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東京湾海堡シンポジウム

横須賀芸術劇場内部2003年12月13日。駅のポスターで東京湾海堡シンポジウムというのを見て、興味を持って行ってみました。横須賀芸術劇場には初めて入りました。普通の劇場かと思っていたら、ヨーロッパのオペラ劇場みたいでした。客席の広さはそれほどでもなさそうだけど、5階まで客席があって、とても天井が高い構造でした。3階席から見たけど、下を見ると少し怖かったです。舞台も天井が高く、舞台の枠は横幅と高さが同じぐらいある様でした。プロジェクタの投影のためスクリーンが下りていたので、奥行きはわからなかったけど、かなりそうでした。東京湾海堡のシンポジウムと言ったって、たかが砲台の島にそんな話題があるのか、などと思っていたらいろいろあるので驚きでした。第3海堡の撤去で漁業補償が行われていた事にはびっくりしました。関東大震災で壊滅後に漁礁になっていたのは事実だけど、元々国有財産だし、放棄されて100年もたっていないのに、後から来て魚を獲ってただけ漁業権が発生するとは。

作家 津本 陽第三海堡記念講演で、何の関係があるかわわかりませんが、作家の津本陽さんが ボソボソ話していました。要旨はこんな感じです。『江戸(人口は100万人とも250万人とも言われてる)は物の生産をしていなく、川は橋が架かっていないし、各藩での往来の制限があったりなどで、江戸の物資は海から運ばれるものに依存していました。そのため、海上交通は発達し、江戸時代の後期には大阪から江戸まで最速1日半で運ばれていました。幕末の時期、アメリカは鯨油を獲りに日本近海に来ていて、嵐を避けるために捕鯨基地を欲していました。イギリスはお茶や絹や銅に目をつけていました。鎖国をしていても幕府はこの状況を知っていました。危機感を持った藩などはそれぞれに対応していたが、幕府の中枢は問題の先送り体質があり動きが鈍かったそうです。当時、東京湾の入口に砲台はあったものの、遠くまで飛ばず、砲弾もほとんどなく、ペリーは東京湾の中まで入り込んで来ていました。このため江戸の物価が上がり、さすがに幕府もあわてて、ペリーが来航してすぐに条約を結びました』。何か政治の中枢の先送り体質など、今も昔も変わらないんだなと思ってしまいました。

防衛研究所図書館資料室調査員 原 剛イギリスポーツマスの海堡ロシアのクロンシュタットの海堡公演の1つ目は海堡の建設経緯の話でした。『幕末から明治・大正・昭和と、日本の防衛のために各所(津軽(函館)・東京湾・舞鶴・由良・芸予・広島湾・豊予・下関・佐世保・長崎・壱岐・対馬・父島)に要塞が築かれました。要塞は大砲と、付属施設(弾薬庫、敵船や砲撃状況の観測所、敵船を探す電灯所と発電機)からなり、各地に跡が見られます。その中で海堡は海中に作られたもので、東京湾入口以外には、品川と鹿児島にあります。海外だとイギリスやフランスやロシアが作っています。ロシアの海堡はT字型で、東京湾の海堡の形はこれをまねて作っています。内部構造はイギリスの海堡をまねています。海堡の建設は、東京湾の入口の防衛のために幕末に幕府に意見書が出ていて、明治に入っても陸軍省や調査を行ったフランス人などから意見書が出ています。そして、富津沖に試験的に建設が開始されました。その研究の結果、第二海堡・第三海堡の建設の意見書が提出され、建設工事が開始されました。特に第三海堡は高波との闘いで、造っては流され、最新技術を導入して対策をし、また流されの連続で、28年7ヶ月の大工事で完成し、2年後に関東大震災で水没してし、復旧困難なのと必要性の低下のため除籍されました』。海堡の建設経緯を聞いてると、明治時代の戦争が船中心だった事がよくわかり、また軍事機密だったので一般に知られずに戦後も忘れ去られて釣り場になっていたんだなぁと思いました。

横須賀市市史編纂室 高村 聰史公演の2つ目は海堡に関する情報をアメリカに提供している話でした。『明治39年、第一第二海堡は完成し、第三海堡は工事中のころ、アメリカ大使から外務省にチェサピーク湾に人工島を築きたいので海堡に関する情報を教えて欲しいとの依頼があり、日本から海堡の築造に関する情報の提供がされています。情報提供をしたぐらいだから極めて友好な日米関係だったかと思えますが、当時は日露戦争で日本が勝った直後で、アメリカは日本に脅威を感じ、日米開戦論が出たり、アメリカでの移民排斥運動が発生するなど、実際は日米関係はよくありませんでした。こうした中でなぜアメリカが情報を要求し、日本が応じたか疑問があります。1つは、アメリカから要請されたのが人工島建設の技術的資料で、提供した図面も水面下の構造で水面上の部分は明確に書かれていない事から、軍事機密とみなされていなかった可能性があります。日本が日露戦争で疲弊していた事や、日露戦争でアメリカは日本に味方をしていて、トップの間では戦争回避を望んでいた事もあったようです。実際、ルーズベルト大統領は移民問題の対策に苦慮しており、明治40年には日本側が移民を抑える日米紳士協定が結ばれています。このような中で友好を示すために、日本はサンフランシスコ地震に義捐金を送ったり、資料を提供していたのかもしれません』。面白い政治の裏を見た感じでした。

最後にパネルディスカッションがあり、技術面・役割面・景観面・事業面など、色々な話がありました。技術面で言えば、海堡建設には、鉄筋コンクリートやケーソンの使用など、その時々の最新技術が海堡の建設に使われています。役割面では、東京湾を航行する船を間近に見られる絶好ポイントである事や、ランドマークや漁礁としての価値、冒険場所としての価値が示されました。景観面では、廃墟の迫力、廃墟景観としての魅力が語られました。事業面では昭和34年の調査開始から平成12年の着手開始まで40年以上の時間がかかった事や、港湾事業へ市民が興味を持ってもらえるのに使えないかなどの話がありました。最後に、第三海堡は撤去となるものの、第一海堡と第二海堡はどうすべきかとの話になり、手を加えずに少年村など別の用途に使えないかとか、東京湾の勢いを見る最高の場所なのでアクセス整備をしたらどうかどうかとか、の意見が出ました。海堡の事だけでこれだけいろいろな話が聞けて面白かったです。

【追記】2004年1月23日。 作家の津本陽さんの話が聞き取りにくかったという事で講演録が送られてきました。 無料の講演にしては、アフターサービス恐れ入ります。 ついでに東京湾海堡ファンクラブ の案内が送られてきました。 ちょっと興味があるんだけど、どうしようかなぁ


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Presented by Ishida So