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 彼は人と話をほとんどしない。他の浮浪者が弁当などを持って行ってあげても、「どう
もどうも」という程度だ。この孤独な厳しい生活を10年以上も続けている。これは大変
な事である。ちょとやそっとでは出来る事ではない。

 禅宗の始祖、達磨は9年岩に面して座って過ごし、足がなくなったというが、この腰折
り尊者は10年以上も腰を折って座り、とうとう足と体がくっついたようになってしまっ
た。彼は達磨のように強い意志で座ったのではない。彼の性向、彼の体の中の人間として
の本来的なものがこのような事を強いたのだろう。意識的でない面、我々は同情を持つの
であるが、かといってこの人に、又はこの人達にどのように当たっていいか分からない。
社会の歪みでこのような生活を強いられている。強いているのは我々共同社会、組織社会
であって、彼らの生きる権利にもっと目を向けなければならないのは事実である。彼らが
我々と共同生活出来ないと言うだけで、彼らが行き倒れで死のうがどうしようが全く無視
することは人道的ではない。

 彼はこの生活に耐えている。普通の人間よりは、はるかに耐えている。彼自身非常に大
変な事であるが、残酷な見方しか出来ない私には彼が修行のような事を、自然にしてきて
しまったように思われるのである。彼は人間としてぎりぎりの生命を維持してきた。自分
という一つの生命に全てを託さざるを得ない、この行為は生命的に思える。彼は修行をし
てしまっているのである 。

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