Alpha-Lord Episode 1.0
白い世界で
第3話 白い世界で
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 港湾、貨物、輸送施設、収容艦、目につく物全てが巨大で巨人の国に迷い込んだような印象を受ける。センタストU第一宇宙港、空母及び大型輸送艦を収容する施設である。これらの艦は軍艦の中でも特に巨大であるのだが、更に膨大な積荷を積載することを目的としているため港湾が巨大化するのだ。移動するだけでも専用の軌道が敷かれている。
「さあ、いよいよだぞ…」
 人口惑星の外郭エレベーター、透光プラスティックの窓にしがみつくようにして、リファームは外に広がる宇宙港を見ていた。アシュアランスはその後ろ、リファーム越しに外を眺めている。今このエレベーターに乗っているのはこの二人だけだ。
 人口惑星外郭に出て星を眺めるのは金をかけないお手軽デートコースの定番だが、しかしアシュアランスにそんなつもりは全くなかった。彼女は一歳年上、ディーフに関する知識は恐るべきものがあるし、体つきも成熟しているのだが、しかし精神的には子供なのだと思う。そのままでいればじきに見えてくるはずの物を待ちきれなくて、窓に張りついている後姿などを見ているとつくづく。
 ダーネス社の研究所でアシュアランスは新型機ツァオロンの操縦訓練、リファームは機体構造の把握、そのためにカイスの家に下宿して十日が経っていた。しかし一緒に生活していても、妙な気は一向に起きない。カイスも同様なのかごく普通に振舞っている。
 リファームが自分をどう思っているかについて、アシュアランスは全く気にしていない。恐らく何とも思っていないのだろう、雑用を頼む時以外は。そう考えている。実際今も、背後の自分のことなど忘れているとしか思えないから。
「見えた! なんて綺麗な船なんだろう…」
 リファームが声を上げた。実際既に重力制御区画を外れているので上も下もないのだが、主観的にはエレベーターが上昇するに従って窓の上から船が姿をあらわしてくる。コバルトブルーに塗装された船体は一見して双胴型のようだが、しかし少し注意すれば二つの大きな構造物の間にもう一つ、やや小型の船体があると分かる。それが恐らく艦橋などの中枢部、つまりは三胴型の艦だ。アストラントの正規空母としては基本を踏襲しているが、しかし既存の艦に比べて曲面が多く、かつシルエットは鋭角にまとめられている。最新鋭の名にふさわしいデザインである。
「…ファイアザード」
 側面に記された艦名を、アシュアランスは確認した。第二連合艦隊第十二独立戦隊旗艦ファイアザード、今日二人に正式な配属命令が下った新しい乗艦である。第二連合艦隊はカイスが現役時代に所属しており、そのあたりのコネでこの艦隊が選ばれたのだろう。第十二独立戦隊はツァオロンのテストを目的として編成された部隊だ、と家を出る前にカイスに教えられた。詳しい編成までは聞いていないが、「戦隊」という用語は通常複数の軍艦が行動する際の最小単位だから、そう多くはないと思われる。多分このファイアザードと護衛艦が数隻、そんな所だろう。
 ただ配属命令と言っても今日この日から乗艦して出撃はしない。基本的に軍隊は強権的な組織であるが、少なくとも配属命令の下ったその日に任務につくよう要求まではしない。準備期間という物がある。ただ旧所属艦が撃沈されて待命中の二人に対するそれは短く、五日後には乗艦するようにとあった。
 今回やってきたのは純粋に新しい艦を見るためである。既にセンタストUには入港しているとのことなので、リファームがこれを見たがったのだ。アシュアランスはやや仕方なくついてきている。
 共同生活を始めるようになってから、必要以上の対立は避けるようになっていた。職場も私生活も一緒で険悪になっていては疲れるだけだ。今回もリファームが行こうと言い出し、特に忙しくもなかったので承諾したのである。落ちついて自分の方が大人なのだと思っていれば、多少の事は許容できる。ただこの時、これはつまり以前の自分自身が子供だったのだ、と自覚するほど彼は大人ではなかった。
 処女航海に向けて準備を始めているファイアザードに、二人は入っていった。既に籍がこちらに移っているので、搭乗口のチェックもパスできる。無論現在この艦で特に仕事はないので、邪魔にならないよう見て回るだけである。それも艦橋、機関部など勝手の分からない所ではまずい事になる恐れがあるから、当然行く所はディーフの格納庫となる。それでもリファームは通路にいる時点で新造艦特有のつや、匂いなどを堪能していた。
 そして入ったのは左舷主格納庫、ファイアザードが搭載するディーフの約半数を収容する区画である。右舷にも同様の物があるが、左舷側から搭乗したのでこちらの方が近かった。選んだのはそれだけの理由である。
「…さすがにでかいな」
 アシュアランスもつぶやく。五十機前後のディーフを収容、整備することを前提に作られた空間は圧倒的なまでに広い。アシュアランス自身の機体など、まだ搭載されていない機体が多いために生じる空きが、全体の大きさを更に強調していた。これが右舷にもあるというのだから、驚くほかはない。
「感動だなあ…」
 リファームの体が浮かび上がった。比喩ではない、現に足が床面から離れている。この空母は現在重力制御をしていないのだ。それにディーフの格納庫は、他の区画が重力制御を行う時でも、整備の都合上無重量状態に保たれるものである。
「こら、呆けるんじゃない」
 そう言って自分の体を固定してから、アシュアランスはリファームの体を引き戻した。無重量状態、しかもこのような広い空間でゆっくり床を離れるとちょっと面倒なことになる。速度がついていればすぐにどこかの壁面などにたどり着いて終わりだ。しかしゆっくりだと延々そのあたりを漂うか、あるいは空気抵抗で文字通りの宙ぶらりんになる。自力ではどうにもならない。無論そうならないようにする道具はいくつもあるが、今のリファームはそんな物を持っていないはずだ。
「あ、ごめん、ありがと」
 体と一緒に現実に引き戻される。ただお互いそう安定した状態でもないため、抱き合うような格好になってしまった。何の気もないので、アシュアランスは冷静に距離を取る。
「おいそこ! こんな所でいちゃついてるんじゃないよ」
 が、見咎められた。近くのディーフに取りついて作業をしていた男が怒鳴っている。確かに、仕事をしている人間の目で見れば頭に来たかもしれない。いわれない非難ではあったが、最近身につけた処世術に従うことにしてアシュアランスは謝罪の身振りをした。しかしリファームにそのつもりはないらしく、相手を見返している。そうしている内にその相手がディーフの装甲を蹴って空を飛び、二人の前にやって来てしまった。その身ごなしからして、パイロットであるらしい。
「ここは遊び場じゃないんだ、官姓名は?」
 苛立たしげに誰何するその顔は、意外に若かった。アシュアランスよりは年上のようだが、どうやら二十歳を過ぎてはいないらしい。しかしそれだけに、感情をストレートに表現してくるようだ。背が男性としては低いらしく、やや見下ろす格好になる。
「五日後からこちらでお世話になる、アシュアランス=リーグ初級曹…いえ、中級曹です。誤解されるような事をしていたのはお詫びします」
「リファーム=クラスト中級曹よ。失礼な言い方は止めていただけませんか」
 ごく丁寧に、アシュアランスはもう一度謝ったがリファームは不機嫌さを隠そうともしない。目の前の相手にだけでなく、反論しようとしないアシュアランスにも腹を立てている。確かに彼女の名誉のためには反論した方が良かった。
 しかし、目の前の相手は挑戦的なリファームではなく、礼儀正しいアシュアランスに向き直った。
「お前がアシュアランスか。たかが一回の戦闘でいい戦績を上げて、ちょっとちやほやされているからっていい気になるなよ、この田舎者が」
 罵声を浴びせられている事は分かったが、しかしアシュアランスは怒りを覚える前に驚いてしまった。相手は自分を知っている。カイスではあるまいし、そんな有名人になったつもりはなかった。とりあえず聞いてみる。
「ちやほや? 何のことでしょう」
「とぼけるな。大佐に直接選ばれて、居候までしているそうじゃないか」
 成る程。有名人のカイスがらみだ。それで知られてしまっているらしい。このような場合は初めてなのでアシュアランスはちょっと考え込んだが、その間にも相手は罵声を止めようとはしなかった。
「俺は貴様のようにちょっと成功したくらいでいい気になって、そうして取り澄ましているような奴が大嫌いなんだよ! 人形みたいな顔をしやがって、気味の悪い。貴様のような奴と一緒の艦に勤めなきゃならんと思うと反吐が出る」
 薄灰色の視線が、相手の頭からつま先までを丹念に撫でまわした。それから視線を向けたまま一回、二回と小さく首を傾げ、さらにもう一度、今度は大きくかしげる。アシュアランスの場合、そのような仕草はそのまま首が一回転してしまいそうで、恐い。
「な、何がおかしい!」
 罵声を浴びせた相手が並一通りの反応をしないものだから、男の声には動揺がにじんでいる。アシュアランスは不思議そうな顔を保ったまま口を開いた。
「いや…あんたはこの艦の乗員でパイロット、しかも同じパイロットとして俺がここに配属される事を知っているわけだ。それに間違いはないな」
「それがどうした」
「つまり…俺とあんたは一緒に戦う訳だ。お互い戦友と言いたくはないが。これから敵と殺し合いをするんだ。味方同士いがみ合っていれば、それだけ死にやすくなるだろう。余計な喧嘩を味方に売る奴がどこにいる。死にたいのか? それとも頭が悪いのか。どっちだ? 答えろ、初級曹」
 眺めまわした際に、アシュアランスは相手の階級章を確認していた。自分たちより一つ階級が低い。軍隊でこの差は大きい。おかげでこの前までリファームにこき使われたものだ。今この場でこれをはっきりさせるのは、完全な恫喝である。
 世の中にはどれほど話し合っても決して分かり合えない人間がいる。十七年生きてきてその程度のことが分からないほどアシュアランスは愚かではなかった。初対面で喧嘩を売ってくるような相手に妥協を考えるだけ馬鹿らしい。完全に、売られた喧嘩を買う気になった。
「貴様!」
 芸のない声と共に初級曹が殴りかかる。しかし、重力がないことを失念している動きは間抜けになるだけだ。アシュアランスは軽々とそれをかわして上空に舞いあがった。
「逃げるな!」
 目を血走らせ、額に血管を浮かび上がらせながら床を蹴って追ってくる。アシュアランスに逃げたつもりはなかったが、弁解の必要も認めなかった。途中で体を反転させて天井に足をつける。慣性の法則に従って直進するしかない相手に対し、こちらは足の力加減で進行方向を自由に選択できる。絶対的に有利なポジションだ。無重力空間戦闘の基本である。もちろん戦闘者に推進力があれば、状況は変わってくるが。
 身長に比して長い足が、初級曹の腹部にめり込んだ。戦闘用の冷たい血が全身を駆け巡る。そんな感覚があった。戦いは冷静さを失った方が負ける、今のように。短く苦悶のうめきを上げる相手に止めを刺すべく手を上げて、止めた。実力が違い過ぎてその必要もない。短い間ではあるがカイスに剣術を教えてもらった、この男の言う「ちやほや」の成果が出ているらしい。基本を押さえれば、斬り合いのこつは殴り合いに応用できる。後味が悪くなるだけだから、結局その襟首をつかんでリファームの前に下りた。
「アッシュ、これ以上は…」
 リファームが柄にもなく心配そうな声を上げる。先日を思い出しているらしい。少々鬱陶しかったが、彼女とまで事を構える気はなかった。
「ああ、そうだな」
「いや、別に。もう少しやっても問題にはしないが」
 殴り合いが始まったとあって集まって来ている外野の一隅から、そんな声が上がった。アシュアランスはそちらを睨み付けて、そして結局敬礼をするはめになった。野次馬の大部分は下士官、兵、つまりアシュアランスと同格ないし各下だが、声をかけて来た人物は中尉の階級章をつけていた。パイロット徽章も見える。小隊長クラスだ。
「ええと…アシュアランス=リーグ中級曹だね。その若さで大きな戦績を上げていると聞いている。以後よろしく頼む」
 ややいい加減に、この中尉は敬礼を返した。髪は短くしてあるし言葉使いも荒いが、女性だ。歳は二十代半ばに見える。口調が物憂げで、まぶたが開ききっていない。低血圧症か、とアシュアランスは貧血にしか見えない自分を棚に上げて考えた。
「それで、そっちのお嬢さんは…すまん、忘れた。資料は見たんだが」
「リファーム=クラスト中級曹、整備士です」
「ああ、そうか。思い出したよ。実力をいかんなく発揮するよう期待している」
「中尉のお名前は?」
 アシュアランスが聞き返す。どうも最近、人の名前を知っておいて自分で名乗らない者が多いような気がする。
「あれ、聞いてない? しょうがないなぁ…。私はファノア=ノート、ファイアザード第三ディーフ中隊C小隊長だ。リーグ中級曹は私の小隊に配属される。クラスト中級曹も第三中隊担当になる、詳しい事は忘れたから担当に聞いてくれ」
「それは、失礼致しました。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 なんだかいい加減な人だな、と思いながら二人とも頭を下げた。ファノアは二回うなずいてからアシュアランスと揉めた初級曹を引っ張り起こす。
「ついでにこいつの紹介もしておこう。第三中隊C小隊所属、バート=ドワイト初級曹。この前センタストUの訓練所をトップで卒業した英才だ」
 バートは既に痛みからは回復しているようだが、ふてくされているらしく沈黙している。エリート街道を突っ走ってきた人間が初めて挫折を味わった事によるひがみか、とアシュアランスは理解した。確かに自分より年下の人間に階級で先を越されては、腹も立つだろう。特に成績の良い人間は。ただそれを相手にするだけ不毛だが。
「そのように優秀な方と一緒の隊になるとは心強いです」
 アシュアランスは無感動に言ってのけた。ファノアが少し間をおいてから口を開く。
「お前、ものすごく人がいいか信じられないくらい人が悪いか、どっちかだな」
「恐らく後者だと思います」
「成る程。さて、みんなそろそろ仕事に戻れ。バートもいつまでも痛がってるんじゃない。クラスト中級曹はあっちに新しい君の上司がいるから、挨拶でもしておけ。大尉の階級章をつけてるごついおっさんだから、すぐに分かる。リーグ中級曹は…いや、こう呼ぶのは面倒だな、アッシュと呼ばせてもらうぞ」
 相変わらず眠そうだが、意外にてきぱきとこの場を収集しにかかっている。階級のせいもあるだろうが、全員素直に従った。そうするとアシュアランスが残る。
「ついでだから必要なデータの類は今渡しておこう。この艦の詳細、艦隊編成と訓練計画書、それから後何かあると思う。目を通しておいた方がお互い楽だ。ついて来い」
「ありがとうございます」
 パイロットによる作戦の討議その他が行われる作戦室に案内された。データを記録カードにコピーしている間、ファノアが頭を掻く。
「訓練所トップ、真面目で愛国心あふれる優等生と、初戦闘で大戦果を上げた叩き上げ、案外いいコンビになるかなんて期待したが、やはり大方の予想通りだった訳だな。面倒な話だ」
「彼にその意志があるなら、俺は喜んで和解に応じますが」
「可能性がゼロだと思って、そう言っているだろう」
「はい」
「いい根性をしている。奴にもそれだけの神経の太さがあればな。これまでパイロットとして失敗を知らないとは言え、もろ過ぎる。あそこまで頭に血が上る奴だとは思わなかった。今のうちにそれがあらわになったのはかえって幸いか」
「一度失敗させてみたらどうです」
 冷たく突き放したつもりで言ってみる。しかしそれで返って来たのは、相変わらず眠そうな視線だった。
「…死ぬぞ。下手をすればお前や私も巻き添えでな。これは戦争だ。言動は慎め」
「失礼しました」
「分かればいい。お前には期待している。奴をフォローするくらいにな」
「努力はします。しかし買かぶりにならなければ良いと、自分でも思っているのですが」
 アシュアランスが見てきた中で、ファノアが初めて表情を動かした。どうにも眠そうだが、しかし確かに笑っている。
「自分の実力は信用できなくて自分の見解は信用すると言うのか。一回戦っただけの新兵と最強のアシャー、パイロットの才覚に関して、どちらが正確に判断できると思っている」
「はあ…」
「私もあの人と同意見だ。さっきの身ごなし、冷静さ、さすが大佐が見込んだだけのことはある。まあ冷静なだけに謙虚なのだろうがな」
 どうやらカイスと面識があるらしい。ただ詮索はしないことにした。他人の経歴、過去に興味はない。知れば知るだけ精神的に面倒になるだけだ。さっき喧嘩を売ってきたバートにしても、実家に帰れば優秀な息子を誇りに思う両親でもいるのだろうから。アシュアランスは、リファームやカイスの家族構成も知らない。
「大佐を信用することだ。皆あの人の戦闘力ばかりを誉めそやすが、あの人の真価は教育者としての所にある。伊達に最強と呼ばれる大隊を作っていない。人を見る目は確かだ」
「分かりました。微力を尽します」
「さて…一応これだけ入れておいたが、他に何か必要なものが思いつくか」
 話しているうちにコピーはとうに終わっている。ファノアがデータの一覧を示した。かなり多い。
「あるかもしれませんが、数日で目を通すにはこれでも多すぎるくらいですね」
「そうだな。ならこれでいいか。さて、私もそろそろ仕事にもどらなければならないが」
「どうも、お手数をおかけしました。俺もこれで失礼します」
「気にするな。ではアッシュ、戦果に期待している」
「はい」
 敬礼して、アシュアランスは作戦室を後にした。自動の扉が閉められてからファノアが自分の肩を叩く。
「やれやれ…大佐も面倒な仕事をしていたな。まだバートの面倒も見なけりゃならないし、まったく面倒だ面倒だ。大体何だって私の所にばかりこうも子供が回されるんだか…」
 一通りぶつくさ言った後で、格納庫に向かうのだった。
 帰路につきながら、アシュアランスはリファームに整備士達の様子を尋ねた。別に意味はない。世間話である。
「うん? 結構良さそうな感じだったよ。整備隊長が親父さんって呼ばれたりして何だかアットホームな感じで」
「ふうん…」
「アッシュの方はちょっと大変だよね。からまれたりして」
 どうやら冗談でもないらしい視線を投げかけてくる。アシュアランスは目を見開いて見せた。
「この前まで散々からんでくれた中級曹殿のおっしゃりようとも思えませんな」
「何を!」
 すぐいきり立つ。からかうには面白い人材だ。しかしからかい過ぎるとまた面倒になるので、とりあえずその肩を叩く事にした。
「心配してくれる事には感謝するよ」
「…何か、急に素直になって、どういう風の吹き回し?」
「大人になったのさ」
 アシュアランスはうそぶいた。
「大丈夫、嫌な奴がいたって死ぬ訳じゃない。俺にはそれで十分だよ。しばらくは新規部隊のための訓練で実戦もないようだから、思惑以上だ」
「良く考えたら欲がないよね。大人になったと言うより老化してるのかも…」
「好きに考えればいいさ」
 今日は特に余裕がある。何よりもまず、実戦から遠ざかる事に安堵していたのである。死ぬのは当然恐いが、戦場ではあの冷酷な自分がより明確に現れるような気がする、それも恐かった。自分が元のままの自分でいられると思えた。

 ファイアザードへの乗艦を翌日に控えた朝は、カイス宅の三人の住人にとってはそろそろ習慣になった通り何気なく始まった。アシュアランスとカイスは一通り体を動かしてから、リファームはぎりぎりまで睡眠を取ってから身だしなみを整えて食事をとる。それからアシュアランスとリファームはダーネス社研究所へ出勤である。カイスの出かける時間はまちまちだが、大体二人より遅い。議会は現在会期中ではないので、本人曰くその他雑用をこなしているとの事だった。
「明日からまた二人とも軍艦暮らしですから、夕食は豪勢にしておきますよ。もっとも今回、料理をするのは私ではなく家政婦さんですがね」
 二人の出がけにカイスがこう言い出す。リファームは顔一杯に笑みを浮かべた。
「わあ、ありがとうございます。じゃあ早く帰ってきますね」
「わざわざ済みません」
 アシュアランスも丁寧に謝辞を述べる。カイスは笑って手を振った。
「大した事じゃないですよ。それじゃあ気をつけて」
「はい。行って来ます」
「行って来ます」
 二人一緒に玄関を出て行く。カイスはその後姿にかすかな笑みを浮かべた。
「いいコンビだが、さて…」
 今日カイスはスケジュールを空けている。明日もファイアザードの出航式典に出席して終わりの予定だ。それから先忙しくなるので休んでおく、つもりだった。
 通常回線通信のコール音が響く。洗濯を始めようとしていた家政婦がそれを取ろうとするのを制して、カイスは通信に出た。画面に表示された相手の顔を見て眉を上げる。
「あれ、いきなりどうしました。予定を早めて今日帰る? そうですか、それは…え、だから今からこっちに? ちょっと待って下さいよ、こっちにも都合というものが。ええ、確かに今日は空けてあります…って、何であなたが私のスケジュールを押さえているんですか。それくらいお見通し? はあそうですかそうですか。それで今どこにいるんですか…家の前、分かりましたよ」
 カイスは一度通信を切った。
「ったく…わがまま娘が」
 吐き捨ててから、玄関先に出るのだった。

 午後遅く、けだるい光が部屋に差し込んで来る。カイスは疲れと苛立ちの混じった声を何の努力もなく出した。
「そろそろいいでしょう。そちらの新造艦について、教えてくれませんか」
「まだ時間はある。もうちょっとゆっくりしよう」
 答える声は、やはりやや力を失っているが満足げでのんびりとしている。
「私はあなたのスケジュールなど気にしていませんよ。どうせ出発時間なんて、あなたの腹積もり一つでいくらでも遅らせられるのでしょう」
「…私といるのが嫌なのか」
「またそんな言い方を…」
「分かった、教える。しかし何が知りたいんだ。大体のデータは私が話さずとも分かっているだろう」
 声の調子が改まった。カイスも真面目に聞く。
「何を企んでいるか、ですよ。戦艦の長射程主砲を少数ながら搭載し、かつディーフの母艦機能を有し、更に巡洋艦並の機動性を持つ。どう考えても中途半端でしょう。そんな艦を作るほど、そちらは馬鹿ではないと思っていますが」
「艦長が誰だか分かるか?」
 いたずらっぽく笑っている。カイスは溜息をついた。
「分かりました。しかしまさか、それだけのために大型艦を一隻設計、建造したんですか。まったく、思っていたより馬鹿でしたよ、そちらは。無茶苦茶に過ぎる」
「はっはっは。十分に役立つさ。普通の艦を母艦にしてアシャーが行動するほうが、本来おかしかったんだよ」
「やれやれ、気にした私も馬鹿でした。先に気がつくべきでしたよ」
「うん。それで、私からも一つ聞いていいかな」
「何ですか」
「君の新しい恋人について」
「…誰のことです」
「しらばっくれても無駄。人形みたいに可愛い坊やを囲って可愛がってるだろう」
「冗談に聞こえる言い方をしてくださいよ」
「本気ならば絞め殺している」
 マリンブルーの瞳が強い光を放っていた。日頃冗談が多いと思われがちな人間だが、それが的を外した考えだとカイスは知っている。今度こそ、本気だ。それが余人の目に冗談と映るのは、単に常識を外れているからである。
「そうでしたね。それで、何が知りたいんです?」
「どうする気だ?」
「とりあえず今はどうこうすべき時期ではないと思っています」
「慎重だな。そういう所は、好きだよ、私は」
「何をいきなり…」
 その口がふさがれた。相手の唇によって。カイスも抗うでもなく相手の長くつややかな髪を撫でる。相手が熱っぽくつぶやいた。
「…もう少し時間がある。だから、もう少し…な」
「そうですね」
 そうして、広くもない寝台に沈み込んだ。

 ダーネス社センタストU研究所において予定していたツァオロン搭乗訓練は全て終了、同じ人口惑星の第一宇宙港に停泊している新たな母艦への自力航行を最後の実用テストとして、アシュアランスはセンタストUでの仕事を終了した。順調に行ったため、普段より早い時間に終わっている。リファームは研究所外持出禁止のデータに目を通しておくとかで、普段通りか少し遅くなるとのことだった。
 アシュアランスとしては少し時間が余ってしまったのだが、しかし時間をつぶそうにも文字通り田舎者よろしく勝手の分からない所をうろうろするのも嫌だったし、保護者でもないのにリファームを迎えに行くのも妙な話だ。結局真っ直ぐ帰ることにした。
 時刻は昼から夕方へと変わりつつある。センタストVの住宅街はのんびりとした雰囲気を漂わせていた。子供たちがはしゃいで回ったりもするが、それが聞くものの耳に刺々しく突き刺さる事もない。
 この人工惑星はセンタストT及びUに職場を持つ人間とその家族の居住を目的として作られている。センタストTは連合の政治経済中枢、Uは軍事中枢であるから、Vに住む人間の経済的社会的地位は他の国家、地域と比較した場合概して高い。そのため、アシュアランスは始め金持ちの町という偏見を持っていたのだが、しかし短い期間ながらこうして住んでみると特にそういう印象は受けない。確かに建物のたたずまいは大きさも様式も異なるが、実際人間というものはそう変わらないものだと思う。そんなことを考えながら、アシュアランスは下宿先についた。そろそろ主観的に「カイスの家」ではなくなっている。
「ただいま」
 とりあえず居間に入って、そして止まった。
「やあ、初めまして」
 知らない人間がいる。それも思いきりくつろいで。それだけならまだ繊細な外見と裏腹に神経の太い彼ならば冷静に対処できたかもしれないが、しかしそうは行かなかった。若い女が、裸に近い格好だったのである。
「失礼、家を間違えたようです」
 とりあえず意味不明なことを口走ってみる。しかし引き止められた。
「合っている。ここは確かにカイスの家だ。だからそう逃げ出そうとするな」
「はあ…」
 仕方なく立ち止まる。しかしリビングに続いたダイニングの椅子にかけている相手は、どうにも目のやり場に困る姿だった。下着のみ。それで初対面の相手を前に平然としているのだから恐れ入る。これが世に言うコールガールなるものか、とアシュアランスは考えた。だとしたら超高級だろう。
 ちらっと見てすぐに視線をそらす、それだけではっきりと分かるほどスタイルが良かった。胸が驚くほど豊満なくせにウエストは細い。足が長い。上背もかなり、どうやらアシュアランスを超えるほどあるようだ。
 これで顔の方が見られたものでなければまだ微笑ましいのだが、しかし彫刻然とした顔にも非の打ち所が見当たらない。整い過ぎた顔は時として冷たく見えるが、口元に浮かぶ笑みといたずらっぽい眼差しが生き生きとした印象を与える。栗色の、まったく癖のないつややかな髪が背中まで伸ばされている。世の中にはこんな美人がいるものだ、と感心するばかりである。さすが議員ともなるとこういう人を相手にするのかな、とも思う。
「君がアッシュだね。カイスから話は聞いている。優秀なパイロットだそうだね」
「はあ…」
「入り口などに突っ立っていないで、こっちへ来て座ったらどうだ」
「はあ…」
 しかしどう対応したら良いのか分からない。言われるままである。とりあえず服を着てもらいたいところだったが、しかしそれを口に出すとかえっていやらしいことを考えているようで、言えなかった。対面に座らされても、あらぬ方を眺めやるしかない。
「カイスは今ちょっと寝ている。そろそろ三十路も近いから疲れやすいようでね。起こさないでやってくれ。それとも寝顔でも見に行こうか?」
「いえ、結構です…」
「そうか。そうそう、丁度コーヒーを淹れていた所だから、飲まないか」
 言われて初めて、その準備がされている事に気がついた。
「いただきます」
 女がキッチンに立つ。アシュアランスは反射的にそれを目で追おうとして、止めた。凄い下着だ。
「あ、そうそう、一つ言っておきたい事があるんだが…」
 コーヒーを淹れながら、振り向かずに口を開く。アシュアランスは身構えた。
「何でしょう」
「私は売春婦だとか、そういう類の人間ではないぞ。まあそういう職業についている人間を、それだけの理由で軽蔑するつもりもないが」
 勘か、知性か、あるいはその両方か。いずれにせよ恐ろしい洞察力だ。今までアシュアランスは、ほぼ最小限の返事しかしていないのだから。しかしそれがかえって、アシュアランスに復調の機会を与えた。全くの正体不明ではなくなったのだ。理解力のある、つまり話の通じる人間であるとは分かる。
「…では、何なのですか」
「ふっふっふ。聞いて驚くな。実は私はカイス=サファールの暗殺を目的にこの国に潜入した、ダルデキューアの女スパイなのだよ」
 肩をゆすって笑っている。アシュアランスは一言。
「そうですか」
 女がゆっくりと振り返った。目つきが湿気を帯びている。
「…ボケ甲斐のない相手だな、君は」
「はあ…申し訳ありません。しかし何にせよ、本気で答える気はないのでしょう。答えたらあの人あるいはあなた自身に不利益になるでしょうし。ならこれ以上詮索はしません」
 例えどんな付き合い方をしていようと、若き英雄に女がいたとなればスキャンダルになる。いいことはあるまい。二つのカップを手に、女が戻って来た。
「いい判断力だな。確かにそうだ。名乗る気はない。恋人、愛人、その他、なんとでも好きなようにとってくれ。はいコーヒー」
「ありがとうございます。…あれ、味が違いませんか、これ」
「違いが分かる男だね。カイスは普段大していい物を飲んでいないから、持って来たんだ」
「そうでしょうか」
 別段高級品ではないにせよ、少なくとも安物ではなかったと記憶している。
「そうだよ。これこそ本物のコーヒーだ。覚えておくといい」
「はあ…」
 味の違いは分かったが、しかしどちらがおいしいかと言われると良く分からない。困惑していると、廊下の方からばたばたと音がした。居間の戸が勢い良く開かれる。
 カイスだった。女ほどではないが、だらしのない格好をしている。いつもの眼鏡をかけてもいない。さっきまで二人で何をしていたのか、考える必要もなかった。真っ青な顔でダイニングに走り込んで来る。
「何をしているんですかあなたは!」
 いきなり、女めがけて蹴りが繰り出された。家庭内暴力だ。カイスは温和で紳士的だとばかり思っていたので、アシュアランスは驚いた。これは止めなければならないと思うが、とっさのことでもあるし、アシャーの戦闘行動を妨害できるとは思えない。どうすることもできなかった。しかし能力の無駄使いだ。
 椅子が倒れて転がった。そこに女の姿はない。彼女は…上にいた。食卓の上だ。仁王立ちしている。飛びあがって蹴りをかわし、そのまま食卓に上がったのだった。アシュアランスは席についたまま、スタイルのいい肢体を見上げている。
「はっはっは。甘いな」
 女が腰に手を当てて高笑いをしている。カイスが凄まじい形相になった。
「食卓の上に乗る馬鹿がどこにいますか!」
 更につかみかかる。女は笑ってそれもかわした。身が軽い。
「頭に血を…」
 ここで、鈍い音がした。台詞を言い切る事ができずにすとん、とその体が床に落ちる。飛びあがっているうちに、天井に頭をぶつけたのである。この家の天井は低くはないが、食卓に乗っかった所ではジャンプ力と身長の高さが災いした。
 阿呆だ。
 女は無様に床にはいつくばる。カイスはその首根っこをつかみ、無言のまま出て行った。
「…なんてことだ」
 結局動かないまま、アシュアランスはうめいた。
「ブラックで飲んだら味が違うのは当たり前じゃないか…」
 普段はミルクも砂糖も入れるのだ。

 数分後、二人は身だしなみを整えて戻って来た。カイスは普段着だが、女はツーピースのスーツを着ている。化粧も少し直したようだ。
「なあカイス、腹が減ったよ。少し何か作ってくれないか」
「さっき昼食にしようと言ったのに、それを断ったのはどこのどなたでしたっけね…」
 そう言いながらもカイスはキッチンに立って何か作り始めた。
「さて、俺は部屋で寝ていますよ」
 ちょっと気がついて、アシュアランスは席を立とうとした。しかしまた女に制止される。
「遠慮しなくていい。いちゃつきたいのなら部屋に篭もるから。それにそうしようにもこいつがご機嫌斜めではね。少し話を聞かせてくれないか。無理にとは言わないが」
 カイスは聞こえないふりをしているらしい。仕方なく、アシュアランスは座り直した。
「はあ…」
 さっきからそればかりだな、と思うが仕方がない。普通の人間ではこの女に太刀打ちできない、何となくそう感じるのだ。他の人間、例えばリファームやカイスがどう思っているかはともかく、アシュアランスは自分自身を常識人であると確信している。
「こいつから剣術を教わっていると聞いたが、どんな調子だ」
「いえ、どんなも何も、相変わらず片手であしらわれるだけです。当然のことでしょうが」
 女性にしては妙なことに関心があるものだ、と思いつつアシュアランスは答えた。
「まあ、二週間そこそこではそんな所だろう。ただ、いつまでもそう思っているのは良くないな。勝てないと確信している相手には、どうやっても勝てない」
「しかしアシャーと普通の人間では、勝負にならないですよ」
「まあそうだ。しかし例えばこいつが君を殺す気で来たら…いや、これはあまりいい仮定じゃないな。もっと生々しく…例えばそう、〈銀狼姫〉ナディア=バルファリスに戦場で出くわしたらどうする。彼女の機体、シルバーウルフは最強のディーフだぞ。その時君は、自分は普通の人間だからとあきらめて死ぬのか」
 嫌な事を笑顔で聞いてくる。アシュアランスはむっとして口を開きかけたが、カイスのほうが早かった。
「こら」
 と、一言。やはり聞こえている。女は苦笑して肩をすくめた。
「その時は、それは最後まであきらめません。何しろ命がかかっていますから。好きでもない国のために死ぬなんて馬鹿らしいですし。可能な限り生きる道を探します」
 カイスが言ってくれたおかげで、少し冷静に答える事ができた。
「そうだ、それでいい。君は全てが望みのままにはならぬ事を十分に知っている。だからもう一つ知るべきだ。望まぬ事は決して叶わぬのだと。我々には力がある」
 ルージュの鮮やかな唇が不敵な笑みをたたえる。アシュアランスは何故かどきりとした。
「そうだろう、カイス」
「私はあなたほど、人間という存在に対して楽観的にはなれないのですよ」
 賛同を求められてもカイスは冷淡だった。振り向きもしない。
「別に人間に楽観的なのではない。私は我々に対して楽観的なだけだ」
「我々は人間ですよ」
「相変わらずだな」
 奇妙な会話だ。取り残されたアシュアランスはただそれを眺めていた。
「さて…できましたよ。アッシュも食べるか」
 カイスが振り向いて、大皿を食卓に置いた。特殊加工で三十秒ゆでるだけ、というパスタにインスタントのソースをかけてある。手抜き料理の典型だが、しかしその量が尋常ではなかった。山盛りになっている。カイスの大食を計算に入れてもまだ多い。
「いただきます」
 しかし女はそれに全くひるむ様子もなく、取り皿に自分の分を取れるだけ取る。カイスも別に驚くでもなく自分の分を確保し、大皿の上の量は激減した。二人ともまだ食べたそうだったので、アシュアランスは付き合い程度に口をつけただけである。
 食べられるだけ食べて、女は帰ることにしたようだった。
「さて、では私は帰るよ。アシュアランス、武運を祈るとは言えないが、無事を祈っている。それからまた会うことになるだろう。その時を楽しみにしているよ」
 それまでの滅茶苦茶な言動が信じられないほどの、優雅な動作で彼女が立ち上がる。握手を求められてアシュアランスも慌てて立ちあがり、それに応じた。そして彼女は舞うように身を翻し、カイスを従えてダイニングを出て行った。
「……」
 アシュアランスは何か考えるのにも疲れていた。そこでふと、女の残り香に気がついた。何かの花を元にした、あるいは真似た甘ったるい香りの香水が主になっているようだが、どこかひどく生々しい匂いがした。
 玄関先から車へと移動しながら、女が口を開いた。
「面白い子だね、気に入ったよ。基本的に聡いが、しかしどこか抜けている。この国でも私の画像データくらいは出回っているだろうに、私が誰だか気がつかなかった」
「それ以前に私に初めて会った時に気がついてくれなかったんですから」
 カイスも苦笑している。女は笑うのを止めた。
「おい、いくら何でもそれは問題があるのではないか、色々な意味で。君はこの国の英雄だろう」
「軍隊に興味がないそうです。彼の出身地であるサイランスという国は、反連合感情が特に強い、そして少年の身で徴兵されたのでは無理もありません」
「ふむ、そういう事情か。サイランスは確か…アストラント連合の中でも特に古風な所だな。なるほど、だからあれ程うぶだったのか。楽しかったぞ、下着姿を見たくらいで動揺して、元が色白だから赤くなるのがすぐに分かって」
「ったく…見せびらかしたい気持ちもわかりますが、調子に乗り過ぎですよ」
 文句をつけながらも女から鍵を受け取り、ドアを開けてやる。女も自然な動作でシートに滑り込んだ。やはりカイスがドアを閉める。
「妬くな妬くな」
「私は彼の健全な成長を心配しているだけです」
「分かった分かった。それで、交渉の方はどうなるとそちらは見ている」
「外務の人達に言わせると後一ヶ月くらいだそうです。大筋で合意したと言うのに、細かい所にこだわってくれていますよ」
「こちらの担当者と意見が一致しているな。ならばそうなるだろう。長くはない、我々が待った時間に比べれば」
「そうですね」
「ああ。これでまず一つ、我々の念願が叶う。さっき言っただろう。我々には力があると」
「時期と運が味方してくれただけです」
「やはり相変わらずだな。まあいい。いつか君も変わる日が来ると私は信じている。それにそうならなかったとしても、私の愛に変わりはない。それは覚えておいて欲しい」
 女は窓から身を乗り出し、カイスは黙って口付けをした。水素動力エンジンの回転数が上がり、本来静寂性が高いはずの動力系が凄まじい唸りを上げる。その時になって、二人はようやく口を離した。
「それじゃあ、恐らく一ヶ月後に」
「ああ。必ず」
 弾丸のように、車は急発進した。すぐそばに人がいるのを全く無視するかのような無謀運転だ。ある種運転するのが好きなのである。問題が多いが。すぐに小さくなるその影を、カイスはしばらく追っていた。
 カイスがダイニングに戻った時、アシュアランスは二杯目のコーヒーを飲んでいた。今度はミルクと砂糖がきちんと入っている。それで何故アシュアランスが首をかしげているのか、その理由はカイスにはわからない。
「ええと、あの人のことなんだが…」
「分かっているつもりです。サイランス人は口が固いのを美徳としていますし、ゴシップを嫌います。口外はしませんよ」
 どこか疲れたようにアシュアランスが言った。
「うん、じゃあそれでよろしく」
 コーヒーを飲み終えた後、アシュアランスは何事もなかったように自分の部屋に引き取った。
「…どこかで見たことがあるな、しかし」
 翌日出発するために荷物の整理をしながら、ようやく調子を整えつつあるアシュアランスはつぶやいた。今思い返して見れば、記憶にある顔だ。しかしそれをどこで見たのか思い出せない。あの破天荒な言動による強烈な印象がなければ、意外に簡単に思い出せるのだろうが…。
「…芸能人か何かだな、多分」
 しかし結局、そういい加減な結論をつけて考えるのを止めてしまった。多分そうではないと分かるのだが。どうにも疲れていたし、することも少なくない。そうしているうちにリファームが帰って来て、やがて三人だけのささやかな壮行会が始まった。


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