正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

19 同じ作品を好きな人には勇気を持って話しかけてみましょう

注意事項を確認する


 幸い、というべきか、この小説を素材にしたサークルの区画はさほど混んでいない。時折人だかりのできているサークルもあったりするが、歩行に支障をきたすほどではなかった。元々客層が、例の「男膜」のあたりと比較して大人しいように感じられる。あるいは本来層としては同様のものが、群集心理によってああなっているのかもしれないが、そうだとするとそれはそれで怖い。
「そこか」
 そして行き当たったのは、一見した所何ということもないサークルだった。それこそ先程のリサのところのように行列ができていたり、あるいは派手なコスプレーヤーがいるわけでもない。ディスプレイも地味で、貸し出されたままの机の上に同人誌が置いてあるだけだった。
「何だろな。一体そもそも、これだけ数がある中からどうやって選び出したのかが分からないぞ」
 一応聞こえるように言ったつもりだったのだが、しかし光樹はそれを黙殺してしまった。すたすたとその前に歩み寄って、立ち止まる。
「あ、どうぞ。ご覧になってください」
 中にいたのは、化粧気のない女性だった。年齢は自分たちと同じ程度に見えるのだが、服装もTシャツにジーンズとそっけない。おしゃれなどに無頓着な性格なのだろうかと、そんな疑問が裕也の頭をよぎる。しかしまあ、この暑い中で行動することを考えれば、合理的な装いの一典型であるといえる。
「失礼します」
 そして光樹は彼らしいことに、複数置かれていた本の中から迷わず一冊を手に取った。新刊、の表示がされているものである。ここでは基本的に立ち読みが許されているのだと、目ざとい光樹はもちろん裕也ももう、周囲の様子から理解していた。
 彼が手にしたのは、少なくとも裕也の目には他の本と同じ程度のものであるように思えた。同じ人間が描いているらしく、表紙の絵柄は概ねどれも同じようなものだ。無論それぞれ別のキャラクターを素材にしていて描き分けができてはいるが、それだけが極端に優れている、とは思えない。ついでに言えば、つけられている値段もほぼ同様だった。新刊既刊の別があるとはいえ、少なくとも今日始めて同人誌即売会に来る人間にとっては関係のない区分があるはずである。
 ただ、その一方で、迷わずそれを選んだ客を、その女性はどこか喜んでいるようだった。あるいは自分に見る目がないだけで、光樹には例えば力の入った作品を瞬時に察知する眼力、あるいは嗅覚があるのかもしれない。
「どんな本なんだ」
 とりあえず聞いてみるが、しかし反応は極めて悪かった。
「……」
 完全に無視である。どうやら没頭しているらしい。確かに元来凄まじい集中力の持ち主で、美月などが騒いでいる横で静かに本を読んでいたりもする男ではある。しかし、呼びかけに全く反応しないというのは、裕也としては初めて見る気がした。分かっていて、しかし答える価値がないと思って反応しないことはあるが、しかし今がそのケースだとは思えない。
 そして一冊、さほど厚くない漫画本であるとはいえ、その全てに目を通してから、光樹はようやく口を開いた。
「長々と読んでしまって、申し訳ありません。一部いただけますでしょうか」
「いえ、納得して買ってもらえるのなら、作り手としても嬉しい限りです。五百円になります」
「と、失礼」
 そこらを歩いている大半の人間と異なり、光樹としては先程まで何かを買うつもりがなかったので、財布をすぐに取り出す用意ができていなかった。しかしそれを、相手はにこにことして眺めている。嬉しい限り、と言うのはどうやら本心のようだ。
「お好きなんですか、『魔聖春秋』。迷わず手に取るだなんて」
 むしろその間ができたのを好機とばかりに話しかける。良くこの仏頂面男に気軽に話しかける気になるものだ、と、裕也は一瞬余計なことを考えた。
 しかしともかく、光樹が没入していた理由には得心が行った。それは、彼自身の作品を素材にして描かれた漫画なのである。そして美月がここを勧めた理由、そしてそんな彼女を担当編集者が賞賛した理由も分かる。彼女はわざわざ彼のために、膨大なサークルの中から数少ない「里村」作品の本を置いているサークルを見つけていたのだ。
「ええ、まあ」
 さすがの彼が、かすかにではあるが苦笑する。好きも何も、自分で書いた本である。まあ、理屈で考えれば好きで書いているに決まっているが、それはともかくだ。あるいは本に著者近影を載せていないおかげでこんな結果になってしまったと、それがおかしかったのかもしれない。
「私もなんですよ。同じ大学の人が書いているって言うから気軽に読み始めたんですけれど、これがもうはまっちゃってはまっちゃって」
「あ、何? うちの大学の人?」
 裕也が思わず口を開いてしまう。一瞬光樹は「余計なことを」と顔に書いたが、しかしすぐさまそ知らぬふりをした。
「え、もしかして」
「そうそう。俺たちも例の里村先生と同窓って訳だ」
 裕也は裕也で、調子に乗りながら知らないふりをする。相手は大きくうなずいた。
「そうなんですか! あ、失礼ですけれど、何年生ですか」
「三年だけど。あ、もしかして、大変失礼ながら、先輩だったりしちゃいます?」
 大学というのは、何となく年齢が曖昧な社会である。高校までは留年などがそれほど多くないのに対し、浪人が普通にいるし、また一度他の大学に行ったり社会人をやってから大学に入る人もいたりして、うかつに学年から年齢を考えると大きな間違いを犯すこともある。それに「同じ大学で暇な人間」といっても、特にこの夏の時期だと既に就職活動を無難に終えて後は学生最後の休みを楽しむばかりの四年生から、とりあえず過ごし方が分かっていない一年生まで、様々だ。
 そしてまた、外見的な年齢も実に微妙なところがある。最も分かりやすい例を挙げるなら、やや小柄で童顔の傾向もあり、さらに元気一杯な菱乃木美月と、終始落ち着いて表情に乏しい里中光樹を「一年生と彼女を受け持っている助教授です」などと紹介をしても、不思議に思われる可能性は低いだろう。浮世離れしているせいか若々しい教員はいくらでもいるし、逆に世間の流行に無頓着な学生も数え上げたらきりがない。
「いえいえ、後輩ですよ。二年生ですから」
 しかし幸い、相手は裕也や光樹にとって後輩だった。複数年浪人をしていて実は年齢的上二人よりも上、ということもありえるのだが、しかし例えば戸籍上の年齢が逆であったとしても、在籍年数が上のものを先輩として扱うのが、彼らの通う大学では暗黙のルールとなっている。そうでもしておかないと一々年齢を確かめなければならなくなり、面倒なことこの上ない。在籍年数なら、学生証に記された数字から簡単に読み取ることができるのだ。
 これは先輩扱いを受ける人間たちだけでなく、実は年齢がそれなりに高いもののそれを隠しておきたい、そんな事情のある学生にとって有利な慣習なのである。
「はは、それは良かった。先輩相手に失礼な口を聞いていたら、どうしようかと思ったところだよ」
「お気になさらず。学年はどうあれ、他ならぬここで出会った以上、仲間じゃないですか」
 そう言われると、裕也としては少し困る。何がどう仲間なのか、そもそもその時点で良く分からない。
 ただ、そこは光樹がうまく助けてくれた。無論彼としてはそのつもりなどなかったのかもしれないが、しかし結果は結果である。
「そうですね。所で同じ大学の人間であるとは、どこでお聞きになったのですか」
「ええと、どこだったかなあ…。確か、友達からだったと思うんですけれど。でも、その理由付けとかは、忘れちゃいました」
「ほう。まあ、噂などというものは、そんなものでしょうね」
 光樹がごく面白くもない結論でまとめる。それで何事もなければ話は終わったのだろうが、しかし相手は肩を落としてしまった。
「そうですよね。大体、同じ大学であんなに凄い人がいるって、噂に過ぎないんですよ」
 彼女がうつむいているのをいいことに、裕也はにやにや笑いを光樹に向ける。光樹は裕也をじろりとにらみつけてから、応じた。
「ただ、我々はもう少し詳しい話を聞いています。ですから私は恐らく、彼は我々と同じ学部の人間ではないかと思うのですが」
 とっさにうまい言い訳を考える男である。それを「さすがは小説家」と褒めればよいのかどうか、裕也には良く分からない。
「学部はどちらですか」
「法学部です」
 話の流れ上、これは当然のやり取りではある。しかし二人の後輩は大きくうなずいた。
「なるほど。それならこっちには詳しい話が伝わってこないはずです。それに里村先生の文章を読んでいると、どこか論文を読んでいるように感じることがありますよね。法学部の人なら、それも納得がいきます」
 一体、法学部の人間って他の学部の人からどう思われているのだろう、と、不安にならないではない裕也だった。
 同じ大学でも、学部によってカラーは異なる。学部ごとにキャンパスの異なるような大学はもちろん、裕也たちのようにほとんどの学部が集められている大学でも、そのことに変わりはない。
 何しろカリキュラムが違う。そして学生である以上はそれにある程度拘束されるため、自然と行動を共にする人間も似通ってくるのだ。その枠を超えた所にいわゆるサークルがあるのだが、しかしそれも万能ではない。ノートの貸し借りなど、大学生としての人間的な付き合いが深いだけに行われることには、どうしても学部学科が関係してくる。
 そしてその中で、法学部はやはり真面目で論理的な人間が多いと思われているようだった。それは確かに、光樹などはその典型かもしれないが、だからといってそれと一緒にされては困るし、かといってそのカテゴリーから全く除外されるのもどうかと…と、混乱せずにはいられない裕也だった。
「法学部にも色々な人間がいます」
 ここで聞きようによってはものすごく悪意のある台詞を、光樹が言い放つ。裕也としては心底反論したかったのだが、はっきり言えばぐうの音も出なかった。そしてそれに構わず、彼は続ける。
「同じ学部でも、学科が違えばカリキュラムはほとんど異なります。それにいうまでもないことかもしれませんが、人間の個性はそれに縛られるものではありません」
 少なくとも光樹や裕也の通っている学部はそうである。学科が異なれば共通する科目は多くないし、担当教授まで同じ科目となるとごく少ない例外に限られる。そして教授に大きな裁量が与えられている大学教育の場合、担当教授が異なるということは、科目自体が異なると考えて差し支えない場合が多いのだ。
「あー」
 極めて無個性で、そしてそれだけでは知性が感じられるとも言えない応じ方をしてから、彼女はさらに口を開いた。
「何だか、先輩って、里村先生の作品に凄く影響されていませんか。考えの進め方が、本当に良く似ています。可能性を絞っていきながら、実はその過程で裏をかく伏線を張っている、みたいな」
 ぎくっ! そんな音が聞こえるようだ。似ているも何も、本人なのだから同様に思えて当然である。
 鋭いのだか鈍いのだか、この後輩は文章と目の前の相手の言葉の類似性に感づいていながら、しかしその二つの本質的な同質性には気がついていないようだった。確かにまあ、裕也としても例えば光樹本人が自分はプロの小説家であるなどと主張しただけなら頭から信用しなかっただろうから、そう察することができなかったとしても責められはしないのだが。
「原則を作っておきながら例外の余地を残しておく、これは法律に関する文章のルールのようなものですから。法学の素養のある人間にとっては、言ってみれば癖のようなものです」
「なるほど。さすがにお詳しいですね。所で里村作品はいつごろお知りになりましたか」
「初版の第一刷から読んではいますが」
 作者である以上初版以前に原稿から目を通しているのだが、この際それはひとまず置くべきであろう。初版の第一刷というのは、発売日に書店に並ぶ本のことである。連載を単行本化したのでなければ、それが読者にとって最も早く手に入る作品となる。
 なお、「刷」とはその内容で印刷された回数のことである。初版第一刷が好評で在庫が処理できる見通しが立てば第二刷が、それも売り切れるようなら第三刷…という形で印刷されるのだ。ベストセラーともなれば、これが何十という数になることもある。
 一方「版」とは、本の内容が変えられた回数を表す。出版された後に誤字脱字が発見されたり、作者が内容を修正したいと考えた場合で、本を作り直してでも利益が出ると出版社が判断した場合には、版が変えられることになる。娯楽作品の場合、余程重大な点でない限り目をつぶって版を変えないものだが、法律、経済など最新情報を逐次盛り込んでいかなければものの役に立たない実用的な書物の場合には、版を変えざるを得ない。
 これらの情報は基本的に巻末に記載されているので、光樹などは本を買う際目を通して参考にしている。娯楽作品なら、さほど有名でなくとも刷数が多ければそれだけ売れている本であると判断できる。一方法律学系なら版の数が多いほど、著者と出版社がまめに修正を加え、またその必要があるほど読まれている本ということになる。もっともこの場合、著者と出版社双方が粗忽で一々手直しをせざるを得ない、という可能性には気をつけなければならないが。
 逆に言えば初版第一刷を買うというのは、多少の冒険になる。何しろ著者や出版社も、それがどこまで売れるのか完全には読めないからだ。それができれば苦労はない、というものである。気に入っている作家の作品ならある程度信用できるが、それにもやはり当たり外れが存在することは避けられない。
 そして初版第一刷であるにも関わらず初版発行からある程度年数がたっている、というものは要注意である。要するに在庫が有り余っている、との可能性を考えたほうが良いからだ。絶版寸前、あるいは下手をすると現に絶版になっている本かもしれない。無論売れる本イコール良い本ではないが、売れない本と分かっていて注意を怠るのは愚かというものである。
「わあ、お目が高いですねえ。私なんてこの前知ったばかりなものですから、しっかり読み込んでいないものがまだあるんです。それに同人誌もできればもっと作りたかったんですけど、これ一冊が精一杯で」
「しかしここまで読み込むとなると、相当時間がかかるでしょう。私の感じ方とは少し違う点もあったのですが、しかしそれでも解釈としてうなずけるだけの説得力があります」
 作者を別の意見で納得させるのだから、相当なものである。まして相手はあの里中光樹だ。裕也としては教えたくてうずうずしていたが、しかし後でどうなるか予測がつかないので、黙っていた。
「そうですねえ。同人誌を作るまでになると、私の場合最低五回は読まないと。まあ、中には流し読みしただけの作品をネタにしちゃう同人作家もいますけど、好きにはなれないですね。いくら同人誌だからって、底が浅いのは見透かせちゃいますよ、まったく」
「なるほど。本を作る以上は相当な注意が必要なものですね」
 ましてプロならなおさら、だ。光樹は自分にそう言い聞かせているようだった。
「さて、申し訳ないのですが、待ち合わせがありますし他に行きたいサークルもありますので、そろそろ失礼します」
「ああ、こちらこそ。長々とお引止めしてしまって、申し訳ありませんでした。あ、でも、最後に一つだけ。これから行かれるサークルも、やはり里村作品系ですか?」
「恐らくそうでしょう。ただ、私は友人が調べてくれた地図を持っているだけなので、行ってみないことには分かりませんが」
「ほほう。見せていただいてよろしいですか」
「どうぞ」
 まばらにつけられた印を眺めて、彼女は少し難しい顔をした。
「うーん、やっぱり見ている所は完全に同じですね。掘り出し物があるかと思ったのですが」
「そうですか。それにしても、どうやってこれだけの中から目当てのものを調べ上げているのです?」
 この男にも根っから知らないことはあるものである。相手は気軽に応じた。
「やっぱり今はネットですね。検索エンジンが良くなっていますし、同人作家もそれを意識してホームページを作りますから。それに有名作家や作品だとヒットする情報が多すぎちゃってどうにもなりませんが、里村作品ならそんなに苦労しなくてもちょうどいい数になります」
 聞かなきゃ良かった。と、光樹が思ったかどうか、裕也には良く分からない。少なくとも表面上の彼は、相変わらずだった。
「なるほど」
 引き止められて不快なのかもしれない。そう思ったのか、彼女は慌ててまくし立てた。
「あ、それから、最後にもう一つだけ。って、さっきもそんなこといいましたけど、とにかく。この本作って、本当に良かったです。もっと売れてる作家をネタにしていれば自分の本だって良く売れるのにって自分でも思ってたんですけど、でも、でも一人でも分かってくれる人がいただけで、心底満足です」
 やや目を見開いていた彼は、そして、笑った。
「私も、この本がに出会えて、心底嬉しいですよ。今度の機会があるなら、必ず買いにうかがいます。それでは」
 すっと歩き出す。彼女が自分を見ていないのを承知の上で、裕也は一応頭を下げてからその後についていった。
「次の新刊も、必ず里村作品にしますからね! 奥付にURLがかいてありますから、次がどのイベントになるかはそれで分かります」
 背中からかけられる声に、里中は振り返らない。ただ、それでも見えるように、大きくうなずいていた。
 しばらく歩いてから、裕也がくすくすと笑う。
「照れてるじゃないか。柄にもなく」
「少なくとも『柄にない』ということはないな。私は元々、例えば美月のように自分の感情をあけすけに表現するのが不得手だ」
 その淡々とした声の調子に変化はない。ただ、その目は、少しだけ必要よりも遠くを見ているようだった。
「でもさっきは、笑えてたじゃん」
 いやに明るい声を出してから、裕也はさらに笑った。
「なんて、美月が見ていたら笑われるぞ」
「それはそうだろうな。しかしそれよりも、あまり時間を浪費していると彼女と合流できなくなる。そのほうが余程面倒だ。さっさと行くか、それとも君だけ先に待ち合わせ場所へ行っているか」
 彼女に光樹と一緒にいてくれと頼まれておいて、それを放棄したとすれば、それはそれで面倒なことになる気がする。裕也は肩をすくめた。
「はいはい、謹んでお供しますとも」
 結局裕也は、広い会場の中でまばらに存在する「里村作品本」を扱ったサークルを回るのにつきあうことになり、けっこうな距離を歩かされたのだった。
 そして指定時刻調度に、美月は待ち合わせ場所に現れた。もっとも裕也と光樹がそこにたどりついたのもその三十秒前なので、人と待ち合わせをする場合には最低十分前にそこにいるのがマナーだなどと偉そうなことを言う義理はかけらもない。
「おつかれー!」
「いや、マジで疲れたって」
 社交辞令に対して、素で答えてしまう裕也だった。
 小説サークルのあたりを回っているうちはまだ良かったのだが、中には「男膜」の向こう側でぽつんと里村作品本を扱っているサークルもあったりして、突破するのにどうしても難儀せざるを得なかった。そしてまたこの暑さである。移動しているだけでも、あっという間に体力を消耗してしまう。
 しかし、である。どういうわけか美月にも光樹にも、疲れた様子がなかった。
 美月はあいも変わらずの元気いっぱい、華奢なその体のどこにそんなパワーがあるのだか、それが不思議に思えてならない。そして光樹は涼しい顔である。
 今回彼女は単独で移動したはずだし、裕也もさすがに光樹まではかばってやらなかった。しかしなぜか、裕也が明らかにもっとも疲れているのだった。
 この三人の中で最も体力があるのは、当然自分だ。裕也はそう思っている。それは無論今でも体育会系の第一線で頑張っているような同級生とは比較にならないが、これでも高校の頃まではけっこう真面目に体を鍛えていたものだ。機敏な所もあるが黙々と体力づくりに励むという柄では決してない、まして女性である美月や、誰がどう見ても文系一直線の光樹には負けるはずがない。
 しかしその確信が、かなりぐらついていた。いくらなんでもぐうたらしすぎてしまったのだろうか、それとも酒を控えたほうが良いのか。そんなことまでふと真剣に考えてしまう。
 一瞬自分に対して、「この場に対する情熱が全く違うのだから仕方がない」と言い訳をしようともしたのだが、それは止めることにした。要するに根性で負けたのだ、という結論に達することになる。それはそれで納得がいかない。
「やーねー。大の男がこのくらいで何よ。しっかりしなさい!」
 少なくともある程度冗談になる範囲で、美月はこういう逆差別的な発言を平気でする。分かっていてやっているのだから始末が悪い。何しろ「男だから」とか、「男として」などということを全く気にしない光樹などに対しては、言った所で反応がないのでそんな台詞を絶対にはいたりはしないのだから。
「へえへえ。しっかりしますとも」
 とりあえず言葉の上では軽く流しておきながら、裕也は背筋を伸ばす。自分はそんな人間なのだ、と思っている裕也であった。美月はそれに笑顔でうなずいてから、光樹に話しかける。
「光樹くんは全然平気でしょ、ジャケット着てるけど」
「そうだな。楽しめたおかげだ、礼を言う」
 そう言えばこの男、上着を羽織っていたのだ。それさえも感じさせないほどの平然ぶりである。しかしその割に、内心を素直に表現していた。そこで美月がウィンクをして見せる。
「どういたしまして。来たかいあったでしょ」
「そうだな」
「じゃ、とりあえず移動しましょっか。まあ、どこへ行くかは例によって見てからのお楽しみ、だけど」
 光樹は普段より少し大きくうなずいた。
「分かった」
「あとは、水分の補給だな。二人とも夢中でやってるから気がついてもいないだろうが、けっこう汗をかいているはずだぞ」
 というより、とりあえず自分の喉が渇いているのだが。しかしともかくも、美月は軽く手を叩いた。
「さっすが、裕也は気が利くねえ。一応飲み物は持ってきてるけど、まだ売り切れてないなら冷たいものでも買おうか。帰り道に自販機か売店があるはずだから」
「ビール希望!」
 裕也が勢いよく手を挙げる。
 暑くて汗をかいたとなれば、他に選択肢などありえない。ジョッキも凍る寸前まで冷やして一気に飲むのが理想だが、邪道ながら缶を冷凍庫に入れてしまってぎりぎりまで冷やし、栓をあけるなり口をつけるというのもありだ。
 なお後者の場合、完全に凍らせてしまうと缶が破裂するので、真似をしてはいけない。缶にもやってはならないと、きちんと注意書きがされている。酒飲みの、少々危険な楽しみなのだ。
「このアル中が」
 と、美月が目で言った。日本には「思想の自由」という高尚なものがあるので、その程度は許される。ただし口に出してしまうのは、差別的な表現であるのでよろしくない。つまり「言論の自由」は「思想の自由」より許される領域が狭いのだ。
 一応、裕也は肩をすくめて謝っておく。
「いや冗談だってば」
「会場内は禁酒禁煙。それにアルコールとなるとちょっと足を伸ばさなきゃいけないもん」
 美月はすげなかったが、しかしそこでむしろ裕也としては驚いてしまった。正直な話できれば欲しいとは言え、そもそもその辺に売っていることを期待していなかったのだ。
「伸ばせばあるのかよ。禁酒だって、自分で今言ったばかりじゃないか」
「入場するとき見なかった? 上の通路にはレストランがあるから、そのついでにビールくらいは置いてあるのよ。まあ、イベント主催者からは飲んじゃ駄目っていう話になってるけど、元々あるテナントのやることまで規制はできないし。でもダメだからね。大体アルコールって、汗をかくからむしろ脱水作用があるんでしょ。水分補給だって言い出したの裕也じゃない」
 その通り。いくら冷たいビールでも、アルコールが体内に摂取されればどうしても体温が上がる。喉が渇いたからといって、その後涼しい所でゆっくり休める保証がないのならアルコールを飲むべきではない。特にビールには利尿作用もあるので、その面でも水分を奪う。要するにこの場合は特に避けるべきものの一つだ。
「だから冗談だっての。朝は人人人に気をとられていて気がつかなかったんだよ。ともかく、こういうときはどうしても水分の他に糖分が欲しくなるけど、実は水分以外に真っ先に必要なのは塩分やなんかなんだな、これが」
 指摘がかなり厳しかったので、裕也は能書きでごまかすことにした。美月は疑わしげに、首をかしげる。
「んー、そう言えば、おでん缶がここでも売っていたような気が」
「何じゃそりゃ」
 裕也はとりあえず、ツナ缶同様の平たい缶におでんが入っているものを想像してしまった。正直な感想として、あまりおいしそうではない。
 ちなみに、意外といい味をしているのは焼鳥の缶詰である。酒飲みでないと知らない人が少なくないのだが、コンビニにでも売っている実はメジャーな商品だ。小さめの缶の中に、甘辛いたれに漬かった鶏肉が入っている。念のため断っておけば、串に刺さってはいない。
 その他、変わった所では鮭の中骨缶詰というものもある。内容は文字通り、そのまま食べられる程度に柔らかくなるまで煮てある鮭の骨が入っている。裕也としては気に入っているのだが、好みが別れるのでストレートには勧めがたい。
「ニュースで見たことがあるな。飲料用と同じような大きさの缶の中に、そのまま串に刺さったおでんが入っている。確か秋葉原で売っているという話だったが」
 光樹が漠然と、手振りで形を示して見せた。裕也がますます、不審そうな顔になる。
「うまいのか、それ」
 話が水分補給からそれている、ということは脇においている。美月は軽くうなずいた。
「意外といけるのよ、これが。つゆがしっかりしみてるからね。好みにもよるけどコンビニおでんよりはいいって人もいるし」
「ほー。で、そんな滅多にない代物が、どうしてここには置いてあるかもしれないんだ?」
「客層が同じだからじゃない? 昔は秋葉原って言ったら何より電気街だったし、今でもそう考えて間違いじゃないんだけど、流行りのITでパソコン関連のお店が増えて、それとかなり客層が似通っている同人誌やグッズのお店がどんどん進出してきたって訳よ。まあ、昔は無線マニアの町だったものが、要するにその他マニアの町にもなっただけだって考え方もあるけど」
「ふうん」
 今度機会があったら買ってみようか、そんなふうにも思える裕也だった。ただし、今ではない。断じて。この激烈に暑い中、何が悲しくておでんを食べなければならないのだろうか。やるとすればそれは、自殺行為というものである。それは美月も同じだったようで、すぐに話を流して案内をする。
「あ、自販機コーナーはこっちこっち」
「はいはい。お勧めはやっぱりスポーツドリンクかな。あれ実は塩分その他必要な成分が入っているし。こういう暑い時でがぶ飲みがしたいのなら、ちょっと薄めにしておくといいんだ」
 あの種の飲料の場合大概発汗時の水分補給に理想的、という触れ込みで、それもあながち間違いではないらしい。ただ、それだけで水分を補給しようとすると、それなりにカロリーもあるので腹にたまってしまうというのが裕也としての正直な感想だ。運動がそれで終わり、という状況であればそれでも問題はないが、これからもうひと頑張りを考えているときには少し辛い。
 一時期薄味の商品もあって裕也としては気にいっていたのだが、やはり売れなかったらしくて自然消滅してしまった。元来スポーツドリンクは味を重視する通常の清涼飲料水よりやや糖分を落として作られているのだが、それよりさらに薄味だったので仕方がない。
 そこで必要があれば、粉末で売られているものを使ってやや水を多めにしておくのである。もっとも最近はその必要自体全くなくて、自分で作る飲み物といえば麦茶程度である。
「…失礼」
 そんな時、話に参加していなかった光樹が不意につぶやくように言う。どうやらそこにいた人物にけつまずいたようだった。しかし口ではそういっているものの、どうも本気で謝る気はないように見える。相手は通路の邪魔な所に座り込んでおり、そもそもそんなことをしているお前が悪いとでも言いたげだ。まあ、この男の場合不機嫌そうに見えて実はそうでもないこともあるようなので、微妙だが。
 もしそれが何か具合でも悪くて座り込んでいるような人だったら、裕也としては納得の行かない対応だっただろう。本人に代わって抗議したかもしれない。ただ、相手の様子は明らかにそうではなかった。座り込んで何をしていたのかといえば、買った同人誌を読んでいるのだった。それならば誤って蹴られても文句は言えないのではないか、と、裕也としても思ってしまう。
 相手は口の中で何かもごもごといってから、結局光樹から目をそらした。少なくとも逆に自分から、通行の邪魔になっていたことを誤るつもりはないらしい。この態度にはむしろ裕也の方がむっと来てしまったのだが、当の光樹はまるでそれが無機的な障害物ででもあったかのように、つまりどうでも良さそうな風情でその場を通り過ぎた。
「いるのよねえ、ああいうのが。本を買ったならさっさと家に帰ってゆっくり読みなさいっての。ただでさえ会場混んでるってのに、邪魔だったらありゃしない。禁止事項にもなってるんだから」
 そして自動販売機コーナーにたどりつくなり、美月が苛立たしげに口を開く。そしてその勢いで、彼女は力一杯ボタンを押してミルクティーを買っていた。一方光樹が買ったのは、見慣れない銘柄の缶コーヒーである。
 二人とも、裕也のアドバイスを聞く気はかけらもないらしい。美月は紅茶党で、特に甘いミルクティーを好む。一方光樹は缶コーヒーに何やら思い入れでもあるらしく、新商品が出ると必ず買っているようだ。つまり、二人とも純粋に趣味で決めている。ちょっと悲しくなった裕也は、自分だけスポーツドリンクを買ってしまった。
『横たわるのは犬と豚』か。まあ確かに、羞恥心が犬並みであれば平気でべたべたとその辺へ座り込むだろうし、特に豚のような体形だと立ち続けるのは疲れるだろうがな」
 早速栓を開けながら、光樹はとてつもなく毒々しいせりふを言い放つ。
 まあ確かに、ある程度他人の目に関する意識があれば、極度に疲労でもしていない限り往来へ座り込んだりはしないものだ。例えば高校生の集団などは外部に対する意識がないから、電車内へも座り込んだりする。究極的には、社会と完全に隔絶しているホームレスならどこへでも座り込んだり寝転がったりするという訳である。
「おー、今回は激しいねえ、光樹くん」
 美月があおる。そもそも「横たわるのは犬と豚」などと言い出したのは彼女である。この開場へ入る直前のことだ。ちなみに、それは彼女おきにいりのゲームの一つからの引用である。光樹はそれを覚えていて、再度引用したのだった。
「靴の踵がぬるぬるとした『』にめり込んだもので、つい、な」
 対する光樹の言葉は、むしろ弱々しくさえあった。そう言えば確かに、あの人物は体脂肪率が五十を超えているのではないかと思われる、そんな体形だった。汗もかきやすいだろう。一方の光樹自身は見るからにやせぎすで、むしろそれを心配されるような体形のはずだ。
 それはさておき要するに、里中光樹としてはルールを破っている上に自分に不快感を与えた、そんな人間に対して情け容赦をする必要を全く見出せてはいないようだった。折角男膜を抜けたと思ったらそれでは、彼ならずとも頭にくることだろう。
「どうせならもっと力一杯蹴り飛ばしてやりゃあ良かったんじゃない?」
「ご免こうむる。あれ以上接触したくない」
 ふざけてけしかける美月に対して、光樹はごくごく真顔で答えるのだった。自分でも珍しいと思ったのだが、裕也が賛同して大きくうなずく。
「それより、早くその『見てのお楽しみ』とやらの場所へ行こうぜ」
「それもそうね。それじゃ…」
 早速、ということで歩き出した美月であったが、程なくそれを止めざるを得なくなった。彼女の携帯電話が鳴り出したのである。普通の場所でならば歩きながらでも電話くらいできるのだが、通路の混雑を考えると脇へどいてから立ち止まったほうが無難だ。
「ん、ケン先生の携帯、ってことは、リサかな? はーい、美月でーす」
 最近の携帯電話の中には国外でも使えるという機種もあるが、リサはそのようなものを持ってはいないらしい。一方ケンは、国内在住者のようである。美月の携帯電話には、彼の電話番号が登録されていたのだろう。
 美月の読みどおり、かけてきたのはリサだったらしい。軽く話をして、そしてすぐに通話は終わってしまった。
「あ、ごめん。なんか、すぐ戻って来いってさ」
「またトラブルか?」
「さあ。そんな口調じゃなかったけど。でもごめんね、ほんとに」
「いいからいいから。さっさといくぞ」
「うん」
 美月のスペースの場所なら裕也の頭にも入っている。そこで例によって彼を先頭にして、スタッフに注意されない範囲の早足で人波を突破することとなった。


前へ 小説の棚へ 続きへ