2004年2月28日。 2歳になる子をつれて、按針塚に行きました。 京急の安針塚駅の名前を聞いたとき、最初、針供養をしている所かと思っていましたが、 ぜんぜん関係ありませんでした。
京急の安針塚駅を降りると、『大楠山ハイキングコース』と書かれた大きな看板が出ています。 按針塚のある塚山公園を経て、大楠山まで行けるようです。 駅の近くの自動販売機に『2本で20円おトク』と書かれていました。 試しに2本まとめて買ってみたら、おつりが出た後に、さらに20円出てきました。 按針塚はとにかく塚山公園方面に進んでいけばOKです。 最初は駅から谷沿いの道でしたが、途中からややきつい上り坂が続きます。 子供が歩けそうにないので肩車で上ったら、息が切れました。
按針塚とその周囲は景色がよく、米軍や自衛隊の船がよく見えます。
塚山公園は桜の名所ですが桜には早すぎでした。
しかし何本かの梅の花が咲いていました。
塚山公園きちんと整備されていているのはいいのですが、何だか階段だらけ、といった印象でした。
按針塚は三浦按針をとむらったもので、大正12年3月7日指定の国指定史跡です。 墓石の形態は宝篋印塔というそうで、右塔が凝灰岩でできた按針の墓、左塔が安山岩で出来た妻の墓だそうです。 妻は江戸日本橋大伝馬町の名主 馬込勘解由の娘で、 ジョセフとスザンナの一男一女がいたそうです。 安針塚にかぶさる形で大きな木があり、これがなかなか景観をよくしていました
按針塚からは十三峠を経て田浦梅林へ行けます。
三浦按針は、本名をウィリアム・アダムスという英国人です。 1598年6月27日にロッテルダム港を出港した5隻の船団のうちの1隻、リーフデ号は、 1600年4月19日に今の大分県に流れ着きました。 その中には、後に八重洲さんとして知られるヨーステン・ファン・ローデンスタインと 航海長のウイリアム・アダムスがいました。 これを聞いた徳川家康は、船長を呼出し、 病気の船長の代わりヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスが大阪城で徳川家康に謁見しました。 徳川家康は船を江戸まで運ぶように命じ、2人は江戸まで着ました。 ここで2人は徳川家康の信任を得て、外交顧問となりました。 アダムスは航海術・天文学・造船術にもすぐれ、 1604年に家康の命令で伊豆伊東で80トンのイギリス式帆船を、 翌年には120トンの外洋航海ができる大型帆船を作りました。 この船ははスペインに贈られて太平洋を越えメキシコに渡りました。 1609年には、ウイリアムの働きによって、オランダ商館が設立されました。 ウイリアムは相模国三浦郡逸見村の250石の領地と大小一振の刀を与えられ、三浦按針と名乗りました。 按針の名は、当時、水先案内人を按針と呼んでいた事によります。 1613年には、家康の許しを得て長崎県の平戸にイギリス商館がつくられました。 その後、家康に、シャム(今のタイ国)への航海の許しをもらい、 シャム国の王と会見して、貿易の許しをもらって、帰国しました。 しかし、帰国したウイリアムを待っていたのは、家康の死の知らせでした。 家康が死んでから、幕府は、外国とのつきあいをさけるようになり、 ウイリアムの活躍の場もなくなり、家康の死後四年目の 1620年5月16日に長崎県平戸で57歳で病死しました。 商館長コックスは彼の遺言状に基き遺産処分をし金貨500ポンドを二分して半分を イギリスに在る妻子に贈り、残り半分と逸見村の土地を三浦の地の妻子に与え、 平戸に於ける財産の全部は案針住宅なる妾腹の子に譲与したそうです。
安針塚では毎年4月上旬に横須賀市主催の四大国際式典の三浦按針祭が開かれるそうです。 アダムスにちなむ祭りは他に、漂着地の大分県臼杵市、 病没した長崎県平戸市、船を作った伊豆伊東でも行われているそうです。
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