう。それを察した裕也は、とっさに適当な距離を保つ返事をひねり出した。
 確かに、視線を少し上に上げるとそれらしい看板が下げられてある。ただ、それは始めてこの場に来た人間には少々分かりにくいものだった。その場所を示すカタカナの文字だけが下げられているのだ。
 少し注意してみればそれが五十音順に並んでいることが分かる。しかし何の予備知識もなくすぐにそれを察することができるのは、言語と地理感覚双方に優れた人間、例えば光樹など少数の例外のみだろう。逆に地理感覚の鈍い人間なら、それなりに整理された駅の案内板などを見ても、目的地にたどり着くことは難しい。
「さほど遠くない。まずは、そこへついてしまうのがいいだろう」
「そうね」
 そして裕也と美月の二人は、結局の所光樹の案内で美月のスペースへたどり着くこととなった。
 到着直後、彼女は元気の良い声を上げる。
「おはようございまーす!」
 まるでそこをあらかじめ知っていたかのような自信に満ちた勢いで挨拶をする。裕也は思わず光樹に目をやったが、彼はいつもの彼らしいペースで淡々と軽く頭を下げていた。それに促されて、やや仕方なくではあるが裕也も挨拶をしながら頭を下げる。状況が少し特殊なような気もするが、しかし少なくとも礼儀を失するのは彼の心情にそぐわなかった。
「あ、おはようございます」
 これで向こうも同じ勢いで返してきたら、自分はついていけないかもしれない。そう思っていた裕也としてはやや幸いなことに、その周囲にいた人間はむしろ少しあわてたように返事をした。また、とっさに何か言おうとして結局何も言えず、黙礼している人もいる。
 良くも悪くも遠慮深い、一般的な日本人の範疇に入る人々のようだ。底抜けに人懐こい美月はあくまで、特殊な例外である。少なくともその意味だけを考えれば、基本的に他人と距離を置いている光樹の方がまだ平均に近い。
「今日一日、よろしくお願いいたします」
 さわやかかつ丁寧な挨拶を決めてから、美月は連れの二人を見渡した。
「同人誌即売会においてコミュニケーションは必要不可欠! 参加者全員がすがすがしく楽しめるよう、まずはしっかりとした挨拶からよ」
「ああそう」
 ごくまっとうな内容だったので裕也はそれだけ言ったが、しかし光樹は腕組みをしている。
「別に即売会に限らず、どんな形であれ社会生活であればコミュニケーションは必要不可欠だ」
 社会生活を営む、つまり人と関わるのに意志の疎通が必要であることは言うまでもない。逆にコミュニケーションの総体が社会であるという考え方もある。その場にどれほど人が多くいても、その間に何の係わり合いもなければ、それは社会とは言えないのだ。
「当たり前のことを強調するということは、つまりそれが良好な状態から乖離していることの証拠だぞ」
 例えば、「タバコのポイ捨ては止めましょう」という当然のマナーであるはずのことについて宣伝が執拗に行われるのは、現にポイ捨てが横行している証拠である。
「特に光樹くんとかね」
 痛い所を突かれたはずだが、美月はそのまま黙っているような人間ではない。すかさずやり返す。確かに、光樹ほど愛想に欠ける人間も珍しいはずだ。
「そうだな。君の手前もあるし、ここでは気をつけるとしよう」
 この男はこの男で、相当に神経が太い。平然とうなずいたが、そこへ美月が追い討ちをかけた。
「ここだけじゃなくて、生活一般についても、よ」
「難しい注文だ」
 取り付く島など微塵もない。さすがの美月も諦めたようだ。
「難しくてもがんばりなさい。さて、それじゃあまずは机の片づけからね」
 光樹の真似でもするかのように細い腕を組む。机の上に置かれたパイプ椅子のさらに上には、チラシが山と積まれていた。
「こいつはまた、すごい量だな。ダイレクトメールどころの騒ぎじゃないぞ」
「配る方にとっては相当な宣伝効果が期待できるからね。大半が同人向けの本を刷ってる印刷所で、残りはここよりはもう少し小さいけれど似たようなイベントの宣伝って所よ」
「なるほど。名簿業者にわざわざ高い金を払うよりはよっぽどいい」
 商品を買ってくれそうな人間の情報は、商業にとっては何より貴重だ。そのためプライバシーを侵害するかしないか微妙なところで個人情報を記した名簿などが売り買いされるのだ。しかしここならその必要がない。極めて高い確率で、顧客予備群であろう。
「まあ、結婚情報やら車の情報ならともかく、それ向けの名簿があったら一度お目にかかりたいけどね。あるとすればせいぜい、こことかの本部くらいなものよ」
「ふうん」
 裕也は生返事をしながら、手早くチラシの整理を始める美月から視線を外して何となくあたりを見渡してみる。手伝おうにも要領が分からないため、することがないのだ。光樹も同様にしている。
「ん?」
 通路をいやに派手な色の髪をした人間が歩いて来る。鮮やかな赤だ。とっさにものすごく気合の入った染めようだなと思ったが、相手が近づくにつれ、それが必ずしも正しくないことに裕也は気がついた。
 顔立ちもそれに負けないくらい、派手な感じなのだ。目鼻立ちがくっきりとしている。薄手のワンピースを着ているためかなりはっきりと分かる体型からしてまず間違いなく女性だが、それにしては背が高い。どうも日本人ではないようだ。
 髪はいわゆる赤毛の、地毛なのかもしれない。染めたにしてはつやが良すぎるようにも見えた。天然であれだけ鮮やかな色合いなら、何かの小説の題名になりそうだ。推理小説の古典、あるいは少女の成長を描いたもの、そのいずれにせよ、名作であることは間違いない。詳しい所は裕也も良く知らないのだが、少なくともアイルランド系に、そのような髪の色をした人間が多いらしいと思っている。
 そして彼女は手を振りながら元気の良い声を上げた。
「Hi!  Mickey!」
 間違いない、外人だ。裕也はそう思った。発音が実に堂に入っている。
 それにしても誰に呼びかけているのだろうと、あたりを見渡してみる。ぱっと見た所他に英語の通じる外国人らしい姿は見えなかったし、確認した今でもそうだ。しかし彼女は、どうもこのあたりに呼びかけている。
「はぁい! リサ!」
 そうしている間にすかさず返事をした者がいる。それは誰あろう、菱乃木美月だった。彼女へ向けて、相手の外国人女性は足早に歩み寄ってくる。決して走ってはいないのだが、しかし日本人の平均よりだいぶ足が長いらしく、かなりのスピードがあった。
「えっ!」
 裕也は驚くと同時に、やや引いてしまっている。
 外国人に対して気後れしてしまうのは、日本人の悪い癖である。相手の国に行っているのならまだしも、ここは日本なのだからもう少し堂々としていたって悪くはない。
 また、中学、高校と六年間も英語を習っているのだから、相手が英語をある程度理解できれば、知っている単語を使って何とかコミュニケーションをとることも不可能ではないはずだ。
 それは分かっているのだが、できない。裕也もそんな、典型的な日本人の一人である。例え共通する語彙が何一つなくとも、表情とボディランゲージだけで強引にコミュニケーションを成立させそうな美月、あるいは言葉が通じない以上あっさり意志の疎通を諦めそうな光樹などはあくまで例外だ。
 ここはもう、美月が裕也の予想を大きく超える外国語会話の能力を発揮することを期待するしかない。あるいはなんだかんだと言っても教養のある里中が、通訳をしてくれるかだ。
「一年ぶり!」
 しかし彼女は力一杯、日本語で挨拶をした。脱力に抗しきれず態勢を崩した裕也に、相手の外国人女性がさらに追い討ちをかける。
「長いようでも短いものよねえ」
 その唇から発せられたのは、実に流暢な日本語だった。内容も発音も非の打ち所がなく、また声の質もやや高めで、むしろアジア人の水準からしても小柄な女性を思わせる。それだけ聞いていれば日本人のものとしか思えないだろう。あるいは実際、遺伝的には欧米系であったとしても、日本で生まれ育ったのかもしれない。
 この日本、ましては普通ではないこの場を平気な顔をして歩いているのだから、当然相手が日本語でのコミュニケーションに不自由をしないという可能性に思い至るべきだった。自分の考えの至らなさ加減に、裕也はしばらく立ち直れそうになかった。
 しかし無論、誰も助けてくれない。美月はしばらく一年ぶりの友人との会話に没頭するだろうし、光樹は一々人助けをするような真っ当な性格ではない。少ししたら、自力で何とかするしかなさそうだ。
 ただ、意外な所から助け舟が入る。
「所でミッキー、そちらのお二人に、あたしを紹介してくれる? それとも自己紹介の方がいいかな」
 ほかならぬその女性が、話の流れを変えた。美月はうなずいて話し始める。
「ああ、ごめんね。あたしがする。こちら、リサ=クレイ。一昨年ここで知り合った友達なの。普段はアメリカで暮らしてるんだけど、結構頻繁にメールのやり取りをしてるのよ。で、こっちが長見裕也と里中光樹、二人のことはメールで教えてあるわよね」
「うん。はじめまして、裕也、光樹。ミッキーからは二人ともとっても魅力的な人だって聞いているわ。よろしくね」
 これは偏見かもしれないが、いきなりフランクで、またとっさにてらいのないほめ言葉が出るのはいかにも陽気なアメリカ人と言った所だ。いくら日本語が流暢でも、そこは民族性が違うのではないかと思える。
「はじめまして」
 曖昧な、それこそ良くも悪くも日本人的な笑顔を浮かべながら、裕也は握手をした。やや圧倒されぎみなので、それしか対応を思いつかない。なるほど、「みつき」を英語の愛称に当てはめると「ミッキー」になるのか、などと関係ない上に既にタイミングがずれていることを考えている。
「はじめまして」
 一方光樹は、仏頂面でその場を乗り切った。底抜けに陽気なのか、あるいは彼の人となりを美月から教えられているためか、リサには少なくとも不快そうな様子は見られない。
「あたしのスペースはすぐそこだから、ミッキーはもちろん二人とも、良かったら遊びに来てね」
「はい、じゃあ機会を見て」
 とりあえず裕也が無難に答えておく。光樹も便乗するかのようにうなずいた。
「いつものお二人は今お留守番?」
 一通りの挨拶が済んだ機会を見て、美月がたずねる。彼女と同様、リサにもスペースの手伝いをする人間がいるはずだと、裕也は察した。
「うん。ケン先生は特にミッキーに会うのを楽しみにしてるから、後で自分からこっちへ来るかもよ」
「そう。じゃあ、あたしも楽しみにしてるって、伝えておいて」
「うん、分かったわ。そうそう、これ、今回のあたしの新刊」
 そう言って彼女が差し出したのは、一冊の冊子だった。大きさは裕也にとっては漫画雑誌や大学ノートのサイズとして馴染み深いB5版、表紙はカラーでイラストが描かれている。
 アメリカ人だからリアルなアメリカンコミック調、というのはさすがに安易な考え方だったようで、むしろ日本の漫画に近い画風であった。しかしともかく、裕也の目にはプロであるのではないかと思えるほどうまい。状況や本人の言動から判断する限り、それは彼女自身が描いたはずであるのだが。
「ありがとー。じゃあ、あたしの新刊を…あ、ごめん裕也、悪いんだけど、下のダンボールを開けて中の本を一冊出してくれる?」
「自分でやろうっていう気はないのかよ」
 そう言いながらも、初対面の人間を邪険にするつもりのない裕也としては、指示された通りの作業を始めた。
「だって、この中では裕也が一番腕力があるんだもの。厳重に梱包してあるから、非力だと手間取っちゃうわ」
「はいはい」
 箱にかかっているビニール系の粘着テープを剥がす。紙あるいは布製の粘着テープよりも強度の高い、一般家庭では中々見られない代物だ。大規模雑貨店などに行けば売っていないこともないが、運送などの主に業務用として使われている。しかもそれを、まず蓋を塞いでからさらにその脇を補強する、という形で貼っていた。
 これは実際、相当厳重な梱包である。これ以上を求めるとなると、最早ダンボール箱など使わずに別の容器を探した方が良い。確かに美月の腕力では手間がかかるだろう。そう納得しながら、裕也はしかし手早くそれを剥がして行った。商品梱包の形としてはむしろありふれたパターンの一つなので、こういうときはアルバイトの経験が役に立つ。
「はいどうぞ、お姫様」
 美月が受け取ったのと同様の冊子を取り出して、嫌味交じりに手渡す。しかし彼女はその程度の攻撃を黙殺してしまった。
「さんきゅ。じゃあこれ。今度は結構力はいってるのよ、リサ」
「それは楽しみね。それなら後でゆっくり読むわ。感想はメールで送るから」
「うん、あたしもそうする」
「お願いね」
「こちらこそ」
 本の話が済むと、リサが美月を含めた三人を見渡してから話を変えた。どうも自分の作った本を交換するというのが、この場ではある種の挨拶の中に含まれるらしい。
「それにしても…今回は二人、すごいはまり役なんじゃない? まだ完成形じゃないけど、もう十分想像できるわよ」
「へへ。実はあたしも。自信はあったんだけど、それ以上だわ」
 女性陣はニヤニヤ笑っているが、男性陣としては話が全く見えてこない。裕也に視線を向けられた光樹も、小さく首を振っている。どうも今日美月が二人に着せた服のことを言っているようでもあったが、しかしそれが何の「役」なのかは想像のかなただった。
 嫌な予感がする。というより、裕也はそれを確信している。美月があけすけで、考えを表情に出すことを恐れない人間であると良く知っているのだ。悪い笑いをしているときは、そのまま良からぬことを考えていると判断して問題ない。そしてリサも、その面では美月と同様の人間であるようだ。
 ただ、それだけで逃げ出すわけにも行かない。結局突っ立っているしかない裕也だった。そしてもう一人、光樹は危険に気がついているのかいないのか、相変わらずの無表情で判断がつかなかった。

続く


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