正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

15 会話のコツは自信を持つこと

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 里中光樹という男、誰がどう考えても、英会話スクールに通う柄ではない。例のハイテンションには最もついていけない性格だ、そんな気がする。もっとも、美月は現にその種の学校へは通ったことがないので、実はハイテンションではないのかもしれないのだが。
 しかし彼は、アレクとのコミュニケーションを英語で成立させていた。高校時代に留学でもしたのか、あるいは本人がしゃべらないだけで帰国子女なのか、そんなようにも思える。その驚きを、一通り落ち着いたところで美月は賞賛として表現していた。これからアレクに留守番を任せている自分のスペースに戻るので、それをきっかけに思い出したのである。
「にしても光樹くん、すごいね。読めるとは分かっていたけど、英語を話すこともできるなんて。どこで習ったの?」
「別に話せてなどいないぞ。今思い返してみれば語法は崩れているし、語彙も貧弱で、しかも正確ではなかった」
 だが、本人の回答はいたって否定的だった。これが普通の人間なら謙遜をしているという可能性を考えなければならないのだが、少なくともこの男に限ってはその必要性に極めて乏しい。事実、そうだったのだろう。
「でも、通じてたじゃん」
「それは通じる。何しろ英語に関する理解力は、向こうの方が上だからな。片言でも、意志の疎通は不可能ではない」
「堂々としているようで、実は開き直ってただけって訳?」
「実は、と言うよりも、因果関係に近いな。お互い母国語でも、おどおどした物言いをしていては理解しづらい。それを他国語でしていては、どうにもならん。だから適当にやれば相手が分かってくれると期待して、落ち着いて話せばいい。何も試験ではないのだから、八十点どころか六十点である必要もないぞ」
 三人の通っている大学では、成績が百点満点中八十点を超える程度にあると教授が判断すればAで単位が取れる。一方六十点は、ぎりぎりで単位が取れたことになるC評価の中でも最低点だ。つまり五十九点以下はDで落第である。
 もっとも、法律学系のテストに「おいしいシチューの作り方」を書いてCをもらった学生もいるとの伝説があり、また一方で「良く落とす」ことから「撃墜王」なる称号を奉られる教授も現にいる。点数は結局、採点する人間の胸先三寸である。原則的に絶対評価制なので、履修者全員が合格、あるいは落第ということも理論上はありうる。
「なるほどねー。でも、理屈では分かるんだけど、現にやるってのはそれはそれで難しいと思うのよ」
「そうそう。皆が皆、里中みたいに図太い神経持って、自信たっぷりに話せる訳じゃない」
「いや、私は自分の口調に自信を持ったことなど一度もないぞ
 彼はしれっと、それこそ表面上は自信たっぷりに言い放った。さすがに、聞いていた二人がすかさず突っ込む。
「ちょっと待て」
 美月は普通の口調の場合乱暴な言葉遣いをしないのだが、ツッコミは話が別だ。一方の光樹は首をかしげる。そんな動作さえ自信ありげに見える男だ。
「何をだ?」
「そのどこがどう、自信がないのよ」
「どう、と言われても、ないものはない。元来私は内気な人間だ」
「どこがじゃ」
 今度はなぜか時代調、二人のツッコミの息は、そこまで合っていた。自己認識を正面から否定されて、さすがの彼も首をかしげる。
「話すよりも書く方に自身があるから、小説家をやっている。逆ならばそれが何かはともかく、もっと別のことをしていただろう」
 確かに、作業としてはずっと黙りきりである。話に自信があってそれを活かそうとするのなら、明らかにすることが違う。しかしそれでも、いざとなればとてつもなく弁の立つ男がそれに自信がないとは、信じられなかった。
「相変わらず不思議な生命体よね、光樹くんって。新作のネタは自伝的なものにでもしてみたら? 中々面白いと思うんだけど」
 非常に失礼なことを美月が言い放つ。しかしそれで動じないのが、「不思議な生命体」の「不思議な生命体」たるゆえんだった。素の表情で言い返す。
「書いている私が面白くない。自分の履歴に関しては、わざわざ書くまでもなくそれなりに整理しているつもりだ」
「ふむ。それはネックね」
 読みたいような読みたくないような。裕也としてはそう思う作品の構想は、結局これでひとまず立ち消えとなった。
 美月のスペースが近づいて、留守番をしているアレクの姿が見えるようになったのだ。
「お疲れ様ー、って、伝えてくれる?」
「そのくらいは自分でできそうなものだが」
 文句をつけながらも、光樹は言われた通りにした。
 確かに、よくよく聞いてみると、使っている単語にそれほど難しいものはないし、難しい文法が必要になるほどの複雑な意味内容をしゃべってもいない。概ね日本の中学卒業レベルだろう。ただ、彼の教養水準からすればもっと難しい単語も知っているはずだから、ある程度表現を絞っているのかもしれない。
 しかし自分にはその程度でも無理だな、と裕也や美月としては思ってしまう。聞けば分かるのだが、しかしとっさに出てくるとは感じられなかった。要するに、基礎的な能力が違うのだろうと思う。
 そして一通りの話が済むと、アレクは笑顔で頭を下げてから立ち去った。リサ、あるいはケンから多少日本式の礼儀を教わっているのだろう。
「新刊四部、一部当たり五百円で二千円の売り上げ、特に変わったことはなし。友人を助けてくれたことに感謝する、だそうだ。とりあえずどう致しましてとは言っておいたが」
 光樹が内容をまとめる。美月は大きくうなずいた。
「聞こえた聞こえた。ユーアーウェルカムって」
「なら自分で言っておけ」
「いや、タイミング悪くて」
 笑ってごまかす美月だった。
 一方売れ行きを見て、裕也は腕組みをしている。
「しかしなあ、向こうは五百部もう売り切って、こっちは四部だけとはね」
「んー、しょうがないよ、それは。列ができる、言ってみれば大手と弱小は、本当にピンキリだから。大手なら並んでいる人間以上の売れ行きがあって当たり前だし、逆に弱小なら一冊も…ってことだってありうるんだから。この時間までで四部なら、あたしとしてはまずまずよ」
「並んでいる人間以上の売れ行きって、一人が同じ本を複数買うってことか」
 そうでないと、計算が合わない。しかしそれは、別の意味での理屈に合わない気が刷る。しかし美月はうなずいた。
「うん。一番良くあるのが、頼まれて別の人の分まで買うってこと。やっぱ超大手みたいにあれだけ並んじゃうと一人で複数のサークルの本を手に入れるのは難しいから、手分けをするのよ。後はまあ、観賞用と保存用と、それから布教用とかって、用途ごとに買ったりする人もいるし」
「鑑賞と保存は何となく分かるけど、布教ってのは何だ布教ってのは」
 かなり怪しい響きだ。くすくす笑いながら、美月は説明した。
「自分の好きな描き手を人に教えてあげるのよ。つまりはそのための貸し出し用ってことね」
「並んでまで買った本を、そうやって使うわけだ。それじゃあ余計に人気が出ちゃうだろ。何だってまたそんなことをするんだ」
「んー、うまく説明できないけど、余計に混んじゃうって分かっていて、おいしいラーメンの店とか友達に教えちゃう人って、結構いるじゃない。それと一緒よ」
「そういやそうだな」
 裕也も美月も、そう言えばそんなタイプである。一つには情報交換という説明もできるが、その種の人間は大概自分よりも他人に利益を与えているものである。そこへ光樹が、口を挟んだ。
「共感できる相手を増やしたいという、集団に帰属することへの欲求、あるいは自分が相手より多く有益な知識を持っているのだと示す、優越感への欲求、動機は主にそのどちらかだろう」
「なーるほどねえ。じゃあ、この本の場合なんかは後者かな」
 美月がごそごそと、鞄の中に手を突っ込む。裕也は首をかしげた。
「あれ、本なんてここではまだ買ってないよな」
 そのはずである。ルール違反ということで開場までの間には他へは行っていないし、開場直後にアレクが来て、そのままリサの店を手伝った。自分の本である可能性もあるが、それでは彼女自身の話とやや矛盾が出る。
「うん。これは同人じゃなくて商業の、つまり普通の本だから」
 そして取り出された文庫本を目にして、まず反応したのは光樹だった。ふと、その視線があらぬ方を向いてしまう。一瞬後に、目をそらしたのだと裕也は気がつく。そして美月はというと、にやりと笑っていた。
 あの里中光樹がやや動揺している。それもちっぽけな文庫本一冊を見ただけで、である。裕也としてもわくわくしながら聞いてみた。
「何事?」
「とっておき」
 そう言って、作者名を示す。里村だ。タイトルにも覚えがある。「魔聖春秋」、先ほどケンが言っていたものだ。
「あ、これって」
「そ。光樹くん、もとい、里村先生のしかもデビュー作よ」
「そいつは確かに興味深いな。それで、気に入ってるのか?」
「何よりこの光樹くんが、この内容を書いているかと思うとね。ベースは異世界を舞台にした戦争ものなんだけど、ラブロマンスもあったりして」
「なにぃ!」
 大変、失礼なやり取りである。目をそらしていた光樹が、美月を睨みつけた。無表情な奴だとばかり裕也は思っていたが、しかしそれは自分が彼を良く知らなかっただけなのかもしれない。
「嫌がらせか」
「うん」
 オーラが見えるんじゃないかと思えるほど不機嫌極まりない彼に対して、美月はあっさりと、しかも笑顔で答える。彼女の完勝だった。
「だから私は本に近影を載せないんだ」
 ぶつくさと言って、またそっぽを向く。残る二人は顔を見合わせて笑っていた。
「そう言えばそういう映画もあったけどな」
「『恋愛小説家』ね。あれはあたしも見たわよ」
「そうそう、それそれ」
 幾多の女たちをときめかせる恋愛小説家が、実は人間嫌いの偏屈な男だった…。という設定の物語である。
「いや、あれはフィクションだったからそのままそんなもんかと思って流したけど、現物を見てみると、こう…そうそう、人間の想像力って偉大なんだなとか、思うよ」
「でしょ? でしょ!」
「でさあ、女の目から見た、小説家里中先生の描く登場人物の女心っていうのは、どうなん?」
「んー、ん?」
 それは難しい質問だ、と、美月は表情で有り余るほど表現して見せた。
「そりゃあね。特に光樹くんの書いたものに出てくる女性キャラって、特にメインキャストになると、優しくて実は気丈でってタイプが多くて、こんな奴現実にいるかー、って、ツッコミができないわけじゃないけど」
「ほう」
「でもそれって、男性キャラについても同じことが言えるのよね。信じる道を進むためには自分の命をも惜しまない。それでいて独善的じゃなくて、むしろ弱者に対しては優しい所を見せる。そんな人間が主要キャラクターを占めている、っていうか、あの戦争ものの世界設定だと、とてもじゃないけどそこまでの強さを持った人間じゃないと主要登場人物にはなれないのよ」
 そりゃあ、まあ、自分にはそこまでの強さはないだろうな、と裕也は思う。とてもではないが、「乱世の英雄」という柄ではない。そしてそんな英雄たちと時に対等に渡り合ってゆく以上、女性キャラにも相応の能力が要求される。精神面で猛者たちを手玉に取れるほどの人格の持ち主か、あるいは彼らと互角に渡り合えるほどの男勝りの武人か、さもなければその双方を兼ね備えた人物か、だ。並一通りの人間では、とてもではないがつとまらないだろう。
 それは確かに、平凡な人間を主人公にした名作も多々ある。ただ、少なくとも光樹はその作品を、そのようなスタンスで描いてはいないのだろう。
 通常の人間のスケールを超えた存在、すなわち英雄を、その存在の通りに描写する。英雄には英雄の苦悩、すなわち悲劇が存在するが、それはそれで凡人のそれとは明らかに深さが異なる。これは物語としてギリシャ神話あるいはさらに遡ることのできる古典であり、また現代においても通用する王道でもあるスタイルだ。
「虚構を、虚構の世界観の中で成立させる。それを少なくとも、読んでいる間には感じさせない。それが想像力であり、そして文章力というものだ。土台私は人を殺したことも、魔術を使ったこともないぞ」
 光樹が説明する。その声は、普段の彼のものとなんら変わりがない。論理にも、破綻を見出すことができない。しかしいつもは自信たっぷりに聞こえる淡々とした口調が、このときばかりは妙に白々しく感じられた。
「だからねえ、あたしとしては、むしろ男性として光樹くんの書いた文章をどう思うのか、そこに興味があるのよ。戦い抜いた英雄たちの物語は想像の産物だろうけど、でも、そこに込められた気持ちの中には…」
「いい加減にしろ」
 素早く翻った光樹の手が、文庫本を取り上げる。運動能力に関してはからきしに見えるが、しかし少なくともその動作は中々のものだった。まるで、突如として獲物に襲い掛かる毒蛇さながらだ。しかしそれに動じることもなく、美月は邪悪とさえ形容しうる笑みを浮かべる。
「ふふふん。別に、いいけどね。何しろ光樹くんはプロだから、本屋さんに行けばいくらでも書いた本が売ってるんだから。それもごくごく、リーズナブルな値段でね」
 ハードカバーになると値段は千数百円から数千円、あるいはそれ以上まで様々だが、文庫本であればどれほど分厚いものであっても千円前後がやっとである。少なくとも今里中自身の手の中にあるのは、五百円程度の厚さであるはずだ。彼女なら間違いなく、悪ふざけのためだけに惜しげもなくそのくらいの金は払うだろう。
「…勝手にしろ。ただし、私のいない所で、だ」
 再び、彼の完敗である。著作権はともかく所有権は美月にあるはずの文庫本を自分のポケットにしまいこんでいるが、その行為自体全面的な退却に等しい。自分でも不思議に思える部分がないではないのだが、いくらなんでもかわいそうになってきたので、今度は裕也も美月には同調しなかった。

続く


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