正しい同人誌即売会の過ごし方(?)

21 写真撮影は所定の場所で被写体の了解を得て

注意事項を確認する


 害虫並み、あるいはそれ以上に嫌悪されていた男の背中が遠ざかってゆく。その功労者二人の無言のやり取りが済むなり、美月がばんばんと二人の肩を叩いた。
「ありがとー、二人とも」
 それに怒ったわけではないのだが、裕也は表情をやや険しいものにする。
「大体さあ、いつも手伝ってくれる人が来てくれなくなったって、あれが原因じゃないのか」
「あ、う、うん。本人ちょっと精神的にダメージがあったようだから、詳しくは聞いていないけど、多分…」
 美月の視線が泳ぐ。しかしそれを、先読みをして回り込んだ光樹が捕捉した。
「事前に説明をするべきだったな。いかにあの程度の俗物が相手とはいえ、無用のトラブルなら事前に回避するに越したことはない」
「う…ごめん。そのつもりだったんだけど、ここへ着いたらはしゃいじゃって、つい…」
 平均身長を超える男二人に囲まれて、やや小柄な美月がさらに小さくなる。そうされると少なくとも裕也としては気まずいのだが、しかし状況を考えるとすぐに甘い顔を見せるというわけにもいかない。間に入ってくれたのは、ケンだった。
ハッハッハッハッハ。マア、そのクライで良いではアリマセンカ。終わり良けレバ全て良し、お国の諺でそう言うデショウ」
 いかにも「陽気なアメリカ人」という、ややわざとらしくも見える大きな口で笑う。目元の表情は、仮面をかぶっているせいもあって不分明だ。それから、裕也が握り締めたままだった扇を回収した。
「あ、すみません。痛めるようなことをしてしまって」
「イエイエ。現代のサムライの心意気、拝見できて嬉しく思いマス。それにこの扇、設定上デハあれが本来の使い方だそうデスシ」
「設定?」
 裕也が首をかしげると、ケンは視線でリサに説明を促した。大きくうなずいて、彼女は口を開く。
「このコスチュームのキャラクターは、武器として鉄の扇を使っているの。まあ、本当に鉄で作ると高いし、長さが規制に収まっても危険物になっちゃうかもしれないから、これは実際に普通の扇なんだけど」
「ああなるほど、鉄扇ね」
 裕也が声を上げ、光樹もうなずいた。鉄扇とは、扇をかたどった武器のことである。その名の通り鉄製で、閉じた状態を模しただけのものと、実際に開くことができるものに分けられる。
 閉じた状態を模しただけのものは、要するにその形をした鉄の塊である。それで力一杯殴れば当然人が死ぬし、逆に刀などの攻撃を防ぐのに十分な耐久力がある。帯に挿すなどしておけば、ちょっと見ただけでは分からない護身用の武器になるのだ。
 一方実際に開くことができるものも、構造が複雑な分やや耐久力に劣るとはいえ、同様の使い方ができる。さらに開くこともできる普通の扇と見せかけて、突如危険な殴打用武器として使う、そんな暗殺向きな用途も出てくる。
 少なくとも、鉄の芯が入っている以上かなりの重量があるので、涼をとるための道具としては全く適さない。却って暑くなるくらいならまだ良いほうで、無理に扇ぐなどという愚かなことをすれば筋肉痛になるかもしれない。
 それにしても、普通の扇を模した武器を模した扇、とはまた、ずいぶんとややこしい話である。しかしその不条理さが、どこか面白くもある。「普通」とは違うことへのある種の違和感、それがコスプレをしている人間にとっては楽しいのではないかと、裕也はふと思った。
 その一方で、光樹はというとやや深刻な顔をしている。他でもない彼自身が殴打用の凶器として使ったかもしれないものを、なぜかじっと見据えていた。
「どうしたの?」
「傷をつけてしまったかもしれない。まあ、見た所かなり消耗が激しいから、私のせいではないのかもしれないが」
 確かに、彼が言う通り、力一杯叩きつけた箇所に傷のようなものが見られる。ただ、その他にも多数の、長く使っていれば当然できるであろう痕跡が見受けられた。強いて違いをあげるのなら、彼が指摘しているものが最も大きい、その程度だ。
「弁償する必要があるかもしれない。どこへ行けばいい」
「光樹くんもなんと言うか、こう、社会人として模範的なのか、そこからかけ離れてるのか、良くわかんないよね」
 とりあえず、美月は光樹がすぐさま弁償に行く、という可能性を、ごまかしにかかった。事情はどうあれ貸し出し機材を破損した結果として、主催者側に目をつけられでもしたらたまらない。まして自分にはなんらの責任もない、ストーカーに対処した結果として、だ。それがサークル責任者としての、偽らざる本音である。
 その口車に乗せられたのかどうかは微妙な所だが、ともかく光樹には、責任者の判断にある程度は任せようとする意志があるようだった。反論はせず、ただ視線で、美月に続きを促す。
「とりあえず、明らかに椅子として使えなくなったわけでもないんだし、ここは責任者のあたしに預けてくれないかな。何か文句を言われるようなら、それはとりあえずあたしが何とかするから」
 さすがに、と言うべきか、美月はそれなりに光樹の扱いを心得ているようだった。それなりに筋の通った解決法が提示されば、彼はそれ以上他人の主義主張には干渉しない。その基本的な姿勢を、見抜いている。
「分かった。もしその件で費用がかかったなら、後で私に請求しろ」
「ん。その点は、遠慮なく」
 下手に遠慮をすれば、またかえって話を蒸し返すことになる。美月はできるだけ素直に、答えていた。
 そして話が終わるのを見計らっていたらしく、リサが声を上げる。
「さて、それじゃあ本も売り切れちゃったことだし、折角みんなそろってるんだからコスプレエリアへいってみない?」
 それまでの話をとりあえず終わりにできるので、美月は大きくうなずいた。
「いいねえ。って、アレクは?」
 景気よく返事をしてから、一人かけているはずだと気づく。この突っ走りぶりはやはり誰かがフォローしてやらんといかんなあ、と、裕也は思った。
「そこにいる」
 が、裕也が悠長に考えているうちに、光樹が彼を発見していた。いつの間に帰ってきたのか、ケンの後ろにたたずんでいる。
「うぉ、気づかなかったよ」
 視線が合ったので、アレクは小さく頭を下げる。ともかくもこれで、リサが言うとおり間違いなく全員そろった。
「裕也も光樹くんも、もちろん来てくれるよね」
「ああ」
 光樹は即答である。始めからそのつもりだったようだ。そうなると、裕也としても肩をすくめるしかない。
「まあしょうがないか。ここへ一人で取り残されてもやることないし」
「それじゃ、レッツらゴー」
 リサが勢い良く拳を振り上げる。美月は軽く滑ったし、裕也はそれをこらえていた。
「それ古いって、リサ」
「えー、マイブームなのにい」
 レッツらゴーとマイブームが混在した語彙って一体…と、ふとそんなことを考えてしまった裕也だった。しかしやがて、そういえば最近一頃ほどマイブームとは言わなくなったなあ、と気がついた。
 そんな中、光樹はケンとアレクに視線を向けている。その二人は英語で、何か話していたようだった。
「どうした?」
「いや、聞き取れなかった。どうも彼の母国語か何かのようだ」
 光樹は小さく首を振って、アレクを示した。明らかにそれとわからない限り外国語、特にヨーロッパ圏の言語を英語と勘違いしてしまうのは、日本人の悪い癖である。それは裕也ばかりでなく、とりあえず聞いてみようとした光樹も同様だ。
 彼の場合ある程度理解できる外国語は授業で習ったことのある英語とドイツ語で、しかもリスニングの能力はあまり高くない。しかしともかく、その二つではないようだ。
「ふうん。まあ、何か用事があったら日本語で教えてくれるだろ」
「そうだな」
 それほど根拠のない楽観論だったが、光樹としても反論の材料がなかったらしい。ただ、裕也にとっても真剣そうに見えるアレクの表情が気にならないではなかった。ただ、一方のケンが笑って応じているようなので、とりあえずはあまり追及しなくても良いだろうと、自分を納得させることにした。
 再び人波を泳ぐようにして、移動する。目指すは別の建物の屋上にあるという、コスプレエリアとやらである。
「本当に広いけど、狭い…」
 裕也が、それだけ聞くと意味不明のことを口走る。しかしそれがいい間違いでもまして錯乱した結果でもないことを、同行者達は理解していた。
 そもそも、客観的に考えてこの展示場は極めて広大だ。「国内最大級」は伊達ではない。あまりに広すぎるので、不況下ではここを大々的に利用する企業等が少なく、稼働率が悪くなるほどだ。
 そのため、別の建物へ移動しようとするとそれなりの距離を歩くことになる。キャンパス内に山まであり、「無駄に広い」と学生からは酷評されることもある東京郊外の大学に通っている三人にとっても、それは決して短くなかった。
 しかしそれでも、感覚的に狭いのだ。何しろ人が多いため、個々の人間が占有できる空間が限られる。つまり正確には、狭苦しいと言うべき状態である。通路なので男膜と違ってある程度人の流れが整理されているのだが、それでも辛いものは辛い。
「というか、さあ。そもそもその『コスプレエリア』ってのは、一体何なんだ。更衣室は別にあるし、俺達とか、特にそっちの皆さんとか、現にもうコスプレをしてるわけだ。何のためにあるのか、分からないよ」
 結果、今更愚痴る。それなら向かう事前に言えばいいようなものだ、とは、光樹も言わなかった。彼自身、実の所同感なのだろう。確かに、あたりを行きかう人々の中には、明らかに日常生活ではありえない装いの人間が少なくない。
 その典型は、同行しているリサ一行である。この三人が普通に歩いている時点で、どこかお祭りの中を練り歩いているような、そんな雰囲気をかもし出している。良くも悪くも、既に普通ではなかった。
「まず、言うまでもないことながら、その名のとおりそこにはコスプレイヤーが大勢いるのよ」
「なら言うな」
 八割がた逆ギレで、美月の説明にツッコミを入れる。それに怒るでもなく、むしろ苦笑しながら、彼女は続けた。
「んでね、一般のサークルスペースやその周辺、あるいはここらあたりの通路では原則として取材許可のない写真撮影は禁止なんだけど、コスプレエリアなら、撮られる本人の同意があれば撮影オッケー、というわけよ」
「ふーん」
 そしてもうその場の精神力を使い果たして、そもそも自分が投げかけた疑問に端を発する話であるにもかかわらず、裕也は投げやりに応じた。代わって、光樹がまとめに入る。
「つまり、君達のような目立ちたがりが集まっているということだな」
 真意の程は定かでないが、やや悪意を感じないでもない表現である。しかし美月は、それを笑った。
「当然じゃない。折角気合を入れてコスを作って着込んでいて、見てもらわないでどうするのよ。それに言ったでしょう? 変身願望だって。普段は大人しい人であればこそ、思い切り目立てる場所がほしいのよ」
「なるほど。見られる側の理屈は分かった。しかし、見たり写真をとったりする人間が、それほど多いものなのか」
「そりゃあ、もう。まあ、やっぱり色々な側面での力の差ってどうしてもあるから、キャラ人気のあるなしや、できの良し悪しなんかで、どれだけ人が集まるかはだいぶ変わってくるけどね」
「ほう…まあいい。とりあえず行けば分かるか」
 光樹としては、わざわざ見物をする人間がいる、という事実自体がまだ信用できていないようだった。しかしひとまず、結論を先送りにするのが賢明だと判断したのだろう。
「それはもう、たっぷりと。ねー、リサ?」
「ねー」
 一方美月はなぜだか自信あふれる笑みを浮かべてから、同意を求める。リサも力一杯うなずいていた。後は口数の多いはずのこの二人が、なぜか無言である。日本語会話能力をほぼ欠いているアレクが黙っているのは当然として、ケンも苦笑しながら沈黙を守っていた。まあ、程近いのだからいけば分かりますよ、と、そんな顔だった。
「はー、そりゃもうたっぷりと」
 そして実際、裕也はまた大群衆に呆れることになる。現実を前に最早反論しようもない、ということで光樹も何か言おうとはしなかった。
 相当程度に広い場所なのだが、肩の触れ合うような状態で人が行き来している。場所によっては多少開けたところも見えるが、それも別に無意味に空いているのではない。写真撮影のために必要な、ある程度の距離をとっているということだ。そのためにできた空間が広ければ広いほど、逆にそれを取り囲む人間は密集している。アイドルの記者会見か何かではないかと思われる様子でカメラが並び、その後方に単なる見物人の群れができるという状態である。
 つまり結局のところ、印象としては狭苦しい。どこへ行っても、いや、人ごみから逃れることはできないようだ。本当に逃げたいのなら、会場を出るしかない。
 半ばやけになった裕也は、とりあえず可能な限り自分でも楽しもうとした。そうでなければ疲労するばかりである。少なくとも、尻尾を巻いて逃げるという選択肢は、彼にはなかった。
 そしてきちんと目を配ってみれば、自分でもそれがどのキャラクターのコスチュームを真似たものであるのか、分かるものがいくつも出てくる。週刊少年向け漫画誌のキャラクターが、意外と多い。有名ゲームのキャラクターもいる。
 漫画、ゲームの類は人並みに楽しむ程度アニメは最近ほとんど見ない、という裕也にとっても、十分判別のつくものだった。それだけ、コスチュームのできや小道具、ポーズのとり方、あるいはさりげない身振りなどにも、完成度の高い人間が多い。
「みんな頑張ってやってるんだな」
「うん。こだわるとはつまりこういうことよ」
 美月が力説する。裕也は軽く、肩をすくめた。
「それなら、俺とか里中とかがやってていいのかねえ」
 自分達には、特段そんなものもない。そもそもそのキャラクターを、良く知りもしないのだ。それを何となく、悪いと感じないでもなかった。ただ、それは二人同様にやらされている形であるケンが笑って否定する。
「マア、心が篭らない結果としてうまく行かなければ、注目を集めない結果になりマス。他人がどう見るかではなく我々がどうなるかを考えレバ、要するにそれだけのコト。それが、自己責任というものデスヨ」
 筋は通っているが、ある意味ドライだ。その辺はアメリカ人らしい、と形容できるのかもしれない。最近良く耳にするグローバリゼーションなどという現象も、所詮は全世界のアメリカナイズに過ぎない、という論調をニュースでやっていたのを、裕也は何となく思い出した。
「ソレに…と、失礼」
 何かつけ加えようとしたケンであったが、近づいてくる人間の気配に気づいてそちらへ向き直る。
 やってきたのはやはり、カメラを手に持った男だった。年齢としては大学生程度、つまり自分達と同年代だと思える。ただし、その服装に若々しさは感じられない。どうということのないデザインのTシャツに、これもまた特段こだわって選んではいないらしいジーンズ。それから大き目のリュックサック。大学構内でもある意味ありがちな、機能的ではあるがそれ以上では決してない、装うことに関して全く無頓着なタイプだ。
 マニアックで暗い感じの人間、という想像を一瞬裕也はしてしまったのだが、少なくともこの場合それは偏見だったようだ。むしろ必要以上に、彼が発した声は明るい。
「すみませーん、写真撮っていいですかあー?」
 勢いとしては、むしろリサに近いものがある。彼女ももちろん、同じような勢いで返した。
「はーい!」
 そしてその返事が終わる前に、すばやくポーズをとってしっかりカメラ目線になった。居合いを得意としている剣士のキャラクターなのか、それらしい構えをしている。ただし、彼女が手にかけているのは日本刀の柄を模しただけのものである。刀身はなく、帯に挿していると見せかけて、実はそこに固定してあるのだ。刀身まできちんと作ってしまうと規制を大きく超えてしまう、と言うことに配慮しているらしい。
 一方ケンも扇を取り出して、ポーズをとる。それを武器にして戦う武芸者、というよりは、采配のようにして使う指揮官、そんな様子だ。
 最後の一人、アレクだけはただ素に近い様子で立っていたが、元々容姿も姿勢も良いのでそれなりに様になっていた。
 そのわずかな間に美月たち三人は、フレームに入り込まないよう移動している。彼女のさりげない動作に、裕也も光樹も応じた結果だった。
 シャッターが何度か切られ、それからアングルを変えてもう数枚。さらにポーズを変えたりアップで撮るなどして、撮影はしばらく続いた。撮る側も撮られる側も、実に慣れたものだ。何の予備知識も与えられなかったのなら、お互いにプロなのだと納得したことだろう。
「凄いなしかし」
「リサは慣れてるし、ケン先生はやらせれば何でもできるタイプだそうだから」
「ふうん」
「って、あれ? 光樹くんは何見てるの?」
 裕也の返事を待たずに、美月はもう一人の連れの様子を見ている。彼の視線は、一点に固定されていた。
 里中光樹、あの万事冷静な男が、完全に一つのことに気を取られている。その視線のすぐ先で、ロボットが歩いていた。ぎこちない足取りだが、しかし確かに二本の足で移動している。
「あんなものを持ち込む人間までいるのか」
 素直に感心している。それは裕也も同感だった。
「おー、あっちはあっちで凄いな。確かあれ、相当な値段のはずだぜ」
 ニュースで見たことがある。有名アニメ作品に出てくるものを、等身大で再現したとのことだ。既に「玩具」の域をはるかに超える値がついているはずだが、筋金入りのマニアからそれなりの需要があるという。
「しかし色違いだな」
「そんなバージョンもあるんじゃない?」
 裕也も、売っているのは通常のカラーリングであると知っていた。しかし今目の前にいるのは、塗装からしてカスタムメイドという設定のはずである。ただ、何しろ高価なものだから、逆に注文生産が効くのではないかという気もする。
「って、いうかそもそも、あれを動かす電源をどこから持ってきてるのよ」
 真相を悟った美月が、そう指摘する。確かに言うとおりだ。内蔵できるサイズのバッテリーではかなり厳しいだろうし、それにモーターの駆動音もない。
「まさか?」
 裕也が引きつった笑顔を浮かべ、光樹には言葉がない。その瞬間、暗がりの中の「目」と視線が合った。それからそのロボットらしきものは、何事もなかったように、相変わらずぎこちない足取りで、ただまっすぐに通り過ぎて行く。
 そうなのだ。実の所今のは、等身大で販売されている製品をそっくり真似た、人間だったのである。外装だけでなく、動きまで見事に再現している。
「世の中にはとんでもない人間がいるもんだな。しかもこの暑い中、あれだけ着こんで」
 素直にそういうしかない。光樹としても全く同感だったようで、ただ黙って大きくうなずいていた。
「ね? 来てみればけっこう面白いでしょ?」
 美月がウィンクをしてみせる。光樹はもう一度素直にうなずいたが、この二人とはやや「面白い」の基準が違うようで、裕也としては何となく微妙だった。とりあえず曖昧に笑ってごまかしておく。その良く言えば穏当な、悪く言えば突き抜けた所のない性格のが、「凄い」ものに対して少し引いた姿勢を生んでいるのかもしれない。
 だから、いろいろな意味で「凄い」人々の集まりに取り残されると、えらいことにもなる。
「写真撮影お願いできますか?」
「はーい」
 突然、かなり無遠慮に話しかけてくる人間がいる。とっさにさっき理沙に声をかけたの同一人物ではないかと思ったが、どうも違うようだった。ただファッションのセンスは共通している気がして、どうも紛らわしい。
 そして裕也が何かを考える前に、美月は返事をしてしまっていた。当然、写真といえばスナップ写真か証明写真、あるいはプリクラの経験が少しという裕也としては、動揺するしかない。
「あ、ちょっと」
 そう言った時にはもう遅い。一枚撮られてしまった。さらにリサに負けず劣らず手馴れた美月の動きに合わせて、二枚、三枚とシャッターが切られてゆく。
 裕也としては最終的に、もうどうでも良くなってしまった。その間光樹は一貫して腕組みをして、フレームに入っているのは分かりきっているはずなのに、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。
 美月はともかく、残り二人は被写体としてとても及第点を与えられるものではなかったはずだ。しかしその撮影者は、笑顔の挨拶で締めくくった。
「ありがとうございましたー!」
「どういたしましてー!」
 美月はぶんぶんと手を振って見送る。彼女にしてみれば、折角の衣装が存分に披露できて大満足、という所だろう。
「いいのか、しかし? 後ろはかなりダメダメだったぞ」
 お楽しみの余韻に浸っているところを申し訳ないが、すっかり力の抜けた肩をすくめて見せる。どうやら面識はない相手のようだったのでその可能性は低いにしても、後日彼女自身ができあがったものを見たら、失望するのではないかと思えた。問題は、なるべく早いうちに処理しておいたほうが良い。
 問題が発生していることは光樹も分かっていたはずだが、彼は相変わらず、立ち入るつもりがないらしい。
 そしてその瞬間、美月は二人を指差した。
「そう、それよ!」
「はあ?」
 意味が分からない。ようやく表れた光樹の反応も、首をかしげるというものだった。
「その裕也の素朴な反応、それから光樹くんの堂々たる態度、それこそあたしの求めていたものなのよ。そこそこ演技のうまい人もいいけど、やっぱ素材のキャスティングが大事ね」
「うんうん。ほんと、演技の必要全然ない。ずばりはまり役。さすがはミッキーよね」
 リサが手放しで同意する。
 この女、一体どこまで他人で遊べば気が済むのか…。裕也としてはもう、言葉がない。それと同感なのか、あるいは単に別のことを考えているだけなのか、光樹はまた別の方向を見ていた。
 そしてその視線が、彼にしては妙にぐらついた。一瞬注意をやってから、慌ててそらしたようだ。見てはいけないものを見てしまった、そんな様子である。
 そもそも人間が他人の視線を追ってしまうのは、ほぼ反射的な行動である。群れで行動する生物であり、その知覚の多くを視覚に頼っている。群れの他の個体が何かを注視しているということは、それだけの危険あるいは利益、ともかくもそうすべき何かがそこにあるという意味である。
 そこで裕也はとりあえず、その方向を見てしまった。
「…あ、いや、べつに」
 光樹がそうしたよりも少々長い間視線を釘つけにしてしまってから、状況を思い直して慌てて目をそらす。その対象は、かなり露出度の高いコスチュームを着た女性だった。はっきり本音を言ってしまえば男としては嬉しい光景だが、しかし周囲に別の女性がいるときに長々とそれを眺めているのは、まずい。機嫌を損ねるかもしれない。
「まあ、いいんじゃない、別にその程度は。男の人って、そういう生き物なんでしょ?」
 ただ、少なくとも美月には怒った様子がなかった。むしろくすくすと笑っている。それはそれで、何やら釈然としないでもなかった。どうも見下されているような気もする。
「いや、なんていうか、さあ…」
 しかし秩序立った反論ができるわけでもない。何しろ事実として、その通りなのである。もしも事実に反するなどという主張をするとすれば、そちらの方がむしろ裕也の主観としては問題がある。
「まあみなまで言わなくてもいいって。あの手のカッコをしておいて、『そういう目で見られるのは嫌』なんて人もいるけど、あたしはそのくらい仕方がないと思うな。もちろん痴漢とか無断撮影とか、そういうのは論外だけどね」
「無断撮影も完璧にNGなんだ」
 痴漢が論外、という理屈は裕也にも分かる。「女性が露出度の高い服を着ていたので思わず痴漢をした」などという低次元の言い訳を並べ立てる輩などとは、絶対に同列に扱って欲しくない。
 しかし世の中警察の速度超過取締り、あるいはマスコミュニケーションによるものなど、本人の同意のない写真撮影など日常茶飯事だと思う。首を振ったのは、リサだった。
「単にぱっと撮るだけならともかくね。極端にアングルが低かったり、あからさまにこういう所にピントが合ってたり、色々ある訳よ」
 極端にアングルが低いことの何がいけないのか、それをすぐに察せられないのはやはり男性である。
 要するに、スカートをはいている場合に下着が見える場合があるので、低すぎるアングルはよくないのだ。特にこういう場のアニメやゲームのキャラクターのコスチュームは、標準よりもさらに膝丈が高い。
 最近は腰骨でジーンズをはいてその上からトランクスが見えても当たり前、という若者も少なくないが、ともかく裾を気にした経験のある男性はあまり多くないはずだ。
 そしてリサが「こういう所」と言って示したのは、彼女自身の豊かな胸元だった。もっとも、今彼女が着ているのは襟の高いつくりのコスチュームなので、その動作に強烈なインパクトはない。無論本人も、それを承知でそんな身振りをして見せたのだろう。もしきわどい服装でそんな真似ができるとしたら、相当な度胸あるいはすさまじいまでの自信の持ち主である。
「要するに盗撮寸前ってこと」
 何万分の一秒か視線を真下にやってから、美月がつけ加える。裕也は万人のために、彼女の視線が自分達以外の方向へ、例えわずかであっても向いたことを忘れることにした。
「女は大変だね」
 とりあえず、無難な所でまとめておく。解釈によってはこれも性差別的な意識画云々…という話になるかもしれないが、少なくとも美月がそのような考え方をする人間ではないと、裕也は分かっていた。そして案の定、彼女、そしてさらにリサも大きくうなずいている。
 しかし、異論を唱えるものがいる。さすがは、光樹だった。
「男も大変さ。まあ、私のように単に性染色体がヘテロという意味ではなく、社会的に期待される『男』になろうとする長見のような人間という意味だが」
 確かに、本人が言うとおり、里中光樹を「男らしい」などと形容する人間はまずいないだろう。もしいたとしたら、それはその人間のセンスが明らかに、世間一般から大きくずれている。賞賛できる美点を少なからず持っている男ではあるが、少なくともそのどれも、一般的な「男らしさ」の基準に当てはまるものではない。
 なお、「性染色体がヘテロ」とは、人間の場合、遺伝学上の男性であることを意味する。その逆、「性染色体がホモ」なら、女性である。前者がxy、互いに異なる遺伝子を持つことに対して後者が同じxx遺伝子を持つ、そのような意味だ。世間一般で言うところのホモセクシャルとは、同性同士の…という意味で、語彙としての「同じ」は共通しているが、直接の関係はない。
 しかしともかく、だ。彼が自分を「男らしさ」の基準のひとつとしてあげたのは、裕也にとって驚き以外の何ものでもなかった。
「俺は別に」
 あまりのことに、芸のない否定しかできない。しかし構わず、光樹は続けた。
「そうやって謙遜をするのも、長見にとっては男らしさの一環ということだ。力強さを誇示するだけの人間は、彼にとって真に男らしい人間ではない。忍耐強い人間こそ男らしい、そういうことだ」
「…お前、万が一、喧嘩売ってる?」
 何故だか、本当に、不快になった。
 根も葉もない罵声は、少なくとも本人に対して有効な攻撃方法ではない。例えば里中光樹に対して「馬鹿」と言ったとしても、あるいは菱乃木美月に「不細工」と言ったとしても、何よりもまずその当人から嘲笑されるだけである。彼ら自身が、それに関して極めて大きな自信を持っている。
 つまりは事実こそが、いや、正確に言えばその本人がもっとも気にしている真実こそが、人間を傷つける。例えば里中光樹は、そのことを知っていた。
「九分九厘…」
 まず間違いがない、その慣用句を口にしてから、すぐさまつけ加える。
「九毛、の方だ」
 九分九厘、とは、先頭の「九割」を省略した言い方である。パーセンテージに直せば99.9、要するに千分の九百九十九だ。「毛」とは「厘」の下、要するに一万分の一単位である。つまり里中光樹としては裕也が言った万が一の逆、一万分の九千九百九十九に属する、喧嘩を売る気がないと、そう言いたいのだろう。
 しかし何となく、その数字は一万分の九千九百九十九に属してはいるが、例えば八千台などではない。少なくとも明らかに、九千九百台。ちょっとでも行き過ぎれば一万分の一の方になる、そんなぎりぎりのものであると、裕也はそう感じた。
 そんな所へ、美月が割って入ってくる。
「まあまあ、二人とも。こういう表現をするのもなんだけど、真面目な話をしていてもしょうがないじゃない」
「ん、そうだな」
 熱気に当てられたのかもしれない。何を光樹相手に熱くなっていたのだろうか。裕也はそう反省した。実際他意はないらしいから、腹を立てても意味がない。それは今日の朝から、分かっていたはずである。
「分かった」
 こちらはこちらで多少反省したらしく、光樹はうなずいてから小さく首を振る。そして話題を変えようとしたのか、視線を他へ向けた。
 そしてその瞬間、にわかにその目つきが険しくなる。性格円満とはとても言えない人間であるが、激しい敵意であればこそ冷徹に表現する、そんなひととなりであるはずだ。びっくりした美月が少し大きな声を上げた。
「どうしたの?」
「いや…向こうに何か、妙なものが見えたような気がしたが、遠くて良く分からなかった」
 通常の視力矯正用としてはやや小さすぎる、奇妙な形の眼鏡をずり上げる。
 要するに、近視の人間としてはありがちな癖である。眉をひそめるような表情筋の動作によって、弱った眼球の筋肉を多少補うことができるのだ。眼鏡あるいはコンタクトレンズがきちんとしていればその必要はないが、今回はそれがうまくいかなかったのだろう。
 それにしても、実に凶悪な面相だった。普段表情に乏しいだけに、その印象がいっそう際立っている。美月などは思わず、懇願していた。
「分かった。分かったから、その目つきはやめて。ね?」
「あ、ああ」
 今ひとつ状況が飲み込めていないようだが、とりあえず光樹はうなずいている。裕也としてもあまり好き好んで見たい光景ではないので、彼の代わりにその正体を確かめることにした。
 幸い、見つけること自体はそれほど難しくはなかった。まず裕也自身が長身なので、人ごみの中でもある程度見通しが利く。そして、その対象の周囲には、なぜか人間の空白地帯ができていた。写真撮影をするための距離とも違う、どこか奇妙な間だ。
「うぐぁ」
 ひと声うめいて、本能的に目をそらす。その結果、鳥肌の立った自分の腕が目に入った。それほどまでに、一瞬でも見えた光景は、凄まじかった。
「な、何よ?」
 一方の美月は、女性としてもやや小柄だ。だから今の所、全く見えていない。
 それが何か、少なくとも決して喜ばしいものではないとは雰囲気から明らかだったが、それでも怖いもの見たさが先立ってしまった。軽く飛び跳ねて、何とかその正体を確かめようとする。
「やめろって、危ないから」
「長見サンのおっしゃる通りにするのが賢明デス」
 裕也に加えて、同様に背の高いケンが制止する。しかし美月は、言うことを聞こうとはしなかった。そもそも、彼女は二人の言葉の意味するところを勘違いしていたのだ。
 無論人ごみで飛び跳ねることも、安全な行為とは言えない。社会人としての自覚があるなら、慎むべきである。しかしそれ以上に、見ること自体が、好ましくない。そういう意味だ。
「な…」
 ついで光樹が、ほとんど意味を成さない一言の後絶句する。
 同時に、アレクも黙っていた。彼の場合日本語が不得手なので口を開かないのがある意味当然ではあるのだが、しかしその端正な顔には明らかにゆがみが生じている。恐らく、母国語を遠慮なく使える環境にあっても、その対象を見たのなら絶句したことだろう。
 美月の好奇心は、ますます刺激された。そして、裕也やケンよりもやや背の低い光樹やアレクの目に留まったということは、相手がこちらへ接近してきている証拠である。美月はつい、目を凝らして身構えてしまった。
「嫌な予感、するんだけど」
 まだ見えていないもう一人、日本人男性の標準と同程度の背丈の持ち主であるリサが、強い意志を持って目を逸らす。それが賢明だと、男性陣四人は理解していた。
 しかし強い好奇心を持った人間を説得するすべなど、この場にはない。それも承知している。敢えてするなら実力行使より他にないが、しかしそこまでの覚悟は、ついていなかった。
 結果、美月は真正面から、見た人間全てが唖然とした光景を捉えることになる。
「…………」
 無言は、彼女が意図した結果ではなかったが、少なくとも客観的に賢明であった。対象との距離が、あまりに、近すぎる。たとえ否定的な言動に走ることが感情的、あるいは生理的には健全な反応だったとしても、しかしそれ以上の意味もなく本人に対して否定的な意志を表明するのは、賢者の行動ではない。
 そして「それ」は、そこを通り過ぎていった。何かの拍子で近寄ってしまった全ての人間を、意図することもなく遠ざけながら。
「人間には…」
 そう口にした瞬間、美月の華奢な体が揺らぐ。それを裕也が、そして光樹が、左右から支えていた。そうされてなお、彼女は態勢を立て直そうとする努力をするでもなく、ただ言葉をつむごうとする。
「人間には、色々な可能性があるっていうことよ。例えば光樹くんみたいに文章一つで人を喜ばせたり、あるいは傷つけたり、それから裕也みたいに一見すると優しいだけだけど、でも実は…」
「もういい。もういいから!」
 理屈も何もない。しかし裕也の強い否定に、美月は小さくうなずいた。
「そろそろ行くとしよう。もう十分だ」
 彼女が何とか彼女自身の力、あるいは裕也の力も含めて、少なくとも光樹の力を必要としないで立っていられる時期を見計らって、光樹が手を離す。それには彼女ばかりでなく、全員がうなずいた。
 良くも悪くも、コスプレには凄まじい力がある。そのことを全員が確認して、六人はこの場を後にした。
 そして例えば光樹などはその時自分が見た光景を速やかに抹消することが望ましいと判断したし、もしそのような自らの記憶に対する操作が可能であるなら、裕也もケンもアレクも、喜んでそれに倣っただろう。
 それほどまでに、「それ」は、あまりに、ひどかった。「世の中には想像力とか思いやりとか、そんな尺度で測れない人間がいくらでもいる」その言葉の、一つの典型である。自分が実際にどんな格好をしているのか、鏡で見てみれば愕然とすることが一目瞭然のはずのその姿を、平然とさらしている。
 そして、その光景に対して最も精神的な打撃を受けたのは、この中では誰よりもファッション、さらにそれを含めた全体的なコーディネートに関心の強い、美月なのだった。「世の中には想像力とか…」などと偉そうな台詞を吐いた、当人である。
 しかし、それを責めるものは、少なくとのこの場にはいなかった。「あれ」を自分の武器とすることをはばからない、そんな道義的に「堕ちた」人間が、誰もいなかったのだ。

続く


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