正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

20 一切の迷惑行為は禁止です

注意事項を確認する


 何とか自分のスペースに戻ってきた美月がまず目にしたのは、大きく手を振っているリサだった。その隣で、ケンが接客を行っている。いる必要がないと判断したのか、アレクの姿はなかった。
「どうしたの?」
「じゃーん、見てよこの残り部数!」
 リサが机の下から本の入っている箱を引っ張り出して、ひょいと上に乗せる。美月よりは大柄であるとはいえ、女性の腕力を使っているにしては、ずいぶんと軽々とした様子だった。
「まさか?」
 がばりと美月がその中を覗き込む。そこに入れられているのは、朝来た際に片付けた大量のチラシの類だけだった。
「ってことは、つまり…」
 机の上にはまだ何部か彼女の本が置かれている。そして、箱の中とそこ以外に置き場所がないことは、スペースの主である美月自身が誰よりも承知していた。
「残部僅少、完売までもう一歩! その瞬間に自分のところにいないなんて、もったいないじゃない」
 リサがガッツポーズを作る。なお、ガッツポーズというのは彼女の国の言葉にはない。有名な日本人ボクサーがそういうことをしたので、日本国内でのみそう呼ばれているだけ、つまりいわゆる和製英語である。
 そして美月は、しばらく固まっていた。ただ呆然と、残り少なくなった自分の本を眺めやっている。動きがあったのは、心配になったらしいリサがその顔を覗き込もうとした、その瞬間である。
「うっ、がああああああああっ! もっと、もっと多く刷っていればっ!」
「きゃあ!」
 美月が叫び、リサは半ばひっくり返るようにして後ろにおいていた椅子に座り込んでしまう。接客を終えたケンがたしなめた。
「会場内で大声を出すノハ良くありマセン」
「あうっ、済みません」
 さっきの勢いはどこへやら、急に小さくなる。裕也は肩をすくめた。
「もっとって、実際は何部印刷してたんだよ」
「うー…」
 落ち込んでしまったらしく、即答してくれない。仕方なく、リサが代わりに答えた。
「五十って所ね」
 残部と自分たちが売った部数を考え合わせれば、はじめにいくつあったかは簡単に分かる。すくなくともその数が百を超えないうちは、特にそうだ。
「あちゃあ」
 五百部作って後悔したリサの所の、さらに十分の一である。元々俺よりは金持ちなんだから贅沢言うな、などとは言えない性格をしているのが、長見裕也という人間である。結局それ以上は、かける言葉がない。
 そしてそれは本質的に同じ立場であるリサ、そしてそのサークルの人間であるケンも同様だった。しかしそれでもなお、声をかける人間がいるのが、菱乃木美月という人間の人徳なのかもしれない。
「せっかく自分の表現したものをそれなりの数の人間の目に触れさせる機会があったというのに、それを逃してしまった。売り切れとは、つまりそういうことだ」
 驚いたことに、慰めるようなことを言い出したのは光樹だった。美月は大きく、二度もうなずいている。
「…と、いうことにしておこう」
 そして彼は、なぜか目をそらせて締めくくるのだった。言いたいことがあるなら面と向かって、それが正しい表現かどうかは微妙な所だが問答無用で言い放つほかならぬこの男が、である。他に意図があるとしか思えない。
「どういう意味よっ!」
 美月がいきり立つが、しかし誰も取り合いはしなかった。
「別に他意はない」
 いけしゃあしゃあとそれだけ言う光樹に対して、特に異論を唱えるものもない。さすがの美月も最早、反撃の手立てを保有してはいなかった。
「うーっ…って、あ、はい、いらっしゃいませ! どうぞお手にとってご覧下さい!
 しばらく毛を逆立てて光樹を威嚇していた美月であったが、客が来るなり営業スマイルを見せる。その客ははっきり言って引いていたが、しかしそれだけにいきなり逃げ出すこともできず、恐る恐る美月の本を手に取っていた。結局彼は、おずおずとその本を買って立ち去ることになる。
「んむう。ミッキーの本はしっかり読めば中々なんだけどね。ただちょっと、線が繊細すぎるから、インパクトとしてどうしても弱いのよ。だからこう、やっぱり派手なコスプレとか、ディスプレイや呼び込みとか、必要なんじゃないかな」
 リサの言葉には、少なくともサークルの主である美月の予想を上回る売り上げをたたき出しただけに、少なくとも総論として説得力がある。しかし少なくとも今の客の場合は違うだろう、と、内心考えずにはいられない裕也だった。
 思わず光樹を見やってしまうが、彼は相変わらず視線をあらぬ方へ向けたままだ。内心はともかく、少なくともこれ以上立ち入る気がない暗黙あるいは明示の意思表示であることは間違いない。
「んー、これじゃ弱いかな、やっぱり」
「ミッキーの性格を知ってりゃあ、滅茶苦茶面白いのよ。実は細かいところまでこだわってるわけだし。でも、ぱっと見てそこそこのコスプレと見分けがつくとなると、それはやっぱりあたしたちみたいに現実離れしたものの方が強いわよ」
「確かにねえ」
 確かに、美月が用意した服は良く作ってある。現に着ていて全く違和感がない。市販の服に手を加えたものか、あるいは完全に自作なのか、美術の次に家庭科が苦手だった裕也としては良く分からない。
 しかしともかく、少なくとも素人のセンスをごまかす程度としては十分すぎるほどだ、と考えてよいのだろう。美月自身が着ているセーラーカラーのブラウスやプリーツスカート、そして光樹が着ているジャケットやパンツも、見た感じで不自然さを感じさせることは全くない。
 一方リサとケンが着ているものを近くでよくよく眺めてみれば、確かにどこか違和感がある。舞台衣装めいた、などと表現してしまうのは、現にそれを手がけている人間に対して失礼かもしれない。しかしともかく、つくりとしては派手だが、その分だけの作り物めいた、つまり実用に耐えない印象は否めない。
 それでも、遠目からでどちらの見栄えがするかといえば、それはやはりリサ達の衣装の方だろう。そう言えば、まずアレクが現れたときの印象は、相当強いものだった。
 逆に裕也自身や光樹の服装は、「これを着ろ」と言われて現に着てみても、取り立てて違和感のないものだった。本人たちの服装の趣味とは微妙に違うが、世間一般の基準からすれば決して逸脱したものではない。その後光樹は髪型を変えられ、さらに眼鏡も奇妙なものに変えられたが、裏を返して考えればあくまでその程度、である。目立つかどうかで言えば、決して極度に目立つものではない。
 その点、リサやケン、そしてアレクの衣装は遠目での「見栄え」に関して申し分がない。間近でよくよく見てみればあらもあるだろうが、宣伝効果の面を考えれば、「それはそれ」で片付けられる程度の些細な要素に過ぎない。
 その宣伝効果に、恐らくは支えられたのであろう。程なく、美月の用意した全部が売り切れた。
「完売御礼!」
 最後の一冊を手にした客が立ち去ってから、美月が両手で机を叩いてそう言い放つ。多少難しい言い回しであったためか、それにまず反応したのはケンだった。決して熱烈ではない、しかし無感動な儀礼でもない、暖かな様子で手を叩く。やがてリサ、裕也、そして光樹がそれに合わせて手を叩くのだった。
「おめでとー!」
 拍手がひと段落着くなり、今度はリサが勢い良く美月に抱きつく。そもそも日本人の基準をあえて適用すれば大柄な彼女が、日本人の中でもやや小柄な美月に対してそうすれば、あるいはやや危険なのではないかという気がしないでもない。そして案の定、リサが抱きついた結果として美月の立ち位置はかなり動いた。幸い、負傷はしていないようだったが。
「ありがとー!」
 美月の細い腕が、肉付きの良いリサの体にぎゅうぎゅうと食い込む。よく暑くないものだ、と、裕也はとりあえずそんなことを考えていた。しかしそれはむしろ当事者である二人を心配するような心境で、決して不快感から誘われた感慨ではない。
「ケン先生、ありがとうございます。それからもちろん、裕也も光樹くんも!」
 やがてリサの手を離れるなり、美月は居合わせた人間の手を叩こうとした。
 ケンは、恐らく自分と彼女の身長とがかなり違うことを承知で、自分の肩の辺りに手を上げていた。美月は喜んで、手を伸ばしてそれを叩く。
 それでつい、裕也としてはさらに自分の頭の辺りまで上げてしまうのだった。それでも彼女はひるまず、むしろ嬉々として飛び上がって手を叩く。
 そして最終的に、光樹はほぼ真上に手を伸ばしていた。それはまあ、確かにこの男性三人の中で最も身長が低い人間をあげるとすれば、それは間違いなく彼だ。しかしそもそも、彼以外の二人は日本人の平均から考えればずいぶんと背が高いのである。光樹自身、同年代の男性の平均からすれば、やや高い身長を有している。
 それでも、美月はひるまなかった。身体能力測定の垂直とびの要領で、ひざのばねを使って勢いよく飛び上がる。そして彼女は、見事に高く掲げられた光樹の手を叩いて見せた。さらに、実に美しい、音を感じさせない着地を疲労する。
 しかし一方の光樹は、少々無様だった。彼の予測からすれば勢い余っていたらしく、手を叩かれた直後にぐらりと態勢を崩して一歩後退する。勢いとしてはさらにそれ以上下がってしまいそうな様子だったので、裕也は半ば反射的に、そして仕方なくその背中に手を伸ばした。
 恐らく通常の平坦な場所であれば、放っておいても彼は態勢を立て直すであろう。そこまで裕也は見て取っていたが、しかしここは場所が場所だ。狭い中でサークルが密集している。意図しない動作は、すぐさま隣接する他のサークルに影響を及ぼすことになる。そこまで計算した上での、瞬間的な動作だった。いや、正確に言えば、そう行動してしまった後で、思考がなぜそうしたのかを感情に対して理由づける、裕也自身の感覚としては、そんなものである。
「済まない」
「いや」
 裕也が簡単に応じたのは、完全に別のことに気を取られていたせいだった。危険を察知した彼の手が反射的に伸びる、そのとき実は、また別の手が裕也の視界に入っていたのだ。
 そもそも美月が光樹の手を力一杯叩いた時点で、彼の平衡が崩れるとの危険を察知している。そして現に事態が発生した瞬間、その手は既に光樹の体を支えるのに最も適切な位置へ置かれていた。
 しかし、である。裕也の手が伸びる前には、もう一人の手は引っ込んでいる。なぜなら裕也がそうしても十分に間に合う、彼はそう察していたのだ。そうでなければ説明のつかない瞬間に、その動作は行われている。
 美月やリサの位置からすれば、光樹の体が死角となって、そもそもそれが見えなかったのかもしれない。しかし、彼女たちにはそれを悟らせないほど彼の動作が速かったのだ、と、裕也は直感していた。
 ケンだ。先読み、それに基づく行動、そして事態の予想外の変化への対応、その全てが、裕也の感覚よりはるかに速い。
 一瞬、背筋が凍る思いがした。この目の前にいる男、実はとてつもなく強いのではないか。そんな思考が後から、ようやくついてくる。そもそもそんなことを考えなければならない時点で自分の負けだと、さらにその後にではあるが裕也は理解していた。
 真に大きな力の差がある場合、勝者は敗者に敗因さえ悟らせないものだ。自分の敗因を正確に分析できるとすれば、その敗者には少なくとも戦局と勝者、そして敗者である自分を冷静に観察できるだけの能力があるのだから。
 ああ、本当に自分はなまっているんだな。裕也はそう、思うことにした。そうしなければ、恐ろしい結論に達することになる。それを、無意識のうちに避けていたのかもしれない。
「んー、それなら今度は、自力での完売が目標よね」
「なら、今度の冬ね。あたしはやっぱり、来年の夏まで来られないと思うし」
 そして美月とリサはやはり、何が起こったかにさえ気がついていない。そもそも光樹がよろけたことに対してについても、注意が行っていないのだろう。そのまま、話を続けている。
「冬かぁ。今度の冬でこの二人だと…むう、同じキャラじゃあやっぱりどうしても地味よね」
「って、おいおい。俺たちがまた参加することが既に前提かよ」
 裕也のその抗議は、しかしすっかり無視されてしまった。
「後は、そうね。ぱっと見普通の大学生なんだけど、実は心底優しくて、それでいて秘めた力と凶暴さを持っている人。それと、真面目な公務員に見えて実は…でも、同じことかな」
「うんうん。それにそもそも、あの話って夏じゃない。時期的に良くないって」
「それもそうか」
「それ以前に『今度の冬』なら、君たちはそろそろ就職活動をしていなければならない時期ではないのか」
 そして光樹が指摘する。実に情け容赦のない台詞である。それは無論彼が今の学年にしては極めて珍しく既に職を得ているということもあるだろうが、そもそも彼のようなごくごく遠慮のない性格でなければ言えないことだ。
「ふふーんだ。どうせその時期は大学も冬休みだし、会社だってお休みよ。たかが一日二日くらい気分転換をしたって、何の問題もないわ」
「だったら俺も休ませてくれ」
 抵抗する美月に対して、裕也は裕也で情け容赦なく反撃する。しかしそこへ投げかけられた言葉は、情け容赦以前の大きな問題をはらんでいた。極めて知的な指摘でありながら、そもそも思慮が足りない、そんな言葉もあるものだ。
「その前に、試験勉強でもしておけ」
 ぐさぐさぐさっ! そんな音が、聞こえるようである。人数と回数が合わないようだが、気にしてはいけない。複数回分傷ついた人間が、恐らくいるのだから。あるいはその回数分だけそれぞれ同時に傷ついたのかもしれないが、それを具体的に詮索するのはその傷口をさらに弄り回すに等しい。間違いなく、控えるのが賢明である。
 高校までと違って、大学になると当局や教授にかなりの裁量が認められるので、カリキュラムの日程は様々だ。学部ごと、あるいは教授ごとに試験の日程が異なる、と言うことも珍しくはない。
 ただ、少なくとも三人の通う大学、学部の場合、一月中に後期試験、つまり一年の成績を最終的に決定する最も重要な試験を行うのが標準的な日程となっている。それが終わってしまえば、来年度まで長い長い春休みに入るのだ。その反動として、クリスマス、正月を含む冬休みは正念場を控えた、決して安穏としてはいられない休暇期間になる。無論だらけきってしまう人間も多いが、その結果として待っているのが落第点の山であったとしても、誰も責められない。
 この点、里中光樹などはそもそも落第点などと無縁に見えるのだが、そんな真面目な彼だけに、試験前は忙しいのかもしれない。さらに単に学生をしているだけでなく、小説家としても活動しているとなると、なおさらなのだろう。
「ま、まあ、勉強なんて野暮な話はこの際おいておくことにして…」
「うんうん、そうだな。それで?」

 うかつに反論をしようものなら完敗を喫しそうなので、美月も裕也もかなり強引に話を終わらせてしまった。光樹も少なくともサディストではないようで、追撃は仕掛けてこない。それよりも彼は、スペースの前の人間に注意をやっていた。
「申し訳ありません。完売なのですが」
 近づいてきた男がいるので、とりあえず淡々と謝っている。例によって愛想が良いとはとても言えないが、接客としてはそれなりだ。少なくとも来客に気がつかなかった裕也や美月などよりは、何倍かましである。
「そんなことはどうでもいいんだよ。香織はどこだ」
 しかし相手の反応は、冷静な光樹の予想をも超えるものだった。知らない名前を出されて、とっさに美月を見やるしかない。しかしそうしたことに、彼自身納得はしていないようだった。
 この男、明らかに様子が普通ではない。いきなり横柄な態度であるが、しかし美月と親しい人間であるようにも見えない。そしてその目がぎらついていることが、少なくとも本人としては冗談ごとをしているつもりがないと示していた。責任者で事情もよく承知しているとはいえ、女性に全て任せてしまうのは危ないかもしれない。ついで光樹から投げられた視線を受けて、裕也はうなずいてからさりげなく彼女の隣に立った。
 そしてリサなどは美月の代わりに売られた喧嘩を買いそうな顔をしていたが、それはケンが英語で制止していた。どうやら部外者が関わって騒ぎを大きくしないほうが良い、と言っているらしい。
「さあ。何か用事があるとかで、今日は欠席です」
 美月が表情を消して応じる。口調こそ丁寧であるとはいえ、普段の人懐こい彼女の性格を考えれば、この時点でかなり強い拒絶の意志表示をしているに等しい。しかしそんなことにも、相手の男はお構いなしだった。
「どこにいる」
 美月に有益な情報を提供するつもりはまずない。それは見ていて分かりそうなものなのだが、しかしこの男にはそもそもそのような状況を察する能力がないようだった。
「存じません」
 やはり彼女はそっけない。まるで傍らで腕組みをしている男の生霊でも、とり憑いたようだ。普段なら気持ち悪い光景だと感じただろうが、しかしこの場では、それが望ましい対応であるようにも思える。
「隠してるんじゃないだろうな」
「知らないものは、知りません」
 恐らく、実は知っている。裕也は彼女の口調から直感した。本当に知らないことを追及されたのなら、彼女の場合腹を立てるだろう。しかし今はあくまで、冷たい。敵対的な相手になんらの情報も与えないために、しらを切っているのだ。
「じゃあ携帯の番号を教えろ。あいつ俺に無断で番号を変えやがった」
「さあ。私も、変えたという話は聞いていません。それにもし仮に知っていたとしても、見ず知らずの方にプライバシーに属することをお教えするいわれはありませんが」
「俺はあいつとつきあってるんだぞ!」
 その怒鳴り声に、何事かと周囲のサークルの人間も振り向く。しかし美月はひるまなかった。
「そうですか。親しいのなら、彼女と直接連絡を取って下さい」
 つまりその香織という女性は、この男と関わりあいたくないのだ。普通の神経を持った人間なら、それは嫌でも分かる。付き合っていると思っていた女性からそんな仕打ちを受けたのなら、例えば自分だったらかなり落ち込むだろうな、と裕也は思う。しかしこの男の場合、少なくとも元気は有り余っているようだ。
 それが世に言う「ストーカー」だ。現物を目の当たりにするのは、裕也にとって初めての経験である。
 さてどうしたものか。きつく言ってやらなければ、この乏しい感受性の男には理解できないような気もする。しかし下手に刺激をして騒ぎを大きくしたら、困るのは美月だ。
 ただ、そんな裕也の迷いは、この場合あまり意味がなかった。彼がどうこうするまでもなく、事態は急速にエスカレートするのだった。
「この野郎、あんまりなめたことしやがるとただじゃ置かないぞ」
 不思議なもので自分がつきまとっている相手にひとかけらの好意ももたれてはいないとは分からなくとも、軽くあしらわれたことは分かるらしい。今にもつかみかかってきそうな勢いだ。
 もしそうなら、もう交渉の余地はない。実力行使で排除する。裕也は覚悟を決めた。
 どんな事情があれ、女性に暴力を振るうような男は最低だ。こんな言い方をするとどこか古めかしい考え方のようだが、しかし例えばドメスティックバイオレンスは現代フェミニズムにおける主要な課題となっている。だからというわけでもないが、裕也は自分の正しさを疑ってはいなかった。
 それに、度が過ぎなければの話だが、他人の権利、この場合で言えば美月の生命身体が危険にさらされるのを実力で防ぐのも、立派な正当防衛である。一年のときに刑法で習った知識を、裕也はなぜかはっきり覚えていた。
 ちなみに、だが。女性に対して「野郎」などと罵声をはくのは、教養あるいは言語的なセンスのない証拠である。「野郎」の「郎」は、太郎次郎の「郎」と同じ、つまり男性に対する言葉なのだ。女性を罵りたいなら「アマ」などである。尼僧、つまり尼さんの、「アマ」だ。
 例えば教養も言語的センスも有り余らせている光樹なら冷徹にそんなことを考えて…と、裕也の思考が脇にそれた瞬間、先程の男の叫びを上回る、凄まじい金属音が響き渡った。
「え…?」
 とっさに、何事かと全員がその音源を見やる。そこに立っていたのは、ほかならぬ里中光樹だった。サークル用のパイプ椅子を、なぜか手に持っている。どうやらそれで、床面を強く叩いたらしい。
 全員の驚きの「間」を利用して、彼がおもむろに口を開く。
「日本には、プロレスリングという興味深い格闘技がある」
 いきなり、何の関係もないとも聞こえる話である。さすがのストーカー男もあっけに取られたが、しかしそこはやはり少々常軌を逸している人間だ。ひるみはせずにきつい言葉を浴びせた。
「お前とは話してない、黙ってろ!」
「アメリカでは同様の興行を『ショー』と呼ぶのが主流だそうだが、まあ、そのあたりの差違はこの際ひとまず置くとしよう」
「うるさい黙れといっている!」
「格闘技であれショーであれ、正当な業務行為として認められている以上、対戦者を負傷させてもその一事をもって処罰されることはない」
 凄い。相手のことなど全くお構いなしでしゃべり続けている。まるでハリウッド映画の口げんかを聞いているようだ。
 日本の映画やドラマの場合、どんなに激しい口げんかであっても俳優二人が同時に口を開く演出は珍しい。しかし特にハリウッドのものの場合、喧嘩になるとむしろ相手の主張など聞きもせずにまくし立てるのが当たり前だ。これはハリウッド特有のやり方なのか、あるいはアメリカ人、または欧米人全般に見られる傾向なのか、ケンやリサあたりに聞いてみたい所である。
 それを、純粋な日本人である光樹が見事にやってのけていた。普段の傍若無人ぶりは伊達ではないのだ。ストーカーにも負けてはいない。
「しかし日本のプロレスリングの場合、一件奇妙な事例がある。いわゆる場外乱闘をした選手が、そのあげくにこのような折りたたみ椅子を使って実況をしていたアナウンサーに肋骨を折るなどの重傷を負わせたというものだ」
 その話なら、裕也も知っている。自分に好意的でない実況をしていたアナウンサーを、乱闘のついでにぶん殴ってしまった。そんな実にとんでもない事件である。
 それはまた、プロレスラーと一般の人間の耐久力の違いを、まざまざと見せ付けられた出来事でもあった。プロレスラー同士の乱闘で凶器が使われることもあるが、そう簡単に重傷者が出るようでは興行にならない。しかしこの事件では実にあっけなく、深刻なけが人をだす結果となってしまった。
「そのあたりに置いてあるものであっても、使いようによっては極めて殺傷力の高い凶器になるという良い事例なのだが、それはさておき…」
 その後も彼は何のかのと話していたのだが、しかしその言外に込められた意図は十分すぎるほど全員に伝わっていたので、最早誰もそれを聞いていなかった。「もしおかしな真似をするようなら、これで貴様の肋骨を叩き折ってやる」彼の主張は、要するにそれである。
 明確にそうと口に出してしまえば脅迫になるが、さすがに頭を使っているらしく巧妙にそれを避けている。まあ、刑法で言う脅迫罪は表面上穏やかであっても成立しうるのだが、この場でストーカー男に有利な証言をする人間などいはしないだろう。
「そ、そんなことをしてみろ。この会場は三十センチ以上の長物や危険物持ち込み禁止だ。それだけで参加停止になるぞ」
 自分に都合の良いことだけ覚えている。卑劣漢とはつまり、そういう人種だ。
 逆に言えば、都合の悪いことはきれいに忘れている。だからこいつ弱いな、と、裕也は思った。
 それは確かに、刃物やら火薬やらを所持している人間は危険である。しかしそれ以上に危険なのは、ありふれたものを武器にできる知識や知性を持った人間だ。外形から危険性が識別できないから、予測不可能な、そしてそれだけに致命的な瞬間に惨事を引き起こすことができる。警備の盲点を知っていたため、単なる航空マニアがハイジャックを成功させたという実例もあるほどだ。
 そして光樹には、その知性がある。たとえその場外乱闘のシーンを見た経験があったとしても、自分が折りたたみ椅子を使って人を殴ろうなどとは、普通の人間ならとっさに思いつかない。
 この男、世が世ならある意味実に有能なテロリストになっていたかもしれない。体力面でのからきしは相変わらずだろうが、それを補って余りある知略で敵対勢力を恐怖のどん底へ叩き込む、そんなイメージがどこか似合う。
 その場合世界の警察を自認する某超大国に目の仇にされるだろうが、もしそうなったとしても、そう簡単に巡航ミサイルや空爆の標的になったりはしないだろう。付随する事項として当然ながら、それらの攻撃を察知して回避するだけの能力もある。恐るべき人間とはつまり、そういうことだ。
 そんな凄まじい実例を目の当たりにしているはずなのに、このストーカー男ときたらそれに気づきもしない。こいつの相手をするには、お前はあまりに高尚過ぎるよ、と、裕也は思った。
「ケン先生、ちょいと失礼」
「ああ、ハイ」
 ひょい、と何気なく、裕也はケンの持ち物を取り上げる。そしておもむろに、それについての説明を始めるのだった。この間、光樹とあわせて男二人が前に出たため、美月は自然とその背後に隠れる形になる。
「九寸…いや、九寸五分の扇、舞踊や贈答用としてはそこそこの大きさだが、実際に扇ぐとなるとちょっと大きすぎる」
 先程ケンがそうして見せたように、片手で扇を広げて見せる。それが裕也自身や、あるいはケンなどが扱っていて自然に見えるのは、二人が特にその寸法が使われていた時代の日本人の標準を、大きく超える上背の持ち主だからだ。
 身長百八十センチ強は当時で言えば身の丈六尺、「巨漢」と言って差し支えない背丈なのである。六尺以上だと鬼神の類など、人間以外の世界に片足あるいはそれ以上を突っ込んでしまった存在であってもおかしくない。
 そして実際の所、九寸以上の扇で自分の体を扇ごうとすると、空気抵抗が大きすぎて却って汗をかいてしまいかねない。男性用であっても、自分で使うのなら七寸五分程度の、「扇」よりは小さい「扇子」が無難だ。美月などの女性用なら、六寸五分が標準である。体格にもよるが、それ以上だと大きすぎて不恰好になる。
「なんだよ、ここには人の話を聞かない…」
 その台詞はそのままそっくり貴様に返してやる。普通のやり取りならそう言う所だが、しかし裕也は相手にしなかった。
 それが一つの方法論であると、光樹のやり方から学んだのだ。まともな相手ならともかく、この場合はどう考えてもそうではないのだから、とにかく自分の主張を言い切ってしまう、それに限る。
「一寸は三センチ強だから、十寸、イコール一尺だと三十センチオーバーで、あんたの言う規制違反になる。六分とか七分とか、そんな半端な大きさは普通作らないから、この九寸五分が普通なら規制ぎりぎりの大きさだ」
 扇を閉じる。そしてその瞬間、それが翻った。
 ゆらりと、むしろ気だるいほど緩やかな、そんな腕の動きだった。「力強さ」など、みじんも感じさせない。ストーカー男の表情が思わず緩む。
 そして、不意に、とてつもなく重々しく、そして鈍い音が響き渡った。誰もがその音源を見て取っていたはずなのに、それはなぜか突然のことのように思えた。
 重要なのは、衝突のその一瞬だ。力を集中させるのはその一瞬でいいし、逆にそこを外しては意味がない。あの緩やかな動きは余分な力を込めず、必要な瞬間に全ての力を解放させるためのものだったのだ。例えば光樹などはそう、理解していた。
 もっとも、少なくとも自分の場合、その理解はあくまで後追いのものだ。自分の予測をはるかに上回る衝撃音を聞いてから、なぜそうなったのか分析したにすぎない。そこまで、光樹は悟っていた。つまりもし万一彼が裕也の扇による打撃を直接受けたとしたら、防ぐ時間的余裕は全くない。それも承知している。その思考における油断のなさが裕也自身をして「テロリスト的」と思わしめる才能なのだが、それは光樹にとってあずかり知らないことである。
「例え一見した所大したことのない物であっても、やる気さえあれば危険な扱い方ができる人間もいるんだよ。まあ、繰り返すが例えばの話だけど」
 持ち手を含めて九寸五分、同じ大きさの刀剣ならば「脇差」よりも短い、「短刀」程度だ。しかしその程度のものであっても、然るべき心得のある人間であれば簡単に危険な武器に変えることができる。例え刃物でなくとも、強く握り締めれば扇の骨が集合体として、そもそもの素材である竹と同様の強度を期待できる。それだけあれば、人体を損傷させるには十分なのだ。
 そもそも世の中にはボクサーやフルコンタクト空手の有段者など、なんらの道具を使わずとも自分の体を危険な打撃用凶器に変え得る人間もいる。それを考えれば、むしろ扇一本を使って重傷者を一人作るなど、難しいことではない。少なくとも今の裕也は、そう思っていた。
 そして、後は本当に、無言だった。
 もし美月に指一本でも触れようものなら…殴る殴る殴る徹底的に殴る絶対殴るとにかく殴る。光樹が目で、そう言っていた。相変わらず例の奇天烈な眼鏡をかけているのだが、しかしこのときばかりはそれが常軌を逸した迫力をいや増している。
 ことに何が恐ろしいかと言えば、「殺す」ではなく「殴る」である点だ。普通に考えれば後者の方が程度の問題としてはましであるが、少なくとも彼の場合そうではない。相手の生命をそもそも考慮に入れていない、だから目標の生き死にがからむ「殺す」ではなく、あくまで自分自身の攻撃性に焦点が当てられた「殴る」なのだ。だから場合によっては、客観的には止めを刺した後にも、なお打撃を加えるかもしれない。 
 一方裕也は、静かなものだ。特段、考えることもない。威嚇もしない。
 向こうが動いたら、可能な限りの速さで返し技を叩きつける。その一瞬に、全ての注意力を集中させようとしているのだ。人間の指の骨と扇の骨と、どちらの強度に分が上がるのか、試してみるのも面白い。そんな思考がふと脳裏を掠めるが、雑念だからそのまま消えるに任せた。
 何か考えながら全力が出せる、そんな特異な才能を、裕也は持ったつもりがない。いざというとき力になるのは、繰り返し練習して体に染み付いた技だけだ。そう教わったし、またそれを疑いなく信じている。
 一触即発。それは事態の推移を見ている誰の目にも明らかだった。そして周囲のサークル、つまり直接には関係のない傍観者達の中には、スタッフなど然るべき人間に連絡したほうが良いのではと考えた者も少なくない。
 しかし裕也や光樹は、とりあえず言動を取り繕っている。結局何も起こらなかったとしたら、通報すれば恥をかいてしまう。それにこのストーカー男、雰囲気を読む能力はやはりないのではないだろうかと、そんな漠然とした不安が漂っていた。そして何より、この二人を敵に回したら自分達にとってもえらいことになるのではないか、その恐怖が、全員の動きを止めている。
「くそっ!」
 やがて不意に彼はきびすを返し、荒々しい足取りで立ち去った。要するに、二対一という単純な有利不利の計算程度はできるのだな、と、裕也は悪意を持って考えた。「覚えていろ」という三流悪役にふさわしい捨て台詞をはかなかったのは、とっさにそれが出てこなかったせいだろう。だからここは敢えて、彼にふさわしい決まり文句をその背中に、一応聞こえない程度にかけてやった。
「おととい来やがれ」


 最近ではその意味を知らない人も増えてしまったが、これは来るなら最早不可能な期日にしろ、要するに、二度と来るなという意味だ。時代劇などにおける、悪さをしたあげく無様に追い払われたごろつき相手の定番台詞である。ただし基本的に文字通りの「江戸っ子」、江戸庶民の言葉遣いなので、身分のある侍や当時の上方、つまり関西出身者などが使うのはおかしい。
 そして裕也は、びっくりした。同じ台詞を、同じ呼吸ではいた人間がいるのだ。
 それは、どう考えても「江戸っ子」のイメージとは程遠い男だ。別に非難するつもりはないのだが、しかし粋でもいなせでも気風がよくもない。地味だが落ち着いた装い、冷静沈着で極めて論理性の高い思考、堅実な生活態度、つまり賞賛されるべき要素を数多く持っているが、しかし少なくとも「江戸っ子」でないことは確かだ。
 内容的に苛烈な、あるいは毒々しい台詞を吐くことはしばしばだが、そんなときにさえ口調そのものは淡々としている。乱暴な言葉遣いなどしない。それが、彼の冷徹さを際立たせる。そんな男だ。
 その名を、里中光樹という。それが、「やがれ」と言い放っていた。恐らく芯から、裕也と同じ気持ちだったのだろう。
 そして、彼も驚いているようだった。しばらく、そのままの姿勢で固まっている。とっさに自分の方を見てしまった裕也の視線には気がついているようだが、しかし目を合わせようとはしなかった。むしろ逆に、やがてぷいと目をそらしてしまう。どうも柄にもないことをしたと、自分でも思っているらしかった。

続く


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