Alpha-Lord Episode 1.0
白い世界で
第2話 白い人々
V
議員の自宅だからいわゆる豪邸か超高級集合住宅…と、そのような想像をアシュアランスはしなかった。一日付き合ってみれば少なくともその人の外面的な趣味はわかる。成金趣味はカイス=サファールという男には無縁であるらしい。実際着いたところは、取りたてて特徴のない一戸建てである。
「さてそう言えば、と。これから同居人ですから丁寧に話すのも面倒ですね。普通に話して構いませんか、初級曹」
駐車場に車を入れながら主が尋ねる。アシュアランスもむしろ年長で地位のある人間に丁寧に話しかけられるのに違和感を覚えていた所だ。
「ええ。その方が俺も楽ですよ」
「なら…アッシュでいいかな」
「はい」
「じゃあアッシュ、以後よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
「あの、あたしも普通の話し方でいいですから」
リファームがそう言うが、カイスは笑って首を振った。
「気を悪くしたら許してください。どういう訳か昔から、私は女性に対しては丁寧に話す癖があるんですよ。そんな訳ですから、よろしく、リファームさん」
「あ、はい。あたしは全然気にしませんよ。よろしくお願いします」
そんな会話を交わしながら、荷物を抱えて家の中に入って行く。とりあえずカイスが割り振った二階の空き部屋にそれぞれの荷物を置いてから、三人は居間に集合した。それなりに整頓されていて、しかし人を拒むような所がない、居心地の良さそうな部屋だ。
ただ所々に、アシュアランスには見慣れない形の人形、置物が目についた。人形は見たこともない形の服を着ているものがあったり、金色に塗られていたりとおよそ一般的な物からはかけ離れており、置物に至ってはそもそもそれが何なのかわからないものがある。自分たちの文化とは全く異質の、もし実在するのならば宇宙人の産物とさえ見えた。
「これは…前衛芸術ですか」
リファームがそういう聞き方をする。そのような解釈も可能だろう。今のアストラントの流行は古典芸術だが。しかしカイスは笑ってかぶりを振った。
「人間がまだ地球とその周辺だけに住んでいた時代に存在した、『日本』という国の文化の遺産ですよ。趣味で集めているんです。大部分はレプリカですが」
「ニホン…ええと…」
リファームが記憶を探るが、出てこない。アシュアランスは冷めた口調で言った。
「千年前の白死病戦争で滅んだ有色人種国家の一つだ。当時の人類の過半数が死んだような大惨事なんだから、覚えておけよ。教科書に見出しで書かれるような常識だろう」
数時間前カイスに初めて会った時にかなり言いたいことを言われたので、容赦がない。それだけにリファームもむきになった。
「うるさいなあ、白死病戦争くらいは覚えてるわよ。でも滅んだ国の事まで一々覚えていたって仕方がないじゃない。その時に有色人種はみんな死んじゃったんだから」
「彼等を滅ぼしたのは我々の祖先である白色人種の作り出したウィルスだった、だから我々はその原罪を背負い、それゆえそれを覚えておかなければならない…」
カイスがつぶやくように言う。彼のような黒髪、黒目の人間が現在少ないのはその白死病戦争のためだ。白色人種と有色人種の間で当時ようやく実用段階に入った宇宙空間での居住をめぐって対立が発生し、最終的に有色人種を壊滅させる生物兵器が投入されている。もっともその生物兵器は計画の範囲を超え、白色人種も多数殺戮するに至っていた。人類史上最悪の災害である。
「なんてね。クリスバルト教ではそんなふうに言っていますけれど、他人が犯した罪まで背負いこまされたらたまりませんよ」
黙りこんだ二人を前に、カイスは苦笑して肩をすくめた。クリスバルト教とは現在人類社会において最大の勢力を有する宗教のことである。単に宗教にとどまらず、信仰を持つ人間が国民のほぼ全てを占める国家まで成立させている。ただ、最大とは言っても信仰している人間の数は全体に比較すればごく一部だ。この場にいる三人がそうであるように、大概の人間は無宗教である。白死病戦争の惨禍は、ほとんどの人間に信仰を捨てさせるのに十分だったのだ。
「どうあれ、彼等はもう帰って来ません。今はただ遺産があるのみです。これなどは本物ですよ」
言いながら、カイスはそれ専用であるらしい棚から細長い物を取った。全長は一メートルを超えるほど、黒く塗られて緩やかなカーブを描き、端に近い部分に輪状の突起があってそこから先は何かの紋様が描かれている。棚にはもう一本、やや小ぶりながら似たような形状の物がかかっていた。
「…サーベルですか」
形状、大きさ、カイスの持ち方などから判断して、黒く塗られた部分が鞘、紋様の有る所が柄で、間にあるのが鍔だとアシュアランスは理解した。カイスが説明を始める。
「正解だね。まあ、サーベルをそりの入った片刃の刀剣、と広義に取ればだが。正確には打刀(うちがたな)と言う」
ゆっくりと、カイスは抜刀した。鞘から淡い霧が立ち上り、刀身にまとわりつく。
「な…」
異様な光景を前にリファームが息を呑む。カイスがまた笑った。
「このガスは刀身の保存用に充填してある物です。無害ですからご心配なく。鞘は現代に作られた物で、多少仕掛けがしてあるんですよ」
「ほう…」
アシュアランスはこの説明を聞いていなかった。ただ刀身の美しさに魅入られている。刃は異様なまでに研ぎ澄まされ輝き、その奥に淡く紋様が浮かび上がる。全体のスタイルも優美で、殺人の道具であることを忘れさせる。
「銘は…ええと、銘と言うのは作者の署名と考えれば大体あっているんだが、それは村正。時の権力者に祟る妖刀と言われている、その真作だよ」
「それは物騒ですね…。あなたも今は権力者じゃないですか」
「いいんだ、それで」
薄く笑って、カイスは刀を鞘に収め、元の棚に戻した。他の二人には、張り詰めていた空気が解かれたように感じられた。
「そうだ、アッシュ。ちょっとこれを譲る訳には行かないが、こういうものに興味があるなら剣術をやってみないか。私で良ければ少し教えよう」
「この家にご厄介になる上にそこまでご迷惑をおかけしては…」
「私も一日に少しずつだが体を動かしている。一応予備役だから、なまらせる訳には行かないのでね。それにつきあってくれればいい」
カイス=サファールは最強のパイロットとしてだけでなく、優秀な戦闘教官としても知られている。現役時代にその指揮下にあった第二連合艦隊旗艦グリューンベルクのディーフ大隊、通称六翼大隊は彼が抜けた今もなおアストラント最強の大隊と言われている程だ。少し分野は違うが、その男にものを教えてもらうのは相当な好機と言えるだろう。遠慮するだけ損かもしれない。それに、シルバードラゴンの剣によって撃破されるC小隊長機の姿が、ふと脳裏をかすめた。
「分かりました。それでは、よろしくお願いします」
答えるアシュアランスとうなずくカイス、その二人を等分に眺めていたリファームの直感に、何か引っかかるものがあった。どうも、カイスは妙にアシュアランスに構う気がする。ただの親切とも思えない。
「さてと、一通り話も済んだことだし、そろそろ食事にでもしよう」
その視線を知ってか知らずか、カイスは自分が買って来た荷物に歩み寄った。入っているのは食材であるらしかった。それでアシュアランスが少し驚いた声を上げる。
「ご自分で料理をなさるのですか」
「たまにはね。大体の家事は家政婦さんに頼んでいるんだが、今日はちょっと」
「なら手伝いますよ」
「うん…ちょっと特殊な料理なんだが、そうだね、下ごしらえくらいなら手伝ってもらえるかな」
そのような成り行きで、男二人は居間に隣接した台所に立った。その後姿を見て、リファームが思わずつぶやく。
「何か…新婚さんみたい」
聞こえた。アシュアランスが振り返る。その目には背筋の寒くなるような光がちらついていた。
「それは俺が女みたいに見えるということか」
少々一般的とは言えない趣味に目覚めていない限り、そう言われて喜ぶ男はいない。カイスは上背もあるし肩幅も広いのでどう見ても女性的ではないが、アシュアランスは体の造りからして繊細である。その自覚はあるらしい。
「いや、別にそんな事ひとかけらも思ってないけど」
ここは冷静に切り返した。実際アシュアランスが女に見えた訳ではない。
「じゃあなんでそんなふうに感じるんだよ。男同士だろうが、え、おい」
「いや、それは…」
「つまりホモセクシャルのカップルに見えたんですね」
いきなり核心を突いて来た。食材を切りながらのカイスの発言である。今度は図星だったので、リファームも慌ててしまった。
「あ、いや、そんなつもりじゃ…」
「別に私は気にしませんがね。事実は違うのですから。それに今時アストラントでホモセクシャルの差別を公然としているなんて軍隊くらいのものですし」
アシュアランスがさも軽蔑したと言う溜息をついた。
「あんたそんな話題ばかりだな。この前も似たような話をしていなかったか。俺に彼氏がいるとかなんとか」
「いかにも受(うけ)っていう顔をしているあんたが悪いのよ」
この際開き直った。アシュアランスが不思議そうに一言。
「受って何だ」
「…………」
危険なことを口走ってしまった。カイスが笑い出す。
「ああ、なるほど。リファームさんはそういう趣味をお持ちなんですね」
「げっ…あ、か、カイスさん、それは誤解で…って、その前になんでカイスさんがそんな言葉を知っているんですか」
「まあ色々と。無駄な知識も蓄えていますよ」
「何の話ですか」
アシュアランスが完全に話題から孤立する。カイスは笑い続けている。
「まあ、誰にだって人に言えない趣味や嗜好の一つや二つ持っているものですよ。そっとしておいてあげていいんじゃないですか」
「へえ、人に言えない趣味ねえ…」
「うう…」
今一つ釈然としないながらも冷ややかなアシュアランスの視線とカイスの笑い、それらを前にリファームは後悔のどん底に沈んでいた。
途中からはアシュアランスの手伝いも断って、カイスは料理作りにいそしんでいた。しばらくして、大量の皿が食卓に並べられる。それも見たことのない代物だった。念のためリファームが聞いてみる。
「これは…その日本の料理ですか」
「はい。レシピだけは記録として残っていますから、それを再現した物です。ええと…これが天ぷら、魚や野菜を片栗粉の衣で揚げたものですね。それからこっちがすき焼き、牛肉やねぎ、それから大豆を加工した豆腐という食材等を煮た物です。それで、と。これが巻き寿司、色々な物を酢を入れた米と、海苔という海草を加工した物で巻いたものです」
カイスは説明を続けるが、しかし何より驚くべきはその量である。もう三人は楽に着席出切る食卓を埋め尽くしている。リファームの額にかすかな汗が浮かんだ。
「あの…こんなにたくさん、作っていただいたのは嬉しいですけれど、食べられるかどうか…」
「いや、私が大食らいなだけですから、ご心配なく。足りなかったら言って下さい。まだ色々と有りますから。それではまあ、いただきます」
「いただきます」
アシュアランスは割と平静にフォークを取った。リファームはもう、恐る恐ると言った様子でフォークをつかむ。
「…いただきます」
カイスは二本の小さな棒を使って器用に料理を取って行く。箸という食器とのことである。
「この、ええと…マキズシですか。これの具は何が入っているんですか」
「その緑色のがきゅうり。赤いのがマグロ」
「マグロ? 生のまま食べるんですか」
「うん。元々この料理は生の物を食べるための物ということだから。おいしいよ」
「どれ…ああ、なるほど。生でも食べられる物ですね」
リファームは慎重に、安全そうな物から口をつけているが、アシュアランスはかなりチャレンジャーで珍しい物を次々と食べている。しかも食べ方が早い。カイスも説明を加えながら、食べる物はきっちり食べていた。
「それじゃ、こっちのは何ですか。緑ですけれど、きゅうりじゃないですよね」
「アボガド」
「ふむふむ…じゃ、こっちのは」
「ソフトシェルクラブのフライ」
「ああ、あの脱皮したての奴を食べるあれですか。…うん、これはおいしいですね。米やこの海苔と良く合ってる。リファームも食べたほうがいいぞ」
「…ありがと。でも…いらない。この黒いの…気持ち悪い」
言語能力が一時的に退化しいている。共同生活に対する漠然とした不安が、彼女の中に芽生えていた。
食事の後に三人は、カイスの書斎に置いてあるゲーム機で遊んだ。書斎は多少散らかっていて、むしろ人間味を感じさせる。そもそも書斎にゲーム機という取り合わせが、英雄と言うよりどこにでもいるような若者のようだった。因みに結果は、ディーフ戦シュミレーターではカイスが他二人を圧し、アシュアランスもリファームには勝ち続けた。パイロット相手にこれは不公平だとの彼女の提案によりソフトがパズルに変えられたが、一位と二位が入れ替わっただけだった。
その後風呂などを済ませて、アシュアランスは一度自分の部屋に引き取った。とは言え今日初めて入ったのだし、今の所殺風景な部屋で自分の物という実感は沸きようもない。荷物も始めから最小限にまとめてある程度整理してあるので、改めて手間をかける必要もなかった。ただ少し、目を通しておきたいものがあったのである。
それはカイスの部屋から借り出して来た基礎的な軍事資料だった。彼に初めて会った時にリファームにかなり馬鹿にされたので、以後そのようなことがないよう知識を再確認する気でいる。確かに今まで、軍隊にいることが本意ではなかったこともあって、あまりそういうものを熱心に見ていなかった。訓練所で教わったことも、戦闘に直接関連しない戦史などについてはほとんど忘れている。
とりあえずカイス=サファールのページを開いてみる。開くと言っても紙の本ではなく、データベースに記録された画像及び文字情報である。そこにあったのは紛れもなくそろそろ見慣れて来たカイスの顔だったが、やはり英雄の名にふさわしい凛々しい表情ばかりだった。今日見たフェイロンATの画像もある。平和戦略軍士官学校卒パイロット過程専攻。
アシャーとして覚醒したのは、初の実戦に際してである。
関連情報としてアシャー達のページが有ったので、ついでそちらに目を通した。〈赤〉のデラインこと、デライン=ガードナー大佐。現在第六連合艦隊に所属。カイスとは対照的に、彫りの深い精悍そうな中年の男である。カイスほどではないが、十分に人間離れした戦績を有する。女性問題が頻繁な男として知られているが、さすがにこのような資料にそんな情報は…と思ったがそれも記されていた。どうやら軽度ながら機密扱いされるべき資料らしい。いい加減な管理である。
〈青〉のバルクールこと、バルクール=フォルガム少将。第一連合艦隊ディーフ部隊総監。いかめしい顔の画像資料しかない、初老の男だ。問題を起こさない、むしろ他人の問題を取り締まるような人らしく、これと言った特記事項はない。
敵方ダルデキューアのアシャー達についても調べてみる。下手な資料だと根拠もない悪口雑言が記されていて困るのだが、そのあたりはきちんとしているようだ。カルダント=ラグナス監士、〈銀獅子騎士〉黄金地に銀獅子の紋章という派手な機体、シルバーライオンを駆っていたが、これは先年カイスによって破壊され戦死を遂げた。
「監士」とはダルデキューアにおける階級の事である。大概の国は軍組織において「大佐」「少尉」など伝統的な名称を使うのだが、この国はなぜか旧来のものを嫌う。軍艦に関しても「空母」「戦艦」と言った名称を使わず、「機動母艦」「A級戦術艦」などを用いる。「監士」ならばおおむね他国の大佐に当たる。
ナディア=バルファリス監士、〈銀狼姫〉。軍部政権であるダルデキューアにおいて屈指の実力者、オスカー=バルファリス総将の一人娘として知られる。現存するアシャーの中では唯一の女性だ。しかも若く美しい。本人にもその自覚が十分にあるらしく、髪を長く伸ばし、画像資料では必ずポーズを取っている。機体はシルバーウルフ、全装甲が銀色とその美しい機体は、実家の資金と技術にものを言わせた完全特注生産とされる。しかし美貌と家柄だけの人物ではなく、〈黒〉のカイスと数度にわたって互角に戦った実力の持ち主である。
そしてペルグリュン=エスタート将補、〈銀竜騎士〉。あごひげを生やした中年の男だ。将補は監士の一つ上に当たる階級、将官である。既婚、四女をもうけている。高潔な騎士道精神の所有者。オレンジの機体は、資料など見なくてもアシュアランスの記憶に焼き付いている。
「…ふう」
そこまで見て、アシュアランスは資料を放り出した。見た所でどうなるものでもない。次にこの男に遭遇したら、その時が自分の命日だ。逃げるだけ逃げ回って、それでも逃げ切れる可能性はまずない。カイスならいざ知らず、アシュアランスでは返り討ちが落ちだ。仇を討つなどとても無理である。
「…仇、か」
ベッドに転がって溜息をつく。今まで死んだ人間たちのことはあまり考えないようにして来た。それは多分、リファームも同じだろう。しかしそれでも、事実は消えない。
「色々あったものだな…」
悪い夢を見ているという感覚は、今も消えない。今日一日だけでも紆余曲折が多すぎる。アストラントの英雄と出会い、新型機のパイロットとなり、喧嘩のあげく逮捕され、そして今は見知らぬ家をしばらくの住居と定めているのだ。地に足をつけるほうが無理なのかもしれない。
「アッシュ、ちょっといいかな」
カイスが部屋の外から声をかけてきた。考えるのを止めて、返事をする。
「どうぞ」
「余計な世話かもしれないが、ご両親に連絡をしておいた方がいいんじゃないかな。しばらくここにいるんだし、何より無事を伝えておいた方がいいと思うが。私も一応未成年を預かるから、挨拶くらいしておきたいし」
アシュアランスはうなずいて部屋を出た。
「わざわざ気を使わせてしまって済みません。余計な世話なんてことはありませんよ」
「いや、リファームさんにも同じことを言ったら断られたから。家庭の事情は人それぞれだ」
「なるほど…」
ごく普通そうな家の中で通信設備だけはかなり充実しており、小さいながら専用の部屋まであった。アシュアランスの感覚では軍用に見えるが、恐らくは政府高官のための設備なのだろう。回線の一部は明日中にアシュアランスやリファームの部屋にも接続しておくとそうだ。カイスは説明をしてから一度部屋を出る。
接続には少し時間がかかった。要は僻地なのである。そして画面に現れたのは、カメラを興味深そうに覗き込んでいる少年だった。こちらを確かめるなり、その顔ぱっと明るくなる。
「わ、お兄ちゃんだ!」
「エンド、元気だったか」
アシュアランスも顔を自然にほころばせる。エンドことエンデュランス=リーグ、一回り歳が離れてはいるが、実の弟だ。兄同様整った顔立ちで色素も薄く、やや人間離れしているとも見えるが、しかし兄のように不吉な印象は与えない。眼差しが優しく輝いており、天使のようだ、と良く言われる。
「うん、げんきだよ。お兄ちゃんは?」
「俺はこの通り元気だよ。…って、あれ。こらエンド、お前はもう寝る時間じゃないか」
「むー、ぼくだって大きくなってるんだよ。お兄ちゃんが出ていってからだいぶたつんだから。朝だってちゃんとおきられるよ」
「そうだったな…」
無事だったかなどの話題は一向に出てこない。まだ現実になっていない「死」というものを明確に意識するには、幼過ぎるのだろう。しばらく幼稚園であった出来事などを聞いて、それから両親に代わってもらった。無事と今の状況を伝える。そうするともう、何を話して良いか分からなくなった。多分、敢えて話題を作る必要もないのだろう。結局早々にカイスを呼んで挨拶を済ませてもらう。それから二言三言言葉を交わして、通信を切った。カイスは何も言わず、アシュアランスもそのまま部屋に戻った。
ベッドに倒れ込んで、なぜとはなしに溜息をついた。年齢が離れていたので喧嘩をすることもなく、可愛がって来た弟の笑顔が脳裏に浮かんで、消える。自分のせいだとは思わないが、良く素直に育って、なついてくれたものだと感じている。弟と過ごす時間の方が、彼にとっての現実だった。
何か嫌なものが、体の内側からせり上がって来た。アシュアランスがどう感じようと、全て実際に起きた出来事なのだ。撃墜二、撃墜補助二。要は二人殺して二人殺すのに手を貸した。死んだ仲間のことは今まで極力考えないようにしていたが、しかし殺した敵については考えもしなかった。生き残ったことの方が重要で、武勲を誇りにも思っていなかったせいだろう。だが確実に、殺している。
それに今日は、ずいぶんと人を痛めつけた。重傷者を七人も出している。何の感慨も持たず、ただ必要だと判断したから。その時は当然と感じていたが、しかし思い返してみる。サイランスに居た、弟と生活していた自分はそこまでする人間だったかと。友人と組んで複数の相手を叩きのめした事も合ったが、明らかに勝負がついてなお暴力を加えたことは決してない。今日は確実に自分が勝てると分かった上で、殺さない程度でかつ十分に重傷を与えられると加減して殴る蹴るしていた。
「何をやっていた、俺は…」
異常だ。今のアシュアランスは平然と人を殺し、そして暴力を振るう人間なのだ。それを承知で何も語らないカイスの横顔、そして呆然と自分を見つめるリファームの瞳が思い出される。全身の皮膚に鳥肌が立ち、ぬらついた汗がそれを覆った。
「…っ」
力づくで口を押さえ、部屋を走り出る。トイレのドアを開け、それをそのままにして便器に手をつき、吐いた。胃が空になるまで、吐き続けた。自分自身を、拒絶しているのだろう。
一応胃が落ちついた所で口をゆすぐなどの作業を済ませる。鏡を見ると、しかし血色の悪い顔はいつも通りだった。ただ口の周りに、鷲づかみにした指の痕が赤くくっきりと残っている。そして、その背後にカイスが立っていた。誰よりも深い黒の瞳が、沈んだ色をたたえている。アシュアランスは彼の偽らざる表情を初めて見た気がした。
「医者の知り合いは少なくないが、どうする?」
ただ口調だけは平静さを保っている。それが軍人なのだろう。病人が出た程度で一々動揺していてはつとまらない。アシュアランスはむしろほっとした。
「…いえ、もう平気です。精神的なものですから。ご心配をおかけしたようで…」
「そうか、君がそう言うなら無理にとは言わないが。変に遠慮はするなよ」
「ありがとうございます」
最後にもう一度手を洗って、アシュアランスは部屋に戻った。
「精神的か。分かっているのは…辛いな」
カイスはつぶやいて、書斎に戻った。
空気を切り裂いて硬質繊維の棒が襲いかかる。超軽量素材のはずだが、同じ棒で受け止めると凄まじい衝撃が伝わってきた。力の使い方が違う。両手の痺れをこらえながら、アシュアランスは反撃を繰り出した。
渾身の力を込めた一撃が、しかし簡単に払われる。あきらめずに更に一撃、さすがに閉口したのか、相手は後退して間合いを整え、棒を振り上げた。有効な打撃を加えるには距離がありすぎる、と判断したアシュアランスはそれをかわして反撃しようと身構える。そして振り下ろされた相手の棒は、やはりアシュアランスの鼻先をかすめて空を切った。
予定通り、と思った瞬間、足元で何かが弾けた。相手の棒が地面をうがち、土が飛んだのである。それに気を取られて出来た隙に、腕力に反動を加えて跳ね上がった相手の棒がアシュアランスの喉元に突き付けられていた。
「虚を衝き実を貫く。剣術…いや、それに限らず戦闘とはそういうものだよ。予測可能な攻撃は効果がない、しかし無駄な動きは隙を生む。相手が全く予想せず、かつ理に叶った行動をとる。それがまあ、基本にして奥義と言った所かな」
相手、カイスが剣に見立てた棒を収めながら説明する。アシュアランスは息をついた。
「あなたのような達人じゃありませんからね。そうとっさには分かりませんよ」
「目で見るだけじゃないんだ。人間の体にはもっと多くのセンサーがある。耳で聞き肌で感じるのさ。意識していなかったが、今君は確かに地面を踏みしめていた。そして剣の風を切る音。それだけで地面に当たって跳ね返ってくるとは分かったよ」
「はあ…」
それだけできれば立派な化け物だ、と思う。そもそも今回、アシュアランスが両手で棒を握っていたのに対し、カイスは片手だったのだから。
「まあ、元来才能はあると思う。落ちついて良く見ているし、無駄な動きが少ない。訓練次第で相当なレベルにまで達するのではないかな。さて、まだ少し時間がある。もう一勝負するとしようか」
「はい」
再び剣戟が始まる。カイスの家に一泊した翌朝の食事前、庭での事である。ただそれは、予定より早く切り上げなければならなくなった。
「アッシュ、ちょっと」
ぼさっとしたままの髪を強引に束ねているらしいリファームが家の中から声をかけてくる。どうやら寝間着姿だ。アシュアランスは少し眉をひそめた。
「急ぎの用か」
「多分ね。艦隊司令部からの手紙」
カイスの方をかえりみる。しかしカイス自身、少し困惑しているようだった。
「第八連合艦隊からですか」
「はい」
マワーズの所属が第八連合艦隊、つまりアシュアランスとリファームは第八連合艦隊の一員である。母艦が撃沈されても、正式な転属の辞令が出るまで形式上の所属は変わらず、よって指揮命令に服する義務がある。ただ、今は転属命令待ちのはずで、この時期に命令とは何かの手違いとも思える。
とりあえずアシュアランスは手紙の内容を確かめてみる事にした。食事が出来ているというので食卓に移動してからの事である。短い文面をざっと見ただけで、その顔が曇る。
「…普段お役所仕事のくせに、こんな時だけ手回しがいいんだからな」
「見ていい?」
毒づくアシュアランスに、リファームが声をかける。無言のまま手紙が渡され、更にそれがカイスに回された。
「シャザン=ガーベル大尉の死亡を遺族に伝えるよう要請する。住所はセンタストVヘイウッド区…なるほど、死亡通知か。あ、ありがとうございます」
最後の礼は食事を運んできた家政婦に向けられた物だった。そして何事もなかったように食事を始める。しかし残る二人は、手をつけるふりさえしなかった。
「これは…本来上官の役目ですよね」
アシュアランスがつぶやく。カイスがうなずいた。
「そうだね。ただ…そうすべき上官も亡くなっているんだろう。こういうものは直接面識がないと意味はないのだし」
言わずもがなの事だ。そんな説明を誘発するほど、アシュアランスは不毛な言い訳をしていた。リファームはそれすらしない。宛名が自分ではないのをいいことに、黙っている。
「あくまで要請だよ。嫌なだけの仕事だ、拒否する権利はある。ただ、艦隊司令部からの『まことに遺憾ながら、誰それは戦死なさいました。その献身に軍は心から感謝します』などという紋切り型の通知で済ませて構わない、と思っているのならだが」
カイスはそう言って、パンを食べた。
「でも、そういうのに必要な礼服もないですから…」
「すぐに手に入る。この機会に揃えておくのも悪くない。金が入用なら貸すよ。返さなくても私は構わないが」
もういい加減な反論さえも出なかった。アシュアランスはまず先方にアポイントメントを取り、そして軍服を用意した。軍自体の体質はともかく、それに付随する民間のサービスはかなり整備されている。サイズさえ伝えれば数時間後には体型に合った服が安価に手に入るのだ。この日夕刻、ダーネスの研究所での仕事を早めに切り上げてガーベル家を訪れる、そのような予定が立った。
人口惑星内部にも夕焼けはある。脳が昼夜の区別を認識しなくなると生体リズムが崩れ、不眠症等を誘発する。それを防ぐために、人工環境内部は光量及び温度が一日周期で変動するよう運用されているのだ。もっとも人類の過半が現在人工環境内部のみで生活しており、夕焼けまでは必要ないとの説もある。アシュアランスもリファームも、視界一面がどろりとした赤で満たされるのは見たことがない。今はあくまで、空に擬された人工重力の逆方向が漠然と赤くなっているだけだ。
「嫌な景色だな」
それでもアシュアランスがつぶやく。白いワイシャツに青のネクタイ、緑の上下、黒い人口皮革の靴、そして軍帽、それがアストラント平和戦略軍の軍服である。階級が高くないため装飾が少なく、軍帽さえなければ普通のスーツに見えない事もない。もっともアストラントの市民なら誰もがそれを軍服であると知っているのだが。
「そうね。サングラスかけたら? 持ってるんでしょ」
同様の服装、階級章の星が一つだけ多いリファームが答える。普段はポニーテールにしている髪を、今はアップにしてまとめていた。朝に同行すると申し出て、結果こうなっている。アシュアランスも断ろうとはしなかった。
「まぶしい訳じゃないから」
胸ポケットに入れているサングラスに手をやって、戻す。瞳の色素が少ないので、普通の人間には適量の光でもまぶしく感じることがある。普段の生活では手放せない。ただファッションでかけているつもりはなかった。そろそろ暗くなる時間にこんな物をかけているとなると、芸能人か不穏な事をしている人間になってしまう。
「そう。…と、あそこじゃないかな」
リファームの指が高層集合住宅を示した。この人口惑星は多層構造になっているが、その一層を限界まで使っている。住所で大規模集合住宅であると分かっており、かつ周辺にはそれ以外の大きな建造物は見当たらない。
「らしいな」
無感動に言って、アシュアランスはそちらに足を向けた。
迷うこともなく、「ガーベル」と表札に記された部屋の前に着く。一つ溜息をついてからインターホンを押した。期待に反して、反応は早い。
「はい」
幼い声だった。恐らくは、女の子。ドア前の二人が顔を見合わせる。しかし黙っているのも不審なので、アシュアランスは予定していた口上を切り出した。
「今朝ご連絡したリーグと申しますが…」
「おかあさーん、ぐんじんさんが来たよ」
ちょっと見ただけでは分からないよう隠蔽されているカメラで確かめたらしく、向こうの少女はそう言った。やがて扉が開かれる。
「どうぞ、お入りください」
そう言って現れたのは、恐らくは亡き夫と同年輩と見える女性だった。家にそう親しくもない知人を迎えるにふさわしい、そんな服を着ている。その後ろに女の子が立っていて、二人連れを興味深そうに眺めていた。年齢は小学校に入るか入らないか。人見知りしない性格らしい。
居間に通され、コーヒーと菓子を出される。それなりに客を迎える用意はしたようだが、しかし嫌味なほど片付いてもいない。余計と思えるものが置いてあったり、服がかかっていたりする。それで少し気が楽になる。改めて、アシュアランスは名乗った。
「マワーズディーフ中隊所属、アシュアランス=リーグと申します」
「同じく中隊整備班、リファーム=クラストです。大尉の機体の整備を担当していました」
「ご丁寧に。シャザンの妻、ファーナと申します」
「あたし、アンナ! わ、お兄ちゃん髪まっ白だね。苦労してるんだ」
少女が帽子を取ったアシュアランスの頭を指差す。この年頃になると特に女の子は生意気な口をきくようになるものだが、弟とのギャップにアシュアランスは少し驚いた。
「生まれつきだよ」
芸のない返答を返す。母親が娘をたしなめた。
「そういう話し方は失礼よ。アンナ、少し難しい話をしなければならないから、ちょっと向こうの部屋へ行っていなさい。お菓子を持っていっていいから」
「はあい」
「どうも失礼致しました」
「いえ、お気になさらず」
娘が遠くに行ったと判断してから、ファーナは切り出した。
「ご用件は、承知しているつもりです。夫が、死んだのですね」
必要以上に声を止め、表情を変えない。アシュアランスはつばを飲み込んだ。
「…はい」
それから簡単に、日時とその時の状況を説明する。
「ご立派な最後でした」
そしてこう締めくくる。軍人である事に価値を見出していない自分が言うには偽善だと感じつつも、そうするしかないものだと妙に納得した。その後リファームが、自分達が今生きているのはシャザンが調整を命じていた機体があったためだと話し、謝辞を述べた。
「今日はわざわざ、ご苦労様でした」
結局ファーナは、そう言って二人を送り出すまで表情を変えなかった。
帰路につきながら、アシュアランスが今日何度目かの溜息をつく。
「何故あの人が死んで俺が生き残っているのか、なんて言われたらどうしようかと思ってたけど、あれだったね。耐えているんだな。非難される方が余程楽かもしれない」
「本気で言ってる? それ」
軍帽を脱いだままのリファームがどこか感情を欠いた声でそう言った。その目が街灯の光を受けて、冷たく光っている。髪型が違う事もあって、知らない人間が横にいるのではないかとさえ思える。
「どういう意味だ」
不穏なものを感じて、聞き返す。返答はそっけなかった。
「知らないみたいね。何でもない。忘れて」
「気になるだろう。何だよ」
「何でもないってば」
「何でもない訳ないだろう」
「あたしが何でもないと言ったら何でもないのよ!」
繰り返すと表面的の冷静さがすぐに剥がれ落ちる。これはちょっと引っ掛ければ終わりだ、とアシュアランスは考えた。
「もうちょっとましなごまかし方ができないのか、君は。小学生じゃあるまいし」
「あたしが悪いんじゃないからね。しつこいあんたが悪いんだから!」
一度足を止めて叩き付けるように言ってから、リファームは一気に話し始めた。
「大尉が離婚寸前で調停まで行っていたって、整備士の間じゃ有名な噂だったのよ。パイロットなら本人が身近にいるし、特にあんたは大尉と親しかったから聞いてなかったらしいけど」
「それは…噂だろう」
喉が詰まる。何故か今、故人でもその妻でもなく、屈託のない娘の顔ばかりが思い出された。
「そう、噂よ。でも居間に、男物の服がかかってた。普通長く家を空ける人の服を、ああしてはおかない」
「じゃあ、どうなるんだ」
「別に、どうにもならないよ。あたしもあの人が喜んでいたなんて言うつもりはない。でも悲しむよりは困惑していると思う、それだけ」
二人とも歩いているはずなのに、間の空気がよどむ。アシュアランスがぽつりと聞いた。
「そう言えば…そもそも何で、ついてくることにしたんだ」
「…ついて来ない方が良かったね」
リファームはぽつりと答えた。