Alpha-Lord Episode 1.0
白い世界で
第2話 白い人々
U
天井、壁面、床、全て白かったものが急速に色を得て行く。それはやがて、大小の構造材と配管がからみあう風景へと姿を変えた。何らかの工場ないし軍事施設の内部を模しているのだろう。重力制御状態が変動し、機体全体にかかっていた負荷がなくなる。ただし宇宙空間の開放施設ではなく閉鎖空間との設定であるらしく、減圧は行われない。ここが単なる倉庫ではなく、ディーフ運用の試験場であると先刻知らされた。風景が変わったのは、パネルに映像が表示されたためである。
「初級曹、準備はいいか」
「少し違和感があるのですが…」
「とりあえず動かしてみて、それから調整しよう。補正するのにもデータが必要だ」
「了解です」
「では、始めよう」
アシュアランスによるツァオロンの第一次搭乗試験、それは機体を見せられた直後に始まった。慣れていないと思うように動かせない。新しい機体にはなるべく長時間乗っておくものだ。
正面にダルデキューア軍のディーフ、ニーズホッグが姿を現す。もちろん擬似映像だ。狙点を合わせて迷わず引金を引く。銃もシュミレート用のポインターである。
「…!」
異様な音が響き渡った。このシュミレーターはかなり芸が細かいので撃破音も迫真に迫っているが、それとは全く違う。実際の音、それも内部からのものだ。射撃のために跳ね上げた腕が重い。
その間にも第二の目標が姿を現す。回避運動をしつつ射撃、撃破したが異音は更に大きくなった。機体全体が不調をきたしているらしい。これ以上のテストは有害無益だ。
「中止して下さい!」
「このままじゃ新品の機体が台無しです!」
アシュアランスの声にリファームが呼応する。彼女はモニター室で状況を見守っていたのである。それは他の研究所の技術者達も全く同感であったらしく、すぐにプログラムが止められて背景映像も消え去った。
「こらアッシュ! 何考えて動かしてんのよ!」
「馬鹿、考える以前の問題だ。未調整だぞ、この機体」
「そんなはずはない。艦隊司令部から呼び出した君のデータをもとに調整している」
アシュアランス、リファームに加えて研究所の職員まで巻き込んだ口論が始まりかかる。カイスがそれを素早く収拾した。
「リーグ初級曹は現状で待機、とりあえずそれ以上動かさないで下さい。皆は適合性を再チェック、もらったデータを当てにせずに今取ったデータを使え。クラスト中級曹、ちょっと下へ行って様子を見てきてくれませんか」
「了解です」
各人、それぞれに必要な仕事をするために動き出す。整備マニュアル片手に、リファームがモニター室を飛び出した。
「うわ、何だこりゃ。再計算の必要もないぞ」
開発主任がチェックを始めるなりエラーが表示された画面を前に頭を抱える。カイスがその肩越しに、データを覗き込んだ。口元に苦笑が浮かぶ。
「調整以前の問題だな、ディムス。機体そのものへの適合性欠如だ。こればかりはいざ乗せてみないと分からないし」
ディムス=フート、ツァオロンの開発主任は険しい目で振り返った。
「笑い事じゃないぞ。ここまで機体の好みの激しい奴は初めて見た」
「それは違う。一度見ているよ。そいつのわがままに付き合わされて、旧式機体の大改造までやってのけたじゃないか」
カイスがにやにや笑いを浮かべる。モニターの発する下からの光を眼鏡が反射して、一種異様な光景だった。
「…ああ、やったな、一回だけ。フェイロンAT、忘れもしないぞ。あれは改造なんて問題じゃない。再構成だった。普通に設計するより手間がかかったんだからな」
それ以来の付き合いである。だからお互い言う事に遠慮がない。
「それは何度も聞いたよ」
「ったく…まさかそういう理由で彼を選んだんじゃあるまいな」
「それは違う。まあこうなるんじゃないかと内心危ぶんではいたがね」
「何だそりゃ。天才の言うことは分からなくて困る。そもそも何で内定していたパイロットを一人切ってまで彼を推したのか、そろそろ凡人にも分かるように説明してくれないか。もちろん彼の戦績は初戦闘にしては大したものだが、ここまで強引にする必要があるとは思えない。あんたのこだわりようは、客観的には異常だぞ」
カイスも暇人ではない。いや、むしろ多忙な人間と言って良いだろう。それが丸一日空けてたった二人の下士官に費やしている。アシュアランスの疑問はもっともである。
「試験場の様子くらいモニタリングしているだろう。さっき彼にも言ったぞ。彼女の存在が決断の理由だって」
「俺までだます気か」
「信用がないね、どうも。確かに議員より胡散臭い商売など珍しいかもしれないが」
ディムスの表情は相変わらず厳しい。肩をすくめ、そして間を置いてから、カイスは続けた。
「もしその場にいたのが彼ではなかったら、戦闘が終わった時に彼女はただの肉の塊になっていたさ。戦闘装甲服は冗談で着ているわけじゃない。普通あれがなかったら、機体を旋回させた瞬間に内装に叩き付けられる。一度で致命傷を受けてもおかしくはない。しかし軽度の打撲傷だけで済んだそうだ。詳細なデータは彼の機体待ちだが、しかし芸術的なほど繊細な機体運動だったと断言できるよ」
「おい、まさか…」
「いや、確証はないよ。まだ可能性の段階だ。どうも特殊な事例のようだしね。元々特殊と言えばそうだが」
「どうするつもりだ、それで」
「もう対策は取っているつもりだよ。確証が持てないからこうして自分の目で監視している」
元軍人にしては細い、繊細そうな指先が眼鏡のフレームを二度叩いた。ディムスがつばを飲み下す。
「なるほど…」
「それより、面白いものが見られそうだ」
カイスは笑って、話題を変えた。メインモニターに作業服姿の少女が映し出されている。機体に取り付いて、丁度カメラの方に向いている所だった。
「いじっていいですか?」
「あん? いくらいじってもどうにもならんぞ」
マイクが入っていない状態でディムスがつぶやく。カイスは表情で承諾をうながし、回線をつないだ。そうするとディムスとしても許可を出さざるを得ない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
リファームは勇んで右上腕部の装甲版を解放し、操作系回路を露出させた。それを新品の装甲服に身を包んだアシュアランスが心配そうに見守っている。
「数値の上では完璧なんだけどね…それだけじゃ測れない個人的な癖っていうものがあるんだから…」
「行けそうか?」
「あたしを誰だと思ってるの? 天才リファーム様よ!」
「…………」
「…と、言いたい所だけどね、機体全部調整し直したら十時間以上かかるだろうし、応急処置で手一杯よ」
「…そうか。手伝えるか?」
「そんな事を聞く前に手伝うものよ」
「了解」
言われた通り、あるいは状況を見て言われる前に工具を差し出して行く。次第にリファームは作業に没入して行った。甘いほどに優しい声で語りかける。
「さあ…いい子だから力を貸してちょうだい。こいつ見かけ恐いし口も悪いけど、そんなに悪い奴じゃないから、ね」
アシュアランスは敢えて、反論しなかった。
三十分後、アシュアランスと機体との適合不良は目覚しいまでに改善されていた。リファームが十時間かかると言ったのは、彼女が満足するレベルまで完璧に調整すればの話である。
「掘り出し物だね。正直な話、彼女は彼のついでだったのだが」
カイスは淡々と評したが、しかしディムスは驚きを隠そうともしなかった。
「信じられない。あの若さであれほどの腕とは」
「英雄だ天才だとおだてられていい気になるべきじゃない。うかうかしていれば追い越される。そういうことだと思うよ」
笑いながらカイスは言ったが、当の彼女が戻って来たので口を閉ざして表情も消した。
第一次搭乗試験終了。アシュアランス、リファーム、カイスの三人はカイスの車でダーネスの研究所を後にした。その際、巨大なトレーラーと行き違う。全幅が乗用車の優に数倍ある、この種の良く整備された施設でなければ通行にも苦労する種類のものだ。
「ディーフ搬送車?」
はるか遠くからでも瞬時に分かるその異様を目にして、リファームが頓狂な声を上げる。あれだけ巨大な台車を必要とする種類の車などまずない。
「珍しくないだろう。ここはディーフの研究施設なんだから」
アシュアランスは肩をすくめるが、すぐさま反論が返ってきた。
「これだけの施設なら外部や港湾施設につながるレールを持ってるはずよ。フル装備でパッケージされたコンテナごと必要な所まで搬送される。一々あんなの使っていたらきりがないもの。最新機のごく初期型とか、完全な規格外品とか、余程特殊な機体じゃない限りあれでここにディーフを運ぶなんて却っておかしいのよ」
「そうですね。私の機体もあれを使って搬送しなければならなかったので、担当の人達にはえらく不評でしたよ。何しろ余計な手間がかかるもので」
カイスが補足する。リファームが窓に張りついた。
「でもフェイロンATはあの中だし、他のアシャー二人の機体は別メーカーのはず、すると…もしかしてツァオロンの次の機体!」
窓を空けて身を乗り出そうとする彼女を、アシュアランスは引きずり戻した。
「放せ!」
「馬鹿、危ない、落ちる!」
「残念ながら新型機じゃないですよ。あなた方も良く知っている機体です」
カイスが車のスピードを絞って、二人にすれ違うものが見やすいようにした。まるでうずくまるようにして固定されたモスグリーンのディーフ、その片足は失われていた。そしてそれが、研究所へと消えて行く。
「俺の機体!」
「あたしの機体!」
空母マワーズに積まれていた予備機、二人を生還させた機体だ。
「何故こんな所に?」
二人の声がぴったり重なる。カイスが笑って振り向いた。
「精密なデータが必要になるかと思って、こっちに回してくれるように頼んだんですよ。どうやら役に立ってくれそうです」
「解体検査ですか?」
再び、同時。心配に溢れた調子まで全く同じだった。くすくす笑いながらの答えが返って来る。
「そうなりますけれど、でもここにも整備士魂を持った人は大勢いますからね。検査が終わったらちゃんと元に戻してくれますよ。例え別メーカーの製品でも。ばらしてそのまま廃棄処分、という事にはなりません」
「良かった…」
ここまで完全に、二人の息は合っていた。しかしこれまでだった。
「…さっき『あたしの機体』って言ったよな」
「…さっき『俺の機体』って言ったよね」
「ありゃ俺のだよ。俺が操縦したんだから」
「なに馬鹿言ってるのよ。あたしが持ってきてあげたんだからあたしのに決まってるでしょう。整備もしてたんだし」
「誰が整備しようと機体はパイロットのものだよ」
「うぬぼれて…!」
たちまち口論が始まる。カイスはいつまでも笑っていた。
アストラント星系における首都機能は三つの人口惑星に分散されている。センタストTが政治及び経済の中枢、Uが軍事中枢、そしてVがこの二つの機能を支える人口を収容する居住区となっている。ダーネス社の研究所があるセンタストUに続いてアシュアランスとリファームが訪れたのは、そのセンタストVだった。
二人とも今日泊る当てもない。そこでカイスの好意で彼の家にしばらく居候することになったのである。アシュアランスは始め遠慮したのだが、しかしじきに新しい艦に乗らなければならないので部屋を借りるのも非効率だし、かといって軍関連の施設は何かと制約が多い。結局好意に甘える事にした。
ただ恐らく短期間になるとはいえ、ホテルではないので泊るのには日用品などの準備がいる。そこで直接カイスの家には向かわず、住宅街に隣接した商業区画に立ち寄っていた。カイスには彼の買い物があるとかで、駐車場で別れている。
「しかし、一体なんでそんなに荷物が多くなるんだ」
アシュアランスは必要な物が大体重複するだろうと思ってリファームに同行することにしていたのだが、しかし一緒に買い物をするにつれてだいぶ後悔するようになっていた。最低限、コンパクトに荷物をまとめる彼に対して、リファームは際限なく持っている物を膨張させて行く。始めアシュアランスは彼女も女だからと大目に見ていたのだが、しかし長時間付き合わされるに及んで忍耐力をすり減らしてしまった。
「一体何がそんなに必要なんだ」
「うるさいな。女は色々と大変なのよ。あんたには一生分からないだろうけど」
文句を言うにも体がよたつく。上背があって日頃重い物を持ったりするので腕力は平均的な女性以上にあるのだが、この場合むしろ重要なのはバランス感覚だ。
「大変でもなんでもとりあえず必要な物だけ揃えればいいだろう。あの人だって待っているんだぞ。ほら貸せ、ちょっと持ってやる」
ちょっとと言いつつ、アシュアランスは彼女の荷物を大半肩代わりした。うまくバランスを取ってかさばる荷物を持っている。リファームが目を丸くした。
「驚いた。いつも文句ばかり言っているから、そんな優しい所があるとは思わなかった」
「優しいとかそういう問題じゃないな」
薄く笑って、アシュアランスは真顔を作った。
「なあリファーム、朝人に会ったらなんて挨拶する?」
「何よいきなり。おはように決まってるじゃない。頭どうかしたの?」
「いや。じゃあ人と別れる時は?」
「さようなら」
「何かしてもらった時」
「ありがとう」
「良くできました!」
白い歯を見せて、さわやかにアシュアランスは笑った。両手がふさがっていなければ親指を立てていたかもしれない。リファームが顔を引きつらせて後退する。
「…無愛想な奴だと思ってたけど、あんたその方がいいわね。今の違和感は宇宙空間で豚がラインダンスを踊っているより凄まじいって。しかし何が言いたい訳?」
「分からないかな。礼儀だってことさ。女が荷物抱えて苦労してたら助けるのが礼儀ってものだよ。少なくとも俺の故郷ではそうだぞ」
「へえ…あたしは悪い考えとは思わないけど、ちょっと古風かもね。フェミニストの中には嫌がる人もいるだろうから、気をつけたほうがいいんじゃないかな」
「知るか。助けられてへそを曲げるような女にはむしろ嫌われたいね」
「うん、その辺いつものアッシュだ。でもそう言えば、アッシュが出身地の話をするのって初めてよね。あんまりそう言う事を話したがらないのかと思ってたけど」
「別に。機会がなかっただけさ」
「ふうん…じゃあこの際だから聞いておくけど、どうして今日の話を引き受けたの。軍隊が嫌いだって言ってたから断ると思ってたのに」
「嫌いだからだよ。戦死なんて馬鹿馬鹿しい。試験機のパイロットが死ねばそれだけ会社の信用も落ちるから、ダーネスは必死になって俺達を守ってくれる。最高の人材を揃えて、慎重に動かすはずだ。後は落ちこぼれないように気をつければいいだけのこと」
「策士だね…」
リファームはあきれた声を上げたが、アシュアランスは苦笑して首を振った。
「議員さん程じゃないよ。あの人が何を企んでいるのかこっちにはまるで分からない」
「考え過ぎじゃないかな、それ」
「さて…それより、俺の方からも一つ聞いていいかな。なんだってまた一緒に住むことにしたんだ。男の家に若い女が住む意味くらい考えなかったのか」
「あ、何? あたしのことそういう目で見ているわけ? それじゃ気をつけなきゃ…」
ふざけて身をくねらせている。それを冷然と切り捨てた。
「阿呆。世間体を考えているだけだ。俺やあんたはともかく、あの人には迷惑になるかもしれないだろ。本人は全然気にしてないようだが、社会的な地位ってものもあるんだから。ミーハー根性でついていって迷惑をかけたんじゃ洒落にもならんだろう」
「うー…あたしだってそのくらいは考えてる。でも自立しようにも世の中先立つものが…」
「金かよ。今まで俺より階級が一つ上だったんだから給料も多いはずだろ。一体何に使ってたんだ。艦に乗っている間は使う当てもないから俺なんか貯めているぞ」
「ああもう、小舅みたいに。色々とあるのよ、色々と!」
怒鳴ったために、周囲に対する注意が散漫になっていた。怒らせた肩がすれ違おうとした人にぶつかってしまう。
「あ、ごめんなさい!」
「気をつけろ!」
リファームに非があるとはいえ、ずいぶんと好戦的な反応であった。アシュアランスもリファームも足を止める。相手は彼等と同年代の少年だった。アシュアランスは良く知らないのだが、流行りの物らしい派手な服に身を包んでいる。同様の服装をした少年が五人ほど、連れ立っていた。
「済みません」
リファームも気分を害したが悪いのは自分だからもう一度謝る。そして行き過ぎようとしたが、相手の刺々しい一言がそれを止めてしまった。
「ふん、ダサい服の奴はやはり頭も抜けているな」
リファームの靴のかかとが勢い良く路面を打ちつける。そして強烈な視線で相手を睨みつけた。確かに今彼女が着ている服は彼女自身気に入ってなどいない、間に合わせの物であるが、それを気にしているだけに指摘されると頭に来る。それでもなお、相手は罵倒を止めなかった。
「なんだその目は、悪いのはそっちだろうが。その程度の事も分からねえのか。カスだな」
切れたな、これは。アシュアランスはリファームの様子を冷静に眺めていた。
「下手に出てるからっていい気になるんじゃないよ! たかが肩がぶつかったくらいでぐだぐだぐだぐだ、ねちっこいったらありゃしない。その頭の中には脳みその代わりに鼻水でも入ってるんじゃないの、きったないわね!」
確かに入っていそうだ、アシュアランスはそんな事を考えながら一歩踏み出して二人の間に割って入った。男がリファームにつかみかかろうとしたのだ。彼女は彼女で腕をまくろうとしている。
「邪魔しないで、アッシュ! こんな奴あたし一人で片付けられる。かばってもらう必要なんてない!」
「何だてめえは!」
前後から怒鳴られてもなお冷静に、アシュアランスは持っていた荷物を全てリファームに押し付けた。
「かばうとかそういう問題じゃないさ。リファーム、寝る時にはなんて挨拶する?」
「…おやすみ」
「相手に悪いことをしてしまった時には?」
「ごめんなさい」
「良くできました」
白く細い手で、彼は彼女の頭をなでた。柔らかな笑顔の前に、リファームは一瞬どきりとしてしまう。
「あ…って、何するのよ!」
「これも礼儀の内だ」
言いながら、微妙に足の位置を変えた。足さばきの下手な人間は強くなれない。
「感動的な光景だな、色男さんよ。しかしそうかっこつけても後で無様になるだけだぜ。俺は軍隊格闘技を知っているんだ。その生白い顔が潰れるだけだぞ」
相手の顔が嘲笑にゆがむ。アシュアランスは顔をほとんど動かさなかった。まさに人形顔である。
「良かったな。それがどうかしたのか」
アシュアランスが言い終えるのと、相手の拳が襲いかかってくるのがほとんど同じだった。鈍い音と共に、アシュアランスの上体が大きく傾く。
「馬鹿が!」
「アッシュ!」
「リファーム、必要があれば後で証言してくれ。正当防衛だ」
そこにある物を取ってくれとでも言うような口調で、殴られたはずの少年は言った。そして直後に鈍い音がする。頑丈な軍用ブーツが相手のすねを蹴り砕いていた。聞き苦しい悲鳴が上がる中、アシュアランスは相手の拳が当たっていた頬をぬぐう。わずかに赤くなっている程度、殴られる前に体をそらせて衝撃を吸収していたのである。
「うるさいよ。少し静かにしろ」
たまらずうずくまる男の胸にブーツのつま先が突き込まれる。もはや声さえも出ずに、道路上をのた打ち回る事となった。
「…病院にでも連れて行かなきゃ可愛そうなんじゃないか。俺の知ったことじゃないが」
一方的に打撃を受けた相手の連れに対し、アシュアランスはやはり無感動に言った。五人は一瞬ひるんだものの、すぐに一斉に襲いかかってくる。五対一、いくら相手が強くてもそれなら勝てると踏んだのだ。まず常識的な判断であろう。
しかし、この際常識は無力だった。力任せに襲いかかる拳を、緩やかに動く白い手が軽く払う。それで態勢が崩れた足を、ブーツの踵が短く、しかし鋭く踏みつけた。足指の骨を複数折られた者が転倒する。その時、既に別の人間がアシュアランスの相手となっていた。
格闘戦の場合、人間は足を使えなくされれば戦闘不能になる。いくら上半身が無傷でも、立っていられない、動けないのではやられるだけだ。それも大腿骨などの頑丈で、しかも基本的に人体の中で最も分厚い筋肉に覆われた主要な箇所でなくて良い。片足の先端部、第一指を砕いただけでも歩けなくなると、想像するだけで分かるだろう。
そして程なく、それぞれ足の何らかの部分を抱えてのた打ち回る六人を、薄灰色の瞳が淡々と眺め下ろしていた。できつつある人波に飲まれながら、リファームはそれを呆然と見詰めていた。
後刻、アシュアランスは警察署内にいた。やむを得ない成り行きである。その場では逃げる事もできたのだが、それではかえって事態がややこしくなるかと判断して大人しく捕まっている。現に署内で応対に当たった警官も、またつまらない仕事が増えたという顔を隠そうともせずに書類を作り始めていた。
しかし、ロビーから身柄を移されるに及んで様子がおかしくなってきた。入れられたのが妙に奥まった所にある、狭い部屋だったのだ。机も椅子もない。取調室であると考えるには、無理が多すぎた。
「……」
不審の目で自分を連れてきた警官を見やる。五十歳前後とおぼしき私服の男で、険しい目つきと笑う形に固定された大きな口が見ていて不快だった。
「この犯罪者が、警官に向かってそんな目をするんじゃない!」
そして鍵が閉められるなり、腹を殴られた。狭過ぎて避けようがない。さすがに先程よりもはるかに重い打撃で、呼吸が詰まった。
「…いつから、アストラントの警察は拷問をするようになったんですか」
怒りよりもまず驚きで、アシュアランスはそう言った。嗜虐的な笑みが返って来る。
「ガキが、偉そうな口を叩くな。貴様のようなサルに人権なんてないんだよ。自分が怪我をさせた相手が誰だか分かっているのか」
更に二発、胴に拳が入る。アシュアランスは顔をしかめたが、悲鳴などは上げなかった。代わりに答える。
「…さあ?」
「自治評議会評議員閣下のご子息だよ。分かったか! ほら、分かったかと聞いているんだ! 答える事もできないか! 不気味な面しやがって!」
殴られながら、アシュアランスは自治評議会が何であるかを多少時間をかけて思い出していた。首都であるセンタスト特別区の議会で、他国で言う地方議会に当たる。地方の有力者と言えば良いだろう。どうもその筋でリンチを受けているらしい、とアシュアランスは理解した。黙って暴力を受け入れる理由は何一つない。
「分かりましたよ。しかしこんな事をして、失職処分になりませんか」
「ふん、証拠など残らん。貴様のような腐った犯罪者と俺のような警察官、どっちの証言が重んじられると思う? ここで起きた事は決して外部には漏れないんだ」
一応外部にばれてまずいとの認識はあるようだ。だから顔を殴らないらしい。アシュアランスは薄く笑った。
「その言葉、信用しますよ」
白く細い、殴り合いにはおよそ不向きとしか見えない腕が、蛇のように伸びて暴力警官の胸を襲った。相手が無抵抗だとばかり思っていた男はかわしようもなくその一撃を食らう。微妙に、嫌な音がした。
「あの連中はただのアホだから骨の一本で済ませてやったけど、あんたはそれだけじゃ足りないな」
激しい痛みにうずくまる事さえ許さず、アシュアランスは相手の胸を殴り続けた。そのたびに不自然な音がする。骨にひびが入り、あるいは砕ける音だ。
「き…さ…ま…」
「喋らない方がいいよ。余計に痛くなる。そうそう、外に出ても今の事は言わない方がいいな。あんたの存在価値はつまり暴力なんだろ。それが俺みたいな若僧にやられたとなると、もう誰もあんたを信用しなくなるぜ。肋骨が八本やられていると思うけど、それでもあんたはそれを誰にも言えないんだ。せめて終業時間まで、平気な顔をして耐えなきゃならない。ああ、もしかしたら今日は夜勤かなにかかい? だとしたら大変だ。ま、それが終わったら階段から落ちたとでも言って病院に行くんだね」
淡々と、アシュアランスは今の状況を整理した。もはや暴力も振るえない、ただの使えない警官は痛みと恐怖の前に震えだした。
「許してくれ…許してくれ…」
「もう許してるよ。これだけやったんだから。それよりいつここを出ればいいんだい? ま、しばらく付き合ってあげてもいいけど、人を待たせているんだ」
優しく語りかけていた所で、負傷警官が背後にしていた扉が開かれた。施錠してあったのだが、合鍵があったらしい。
「迎えに来ましたよ」
現れたのはカイスだった。背後に複数の警官を従えている。
「どうも、ご迷惑をおかけしました」
「いえ、中級曹から事情は聞いています。あなたは当然のことをしただけですよ。それより、何かされませんでしたか」
「いえ、全く。実に紳士的でしたよ」
アシュアランスは最高の笑顔を作った。カイスは紳士的と評された警官にちょっと視線をやってから、答えた。
「そうですか。じゃあもう行きましょう。無罪放免ですよ。先方も事を穏便に済ませたいそうですから」
その手が示す先に、カイス同様スーツを着てネクタイを締めた男が立っていた。警官ではないらしい。しきりにカイスに対して平身低頭している。
「誠に申し訳ありません。評議員も息子はきつくしかりつけておくと申しておりますので、今回の事はなにとぞ…」
「別にいいですよ。秘書のあなたが謝ることではありませんし、謝ったってどうなることでもありません。それよりどら息子を連れてさっさと消えて下さい。私の目の前から」
簡単な力関係だった。自治評議員より代表議員の方が強い、それだけだ。両者は法制度上指揮命令関係にはないが、前者の後者に対する隠然とした影響力は計り知れない。しかしそれ以前に、評議員秘書は根源的な恐怖を感じたようで、足をもつれさせながら立ち去った。
「行きましょう」
「はい」
議員と初級曹は何事もなかったように歩き出した。負傷した警官がそれにのろのろとついてくる。別にそうしたくもなかったのだろうが、しかしそうでなければ何があったのかと怪しまれる。顔中汚らしく脂汗を浮かべていたが、少なくとも根性だけはあるようだ。
「おっと」
不意に、カイスがつまづいたように足を動かした。乾いた音がして、元々よろよろとしていた警官がつんのめる。誰も見ていない所で、カイスに足を払われたのだ。抵抗しようもなく、転倒した。
「いけませんね、年を取ると何もない所でつまづいたりするんですよ。ああ、これはいけない、転んだ拍子に肋骨が何本も折れている。骨ももろくなるんですよね。済みません、どなたか救急車を呼んでいただけませんか」
そのようにして事態を収集するカイスを、アシュアランスは何の感慨も持たずに眺めていた。警察署の外で待っていたリファームは、何も言わなかった。