正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
10 開場までは各自のスペースで待ちましょう
どうもフリーズ癖がついてしまっているらしい。できれば修理が欲しい所だが、この男には製品保障などついてはいないように思える。量産品ではなく、無茶ぎりぎりの範囲で作られた特注品のようなイメージがある。
目の前の大行列が「エロ」を目的としたものだと知らされて固まっている光樹を見ながら、裕也はそう思った。
一方美月は、構わず説明を続けた。
「元々そっち系の漫画を描いてた人らしいんだけど、今商業誌では全年齢向けのものしか描いてないの。でもここならあの人のエロ作品が手に入るって訳。いやあ、人間何が描きたくて、それから何が買いたいかって言ったら、至極簡単な話よ」
女性が恥ずかしげもなくそんな話をしなさんな、と実の所思うのだが、他人に自分の考えを強制するのも好きではないので、結局黙っている裕也だった。女だから、あるいは男だからどうこう、というものの考え方は背景に性差別意識がある、らしい。そのように習ったことは確かだ。
「確かに。小規模書店の多くは、実の所性描写のある雑誌や書籍にある程度経営を依存していると、聞いたことがある。そして近年小規模書店が少なからず廃業に追い込まれているのは、コンビニエンスストアにその種の顧客を奪われているからだそうだ」
こちらはこちらで耐性がつきつつあるのか、あるいはそもそも本人としての衝撃の度合いが先程よりは弱かったためか、フリーズ前の情報をきちんと復元した上で、光樹はそんな話をした。
美月は簡単にうなずいて、コメントする。
「エロは偉大よ。まあ、良くも悪くも」
「悪いなら偉大とか言うな」
しかし裕也のこのツッコミにも、力がない。エロは偉大なのだ、多分。光樹が小規模書店を潰す原因なのだというコンビニエンスストアで、しかも主に深夜にシフトを入れてアルバイトをしているので、良く分かる。アルコール、あるいは食べ物のついで、さもなければそれを装って、成年男性向け雑誌は売れるのだ。
そして少なくとも、大手チェーンのフランチャイズ店において、売れない商品がいつまでも棚の一角を占めているということはまずありえない。大手チェーンのコンビニエンスストアなら、コンピュータシステムを用いて商品管理をしていて当然だからだ。逆にそこまでしっかりしていなければ、大手として生き残れない。どのコンビニエンスストアへ行っても成年男性向けの本が置いてあるとは、つまりどこへ行ってもそれだけ売れ行きが良いということである。
「だったら考えてみなさいよ。ここの大手サークルなら、千部単位で本を刷るから、一部あたりの単価はそれほどでもないの。それを五百円とか千円とかで売るわけだから、利益がいくらになると思う? それって裕也の時給の何時間分よ」
例えば一部あたりの原価が二百五十円の本を、定価五百円で二千部売ったとする。差額は五十万円である。参加費用、それに売り子に日当を払ったとしても、楽に四十万円は残る。
そして時給千円を割っている裕也がそれだけの額を稼ぐとなると、四百時間以上も働かなければならない。一日八時間という無理のないシフトを組んだとすれば純粋に五十日分、間に休みを挟むことだけを考えても楽に二月分になる。もっともこれは夏休みなどの話であって、授業にある程度出ることを考えれば、その期間はさらに延びる。
それは無論、漫画というものは一日や二日でできる代物ではないと知らないではない。それでもそれだけの金額がわずか一日で動いてしまうと考えると、恐ろしいものがある。
「か、考えさせるな。考えさせないでくれ、頼むから…」
とりあえず、弱音を吐くしかない裕也だった。
裕也と美月、そして光樹、三人の通う大学は郊外にある。周囲には数多くの大学生がアルバイトを必要とする下宿暮らしをしているが、働き口は都心ほど多くない。つまり近辺の労働市場は、供給過多なのだ。
そのため、アルバイトに対する賃金は当然安くなる。そしてその安い賃金に頼って生活する学生が多いため、近辺で流行るのはディスカウントストアや新古書店、さもなければ大学内部の生活協同組合などだ。
流行っている以上はある程度の人員を必要とすることになるが、しかしそしてその種の店も、人件費を安く抑えなければ経営が立ち行かないからなるべく安価なアルバイトの店員を雇おうとする。そしてそこに雇われたアルバイト学生は、当然ながら活発な消費活動もできずにディスカウントストアなどに依存し…と、無限に文字通り景気の悪い循環をたどることになる。
それが、デフレスパイラルというものだ。裕也は経済学部の学生ではないし、法学部のカリキュラムの一環として行われるその類の授業を真面目に受けたこともないのだが、しかしその意味だけは一々説明されなくてもよくよく分かっている。
一方彼に対して無邪気にしかし強烈な言葉を吐いた美月は、いわゆるパラサイトシングルの予備群である。広々とした家に親と同居で、大学近辺よりはずっと払いの良いアルバイト先を自宅近くに確保している。
彼女の住所も一応は東京都下、そこに住んでいる人間でなければ分かりにくい言い方なので言い換えれば「東京二十三区」以外であるが、裕也などの部屋の所在地との意味ははっきり言ってまるで違う。彼女の住む市は二十三区に隣接しており、また幹線鉄道の駅があるため、特に市街地の商業的な価値は下手な二十三区内をはるかに上回るのだ。世間的なイメージも極めて良い。裕也や光樹が住む、そして大学の所在する完全に「東京郊外」の市とは、明らかに「カラー」が異なる。
その分だけ、彼女がもらっている時給も良い。特に彼女の場合イメージが重要視される業種のため、地域的な格差は激しいのだ。流行り廃りがあって当然の音楽業界である。流通ルートにおける末端とはいえ、そこに携わる人間が全くセンスを欠くのでは話にならない。その意味を考えれば、雇い主が彼女に払っている賃金は利益に対して過少であるとさえ裕也は思う。
「五十万円か。この国の場合家賃や公共料金の支払いを考えると、最大限切り詰めても生活費としては数か月分にしかならんな」
表面的には「はした金だ」とでも言いたげな「しかならない」との表現だが、そうでないと裕也にはよく分かる。生活に関して家賃や公共料金を真っ先に考慮するのは、金銭的に余裕のない人間のすることだ。「踏み倒す」という選択に走らない限り、月ごとに最低限支払わなければならないものだからである。
無論、人間が生きていくうえで何より必要なものは食費だ。しかし支払い義務のあるものを滞らせて食費に回さざるを得ないという経済状態は、「余裕がない」を通り越している。破綻しているか、少なくともそれに瀕していると言わざるを得ない。
それが、仕送りを受けている以上自立しているとはいえないまでも、下宿して自分の計算で生活している裕也の実感である。どうやら光樹も、同様の感覚を有しているらしい。今でこそ小説家としてそれなりに収入があるようだが、例えば大学入学当初はそうではなかったのかもしれない、と思えた。
要するに、現在の自分が現実的に手にできる十万円単位の金銭というものは、いくらあっても足りないものだと、そんな意味なのである。
「しかし、特に物価の安い発展途上国であれば、子供を一人自活させる能力を得させるまでの資金にはなるだろうか。世界には一日一ドル以下で生活している人間が何億人といると聞いたことがあるが…そうだな、逆説的にそれだけで少なくとも辛うじて生活できると考えれば年間で四万円を割る計算になるから、五十万円は十数年分に相当する。まあ、その最低限の水準で運良く生き延びることができれば、の話だがな」
特に所得水準の低い地域であればその一日一ドルをもだいぶ割り込んでいるので、成人までに十分な資金になる。計算上は、そんなところである。
光樹はそんなことを言う。確かにどんな背景事情があれ、一人の人間を育て上げるというのはあらゆる意味で大変なことだろう。しかし例えばもしそんな発展途上国の子供がいて、立派に成長したある日、
「実はお前のこれまでの養育費は、日本のエロ漫画から出されていたんだ」
などと知らされたらどう思うだろうか。
ああ、またなんだかキショいことを考えてしまった。それを悟って、胃が重くなる思いの裕也だった。あるいはそこまで想像力が働くのなら光樹に負けない小説家か何かになれるような気もするのだが、しかしなってはいけない、絶対に。そんなふうに理性がが警告していた。
その「キショい」自分の想像さえ楽しめる、そんな人間でなければ、少なくとも光樹のようなタイプの小説家にはなれない。俺には無理だ、と、感覚のあらゆる面が頑強に拒絶している。
「わーかったよ、もう。金のありがたみは俺だって十分知ってるって。全く…どうして実家暮らしの人間や、もうしっかり働き口を見つけてる人間にそんなことを一々言われなきゃならないんだか」
はっきり言って、この三人の中で一番金に困っているのは誰あろう長見裕也である。家が裕福でもなければ、金になる特殊な能力があるわけでもない。
美月も冗談交じりに「アルコールへの出費を減らせば何の問題もない」などと言いはするが、しかし逆に本気ではない。もし裕也が懸命な努力の元酒を一切断ったとしても、それでも自分の方が裕福だと知っているからだ。そもそも努力を必要としない環境を、裕福というのである。
一方光樹は、下宿の大学生という面では裕也と同じ身分だが、しかし現に有している収入が明らかに違う。口ぶりからしてある時期は節約の必要がある生活をしているのかもしれないが、少なくとも今はそうでないはずだ。
そもそも彼の場合は、金銭の出入りを考えれば小説家がついでに学生をやっている、と考えるべきなのかもしれない。そう言えば、彼の主導でその口から金銭の生々しい話は、これまで全く聞いたことがなかった。あるいは彼は彼なりに、わきまえているのかも知れない。
「う、ごめん」
美月が素直に謝った。変に意地を張らないのは彼女の美点だ、と裕也は思っている。
一方の光樹は反応しない。こちらはこちらで、別に意地になって謝らないのではないらしい。その必要はないと判断したから、当然謝らない。そもそも自分が謝らなければならないようなことは、始めからしない人間であるようだ。
「ったくもう。しかし本当にすごい行列だよな。どこから人が沸いて出たんだか…って、その辺からか」
あまり金の話ばかりしていても深刻になってしまうので、裕也は話題を変えることにした。とりあえず疑問に思ったことを口に出してみて、すぐに自分で答えをだしてしまう。
行列を構成している人間の供給源は「その辺」つまりサークルスペースだ。今の所ひとサークルあたり三人がこの会場内に入れるようだが、周りを見渡してみて、三人全員がそろっている所の方が少ない。一方今の所サークル入場者やスタッフなどの関係者以外は、このホール内には入っていないはずである。
「うん。それこそ今から列ができるような大手ならともかく、あたしたちみたいな中小サークルは店番が一人、多くても二人いれば十分だからね。それ以外は交代要員ってとこ。それに大概のサークル参加者は他のサークルの本も買いに行きたいものだから、人数には余裕がなきゃいけないのよ」
「なるほどね。だいたい、このスペースに三人いると、少し窮屈だもんな。椅子も二脚しかないし」
「ああ、それもあるね」
「菱乃木、準備はとりあえずこれで終わりか」
ふと里中が割り込んでくる。美月は軽く首を傾げてからうなずいた。
「ああ、うん。思い当たる限りでは。お手洗いなら…一番近いのはあっちかな」
美月が指差した方向には、説明されるまでもないトイレの表示がされている。しかし彼は首を振った。
「いや。手伝う必要がないなら実際にどんな本が売っているのか、それからどんな人間がいるのか、見に行きたいのだが」
一見した所冷静だが、この男の内側では血が騒いでいるようだ。小説を書くようになるくらいだから当然本が好きだし、また小説の素材になる人間観察もできるというものである。本人は駆け出しだといっているがまがりなりにもプロである以上、その種の欲求は強いはずである。
裕也にとってそれは、むしろ当然の要求のように思えた。しかし美月は、難しい顔をする。
「んー、今ならいけないとは言わないけど、でもそんなに時間ないよ。サークル参加者は一度、所定の時刻には自分のスペースに戻らなきゃいけないことになってるの。少しその辺を見て回るだけならいいけれど、見ての通りこの会場とてつもなく広いわよ」
「そうか、ならば後でいい。しかしそれならば、ああして列を作るのは意味がないはずだが」
列を作る、というのは人間がそこにいるからこそ意味があるのである。一度各々の場所に戻されてしまったら、確かに意味がない。しかし裕也は簡単に答えた。
「整理券でも配るんじゃないの?」
裕也は映画の初日上映を観たりするので、そのような経験が多い。一方の光樹はこの性格だから、あまり行列などには並んだことがなさそうだ。
ただ、少なくとも彼は頭が切れる。自分自身に経験のないことであっても、周囲の状況を判断して然るべき答えを出す能力があった。
「その様子がない。整理券を使うつもりであれば、今から配っていなければもう遅い」
「確かに…」
既にもう、ものすごい人数が並んでいる。整理券をあらかじめ用意しているのなら、今からそれを配布してゆかなければ収拾がつかない。あれだけの人数が並ぶとなれば、今以前にもっとずっと早い段階で処理をしておかなければどうにもならないだろう。
そして逆に整理券の用意がないのなら、本当にもう遅い。今から長蛇の列を裁くだけの整理券を作って、かつ配布することはまず不可能だ。
「大体そんなもの、あっても無駄よ」
美月はぼそりとつぶやいてから、即売会初心者の二人に向き直った。
「悲しいことだけど、ね。開場時間以前に大手サークルの前に並ぶことが、本来はルール違反なのよ。だってそれを認めちゃうと、一般入場の人に対してサークル参加者がずっと有利になっちゃうじゃない。本当は一般入場とサークル入場との間に、少なくとも本を買うことに関して差があっちゃいけないんだけどね」
「でも実際に、並んでるじゃないか」
規制されていることも、そしてその根拠も、裕也は理解した。しかし、いや、だからこそ、その規制が堂々と破られていることに対して納得することができない。好ましからざる行為が堂々とまかり通っているとは、一体どういうことだろうか。心底そう思う。
美月はただ、複雑そうな顔をするだけだった。彼女は運営に関して責任を持つ主催者あるいはその下で働く人間でも、ましてその規制を無視して行列を作っている人間でもない。そんな彼女に対して責めるようなことを言ってしまったのは失敗だった、と、裕也は思った。
「しかし、だ、長見。あれだけの人数が現に並んでいるのを、どうやって解消する? 簡単に説得に応じる人間なら、始めから規制を無視しはしない。最終的には物理的な強制力を使って排除するしかないが、そこまでの人員はあるまい」
美月に代わって、光樹が答える。裕也はそれにうなずくことにした。
「機動隊とか出すしかないもんな」
一見した所大人しく並んでいるようだが、規制を集団で堂々と破っている以上、その本質は暴徒と変わりがない。そういう人間は制服警官の制止でさえ無視するものだ。後は警棒や放水で制圧するかどうかという問題になる。この前のワールドカップがそんな状況だったと、ニュースでやっていたのを覚えている。
「傍観していると、いかに愚かしいことをしているかは分かりたくなくとも分かる。しかしあの手の群集心理は、誰の心の中にも潜在しているものだ。別にここに来るマニアや、サッカーのサポーターに限った話ではない。それが他人事ではないとみなが理解していれば、少しは抑止力になるかもしれないが」
光樹の視線は、行列の向こう側へ投げられているようだった。サークルスペースへ戻るよう指示するアナウンスが流れてゆく。美月が彼女にしては珍しく、黙ってうなずいた。仕方なく、裕也は少し茶化す。
「里中だけは例外っぽいけどな」
「確かに、私には集団行動をする能力が欠けているが」
そして彼も、少しだけ苦笑する。美月はけらけらと笑った。
「やあねえ。暴徒化した光樹くんなんて、それこそキショい光景よ」
「ふむ」
ほめているのだかけなしているのだか。基本的に理屈で割り切った考え方をする彼が、珍しく複雑そうな顔をしたあげく、結局何も言わなかった。
「それじゃあ、大人しく開場時間を待つとしましょっか」
「そうだな」
答えたのは裕也で、光樹は黙ってうなずいてから読みかけの文庫本を取り出した。二人はまだ、これから起きる惨劇を知らない。美月は実の所重々承知だったのだが、しかし敢えて、黙っていた。