正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
14 列を作って周囲のサークルに迷惑をかけないようにしましょう
暴徒化して突進してくる群集をいかにして阻止するか。ただし銃火器の使用は不可。
この命題に対して普通の人間なら、催涙ガスや放水など、一般的な暴徒対策を思い出すことだろう。もっとも、同人誌即売会という特殊条件を加味すれば、本が駄目になる放水も不可だ。
しかしこの場合、回答者は里中光樹だった。そもそもその時点ですでに、話がかなり終わっている。
「火気厳禁ならヴェトコンの戦術が参考になるだろうな。竹や蔓や、辺りにある何と言うこともない素材だけで、米兵をいくらでも傷つけた。肉体的のみならず、精神をやられて帰国後に同胞を傷つけた者も少なくない」
「いや、それも…」
違うって。そんな裕也のツッコミを、しかし美月が上から強引に無力化する。
「東京湾の埋立地には、竹や蔓はあんまりないよ」
「展示場ならロープやワイヤー、それに鉄材などの用具にはこと欠かん」
「なるほど。でもそもそも、日本の竹槍はダメだったじゃん」
「現に竹槍を使おうとしなかったから、だ。さすがに竹槍で高々度を飛行する重爆撃機を撃墜することは不可能だ。しかし核爆弾を落とされようが焼夷弾で首都を灰にされようが、なお徹底抗戦をする意志が国民の間に保たれていたのなら、結果はもっと違っていたはずだ。上陸した米兵がそこかしこで日本の民衆に竹槍で刺し殺され、その報復として米軍が圧倒的な火力を無差別に行使する、そんな結末をみなが望んだのなら、そうなっただろう」
胸の悪くなる想像図だ。しかし、それは単なる想像図ではない。日本とは別の国、ヴェトナムという国で現にそのような事態が発生しているのだ。
太平洋戦争当時の大日本帝國政府は、最終的に核爆弾二発で無条件降伏に追い込まれた。敵軍が主要都市に対して、現代で言えば無差別大量虐殺をするのを阻止する能力がない。この状況を常識で考えれば当然戦争は負けであるが、相手はいわゆる特攻など常識外の行為を少なからず敢行していた帝國軍である。なお戦争継続と言う可能性も、ないではなかった。
一方ヴェトナム戦争当時の北ヴェトナム共産政権は、核兵器の使用こそ現に受けてはいないが、過年の大日本帝國が直撃を受けた以上に、その恐怖には常にさらされていたはずだ。何しろ敵対勢力である米軍には核兵器使用の実績があり、それを研究に還元した成果もあって威力は格段に向上している。
また、一般的な概念での本土の大部分での交戦という、大日本帝國軍では経験したことのない事態に陥っている。それも米軍は、多数の最新鋭の兵器を上陸させ、洋上には大国でなければ持ち得ない航空母艦や巡洋艦を展開させていた。
そしてその追い詰められたはずのヴェトナム共産勢力に、結果として窮地に立たされたのはアメリカ軍だった。所詮作戦行動をする地域の民衆の支持を得られない軍隊は、あらゆる支援を得られず、むしろ激しい妨害をこうむるのだ。
当時のアメリカ軍は、民衆にかばわれた、あるいは民衆そのもののゲリラによって執拗に襲撃されている。光樹が言っている竹や蔓を使った使った戦術とは、その中で使われたものだ。しかしその敵対行動が、アメリカ軍によるヴェトナム人民に対する虐殺まがい、あるいは虐殺そのものの行為という反応を招くのだった。
多分それは、いつか歴史で教わったはずだ。しかしその記憶は全くない。ただ、この前見た映画がその戦争の狂気を、文字通り嫌というほど描いた代物だった。おかげでいまや、悪い意味で忘れられない作品の一つになっている。
「いい加減にしないか」
結果、思わず声を荒げてしまう。ようやく美月が裕也に向き直った。それにつられてか、光樹も同様にする。二人とも、無表情だった。
そしてその一瞬後、美月は吹きだした。
「あははははは! おっかしー。気づきなさいよ、からかわれてるって」
「なんだとう! って、おい、里中お前もぐるか」
「私は別に。いつも通りに話をしていただけだ」
詰め寄る裕也に対して、光樹はあくまで至って真顔である。しかし実の所彼は、きっぱりしらばっくれていた。途中で美月は、裕也に向いていないほうの目でウィンクをしていたのだ。人間関係が苦手だと言ってはばからない光樹でも、さすがにその意味には気づくというものである。
「まーったく、もう。いい加減に見えて根が真面目なんだから。からかって楽しいったらありゃしない」
「こいつは…」
怒りのあまりもう、声も出ない。それも美月の言う真面目さなのだと、当然ながらこの時の裕也は気がついていなかった。正しいことを正しいと素直に思う、そんな性格である。
逆に言えば光樹には真面目なように見えて、ある意味果てしなくいい加減な部分がある。自分が楽しんでいるのでもないくせに、平気で人をからかっているのに加担するのだから。
釈然としない裕也であったが、しかしからかった以上当然ながら二人とも、そんな彼の内心をとりあえずどうこうしようとはしないのだった。
また新たな来客だ。それを最初に発見したのは、既に先程までの話題に関心がなくなっていた光樹である。本人としてはそれまで話しにつきあっていただけで十分義理は果たした、そんなつもりなのだろう。
「何だ、あれは」
「む、なになに?」
裕也をからかった行きがかり上さっさと話を変えてしまいたい美月が、やや大げさに喜んでそれに乗る。身を乗り出して、光樹が指差す人影を眺めた。
「おおっ! あれは!」
「何だありゃあ」
その手には乗るまい。そう固く決意していた裕也であったが、しかしあっさり翻す羽目になった。万事落ち着いた光樹が奇異に思うのも無理はない、それは鎧を着込んだ、少なくともそう見える人物だった。しかもこの暑い中、マントまで羽織っている。
「そう来たかぁ!」
高い声を上げる美月に、裕也はちょっと引いてしまった。
「おい、お前の知り合いかよ」
「そうだけど、リサの友達って言ったほうが正確ね」
「あー、なるほど」
言われて見れば確かに、その人物の顔立ちも日本人のものではない。白人のそれだが、しかしリサとはまたどこか系統が違うようだ。透き通るように白い肌と淡い色の瞳が、何となく極寒の地を連想させる。服装は暑苦しいはずなのだが、その顔を見るとその印象がずいぶん和らいだ。
「しかし何であんな格好なんだ。あれが彼の国の民族衣装なのか」
「まさか。って、ちょっとごめん。はろー、アレク」
彼、アレクが近づいてきたので、当然ながら美月はそちらに注意を移す。そして彼は確かに、「ハロー」と言った。それは日本人英語の発音とは当然異なっていたが、しかしネイティブスピーカーのそれとも違う、少なくとも裕也にはそう聞こえた。そしてそれ以後の早口の英語らしきものは、全く聞き取れない。その表情からようやく、切羽詰ったニュアンスが分かる程度だ。
ここは美月の英語力に期待するしかない、と思った矢先、慌てたのはほかならぬ彼女だった。
「ど、どうしよう、裕也。あたし、彼の英語あんまり良く分からないのよ。発音がちょっと特殊だから」
「俺に言うなよ」
振られたとたん、裕也も慌ててしまう。光樹がため息をついた。
「仕方がない」
そして結局、彼が英語でアレクに話しかけた。裕也にもほぼ聞き取れるような、つまりネイティブスピーカーのものには程遠い発音である。もう一度ゆっくりと説明を、と言っているようだ。
うなずいて、そして呼吸を整えてからアレクは光樹に向けて話をする。しかしその発音はやはり、聞き取りづらいものだった。それは光樹にとっても同様だったようで、途中で何度か表現を変えながら確認をとっている。
「彼女のスペースに予想外の行列ができているそうだ。ケンは不在、自分は日本語が分からず対処ができないから、手を貸して欲しいと言っている」
少し長くかかった話を、光樹は簡単にまとめた。そして美月は、髪を少しかきあげて考えをまとめようとする。
「そりゃ大変。すぐに行くから。ええと、あたしと裕也で行くから、光樹くんは留守番を…」
「いや、この際だ。彼に残ってもらった方がいいんじゃないのか。美月には悪いけど、こっちにはとりあえず客が来る様子がないし。一冊ずつ売り買いするくらいなら、日本語が分からなくても何とかなるだろう」
口を挟んだのは裕也である。実質的にトラブルになっている以上、日本語でのコミュニケーションが困難なアレクがスペースに戻っても、結局あまり役に立たない。一方このスペースなら本ごとにきちんと値札がついているから、アレクが日本円を数えることができれば自動販売機代わりにはなるはずだ。そんな判断である。
そして美月の意見を待たずに、光樹はアレクにどこまで店番が務まるかの確認を行っていた。少なくとも日本で買い物をした経験もそれなりにあり、単純に売り買いをするだけなら問題はないらしい。
「それでいいか」
一応光樹の言葉は是非を問うものであったが、しかし口調として有無を言わさないものがあった。確かに、もたついている場合ではない。
美月が大きく首を縦に振る。
「あ、うん。もちろん」
「よし、じゃあいこう。後よろしく!」
正確な言語としては、通じていないだろう。しかしそう言った裕也に対して、アレクはうなずいた。
その間、既に美月と光樹は歩き出している。裕也の足が一番長いのだから、多少引き離しても追いつくとの判断だ。
「彼女のスペースの場所は」
「ええと、スの…」
「大まかでいい。騒ぎになっているのなら、すぐに分かる」
「あの列のあっち」
「あそこだ、違うか」
探すまでもない。完全に人だかりができてしまっていて、嫌でも発見できる。美月はうなずいた。が、すぐにぶつくさと言いだすはめになる。
「あー、どうしよう、どうしよう。あたしはいつも大して売れたことがないから、ほんとに、もう」
実際どうしたらよいのか、とっさに考えがまとまらない。つい余計な愚痴が出てしまう。しかしこんなときには、光樹の冷静さが頼りになった。
「一人ではさばき切れん。私も売る側に回ろう」
「あ、うん。お願い」
果たして彼に接客が勤まるかどうか、疑問に思わないではない。しかし言ってしまったからにはもう遅い。そして、そんな二人の後ろから、裕也が声をかけた。読み通り、走りもせずに長い足を活かして早足で追いついたようだ。
「後は、あの人だかりをどうしっかりした列にするかだな。俺はどんな風に並ばせればいいのか分からないから、お前が指示を出せ」
「あっと。…売り子は二人だけど、三列にして。あ、光樹くん! 中に入ったらリサの言うこと聞いてね」
「分かっている」
言い捨てると、光樹はサークルスペースの内部へと入っていった。そして人だかりと周囲の様子を見ながら、美月は考えをまとめる。
「周りのサークルさんに迷惑をかけないように三人列で詰めてまっすぐ前に伸ばして、それでも足りないようなら通路の真ん中で直角に曲げて…」
「よっしゃ、任せろ。はいはーい、皆さん、三列で並んでくださいねー!」
はっきり言って失礼だが、普段のだらけた裕也からは想像もつかない。実に元気の良い声だった。適当な距離に達するなり、いきなり大きく口を開く。どこか幼児番組の「体操のお兄さん」を思わせる、意図的なわざとらしささえある。しかしその無駄とも感じられる勢いに、人だかりの全員が押されていた。結局、それらしい列を作るよう、動き始める。
「ここからこっち、直角に曲がってくださーい! お願いしまーす!」
そしていざとなれば、意味があるのかどうか分からないテンションの高さにかけては美月も負けてはいない。そのほとんど全てが女性としても小柄な彼女よりずっと体格の良い、男たち相手に威勢の良い声を張り上げた。一応「お願い」と言っているが、実質的にはほぼ強制である。
「お待たせ致しました。こちらとこちら、合わせて千百円です。二千円のお預かりで、九百円のお返しです」
そして、リサに対しては何の挨拶もなく彼女の隣に立った、光樹が客をさばき始める。口調こそ完璧に丁寧だが、しかしその仏頂面には全く揺らぎがない。例えば百貨店の接客としては明らかにミスキャストであったが、しかし少なくともこの場では決して間違いではないようだった。買っている側は買っている側で売り子の愛想など求めていないらしく、むしろ手早く買い物が済んで清々したという様子で立ち去ってゆく。そして後から後から湧いてくるような人間たちを、光樹はあくまで淡々と、それでいて手早く、処理していった。
とにかく、暗算が速いのだ。相手が財布をごそごそとやっているときにはもう、つり銭を用意している。単に札が出てきた場合、あるいはある程度小銭があった場合、色々なパターンがあるが、その全てに対応できるだけの支度ができているのである。そしてむしろあらかじめ然るべき額を用意していない人間に対しては、冷たい視線を向けるほどだった。
「Thank you!」
その合間を縫って、リサが一声かける。この声は客相手にかけられたものではない。そして「you」は単複同形だが、しかし彼女の意図が複数であることを、裕也は疑っていなかった。
「どういたしましてっ!」
答えたのは美月である。英語に対して日本語、それがおかしいとは、彼女は思わない。相手が日本語を理解するから、は、付属的な理由でしかない。母国語での謝意に対して、自分の母国語で応じた、それだけのことだ。いや、そうすることに意味がある。美月はそう思う。
そして、いくばくかの時間が過ぎ去った。その間に席を外していたケンが戻ってきて、リサと売り子を交代している。日本語の発音にはやや怪しい所があるものの、計算の能力に関しては光樹に迫る勢いがあるケンだった。その一方で、目の前の客を速やかにさばくことに集中している彼に対し、ちょっとした自分自身の時間の空白を見つけては付近の客に声をかけて、列を統制をするだけの視野の広ささえ発揮していた。
「はいっ! お疲れ様でした!」
リサがひと声かける。それまでが、本当にあっという間のように思えた。完売、そしてその結果として本が買えなかった人間を適宜散らすまで、である。嵐のような時間を過ぎたことを感じさせない、張りのある声で美月が応じる。
「お疲れ様でしたー。でもすごいじゃない、リサ。この時間までで完売だなんて」
開場から一時間強である。賞賛された彼女は、けらけらと笑った。
「あははっ。本当にすごい人間なら、印刷部数の読みを間違えたりしないって。いやあ、こんなことなら二、三千刷ってもらうんだった」
「まあちょっと、早すぎよね。実際は何部だったの」
「五百」
「うーわー、もったいない!」
印刷部数は多ければ多いほど、一冊あたりの単価は安くなる。あの売れ行きを考えれば、倍を刷っただけでも倍以上の利益が出る計算になるのだ。
「んー、でも、しょうがないよ。良く考えるまでもなく、それ以上刷るお金の手持ちはなかったんだし」
「あー、リサの場合旅費も考えなきゃいけないしね」
「そーゆーこと」
「でもさ、何だって急にあれだけ売れるようになったのかな。前は普通だったよね」
「ネットでね。色々と気合を入れて宣伝してたら、し過ぎちゃったみたい」
「ほー。ネット社会恐るべしってとこかな」
「それだけに、これに気を良くして来年二千部刷ろうとなんて思えないけど。自分の手ごたえと現実とが、全然違うんだから」
「まーね」
話がひと段落した所で、リサは改めて裕也と光樹を見やった。
「裕也も、光樹も、本当にありがとう。みんながいてくれなきゃ、どうなってたことか。もちろん、ミッキーもね」
「どう致しまして。困ったときはお互い様ってね」
一緒に一仕事終えたことで、何か連帯感のようなものが生まれている。裕也は気軽にこたえることができた。
「お礼は必ずするからね。あ、でもミッキー、今は自分のスペースに戻ったほうがいいんじゃないかな。責任者があんまり離れているのもことよ。しかも店番アレクだし。あたしたちはここ片付けてからそっちへお邪魔するから」
「うん。じゃあまた」
気軽に手を振ってから、美月はその場を後にする。とりあえず特に用事もないので、裕也も光樹もそれについて戻ることにした。
続く