正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
12 精神衛生に悪い話は程々に
十八歳未満の人間が成年向けの同人誌を売ることも不可能ではないが、もしそれを同級生など同年齢の人間に売れば処罰されうる。少々納得できない気もするが、ともかくそれが結論だ。
それを踏まえてもなお、見落としがあるように思える。少し考え込んだ末、裕也はそれが何であるかに気がついた。
「でもさ。刑法や条例はともかく、高校生が何はともあれエロ本売りさばいてたら、補導されないか?」
そもそも光樹自身が「取り締まり法規」と言い出したから、思い当たったことである。補導、と呼ばれている行為は取り締まり、あるいは犯罪摘発の類ではないとされている。その目的は未成年者による犯罪の防止、そしてそのための指導だ。その対象である人間、つまり少年達がどう思っているかどうかは、この際別の話である。
何しろその中心となっているのが警察なのであるから、明らかな犯罪行為を認めた場合には補導ではなく、逮捕しなければならない。逮捕した後にはまた少年法特有の制限はあるが、少なくともその前提として、犯罪が行われたからには逮捕するという警察活動に変わりはない。
つまり、逆に犯罪として摘発できないような未成年者の行為であっても、一定の状況にあれば補導されうるのである。
例えば未成年者の飲酒、喫煙の場合、実の所未成年者自身を処罰する法律はない。一応、未成年者に対して酒あるいは煙草を売った場合にはその売り手を処罰する法律はあるのだが、しかしその結果酒を飲んだり煙草を吸ったりした少年がいたとしても、彼らを監獄に入れたり、あるいは罰金を払わせたりすることはできない。そもそもこの種の規制は未成年者を保護するためにあるのであるから、そのために未成年者自身を刑罰の対象としてしまうことが、不合理なのだ。
しかし街中で公然と煙草を吸っていたり、まして酒を飲んでいたりする未成年者が補導員の目に留まれば、補導される可能性は相当高い。
補導員にしてみれば、それが刑事罰を課せない行為でないことは百も承知である。しかし、未成年者の飲酒や喫煙が社会的に望ましくないとは明らかなのだから、それを平然としている時点で、その人間には不穏な面があるといわざるを得ない。端的に言ってしまえば人が「悪い」と思っていることを平気でする、そんな精神状態にあるということである。
それは犯罪に走る傾向に他ならないのだ。単に飲酒や喫煙をしているだけならまず本人の体を傷つけるだけだが、方向が少し歪めば簡単に他人に被害を及ぼすことになる。例えば万引き、あるいは薬物、売春、可能性はいくらでもある。
そんな兆候を発見し、未成年者が犯罪に手を染めないために、補導員という人々は存在するのである。だからこそ、犯罪にならないような行為であっても見咎めれば注意し、場合によっては警察署まで連れてゆく。
美月と光樹が、目を見合わせた。
この三人の中で、誰が最も豊かな知識を持っているかといえば、それは里中光樹である。裕也や美月なら異論なくそう認めるし、光樹本人も否定はしないだろう。とにかく、覚えている分量が通常の学生とは格段に違う。それも要するに底の浅い、知識を一々無駄にひけらかすような人間とも明らかに異なる。言葉の端々に自然とそれがにじみ出る、そういう人間なのだ。一見した所平静だが、実は極めて旺盛な知的好奇心を有しているのだろう。学生というよりは、大学教授のようだ。実際、大学で教わっている身分としては、この男と接していると思わず居住まいを正してまいそうになる。
その彼が、この時完全に意表を突かれていたのである。その事態に驚いて、美月は彼の方を見やっていた。美月などは彼といえども万能ではなく、例えば芸能音楽分野に関してはかなり欠落していると知っているのだが、法律に関連した話で、教授以外から抜けを指摘されたのは初めて見る。
「されるだろうな」
結局芸のない反応をしたのは、感心したからだろう。光樹は彼にしては珍しく、二度うなずいた。
つまり裕也には、彼と異なる視点があるということである。それは多分、「正義感」だと美月は思う。
別に光樹が悪党だとか、そういう意味ではない。彼は彼で独自の倫理観を持っているはずだ。だからこそ、人格面にかなり激しい偏りが見られるものの、一応社会生活を営んでいる。むしろ「真面目」などと他人からは評価される人間である。
ただ、彼の場合他人の行為に関して客観的過ぎる、言わば傍観者的な傾向が強い。善行であれ悪事であれ、冷静に観察している節がある。それが「寛容」か、あるいは単なる「冷淡」かは、微妙な所だ。
その点、裕也は危なっかしい他人を見ると心配せずにはいられない性格だ。だからこそそもそも話のきっかけとなった人間が高校生なのではないかと考えてみたり、あるいは補導という可能性に気がついたりするのだろう。世間一般の基準からして間違いなく、「いい人」なのである。だからこそ、美月にとって男性の中ではもっとも親しい人間となっている。彼女が下の名前を呼び捨てにするのは、例えばゼミ内部では彼に対してだけである。
「えー? されちゃうかなあ。ものがものとはいえ、漫画描いてることが非行や犯罪につながるとは、あたしには思えないけど」
少々悪い表現を使えば、光樹の仕事同様の「引きこもり」作業である。頭の中身がどうかはともかく、社会に悪影響を与える、あるいは逆に被害を受けるようなことに結びつくとは想像しにくい。自分自身同人誌を描いているので、美月には良く分かるのだ。
「それは君が、その種のものに特に理解がある人間だからだ。世代が上になると、そもそも性描写以前に漫画自体を嫌う人間もいる」
自己弁護のようになるので省いたが、今でこそ文化の重要な構成要素として揺るぎない地位を築いている小説も、時代をさらに遡れば偏見の眼差しで見られていた。そんなものを読んでいる暇があるのなら、勉強をするなり働くなりして立身出世や生活の安定を図るべき、そんな考え方が主流の時代もあったのである。それを光樹は知っている。
「うーん。裕也はどう思う?」
光樹自身が表現するという行為に関してどういう立場にあるのかは、聞くまでもない。だから美月は、話を裕也に戻してみた。
「やっぱ、されるんじゃないかなあ。まあ、その補導員がどういう考え方の人間なのかにもよるけどさ」
違法行為を発見したら取り締まらなければならない犯罪捜査と異なり、補導はケースバイケースだ。少年少女個々の事情を勘案して対応を決めていかなければ、とても有効な対処にはならない。無論一定の方針、あるいは内部基準などがあるはずだが、その運用にはどうしても、担当者個人の思想や経験を反映させざるを得ない。厳しく対処することが未成年者を被害から守る道なのか、あるいは寛容な対処こそ更正への導きとなるのか、それを全員が簡単に割り切れれば、苦労はない。
「それに、わざわざ補導員になるような人って、そういう方面の倫理観とか、どっちかといえば厳しいんじゃないかな」
「どうなんだろうね。わざわざ補導員やるくらいだから本質的には子供に対する思いやりの気持ちが強い、とも考えられるけど」
「でもまあ、そういう方面の興味とか能力を生かす道は、他にも色々とある訳だ。例えば先生とか」
「それもそうねえ。まあ、実際に補導された経験もないし、良く分からないけどさ」
自分自身はもちろん、裕也にも光樹にもその経験はありえない。美月はそう思う。何かやらかすにしても、それを考えもなしに堂々とやったあげく後で責められて無様な姿をさらす、などという愚考に走る人間はいない。
例えば彼女の場合、実は高校時代にふざけ半分で花見と称して友人達と酒を飲んだ経験があるのだが、無論うまくごまかした。口の軽い人間は始めから参加者に入れていなかったし、証拠は確実に処分している。急病人が出てしまうとどうしようもないので、量はほどほどにして、一気飲みの強要も禁止ときちんと取り決めてのことだった。
「まあ、知ってる人間が補導されたなんて話は聞いたことがあるけど、そういう奴とはやっぱり親しくなかったしな。詳しい話までは分からないね」
高校までに飲酒、喫煙、さらに成年向け雑誌の購入と、本人が今にして思えば「やっちまった」裕也は腕組みする。ちなみに最後の件については青少年ゆえの強い好奇心が動機にあったとはいえ、背が高いので実年齢よりも年かさに見えるという点を利用した確信犯だ。
だから正直な話、自分が清廉潔白だとは思っていない。優等生ぶるつもりもない。ただ、いわゆる不良少年とは然るべき距離を置いていた。別に彼らに対して偏見を持っているつもりもない。ただ、そもそもそういう人間は自らとげだらけの壁を作っているのだから、わざわざ近寄ることもない。そう考えていたし、その基本的な姿勢は今も変わらない。
そして、その後少しの間、妙な沈黙が訪れた。少なくとも理屈の上では、十八歳未満の人間がいわゆるエロ本を売りさばいたとしても、対象者が十八歳以上であれば逮捕はされない。しかし、補導はされる可能性がある。そんな可能性に、直面したがゆえのことである。
なんとも形容しがたい。それが、三人に共通する感想だった。
どうも不条理な気がしないでもないが、しかしこれは紛れもなく、理詰めの末に到達した結論だ。そもそもその理詰めの基礎になっている現実社会が間違っている、という結論に達する方法もあるが、しかし少なくともこの三人の中に、そこまで先鋭的な思想の持ち主はいない。
そして光樹が、切り口を変えてきた。
「それで、実際の事例として、この場で未成年者が過激な性描写を理由に補導されたという事例は、あるのか」
光樹がやや、話を戻しぎみに質問した。ただ、この場合美月と裕也の間に会話が発展する可能性は乏しかったから、むしろ流れを見極めた適切な発言だともいえる。
「多分…いえ、まず間違いなく、ないと思う。これだけ規模が大きいとはいえ所詮は密度が高い、要するに狭い社会だし。主催者側がやっぱり、表現の自由に対する規制に対しては敏感だから。もしそういう話があったなら、ほぼ間違いなくあたしを含めた全員の耳に届くよ」
悪い噂ほど早く回る、世の中そういうものである。特にこの、「自由な表現」の場においては、それを規制する動きこそ、最も早く知れ渡ることになる。
「制服警官の姿なら先程も見かけたが、彼等はそのような取り締まりはしていないのか」
光樹はそう指摘するが、裕也はこれまで彼の言うその事実に気がついていなかった。
恐らく、警察官が通り過ぎたという事実はあったのだろう。光樹がそのような事実に関して嘘を言うとは思えない。極めて理知的な彼が、そうする理由がないからだ。
それでも気がつかなかったのは、裕也の注意力が散漫だったからに他ならない。要するに、あらゆる人の動きを「人ごみ」として処理してしまう状態にあったのだ。
ただ、それでも、置かれた状況としては光樹も同様だったはずだ。そんな中で警察官がいるかいないかに関して鋭敏な感覚を持っている人間、それはつまり後ろ暗いところがある人間だという意味ではないかと気にならないではない裕也ではある。
しかし、この男が相手の場合、不用意な攻撃は恐るべき反撃を食らうという確信があったので、とりあえず黙っていた。彼は元来あらゆる面に渡って鋭敏なので、当然その事実を察知した、そう考えておいた方が、万人にとって無難だ。
「そんな余裕、ないでしょ。そもそも警察の人にしてみれば、ある地域に何十万っていう人間が集中する時点で脅威な訳だし、それにここにはテロまがいの脅迫がされたこともあったのよ」
美月が指摘する。そう言えば、何かのイベントで人が集まりすぎたがゆえに人死にが出て、警察が責任を問われたなどという事件もあった。それに加えてテロあるいはそれに近い危険があるとういならば、警察組織も確かにそれで手一杯だろう。
警察、といえば巨大な権力機構ののようだし、実際その通りだといって間違いではない。しかしそれも昨今の不況とそれに続く経費削減、行政改革の大きな流れの中にある、官僚組織の一部に過ぎない、といえばそれまでだ。
その限られた予算の中で、全ての危険に万全の備えができる訳ではない。日本人の主観的な認識はともかく、日本国が合衆国に与する勢力として本物のテロ組織にも狙われうる現状からすれば、テロ「まがい」の脅迫に対して割ける人員や予算はごく限られる。余裕など、あるはずもない。
「ならばとりあえずは、摘発されなければ犯罪ではない。そして、発見されなければ補導もされない。その程度の結論でいいだろう」
そして、彼はそうまとめた。美月が首をかしげる。
「光樹くんにしては、ありきたりな結論よね」
普通の道徳観念からは少々ひねっている。しかし、逆に言えば少しだけでしかない。皆がうすうすは気づいている、中にははっきりそうと知っている人間もいる、そのようなものである。何より光樹自身が「その程度」と切り捨てている。
例えば、常識はずれなようで実は徹頭徹尾筋が通っている。そんな彼らしい切れの感じられる、言葉ではなかった。
「突き詰めて考えても、あまり面白い結論にならないように思えてきた」
そしてやはり、彼は少なくともこの問題に関して自分自身の切れを放棄していた。確かに、補導という話を持ち出された際意表を突かれた。それだけ、彼という存在とその話題の間には、断絶があるのだ。
今は、得体の知れない違和感がわだかまっている。それについて考えて、正体を把握して整理できるのならそれが良い。しかし、把握したあげく処理に困るほど大きなものが残ったなら、どうなるのか。
粗大ごみと違って、概念は違法に投棄することさえできない。人間、まともな方法では、「忘れたふり」をすることはできても、実際に忘れることはできないのだ。その危険を、光樹は悟っていた。得体が知れないとはつまり、対象が巨大である可能性を示唆している。
「確かに、そうかも…」
美月が眉をひそめる。
ありきたりではない、先鋭的な結論が出たとする。そこで何か方針が示されたとしても、しかし自分達に問題を解決する具体的な力はまずないだろう。
また、具体的な解決策が出ないにしても、議論を通じた思考の過程を楽しむという可能性も無いではない。ある種の知的なゲーム、それが面白いから、美月は里中光樹という相当偏屈な男と平気で友人づきあいをしている。ただ、この話をしていてたまるばかりのもやもやとしたものを考えると、可能性は決して高くない。そもそも相手を務めるはずの光樹が、既に引いている。
「どうする? そもそも補導と言い出したのは君だが、どうしてもこの話題を続けるというのならつきあってもいい」
ただ、彼としては少なくとも敵前逃亡を潔しとしていないようで、裕也に話を戻した。裕也の答えは、この時既に決まっている。
「いや。俺も同感だよ」
軽い気持ちで言ってしまったのがまずかった。無論裕也には、そこまで突き詰める趣味はない。元々この三人の中で、彼が最も「まあまあなあなあ」、突き詰めずにことを済ませる傾向が強いのだ。残り二人が乗り気でない時点で、彼としての結論は明らかだ。
「なら、大人しく開場を待つとしよう」
全員一致。それを受けて、先程の美月と同じことを光樹が言う。それにもかかわらず、美月は二度もうなずくのだった。長話のおかげで、だいぶそのときが迫っていた。
続く