正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

9 当然のことですが社会のルールは守りましょう

              

注意事項を確認する


 一通り話も終わったので本格的な準備に入る。ちょうどスペース一つ分になるよう切ってあるらしいテーブルクロスを広げ、あらかじめ用意してあった値段を表示するプレートを置いて、と美月は手際が良い。それまで単なる古びた机と折りたたみ椅子でしかなかった殺風景な場所が、出来上がりは小洒落た様子になった。それこそちょっとしたではあっても、それなりの店のようだ。
 周りを見てみるとのぼりを立てたり、あるいはポスターやポップを飾ったりと、派手で人目を引く演出をしている所も見られる。まず物を売りたいのならそのような手段の方が手っ取り早いだろうが、そうしないのが美月の趣味なのだろう。
 そうした作業が一段落した頃合を見計らってか、また別の人間が声をかけてきた。腕には「スタッフ」の腕章がある。仕事なら遠慮なく割り込んできても良さそうなものだが、どうも引っ込み思案な性格のようだ。少しふくよかな、二十台半ばと思しき女性である。
「失礼します。あの、見本誌の提出を…」
「あ、はい。お疲れ様です。今回の新刊はこれ一冊です」
 美月は笑顔で、準備作業の一環として用意していた物を取り出す。自分の本に、主催者側から配布されたシールを貼り付けたものだ。シールには販売価格などを記入する欄がある。
「はい、ありがとうございます。それでは拝見します」
 スタッフはぱらぱらとページをめくって内容を確認すると、うなずいた。
「OKです。それでは今日一日よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 立ち去る相手に深めに頭を下げる。最期まではきはきと、それでいて丁寧な美月の応対だった。精神が客商売モードに入りつつあるらしい。彼女は半分趣味で、普段CDショップでアルバイトをしている。生活に必要でやっているわけでもないのだが、豊富な商品知識と好感の持てる接客で、客からも雇い主からも受けがいい。
「中身をチェックされるんだ」
 現場で内容を見て、さらに現物を一部もって行くとは、そういうことであろう。美月はうなずいた。
「まあ、よほどのことがない限り販売停止にはならないけれどね。商業的な規制を受けないことに、同人誌の存在価値はあるんだから」
「じゃあ、よほどってのは何だよ」
「刑法第百七十五条に引っかかるようなブツはさすがに、ね」
「あー、なるほど」
 条文のナンバリングよりも、むしろ美月の顔色とこの状況から、裕也はその条項が何を規制しているのか思い出した。

刑法第百七十五条 わいせつな文書、図画その他のものを頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役又は二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。

 いわゆるわいせつ物頒布等の条文である。これを表現の自由に対する不当な規制であると考えるのは個人の自由だが、しかし実行すれば警察が黙ってはいまい。場所を提供している以上、場合によっては共犯または幇助の罪に問われるおそれもあるから主催者として違法行為を事前に規制するのは、当然の措置である。
「そういう写真を本にして売る人もいるんだ」
「ん、いや、主に漫画だけどね。それでもやばい部分を克明に描いて修正なし、じゃあ、アウトよ。うまい人は本当にうまいんだから。エロいを通り越してグロいの勢いで」
「ふーん」
 うかつにコメントすると墓穴を掘りそうなので、裕也はそれだけ言った。美月としてもそれ以上突っ込まれても困ると思ったのか、話の流れを微妙にではあるがそらして行く。
「そこまでいかなくてもそれなりに性描写があれば、条例で十八歳未満に売っちゃいけないことになってるからね。表紙とかにきちんとそういう表示がないと危ないわ」
「最低限法律の規制は守りなさいってことか」
「そゆこと」
「例えそれが下らん規制であっても、な」
 光樹も一応は同意する。しかしそこには、彼にしてはかなりあからさまな敵意が込められていた。表現が個性的でないのは、むしろ感情の激しさの表れなのかもしれない。
「別にお前がそんな様なの書いてるわけじゃないんだろ、官能小説とか」
 とてもそうは見えないが、もし万が一そうなら、「究極のムッツリスケベ(はぁと)の称号を進呈できる気がする。もっとも結局彼の返答は、予想の範囲内のものだった。
「私はその方面に弱くてな」
 その「弱い」は、果たして知識の面なのか実体験の面なのか、はたまた肉体的なものなのか、ちょっと気になる裕也ではあったが、しかし美月の手前あまり生々しい方向へも持っていけない。そのまま聞いているしかなかった。
「あまりにもばかばかしいことが多すぎて、その全てを一々非難する気にもならん。だから最重要点を一つだけ。創作物が青少年に悪影響を及ぼすなどというのは、虚構と現実の区別をつける、つまり想像力以前に思考力を持った子供を育てることを放棄した、無責任な態度に他ならない。まあ、現にその程度のことしか言えない人間の子供は、遺伝的にも家庭環境としても、思考力の形成に関して劣悪であるおそれが強いがな」
 吐き捨てる、とはこのことだった。心底嫌いなのだろう。
 後半部の敵意に満ちた表現はともかく、前半部に関して言えば正論ではある。しかし彼らしい正論だ。情、というものが見られない。表現の自由に対する規制が正しいかどうかをひとまず置けば、子供に関しては余計な心配までしてしまうのが親心というものではないのだろうか。
 それに彼ほど自分の知力、あるいは理性に自負を持っている人の親が、果たして世の中にどれほどいるだろうか。かえるの子はかえる、であればこそ、自分の悩み多き青春時代を思い返してみて、誘惑から遠ざけようとしてしまうとすれば、それはそれで無理もない話である。
 あちらを立てればこちらが立たぬ、だから世の中は難しい。自分自身としてはそんな当たり前の結論に達してしまう、裕也だった。
「まあ、光樹くんの子供だったら絶対頭は良さそうだよね。奥さん選びによっぽど失敗しなきゃ遺伝は問題ないし、仕事が在宅だから自分で勉強を教えたりできるし」
 ぴしっ…と、何かが壊れるような、あるいは罅が入ったような、とにかく妙な破砕音がした、ような気がした。
 ああ、多分脳の配線がどこか一本いかれたんだな、と思う。「家庭を持った里中光樹」という光景を想像するとの処理は、裕也の思考回路にとってあまりに過大な負担をかけるものだったようだ。一瞬思考そのものが完全に空白になりかける。おかげでそんな無茶な発言をした人間が誰であるのか、声を聞いただけで分かるはずのことが、しばらく理解できなかった。
「キショい想像をさせるんじゃないっ!」
 一応機能が一通り復旧するまで三秒、長い時間だった。とりあえず発言者である美月に対して、周囲に見ず知らずの人間が多数いるという状況を踏まえた上での最大限のツッコミを食らわせておく。
 それにしても当人の目の前で、彼が家庭を持つという光景に対して「気色悪い」の短縮形である「キショい」とは、あまりにもひどい言い草だ。しかし裕也は確信を持って、敢えてそう言い放った。
「へ?」
 彼女は一瞬きょとん、としてから、かなり真面目に反論した。
「いや、それはあまりに光樹くんに対して失礼よ。光樹くんにだってささやかでも幸せな…」
「だから止めろと言っているっ!」
 二度目は耐性がついている、と思いたかったが、しかしダメージが残っている可能性も捨て切れなかったので、とりあえず強引に止めさせた。美月は口を尖らせる。
「ひっ、どー。ねえ光樹くんも何とか…」
「いや、だって、本人が一番ダメージ受けてるって」
 彼の顔を見るのも何となく怖い。しかし同時に気配から状態を十分に察せられたので、裕也はちょいちょいと光樹を指差した。
「ああっ?」
 美月が飛び上がる。彼女が見たのは、「家庭を持った自分」という、少なくとも本人にとっては想像の彼方にある事態を考えさせられた結果、思考が完全にフリーズしている里中光樹だった。目が完全に、どこか遠くを見ている。そしてその「どこか」には、具体的な目標がない。
 とりあえず斜め四十五度の角度でぶっ叩いて復旧させるべきじゃないか、と、裕也は思う。しかし最近の精密機械は叩くと余計おかしなことになるらしい。そしてどちらかといえば、里中光樹の中身は二十世紀型の家電製品というよりも、二十一世紀型の精密機械という気がした。
 動揺した美月は、世間的にはそれなりかもしれない、しかし少なくともこの場ではあらぬことを口走る。
「な、何で? どうして? 光樹くんは例えば都心からは離れてるけど4LDKの広々とした一軒家で美人の奥さんと二人の子供に囲まれた…」
「だーから、止めろっちゅうに!」
 ビシ! 問答無用で手首のスナップを利かせた裏拳ツッコミを入れる。相手が男なら、力一杯急所へ正拳を叩き込んでいたところだ。
 彼の都会志向を考えれば、郊外にある4LDKの一戸建て、というのは現実的ではない。部屋数のもっと少ない集合住宅でも本人は満足だろうが、しかし孤独を好む性格、またそれを必要とするであろう小説家という職業を考えれば、少なくとも家族の居住スペース以外に、彼の書斎として一室が確保されなければならない。結構高くつくだろう。彼の小説家としての収入は、それを十分にまかなえるものなのだろうか。
 どうやら裕也の中では、まがりなりにも耐性が形作られつつあるらしい。そこまで考えて、まだ十分に耐えている。しかし正直な話嬉しくはないな、と、同時に思うのだった。
「生々しすぎるよ、そういう話は」
 少なくとも現時点で立ち直れていない本人に代わって、裕也が抗議する。元来親しいわけでもないのだが、しかし同じ「男」である、という連帯感が確かにあった。
「そんなに衝撃を受けるほど生々しいかなあ。あたしは別に、光樹くんの相手が誰だとか、そんな特定をした話はしてないよ」
 美月はまだ、事態の深刻さを理解していない。裕也は頭を抱えた。
「順序が違うだろうが。相手ができてから、子供作ったり新居の相談をしたり、そういうものじゃないのか」
 それは、まあ、子供ができてから結婚や新居の相談をしたりする人間も少なくないだろうが、「それはそれ」という問題である。
「えーっ、それはどうかな。自分が本気だったら、共働きはオッケーかとか、子供は何人欲しいとか、どんな所に住みたいとか、その生活を支える職業は何だとか、そういうのがそもそも『相手』を選ぶ基準になったりしない?」 
「そ、そうなの?」
 今度は裕也にとって、けっこう衝撃的な内容だった。聞いた時点で既に、光樹を構っている余裕がなくなっている。そこまでの将来設計を問われるとなると、成人式を済ませてなおまだ進路さえ決めていない人間には、痛いことこの上ない。その面では既に進路を決めて収入源も確保している光樹の方が、明らかに有利だ。
「女が二十歳を過ぎるっていうのは、そういうことよ。だってさ、あたしたち女が子供を持ちたいって思ったら、確実に産休と育児休で、子供一人当たり最低限丸一年休ませてくれる職場じゃなきゃならない。さもなきゃ専業主婦になっても安心なだけの、すごい甲斐性のある男を捕まえないといけないのよ。悪いけど、今の光樹くん程度でも、まだ不安よ」
 それが、今の日本の合計特殊出生率が二をはるかに下回っている理由なのだろう。裕也としては現に体験したことがないから丁寧に説明されても本質的な面では良く分からないのだが、とりあえず問題の所在だけは理解することができた。
「そういうもんか」
「そういうもんよ。しかし想像力がどうとか言っている割に、だらしないわね、光樹くん。そろそろ戻って来なさいよ」
「まああれだ。世の中の人間皆が皆、家庭生活に向いてるわけじゃない。家庭を持つこと自体を気持ちが悪い、と感じてしまう奴もいるってことなんじゃないかな」
 例えば典型的には、浮気性だとの自覚があればそうなる。光樹はそんな人間ではないが、彼は人づき合いが苦手だと自他共に認める性格だ。ある意味究極の人間関係である結婚、そして親子という関係は、恐ろしくさえあるのかもしれない。
「そりゃまあそうだけど、究極の意外性として実はいいパパに…とか、そういうことを考えるのも想像力だと思うのよ」
「…お前、実は里中に悪意がないか?」
 いい加減この話題から離れろ。裕也はそんな、額に血管を浮かべる勢いで制止した。
「そ、そんなことないけど。しょうがないなあ」
 気迫負けして美月が引き下がる。そこでふと、光樹が口を開いた。
「所で菱乃木、あの行列は何だ?」
 完全に話が飛んでいる。どうやら彼の中で彼自身が家庭を持つ云々の話は「なかったこと」になったらしい。美月はようやく事態の深刻さを認識して、こくこくと二度もうなずいた。
「ああ、うん。即売会名物大手サークル行列よ。人気のある本は、ああやって早いうちから並んでおかないと手に入らないことも少なくないの」
「マジで? まがりなりにも素人がつくっってる本なんだろ。何だってまた」
 驚く裕也に対して、美月は首をかしげた。
「んー? 素人なのかな。ええと、あの方向だから…」
 カタログの地図を調べて、行列の先頭と思しき場所を割り出す。その方向性に関しては、彼女自身に代わって里中が軽く指を差していた。そしてその方向から、美月がそのサークルを割り出す。彼女は、うなずいていた。
「ああ、多分ここね。プロだよこの人。一般的にはそんなに有名じゃないけど、マニア向けの雑誌で人気のある連載を持ってるの」
「なに? 仕事で漫画描いてて、さらに別に漫画描くのか。よっぽど好きなんだな」
「まあね。そりゃあ漫画描くのが好きで漫画家になったんだろうけど、商業誌だと当然売れる見込みがあるって編集サイドが認めたものしか載せられない訳だし。自由な発表の場として、プロにとっても貴重だということよ」
「そうなん?」
 漫画家ではないが、大きくくくれば同じ部類に入るであろう人間である光樹に聞いてみる。彼は少し考えてから、小さくうなずいた。
「私は今の所好きにしているが、しかし確かに書いたもの全てを本にできはしないな。それに連載作品は、人気投票など周囲の影響を受けやすい」
「ほう」
「つまり! ここはクリエイターたちがその熱い情熱をそのまま叩きつける場所、と、そういう訳よ!」
 机を勢い良く叩いて、美月が力説する。それから彼女は、折角綺麗に整えられたものの、今の衝撃で崩れたスペースの手直しをした。
「しかし…あれほどの列ができるのなら、商業ベースにも十分乗るのではないだろうか。ここに集まっている人間には、一般からかなり離れた趣味があるということなのか」
 手伝いもせずに光樹は考え込んでいる。美月は苦笑して首をかしげた。
「その可能性も否定はできないけど、多分、趣味っていう面ではそんなに変わらないはずよ。まあ、彼らの方が自分の趣味に関して正直な人種であるってことは、確かだと思うけど」
「では何だろう」
 彼はさらに考え込む。裕也としても不思議だった。
 しかし、美月の答えは極めて簡単である。
「だって、エロだもん」
 裕也がこける。一方光樹はまた、固まっていた。


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