正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

6 品性に欠ける話題は慎め(by 里中光樹)

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 助かった。裕也はそのとき思った。美月が半ば強制で二人に着せた装いについて、どこか不穏当な会話をしていた女性人二人の話が、とうとう具体化する。その標的が、自分ではなかったのだ。
 リサが、光樹に視線を向ける。
「で、光樹の髪型と眼鏡は?」
 犠牲者が親しい友人だったらそんな自分に罪悪感を覚えるものだが、幸い光樹はそうでもない。そもそも彼は、何をされてもあまり惨めには見えないような気がする。
 美月もごく簡単に、うなずいた。
「もちろんその辺も抜かりなく」
 今度出てきたのは、整髪料と折りたたみ式のブラシ、さらに電池式のドライヤーである。
「はいちょっとごめん、おとなしくしてね」
 彼女はそれだけ断ると、有無を言わさず光樹の髪に整髪料を塗りつけた。されるがままの彼に、裕也はため息をつく。
「お前も少しは抵抗しろよ」
 まず間違いなく光樹の腕力は裕也よりも弱いだろうが、それでも男の、それも平均よりも比較的高い身長を持っている人間の腕力である。女性としてやや小柄な部類に入る美月とでは、なお大きな基礎的な力の差があるはずだ。やる気さえあれば、跳ね返すのは簡単である。むしろその際彼女が怪我をしてしまわないよう、力加減をする必要があるだろう。
 それを承知での弱々しい抗議は、やはり簡単に跳ね返されてしまった。
「下手に動くと変な所に整髪料がつく」
「うんうん。光樹くんのそういうもの分かりのいい所は感心だね」
「こいつのは無頓着って言うんだよ」
 そんな短いやり取りの間に、美月は見事に光樹の髪型を変えてみせた。それまで無造作に、ただ乱れていなければよいというそれだけの意図で梳かされていた側頭部を、後方へ向けて流してやる。一方前髪は、何故か前面へ向けて突き出されていた。
「そしてさらにっ!」
 勢いをつけながら、美月は鞄から次の品を取り出す。それは、一つの眼鏡だった。
 しかしそう見て取ってから、果たしてそれを本当に眼鏡と読んで良い物かどうか疑問が湧き出てくる。淡い色の入ったレンズは丸く、小さく、実用に耐えるかどうか微妙な所だ。そして弦は、一部稲妻状に曲がっていた。伊達眼鏡としても、相当に奇抜なデザインである。
 そんな物体を、しかし美月は自信満々で差し出した。
「はい、光樹くん、これかけて」
「これは伊達ではない。そう言われても困る」
 光樹は光樹でツッコミ所を間違えているような気がする。しかしともかく、彼の眼鏡は実用、それも恐らくは近視の矯正用だろう。大き目のレンズを黒く四角張ったフレームで囲んだ、いまどきどこで売っているのだろうという洒落っ気のない物である。そしてこの本の虫が、遠視だとは考えにくい。
「それはどうかな」
 そんな彼に、美月は眼鏡を動かして見せた。レンズ越しの光景がゆがむ。それは光樹にとってはむしろ見慣れたものに近い、ゆがみ方だったようだ。
「度が合っているかな」
 口をへの字に曲げながら、彼は自分の眼鏡を外すとその奇天烈な眼鏡を受け取った。
「多分、大体は」
 アバウトであると用意した本人が認めている。眼鏡というのはもっとデリケートなものではないのだろうかと裕也としては疑問に思ったのだが、しかし彼自身は視力1.5以上を現在も維持しており、感覚的には良く分からない。
「大体いいようだな。今日一日くらいなら問題はなかろう」
 この男はこの男で、自分自身に関してはかなりいい加減らしい。腕組みをしながら軽くうなずいた。


「ぷっ…」
 それにしても、なんというか、とにかく、おかしい。徹頭徹尾仏頂面の男にイカレタ伊達眼鏡、そんな組み合わせは、彼の性格を知っている人間にとって妙に笑いを誘われるものだった。
「そんなにおかしいか」
 これが他の、もう少し精神に熱い部分を持っている人間だったら、この言葉の真意は笑われたことに対する怒りの表現だろう。しかし裕也には、分かる気がする。彼はある意味純粋に、好奇心で聞いているに過ぎない。
「別に似合わないって訳じゃないんだけどな。いや、むしろ似合ってるよ。ただ、普段のイメージとのギャップがどうも」
 裕也は口を押さえているが、少なくとも嘘をついているつもりはない。普段使っている物が知性を強調しはするがその分冷たい印象を与えるのに対し、今の物はふざけているだけにどこか親しみを感じさせる。美月のように神経の太い人間では中々突破できない近寄り難さが、ずいぶんと和らいでいた。そして美月に着せられているらしい明るい印象のジャケットなどには、少々飾り気のある眼鏡のほうが似合う。
「そういうものか」
 むしろ感心したように、彼は改めて自分の服を見やっているようだった。そこへ美月が鏡を差し出し、彼の視線が移る。どこかほのぼのとした光景だったが、しかし裕也は確かめるべきことを忘れてはいなかった。
「で、そろそろこのかっこうが何なのか、教えてくれてもいいだろう?」
「ふふーん、それはねぇ」
 美月は細い指を唇に当ててもったいぶる。しかしそれを、リサがぶち壊した。至極あっさり、かつはっきり言ってのける。
「コスプレよ」
 この人の辞書には「遠慮」という言葉はないらしい。それは彼女の個性であって、アメリカ人全般に言えることではない。と、裕也は思っておくことにした。偏見というものは結局、自分自身にとって損にしかならないと思うのだ。
「コスプレ?」
「そー。コスプレ」
 リサが得意げにうなずき、美月はその脇でややふくれている。それは、裕也にとって聞いたことはあるが、とっさにどういう意味かは思い出せない、そんな単語だった。
「…ああ、コスプレね。コスチュームプレイ、か」
 二拍ほど間があって、やがて裕也の思考回路がその意味を特定した。普段自分では着ないような服装、すなわちコスチュームを着て遊ぶことである。そしてとっさに、視線が泳いでしまう。彼の思考はやや、余計な寄り道をしていた。
「あ、なに? もしかして、コスプレ風俗とか考えてる?」
 ぎくぅ。
 裕也は心臓の跳ね上がりを表現しないよう、多大な努力を強いられた。
 何故だかこの瞬間やたらと冴え渡っている彼女の勘は、彼の思考の余分な所を、見事に探り当てていたのだ。裕也が「コスプレ」と聞いてまず思い出してしまったのは、「おねぇさん」がナース服やセーラー服を着て「サービス」をしてくれる類の店である。しかし自分も里中も明らかに「おねぇさん」ではない。そこから類推して、正解にたどりついたのだった。
「やーらしー。裕也ったら、そういうお店よく行くの?」
「行かねえよ」
 半眼での視線を突き刺してくる彼女に、とっさにやや大きな声で反撃する。しかし今度は、リサの横合いからの声が彼をさらに追い詰めることとなった。
「ねえねえ、『フーゾク』って、なに? 日本にはそういう、ええと、習慣のある場所とかがあるの?」
 リサが実に無邪気に聞いてくる。日本語に堪能でも、ややスラングめいた単語にはあまり詳しくないらしい。確かにまともな日本語「風俗」の解釈としてはそれでまず正解であるが、この場合は絶対に間違っている。
「あのねぇ」
「やめろぉ!」
 邪悪な笑みを浮かべて説明を始めようとする美月を、裕也は半ば力づくで引き剥がす。リサは不思議そうな顔をするばかりだ。
「一々騒ぐな。その種の業種に関しては女性の権利利益という観点からの議論もあるだろうが、少なくとも外国からの客人を前にしてするような話ではあるまい
 二人をまとめて、光樹がたしなめる。ちなみにこのときの彼の説得力は眼鏡で半減しているが、しかし半分でも十分すぎるほどだった。
「う、ごめん」
 美月が謝る。それで勢いづいたのか、光樹はさらにお説教らしきものを続けた。
「大体、長見を責められるような話でもなかろう。男というものは時として、違法行為あるいは少なくとも世間的には好ましくないと思われる体験を共有することによって、連帯感を持ちたがるものだ。人づき合いを大切にする男であればこそ、断りきれなかっただけだ」
 一般論としては、それに賛成だ。しかし裕也は、このとき完全に硬直していた。例えわずかでも動いたのなら、美月やリサに余計な印象を与えることになる。それをおそれて、ただ固まっているしかなかったのだ。
「へえ、そうなんだ、ふうん」
 しかしそれでも、美月はじろりと眺めやってくる。固まっている間にも裕也の思考回路だけはフル回転していたので、弁明はそれほど難しくないように思えた。
「お、おい。ちょっと待て。俺はコスプレ風俗なんて、行ったことないぞ」
 それは事実だ、紛れもなく。しかしそれに対して、光樹は首をかしげた。
「ただ当て推量を言っただけだ。動揺しているようだが、どうした」
「別に動揺なんてしてない」
「そうか。ならば気にするな。私はどうも他人の感情を察するのが苦手だ」
「いや、光樹くん? 今の裕也思いっきり動揺してるんだけど」
 どこまでも平板な光樹と、一貫して勢いのある美月と、そのどちらにペースを合わせるべきか分からず、裕也の動揺は一向に収まらなかった。
「とか言いつつ、むしろ里中の方がそういうことに詳しそうな口ぶりじゃないか」
 とにかく、あがくように反撃する。しかし確かに、彼の言い草はまるで見てきたかのようでもあった。
「言ったろう、推量だと。私にそんな友人はいない」
 やましい点など針の先ほどもない。光樹はそんな平然とした顔である。しかしこの男の場合、「自分を風俗に誘うような悪友はいない」という意味なのか、「そもそも親しい友人がいない」という意味なのか、微妙なところだ。そのどちらであってもおかしくないとは思えるが。
「俺にだってコスプレ風俗に連れて行くような変な趣味の友達はいないよ」
「じゃあ聞くけど、普通の風俗に連れて行くような友達はいるの?」
 美月はえぐい所を突いて来る。さすがに大学生にまでなると、色々な友人がいる。風俗好きの人間もいないではない。美月は裕也の交際範囲をかなり詳しく知っているので、少なくともその点でごまかすことは諦めた。
「いても実際連れて行かれたりはしないってば」
「ほほう」
「蒸し返すようなことを言った私にも非があったことは認める。だからその辺にしないか」
 このままではいつまでたっても終わらない。痺れを切らしたのか、光樹は二人の間に割り込んだ。さらにそこから、リサに対して頭を下げる。かなり強引だが、それなりに効果的な方法だ。
「失礼、品のない話をしてしまって」
「ううん。まだ良く分からないんだけど、あたしは下品な話とか全然平気だから、気にしないで」
 しかしリサはあっけらかんと手を振る。さすがに鼻白んだのか、光樹は一瞬口をへの字に負けてからとりつくろった。
「申し訳ないが、私が気にする」
「あ、そう。じゃあ、この辺にする。『フーゾク』の意味は、後でミッキーにでもゆっくり聞いておけばいいしね」
「あ、こ、こらちょっと、リサ!」
 先ほどまで平気で話をしていたくせに、にわかに美月が顔を赤くする。他にも色々とやましい話をしているのではないかと、裕也は邪推した。
「というわけで、『コスプレ』の説明に戻るわね。日本の大学生はほとんどみんな英語をやったことがあるそうだし、コスチュームプレイと言えば大体分かると思うけど、この場では自分の好きなアニメやゲームなんかの格好をする人が多いわね」
「なるほど」
 枕を除けば、簡潔かつ端的な説明である。裕也はうなずいた。それを前提にして、光樹が次の質問に移る。
「それで、この服はどんな作品のものなんだ」
「んっとね、これよ」
 眼鏡と一緒に入れてあったらしい小冊子を取り出す。美少女系のイラストで、キャラクター紹介がされたものだった。
「ん? ああ、これ、取説じゃないか。なるほど、ゲームのキャラクターなんだ」
 取扱説明書、略して取説である。見たことのあるロゴが入っており、家庭用ゲーム機用のものであると分かる。
「そーよ。裕也がこっちで、光樹くんがこっち」
「ほうほう。大学生で駆け出しの漫画家、ね」
「ふむ。その友人で世界征服を目論む人物、か」
「何かキャラが違わないか?」
 裕也は漫画に関しては読むだけである。高校までの成績で言うと、美術のそれが最も低かったのだ。はっきり言って画才は全くないし、いまさらそれを恥とも思わない。
 その面ならば、本まで作っている美月の方がよほどその世界に近い。
「やーねー、わかんない? 違うキャラを演じるから面白いんじゃない」
「変身願望ね」
 美月の説明に、リサがつけ加える。裕也自身そのような願望はないつもりだが、それだけにこだわりも持っていないので、とりあえず納得しておくことにした。
「なるほど」
 ぱらぱらと、それでは美月が何の格好をしているのかとページをめくってみる。冊子の先頭に、それらしいキャラクターのイラストがあった。髪を片側で結んでいてリボンはブルー、ライトグリーンのセーラーカラーのワンピース、そしてブラックのミニプリーツスカート、間違いない。そういわれてみれば確かにアニメ調というか、可愛らしい系の装いだ。
 これで美月自身の顔の作りがある意味「リアル」だったら違和感を覚えずにいられないところだが、そもそも土台が良い上にそれに合わせて普段と少し化粧を変えているらしく、中々様になっていた。
 しかし、だ。にもかかわらずどこかに違和感がある。もう一度冊子のほうを良く見て、さらに視線を美月にやってから、裕也はその理由に気がついた。体型が違うのだ。そのキャラクターはむしろ彼女よりはリサにふさわしいような、日本人離れしたプロポーションを誇る。絵のほうも当然、それらしく描いてある。
「何か言ったら殺すわよ、マジで」
 何を比べているのか察したらしく、美月がにわかに目つきを険しくする。裕也は慌てて首を振った。
「別に何も言おうとしてないよ」
「この絵だと身長の描き方が、君自身より高い印象を受けるな。まあ、裕也などは特に実際の身長が高いから、少し奇妙に感じるのも無理はないが」
 ナイスフォロー! 横からの光樹の言葉に、裕也は内心で叫んでいた。無論外に出してしまうとそれまで何を考えていたのかばれるので、黙っている。
 確かに彼の言う通り、身長の見え方が違うのだ。裕也は百八十センチを超える長身の持ち主であり、また光樹も裕也ほどではないが、日本人男性の平均を上回る。一方の美月は女性の平均をやや下回っているので、三人で立っていると二人で彼女を見下ろすような状態になる。
 一方言われてみれば確かに、そのキャラクターの方は概ね同じ目線で描かれていた。その他では光樹の扮している男性キャラクターが、プロフィールを見ると百八十センチを超えてはいないのだが、主人公である裕也扮するキャラクターよりも高いような描き方をされていた。
 つまり見え方が違う、というのは十分に説得力があるのだ。
「どうせあたしは背も低いですよ」
 しかし美月の機嫌は直らない。つまり裕也が良いフォローだと思ったのは、早計だったのである。彼女の機嫌を直すことを最優先するのなら、とりあえず体格の話から抜け出るべきだった。
 ただ、そもそも光樹には裕也のフォローなどするつもりなどなく、単に自分の思った所を述べただけなのかもしれない。小首を傾げて、それ以上何か言おうとしない。
 途方にくれた裕也を助けてくれたのは、リサだった。あるいは美月の友人だからこそ、彼女に気を使ったのであって、裕也が助かったのは結果論かもしれない。
「何を言い出すかと思えば。美月以上にキュートな女の子なんて、中々いないわよ」
 あっけらかんとした肯定が心地よい。リサ自身は百七十センチ程度の身長があり、またスタイルも良いので、一歩間違えば単なる持てる者の持たざる者に対する哀れみになるところだが、しかし見事なまでに嫌味に聞こえる部分がなかった。
「ん、ありがと」
 ようやく美月が笑顔を取り戻す。そこでちらっと、リサは時計を見やった。
「Ah! いけないいけない。そろそろ時間だわ」
 さすがに感嘆の声だけはとっさに日本語にならないらしい。単純な「あぁ」のはずなのだが、どこか日本人とは違う発音だった。
「え? まだ開場までには時間あるでしょ」
「更衣室よ」
「なに? その格好でも実は十分コスプレなのに。何する気?」
 元が何であるのかは裕也には分からないが、確かに言われてみれば、リサの着ているピンクのワンピースも、「それっぽい」服装ではある。しかし彼女は、いたずらっぽいウィンクを返した。
「それは見てのお楽しみ。また遊びに来るからね」
 簡単に手を振ると、彼女は足早に歩み去った。

※コスチュームへの着替えは所定の更衣室でしましょう。

 何故かちょうど良いタイミングで、会場アナウンスが響く。あるいはもっと前から同様の放送がされていて、気がつかなかっただけかもしれない。内容の分からない話は、耳の右から左へ抜けていくものだ。
「わざわざあっちの更衣室へ行くんだ。トイレとかで着替えてもいいのに」
「あ、それは禁止。女子トイレとか特にただでさえ混んでるんだから、そこを使われたら大迷惑よ」
 美月が慌てて注意する。別に自分からする気もないのだが、裕也はとりあえずうなずいておいた。
「それにしてもリサ、何を着る気なんだろ」
 とりあえず自分の体型のことは完全に頭の隅に追いやられたらしい、美月が腕組みをする。裕也は肩をすくめた。
「何って、考えても分からないんじゃないか? 世の中にアニメやら漫画やらゲームやらがいくつあるっていうんだ」
「まあ、そりゃそうだけどね。でも、服を作れるほど彼女が良く知っている作品ということになればそれなりに絞り込めるわよ。特に彼女に対する日本の最新作品の主な供給源は、あたしなんだし。それに自分が売る本とコスプレの内容がちぐはぐになっちゃうと売れ行きに響くから、特にスペースを持っている人間はそんなに突拍子もないことをしにくいはずなんだけど。しかしあの面子で似合うコスプレって、何だろうなぁ…」
 美月はなおも考え込んでいる。裕也はもう一度、肩をすくめた。
「見てのお楽しみって、さっき彼女が言ってたじゃないか、なあ、里中」
「それはそうだ。しかし、未知のものを考える楽しみというものもある。我々には想像の彼方だが、少なくとも邪魔をすることもなかろう」
「ん、まあ、そうだな」
 そこまで言われると、裕也としてはもう踏み込んでいく余地はない。コスプレ云々の話はひとまず終わりとなった。

続く


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