正しい同人誌即売会の過ごし方(?)
22 遠足は家へ帰るまで、同人誌即売会は撤収作業まで
当然ながら更衣室はコスプレエリアの近くにある、と、この時点では裕也にも分かった。一度サークルスペースに戻ってからまたこの付近へ来るのも面倒だし、さらに利用可能時間も制限されているのだという。そこで、六人全員がついでに着替えを済ませてしまうことにした。
特にリサ一行は、とにかく暑そうな格好である。やらされている形のケン、アレクとしては、用事が済んだ以上早く普通の格好に戻りたかったに違いない。
「やれやれデス」
ようやく一息ついたケンが、そうため息を漏らす。小道具も、大振りの扇から普通の扇子に変えていた。
そしてアレクも、大きくうなずいている。日本語はほぼ分からないはずだが、それでもニュアンスは十分すぎるほど伝わったのだろう。こちらの私服は薄手だが袖の長いシャツ、そしてジーンズという無造作なものである。
しかしそれでも、外国人特有の体形のよさというべきか、あるいはそもそも本人の天性なのか、けっこう見栄えがする。胸のポケットからのぞくサングラスがワンポイントになっていて、洒落た様子だ。
「お疲れ様でした」
社交辞令抜きに、声をかける。女性陣の着替えには恐らくもうしばらくかかるだろうから、彼女達がいないうちに裕也は疑問をぶつけてみた。
「先生はどうしてまた、リサさんに協力しているんです?」
少なくとも、自分から進んでやっている様子はない。彼は苦笑しながら、大きくうなずいた。
「ハハハ。マア、詳しい事情ヲ省いて申し上げるナラ、彼女にはある意味借りがありマスので」
「はあ」
わざわざ省いたのは、言いたくないからだ。そのニュアンスを、裕也は何となく察した。
それから女性陣と合流する。ただ、すぐさままた分散した。リサにはこれまで本を買う時間が全くなかったため、六人で手分けをして買いものや後片付けをすることになったのである。リサの友人である美月は仕方がないとして、裕也や光樹まで手伝わせるのに成功したのは、ケンの提案があったからだった。
「終わっタラご馳走しマスよ。あまりムードのある所ではアリマセンが、それを補ってあまりあるホド酒も肴も旨い、そんな店が一軒新橋にありマス」
これで裕也は参加決定である。光樹はものに釣られる柄ではないのだが、もう少し詳しい話をケンに聞きたいらしく、素直に応じた。
新橋なら行きとは別ルートになるが、帰りの立ち寄り先としては便利だ。幸い、全員が帰りの交通手段として往復の切符ではなく、私鉄各社共通のプリペイドカードを用意していた。
日本語力に期待のできないアレクは始めから残留決定、そして彼とぎこちなくはあってもある程度コミュニケーションを取れる光樹が戻って、美月とリサ二人分のスペースの後片付けをすることとなった。要するにアレクが肉体労働担当、光樹はそれを指揮する頭脳労働担当である。作業手順に関しては、光樹がサークル責任者の二人から聞き取りをしてメモを取っている。残りの四人は買い出しだ。
リサが欲しがっている本はそれなりに数が多かったのだが、さすがに手分けをしただけあって作業そのものは手早く済んだ。広い会場を歩き回る手間がだいぶ省けたのが、第一の勝因だろう。第二には、この時点でリサは行列をしなければならないサークルの本を入手することを完全に諦めており、待ち時間が少なかったのも幸いした。
結局、集合場所と決めたリサのスペースに戻ってきたのが最も遅かったのは、裕也だった。なれていない上に、ケンの次に遠くの区画へやらされたのだから仕方がない。全員が既に顔をそろえているところへ、悪びれずに現れた。
まず前に出たリサが、本を受け取る。
「裕也、どうもありがとう」
「お礼は先生に言ったほうがいいですね。おごってくれるとなれば、このくらいはお安い御用ですから」
「もう言ってるから大丈夫よ」
ケンがうなずく。それなら問題はないと、裕也は思うことにした。そこへ、美月が声をかけてくる。
「おっ疲れ様ー! こっちはもう一通り支度終わってるから、他に用事がなければ撤収作業に入るよ」
「別にないよ。それじゃあ行くとするかね」
「うん。あ、でも一回あたしのスペースに寄らせてもらっていいかな」
「もう片付けたが」
撤収作業組である光樹が説明する。確かにこのリサのスペースも、人がいなくなってしまえば元の状態に戻る、そんな様子だった。いや、正確には今日の早朝、業者がチラシを配る前の状態に、見たところ完全になっている。彼と、そしてアレクの几帳面な性格がうかがえる。
しかし、それでも、美月は首を振った。
「今日は最終日だから、机と椅子を本部に返すまでが撤収作業なのよ。それに周りのサークルにも一通り挨拶をしたいしね」
「そうか」
「じゃあしょうがないな。戻るとするか」
「うん、ありがと」
少なくともとりあえずは今日一日のこととはいえ、サークル構成員の承諾が得られれば問題はない。後は今後行動を共にすることになっている、他サークルとの交渉だ。
しかし、そこはさすがにというべきかリサが融通を利かせてくれた。
「なら、こっちも片付けはじめてみるわね。閉場時間には少し早いけど、とりあえずスタッフさんに掛け合ってみるよ」
「あ、ごめんね、ほんとに」
「ううん、いいのよ。今日は本当に、ミッキーたちにはお世話になったんだし。さあ、とりあえず行った行った! 問題なければそのままそっちのサークルスペースに合流するし、時間まで待たなきゃいけないのならその後行くから、そっちも待っててね」
かなり強引に、それだけにこの場では有効なやり方でリサが話を進める。時にはかなり強引な所がある美月としても、うなずくしかなかった。
「うん。じゃあ、またね」
別に今生の別れではない。もし何かの都合で待ち合わせに失敗したとしても、美月とケンの携帯電話を使えばすぐに連絡を取ることができる。さらに万が一その時点で回線が混線していたとしても、とりあえずケンが言ってた新橋まで足を伸ばせば何とかなるはずだ。
そこでひとまず丁寧に頭を下げてから、美月は自分のサークルへと向かった。
そして、彼女が目にしたのは、予想外の光景である。心配事の一つだった、机と椅子が既に綺麗に片付けられていた。
直感的に、光樹を見やる。あるいは彼ならそこまでやってしまったのかもしれない。そう思ったのだが、しかし現実として、彼は首を振った。
誰が見ても明らかな、厳然とした否定の意志表示だ。ただ、明らかにその途中で、彼は動きを止める。
それを、彼が自らの意見を翻した結果だとは誰も思わなかった。いや、少なくとも、美月も裕也も、そうは思わなかった。
とっさにその視線が固定された先に、一人の男が立っている。正直な所覚えていたくなどなかったのだが、しかし嫌でも覚えさせられた顔だった。
ストーカー男。
恐らく、いや当然ながら彼には彼で、親か誰かにもらった本名があることだろう。そしてまた、知らない以上それを用いないとしても、また別の形容の仕方があるはずだ。特に光樹は言葉による表現が職業であり、そうでなくとも美月には天賦の豊かな感性がある。しかし、それでも、ここに居合わせた三人に、それ以外の名称をわざわざ考え出さなければならない必要を感じた人間はいなかった。
それで十分。それ以上の手間をかけてやることさえわずらわしい。要するに、そういう存在なのだ。
もし例えば、光樹などから「それ」に対する評価を聞きだすことができたのなら、「虫けら」あるいは「ゴミクズ」だろう。もっとも、その可能性は極めて低い。必要さえなければ大方無視、良くて言葉を使うことさえ惜しんでただ軽蔑と嫌悪の視線を向けるのが関の山、そんな所だろう。
光樹を例にとるのはさすがに極端だったとしても、しかし常識的な観点からすれば自分がどう見られるのか、それだけを分かっていれば、ここまで低く評価されはしない。そうなる前に、評価を下げない努力をする。
ただ、それが、その程度のことが分からないから、ストーカーになるのだ。自分達はなまじ物分りが良いものだから、そのことに気がつかなかった。裕也はそう思った。あるいは、そう思いたかった。そうでなければ、事態の再発を予測できなかった自分の愚かしさがあまりにも悔やまれる。
先刻この当人を追い払ったあの時点でもう、話はすっかりついたものだとばかり思っていた。その愚か者の行動を読み誤ったなど、一生の恥だ。
「これで椅子も、それからついでに言えば扇もなくなったって訳だ」
男の顔に、凶暴な笑みが張り付いている。その背後には、ややその度合いが薄いとはいえ、動揺の笑みを浮かべた複数の男達がたたずんでいた。恐らく、ストーカー男の仲間だろう。このような手合いに協力者がいるというのも不思議な気がしないでもないが、しかし低次元の連中ほど群れたがるものだ。そう、例えばある種の、「虫けら」のように。
「なるほど、それは大変だ」
光樹が大した意味もなく応じる。その間に、裕也は可能な限り相手の様子を探っていた。要するに光樹が当座の時間を稼いでくれたと、察したのだ。
ストーカー本人を含めて、男四人。見るからに危険というような人間はいない。むしろ全員裕也に比べれば体格で劣るし、小柄ながらも鍛え上げて引き締まっている、という様子でもなさそうだ。
しかし、人数面での劣勢が大きすぎる。余程腕の立つ格闘家でも、同時に三人を相手取るのは無謀だといわれる。つまり裕也に足止めができるのは、多くて二人までだ。そして光樹は、一人を止められるかどうか。最後に残ったもう一人が美月に迫れば、それで勝負は終わりである。
美月自身の運動能力、あるいは根性に期待していないのではない。しかし彼女への攻撃を阻止することそのものが、裕也の目的なのだ。だからそれが達成できなかった時点で、彼の負けである。ゲームに例えるのなら、それがルールだ。
そしてなお、不快な薄ら笑いが、しかし事実を告げる。
「分かったんなら素直に白状するんだな。まあ、やる気ならそれでもいいぜ。乱闘騒ぎでも起こしちまえば、あんたのサークルは二度と受からなくなる」
襲撃する側に百パーセント非はある。それは誰の目にも明らかだし、必要なら周囲のサークルの人間、あるいはその他目撃者が証言してくれる可能性が高いだろう。
だが、それでも、主催者側として、トラブルに発展した前歴を持つ参加者を敬遠するのは、止むを得ない判断だ。危険に目をつぶって参加させた結果さらに重大な結果になれば、イベントそのものの存続も危うくなる。
道理だけですまない問題はいくらでもある。禁止事項違反をいくらでも目にしている主催者が、それは誰よりも知っているだろう。それだけに、例えば美月自身の保護を理由として、あるいは偶然の落選を装って、今後の参加を断るかもしれない。
「この…」
あまりの卑劣なやり方に、怒り心頭に達した美月が何か強烈な一言を吐きかけようとする。しかし、それでは問題の解決にならない。無論それは美月にも分かりきっているのだが、要求を飲む気も彼女にはないのだ。
だが、それよりも前に出た人間がいる。光樹だった。
「わざわざ全員で応対をする必要もなかろう」
手を後ろに組んだ、尊大そうな様子で男四人の前に立ちはだかる。そして鼻で笑いながら、つけ加えた。
「ここは私一人で十分だ。長見、君は菱乃木の手でも優しく握って下がっていろ」
「ち、ちょっと光樹くん?」
「おいどういう…」
まるで二人が、恋人同士ででもあるかのような言い草だ。しかも、本人はある種のヒーロー気取りのようでもある。とっさのあり得べからざる事態に、二人とも慌ててしまった。
そしてそれを引き起こしたはずの当人が、そんな裕也と美月を一瞬だけ非難がましい目で見やる。ただ、その後はもう、二度と振り返ろうとはしなかった。
「いい度胸だな。しかし話を聞いていなかったのか?」
進み出た結果、光樹はにやついた男達に半ば包囲された形になる。そして軽く、ため息をついた。
「要求も状況も、理解した。むしろ飽きるほどにな」
いい終えてから、さらにもう一度呼吸を整える。それが単なる感情の表現ではないと、例えば裕也などは理解していた。後は、美月が同様の理解に達している、そのことを信じるだけだ。
そして、彼は表情を消して、無感動な声で、つまりはごくごく機械的な、ある種不気味な様子でとうとうと語り始めた。
「しかしまず、前提条件を確認しろ、単細胞生命体並みの低能ども。我々に要求をするなど、進化の過程に照らして約十億年早い。もっとも、おのれ等が何百万年進化しようと、人間様にはならないだろうがな。貴様やお前などという、人間様に対する呼びかけを使うこともためらわれるぞ」
さすがは里中光樹。裕也や美月がそれをきちんと聞くことができる状態にあったのなら、感嘆しただろう。悪罵にすら、博識と鋭い言語感覚が反映されていた。
少なくとも裕也や美月などにこの場でとっさに確認するすべはないのだが、生物の進化の歴史をきちんと覚えているようだ。それに現在では礼儀を守るのなら決して使ってはならない二人称、「貴様」や「お前」が、本来敬称であることも、正確に把握していた。普段彼が使うことの多い「きみ」も、「君主」の「君」であるから敬意の表現であり、避けたのだろう。
そして内容的に高尚な部分がありすぎ、さらに表情も表現力豊かとは程遠いものだったため、その対象となった者達は、彼の言わんとするところを完全には理解することができなかった。精々「低能ども」などという単語から、好意的な発言ではないと察することができた程度である。
「なんだと、この…」
とりあえず反論をしようとはする。しかし、そもそも理解ができていないのだから、話がかみ合わない以前に、何と言ってよいやら分からない。怒りもあるが、それ以上に混乱が先にたっているため、感情が空転しているのだ。
光樹はもう一度ため息をついてから、後ろに回していた手を解いた。それから、どこか大げさな動作で腕組みをする。要するに、尊大極まる態度であることには徹頭徹尾変わりがない。
「私は普段から中学生にも分かる言語表現を心がけているつもりなのだが、中々難しいと常々感じさせられる。世の中には色々な『もの』がいるからな。文章のどこをどう読んだのかも理解しがたい不可解な抗議が来たかと思えば、自分の創作を剽窃したものだと、細部に至るまで妄想によって指摘するものもある。しかしまあ、それもある種神経細胞の活動の結果であることを考えれば、単細胞どもに語りかける徒労よりはましか」
中学生にも分かる表現を心がけるというのは、意思疎通の基本だ。油断しているとすぐに、誤解や無理解を生む。つまりそこまで気を使っていなければ、特に見知らぬ人間に自分の意図をある程度正確に伝えることはできないのである。もっとも、それでも、分かってもらえないケースもある。
例えば、話の通じないストーカーが相手の場合だ。どれほど丁寧に説明をしようとしても、はじめから相手を理解する意志のない、ただ自分の欲望を押し付けようとするだけの存在には、無駄である。それを光樹は「単細胞」だと、彼なりに表現しているのだ。
なお、一度話を脱線させかけて元に戻すというのは、受け手を飽きさせずに要点を繰り返して強調する、表現手法の一つである。
さすがに、いい加減、ある程度は通じた。混乱が、怒りによって次第に駆逐されている。それがはっきりと見て取れた。一瞬で怒りに変わらなかったのは、全てが理解されていないという証拠でもある。
まあ、そもそも。挑発するのが目的なら、もっと効率的な方法があった。わざわざ理屈などを展開したりせず、「馬鹿」だの「阿呆」だの、低次元の罵詈雑言を並べ立ててやればよかったのである。単細胞だとは始めからわかりきっているのだから、そのような表現のほうが余程直接相手に届く。
あるいは女性に固執しているだけに、差別的表現であることに目をつぶって、「女々しい」などの男性としてのプライドを傷つける単語を用いるのも有効だ。さらには、もっと下品な表現、単語も色々とある。
それを理解していながらやらないのが、里中光樹というかなりひねくれた誇りを持った男なのだった。真に誇り高い、つまりは慈悲深さも併せ持った人物なら、ある程度相手に合わせるだろう。そんなことも知っているのだが、それでもだ。
「この野郎!」
男の一人がつかみかかろうとする。しかしその瞬間、別の男があることに気がついた。
「ああっ!」
驚きを表現する、極めて間の抜けた声を発する。その指し示した先には、裕也と美月の姿があった。
だいぶ遠くなってはいたが。
どうやらうまく行ったようだ。目の前の男達の視線の先を察しながら、光樹は小さくため息をついた。それは満足から出る挙動であるはずだが、しかしどうにも不満そうだ。その事実に、少なくとも本人は気づいていた。決して得な性分ではない、その自覚はある、里中光樹だった。
本来嫌いな人間とは話もしないにもかかわらず、下種どもを相手に長広舌をふるい、そして柄にもなく大げさな身振りをした。何しろ誰が何と言おうと光樹本人としては自分を内気だと思っているので、これは極めて不本意な出来事だ。
裕也もきちんと、暗に言われた意味を悟って美月の手を引いているようだ。手を握っていろと言ったのは、逃げ足で男に劣るかもしれない美月を、裕也の脚力、腕力で援護させるためだ。
それから、始めのうち手を後ろに組んでいたのは、正面に展開する連中から見えない所で手を振って、追い払うようなしぐさをするためである。
そこまできちんと努力した甲斐があって、二人はそろりそろりと、長話の際に後ずさっていた。完全に姿が消えるまで逃げられれば理想だが、しかしさすがにそうも行かない。それは、光樹にとって予想の範囲内だった。
「この際だ、走れ!」
心に決めていた通りに声を上げる。大声には正直な所自信がまるでない。そもそも、自分がこれより前にいつ精一杯声を張り上げたのか、記憶力に優れる彼が、覚えていなかった。
しかし幸い、言われたとおり、裕也と美月は走って逃げ出した。
男達があっけに取られた間に、二人はさらに距離を稼ぐ。その姿にようやく、ストーカー男は自分のやりたいことを思い出した。
「追うんだ!」
とりあえず追いかける。ただ、その中で一人、自分たちを翻弄した男に注意を向けたものがいた。
「こいつは!」
血走った目で振り返る。そしてその時、光樹は彼らとすれ違う形で逃げ出していた。つまり、裕也、美月とは逆の方向へである。
「どうした。散々馬鹿にされて、背を向けて逃げ出すのか?」
視線に気がつくと、立ち止まって挑発する。要するに最後の時間稼ぎだ。
いや、正確にはそのはずだった。挑発の効果が大きすぎて、振り返った一人はそのまま光樹を追いかけ始めたのである。美月を追いかける人間が減ったことは大手柄と言うべきだが、本人としては完全に予想外の事態だ。
相当程度理知的な人間なら、聞く耳を持たずにそのまま二人を追い続けるはずである。しかし単細胞だから、少しは足を止めるだろう。光樹としてはそう考えていたし、四人中三人に関しては実際そうなった。しかし残る一人の単細胞ぶりは、彼の予測の範囲を超えていたということである。
これまで散々コケにしていたのだから、この読み違いは光樹自身がうかつだったというほかない。
「理解できない」
非難がましくつぶやいてから、結局彼は彼で全力で逃げ出すのだった。逃げ足にも、そして一対一の勝負になった際の腕力にも、実際全く自信がないのだ。折角開いている距離を、最大限活かすしかない。
「会場内では走らないでくださーい!」
事情を良く知らない、しかしこの計七人の規則違反を見咎めたスタッフが注意する。しかし成り行き上当然ながら、誰もそれに耳を貸したりはしないのだった。
「さあてどうしたもんだか」
一方、美月の手を引いたまま逃げ続けている裕也はそうつぶやいていた。人通りの多い会場内で全力疾走は不可能だから、体力的にしゃべる余裕はある。むしろ必要なのは、行きかう人間をよける反射神経と瞬発力である。
幸い美月もそれらの能力に優れているようで、さほど足手まといにはならない。ただ、どこまで持久力があるかは未知数だ。いつまでも逃げ続けるわけには行かない。
「いざとなったら叩きのめしていいからね!」
喧嘩になったら今後サークル参加の障害になるかもしれないとはいえ、美月も何よりまず自分達の生命身体が大事だと承知している。それにそもそも、怪我をさせられたら本も服も作れない。
「サシの勝負なら絶対ぶっ飛ばす。でも三人は無理だ」
追っ手はいつの間にか一人脱落している。理由は裕也たちには分からないのだが、ともかく数の減少は察知していた。
「二人なら?」
「一人自分で引き受けてくれ」
一応、冗談である。しかし下手な冗談だった。
「よっしゃ、やってやる!」
見事に通じない。美月が裕也に握られていないほうの手で、握りこぶしを作る。ほっそりとした指先、手首はそんな動作に全く似合わないのだが。
「まあ落ち着け…」
一応なだめながらも、少なくとも彼女の元気が失われていないことが、実は裕也には嬉しかった。さらに美月が指示を飛ばす。
「撒いちゃおう。運転手さんそこを出て」
「はいはい」
どうやらというべきかやはりというべきか、冗談のセンスなら美月の方が上のようだ。苦笑しながら、裕也は言われたとおりに手を引いてやった。美月が目指しているのは展示場ホール同士をつなぐ廊下である。
「二階に上がると見せかけて、下りるから」
「なるほど」
この建物の主要通路は、一階部分に外部との出入り口、隣接する各展示ホールへの出入り口、さらに自動販売機や公衆電話機などの設置区画が置かれている。そして二階部分は飲食店や売店などのある種商店街のようになっており、さらにその先には別棟や最寄り駅へと続く連絡通路となっている。
様々な需要、そして何より多数の来客を処理するためにそのような設計をしたのだろうが、結果として少々複雑になってしまうことは止むを得ない。一度二階通路に上がってから、別の経路をたどってもといた場所に戻ってくることも容易にできる。
「一段飛ばしで上がるからついて来いよ」
エスカレーターがあることは、遠くからでも容易に見て取れる。しかしそこにもそれなりに人通りがあるし、また主催者側がその上で歩かないよう指導している。階段を一気に駆け上がったほうが早いと、裕也は判断した。
しかし、だ。特に段を飛ばしながら走り抜けるとなると、それなりの脚力が必要になる。失敗すれば途中で失速するし、その場合はよろけてかえって時間を空費する可能性もあるのだ。基本的には体格が大人になっていないとできないし、また成人でも特に女性の場合、ハイヒールだとまず無理である。
幸い今日の美月の足元はローファーだが、そもそも脚の長さに難点がある。別にスタイルが悪いのではない。むしろ身長に占める割合としては大きい方なのだろうが、しかしその身長そのものが大きくない以上、脚の絶対的な長さというものはたかが知れている。
無茶かもしれない。しかしそれは承知の上だ。そうしなければ、追ってきている人間も男である以上、追いつかれてしまう。それを、無理をさせられることになる本人が、誰よりも承知しているようだった。軽くうなずいて、そしてもう、その階段まで距離のないところへ来てしまう。後は任せるしかない。
「ちゃんと引っ張ってね。…せーのっ!」
「行くぞ!」
息を合わせて、そのまま何も考えずに駆け上がる。自分と、そして美月の姿が、いつの間にか二階廊下にあった。
美月が声を弾ませて叫ぶ。
「よし! このまま出口まで行くよ!」
「おうよ!」
自称「女優」も全くの出鱈目ではない。芸のない、ただ威勢だけはいい返事をしながら、裕也はそう思っていた。相手に聞かせるためにとっさにわざわざ大声を上げて、そして別方向へ逃げるつもりなのだ。
そのため、予定通り階段を上がった結果相手の死角に入っているうちに逆方向へと走り出す。さらに一階に下りた後も、念のため人通りの絶えた一角へと身を隠した。通常は裏口の一つとして使われている場所のようだが、今は主催者側の都合でか封鎖されており、誰も入ってこない。単なる行き止まりとなっている。
「ふう…。ここまで来れば何とか、ってとこだな」
額に噴き出す汗を手でぬぐう。そう言えばこの会場暑かったんだな、と、何故かこのとき思い出した。
「ふう…ふう…はあ…はあ…」
一方の美月には、とっさには応じられないほど疲労の色が濃い。止むを得ないことだったとはいえ男の脚に無理につき合わせたのだから、当然だ。少し休ませなければ、普通には動かせそうにない。
「とりあえず水でも飲んでおけよ。もうすっかりぬるくなってるけど、ないよりましだろ」
手荷物の中からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。それは、今朝のうちにほかならぬ美月の指示で用意したものだった。水分が必要になるからということでの物であり、また現実としても必要になったのだが、その場合には幸い自動販売機が利用できたため、荷物の中の水は使わなかったのだ。
普段なら、もったいないからといってまず持ち合わせたものから使っていただろう。しかしこのある種の極限状況の下では、できる限り冷たいものが欲しくて、自動販売機に頼っていたのだ。
「ん…」
うなずいてから、美月はそれをごくごくと飲む。裕也は肩をすくめた
「おい、むせるなよ」
「んー!」
自分はそこまで間抜けではない、と、ペットボトルに口をつけたまま視線で抗議する。仕方なく、裕也はもう一度肩をすくめた。
「分かった。だからとりあえず落ち着け」
「ん」
結局美月は、一連のやり取りの間中口を離そうとはしなかった。ただ、その後急に何かに気がついた様子で、すまなさそうに裕也を見やる。
「何?」
「ごめん。裕也だって、のど渇いているよね」
「別に、大したことないけど」
まあ、渇いているかそうでないかと二者択一をさせられるのならば、それは確かに渇いている。しかし自分以上に負担のかかっている美月を押しのけてまで、自分の体調を整える気もない。裕也としてはそう、考えていた。
「それにちょっと、汚しちゃってるし。ほんとに、ごめんね」
伏せた美月の視線の先には、ボトルの口があった。本来白であったはずのものが、少しピンク色に染まっている。今日彼女が使っている口紅の色だ。
先程の着替えで一度それまでの化粧を全て落として別のものにする、という時間まではなかったはずだから、恐らくコスプレの際のメイクそのままだろう。コンセプトは「かわいい系」といった所だと思われる。
美月はハンカチでそれをぬぐったが、しかしそれだけで全て落としきることはできない。
「そんなこと気にするなよ」
そもそも彼女が気にしているのは、「そんなこと」ではない。ストーカー騒ぎに巻き込んでしまったことを、済まないと思っているのだ。分かってはいたのだが、しかし知らないふりをした。知っていると示すのは、結局責めることに等しい。
だからそれ以上何か言ったりせずに、返してもらった水を一気に飲む。その口を、何故か美月が眺めていた。
「何?」
美月から戻された時点でだいぶ量が減っていたので、飲み干して反応するまでさほど時間もかからない。それを見計らってから、彼女はくすくすと笑った。
「間接キス」
確かに、ボトルの口にはまだかすかだが彼女の口紅が残っている。裕也は自分の髪をかきあげた。
「この馬鹿…」
別に先程の反省が、演技だったのではない。彼女は心底そう思っていたはずだ。ただ、そのすぐ次の瞬間に面白そうなことを発見したので気分が変わった、それだけのことである。最大限好意的な表現をすれば、物事をあとまでずるずると引きずったりしない、どこまでも前向きな気質だ。
だから、楽しい事に関しては驚くほど記憶力が良い。例えば裕也が、そういう冗談に反応しやすいときちんと覚えている。髪をかきあげたのも、一つには表情を見られたくなかったためだ。
「さて。幸い撤収作業も何だかんだで終わってるはずだし、さっさと会場を出ちゃおうか。ケン先生との約束は、とりあえず新橋へ向かっていれば何とかなるでしょ」
そしてさらに、美月が話を変える。それに対して一々腹を立てていても疲れるだけなので、裕也はうなずいて歩き出した。
そう言えば今朝光樹と話をしていたときも、同じような応対をしていた、とここでふと思い出す。ああ、そうか。美月と光樹、この二人それぞれの「ペース」に著しい差が見られるものの、詰まる所「マイペース」が共通しているから、意外と仲がいいんだ。何故か今、そんなふうに気がついた。
付き合わされる側としてはどう頑張っても結局疲れるんだがな、それが今日の感想である。その微妙な意味合いの視線に、美月が気づく。
「ん、何?」
「先生の携帯には連絡を入れておいたほうがいいんじゃないか。こっちは突然いなくなったような状態だし」
とっさにごまかしたが、この場面では正しい対応でもある。裕也自身携帯電話は持っているのだが、相手の番号を知らない。一々彼女から聞き出すよりは、彼女の携帯電話のメモリーを使ってかけさせてしまうほうが早いはずだ。
「そうね」
うなずいた美月が、着信履歴からケンの番号を呼び出してかける。相手はそれを待っていたかのように、すぐに出た。
「今どちらデショウ?」
「ごめんなさい、まだ会場内です。例のストーカーがまた来ちゃったものですから。でももう大丈夫、とりあえずこれから出る所です」
「お気をつけ下サイ。極度に執拗な性格だからコソ、ストーカーになりマス。そちらの詳しい場所を教えて頂けマスか? 合流しまショウ」
「ありがとうございます。ちょっと入り組んだ所なのですけれど…」
電話でのやり取りだから、裕也には向こうのケンの声は聞こえていない。しかし、彼が言っている内容の一部を、この時嫌というほど思い知っていた。大きな声で、彼女の注意を強引に周囲に戻させる。
「本当にしつこいな…。おい、美月!」
「え? 何、って…」
美月が顔を上げる。その先に、三人の男が立っていた。
「もうほんと、勘弁してよ」
心底情けない顔をする。それが、この時彼女としての、偽らざる気持ちだった。確かに、しつこいからこそストーカーなのだ。電話の向こうでまだケンが何か言っているようだが、もう話している場合ではない。
「勘弁して欲しかったらさっさと吐けってんだよ!」
ストーカー男が怒鳴る。本人としては至極真面目なつもりなのだろうが、しかしどこか滑稽だ。
美月は別に、この男に許しを請いたくて、勘弁して欲しいと口に出したのではない。もううんざりだ、という気持ちを表現した、ただの独り言だったのだ。例えば突然の雨に降られたときなどに愚痴るのと、同様の行動である。結局、徹頭徹尾意志の疎通ができていなかったということだ。
「偉そうにほざくな変態」
そして、すかさず言い返したものがいる。その毒々しさからしていつの間にかまた現れた里中光樹、ではない。美月の前に立ちはだかった、裕也だ。一々難しい理屈をこねたりせずに、正面からむき出しの敵意と罵声を叩きつける。同じ毒々しさでも、性格によってそんな違いが出てくるものなのだ。
「なっ…」
「貴様なんぞと係わり合いになるのが嫌だからこれまで逃げてやっていたが、もう我慢も限界だ。これ以上つげあがっていると、殺すぞ」
光樹は敢えて「貴様」という表現を避けていたが、裕也はそうしない。言葉の成り立ちなど、少なくとも今の裕也にとってはどうでも良いからだ。軽蔑の意図を表す現代語の二人称、あくまでその意味である。それで十分だ。
既に実力行使は避けられない。そうなればもう、裕也としては遠慮する理由をひとかけらも見出すことができなかった。
続く