落日・前編
第2回
『準備』
「見失った?分かった」宮園は舌打ちすると電話を切り、秘書の大倉に指示を出し て時計に目をやった。午後の10時を過ぎている。宮園は青木が動きだしたという 連絡を受け、部下に命じて青木の動きを追っていた。青木が動き出したという事は 一之宮瑞希、浩貴の姉弟(きょうだい)にも動きがあると思って青木の動きを追った。 関西空港で女を1人拾って名神高速道路に入ったとの連絡を受け、一之宮瑞希に違 いないと思ってそのまま尾行を続けさせた。木曽福島の手前で山道に入り、車が進 めなくなって見失ったとの連絡を受けて激怒した。
宮園勲。宮園建設の社長で、ここ数年で急激に成長した建設会社だ。大手ゼネコン を除けば、関西では英(はなぶさ)建設と1、2を争うほどの会社に成長した。この 成長の影には浅野興業という暴力団がいて宮園建設の影の部分を支えていた。宮園 建設の強引なやり方に浅野興業が動き、小さな建設会社はことごとく潰され、或い は吸収されていた。ただ一つ英建設を除いて。 3年前、大阪ミナミの再開発事業の利権を巡り、邪魔な英建設の社長、一之宮秀英 (しゅうえい)を浅野の手を借りて事故に見せかけて殺害した。このまま一之宮瑞希 と浩貴の姉弟(きょうだい)を生かしておいては宮園自身が危うくなると思い、浅野 の部下をロンドンに送り、留学中の瑞希も亡き者にしようと企んだが、部下がロン ドンの下宿先に行った時には一足違いで瑞希は姿をくらましていた。姿を消した理 由は青木の仕業に違いないと察し、あれから青木の行動を監視していた。だが、青 木は故郷の松本に帰ると小さな不動産業を開き、目立った動きは無かった。
弟の浩貴は防衛大学に在学中で手を出せずにいた。卒業してから始末すれば良いと 思っていたが、卒業と同時に行方が分からなくなった。これも青木が手を回したら しいとの情報で、青木圭三とは何者なのかと調べさせた。 青木圭三。元日本政府の高官で、ブラジルやドイツの大使を務め、後年はイギリス の大使を務めた人物で、彼の仕事ぶりは日本政府を始め各国の政府要人にも認めら れていた。次官の些細な不祥事で青木が責任を取って政府の仕事から手を引いてい た。政府の仕事からは手を引いていたが、彼の人柄か、日本政府の大臣クラスや各 国の在日大使とは今でも交流が有るという。これほどの人物がなぜ一之宮秀英の側 に居たのか宮園には分からなかった。青木に下手に手を出せば、逆に宮園が追い詰 められる気がして手を出せずにいた。さらに青木の周りには従業員と称して特務機 関の人間が数人警護している。迂闊に手を出せば日本政府を相手にする事にもなり かねない。宮園は部下に命じて青木の不動産会社の近くに喫茶店を開き、青木には 手を出さずに行動を見張らせ、瑞希と浩貴が現れるのを待っていた。
青木が大阪へ向かったという連絡を受け、秘書の大倉に命じて青木の行動を監視さ せた。翌日の昼過ぎに大阪のホテルを出たとの連絡を受けて部下に監視させていた。 関西空港で1人の女を乗せたとの連絡を受け、年齢層、背格好から一之宮瑞希に違 いないと思ったが、青木が一緒だということで行き先を突き止めるように指示を出 した。ところが木曽福島の手前で見失ったという。信州の雪の季節の山道を都会仕 様のセダンで走れる訳がなかった。部下のバカさ加減と的確な指示を出さなかった 自分にも腹を立てた。一之宮瑞希が帰国して青木圭三と同行したとなれば、きっと 浩貴も現れるに違いないと思い、松本を始め長野、塩尻、木曽福島など主要駅に部 下を張りつけた。浩貴の顔写真は浩貴の卒業した高校から強引に手に入れていた。 古い写真だが無いよりは良いと思い全員に持たせていた。だが芳しい連絡はなかっ た。ほとんどが観光客らしいグループかスキー客で、浩貴らしい人物は目撃されな かった。一度木曽福島に2人連れの外人女性が降りたとの連絡を受け、瑞希が外国 に居た所為か瑞希の連れかと思ったが、翌日には塩尻から列車に乗ったとの連絡を 受け、単なる観光客だろうと思い、瑞希と浩貴だけに的を絞るように指示を出した。
☆
「お嬢様、お食事の用意が出来ました」佐伯がドアをノックして声を掛けた。直ぐ にドアが開いて瑞希が顔を出し、ありがとうと笑いかけると2人の外国人女性と部 屋を出た。ダイニングルームには圭三も帰っていて全員が顔を揃えていた。 「お嬢様、用意は出来ています。これを」と圭三が瑞希の前に大きな封筒を差し出 した。瑞希は食事の手を止め、封を開くとマンションの住所と部屋番号、マンショ ンの鍵、銀行の貸金庫の鍵や弁護士事務所の住所等が入っていた。瑞希はそれ等を 見ながらありがとうと圭三に微笑んだ。 「佐伯、明日2人を塩尻まで送って欲しいんやけど」瑞希が声を掛けると、佐伯は 分かりましたと瑞希を見つめた。 「お嬢様、無茶はしないでくださいよ。お嬢様に何かあったら亡くなった旦那様に ・・・・」圭三が奈緒子を見て言葉を濁した。奈緒子の前でハッキリした事は言え ないのだろう。
「圭爺、心配しないで。私は大丈夫だから。正月には戻って来るからね。浩貴に逢 うのも5年ぶりやもん」瑞希は圭三に言いながら奈緒子に微笑みかけた。奈緒子は これから何が起こるのか気になっていたが、瑞希の笑顔を見て少しは気持ちが和ら いだ。 「奈緒子、浩貴とは連絡を取り合っているのんか?」瑞希が奈緒子に笑いかけた。 「いえ、中々連絡が取れなくて。こちらからは無理なので浩貴さんからの連絡を待 つだけなんです」と言いながら少し顔を赤らめている。 「浩貴も何してるんやろな。何時まで奈緒子を待たせる気なんやろ。こんな可愛い 子をほっといたら誰かに取られるで〜」瑞希が笑いながら奈緒子の顔を見つめると、 奈緒子も笑いながら睨むように瑞希を見た。
翌日、佐伯が運転する車でナターシャとアイリーンを見送った瑞希は、トランクに 荷物を積めると森下の用意した車に積み込んだ。 「お嬢様、お気をつけて。森下、頼んだぞ」圭三が声を掛けると芳江と奈緒子は心 配そうな顔をしている。 「婆や、そんな顔をしないで。正月には帰ってくるから。奈緒子、またね」瑞希は 2人に声を掛けると車に乗り込み、工藤の運転する四輪駆動車に続いて山荘を出る と、木曽福島の街はずれで工藤と別れた。国道19号線を南下して中津川で中央自 動車道路に入り、名神高速道路を経由して大阪に着いたのは午後3時を過ぎていた。 圭三に貰った地図を頼りにマンションに着くと森下がトランクを運んだ。
「お嬢様、私はこれで失礼しますがどうかお気をつけて」森下はマンションの入り 口で言葉を掛けると車で走り去った。エントランスホール横の郵便受けを見ると、 ルームナンバーの部屋の名前は菊池となっていた。圭爺が気を利かせて奈緒子の名 前にしていたのだろう。最上階の18階、南東角の部屋に入ってカーテンを開ける と部屋を見渡した。リビングは20畳程の広さで他に3部屋あり、簡素だが生活用 品は一式が揃っている。バスタブにお湯を張りながらトランクから荷物を出した。 瑞希は湯船に体を沈めるとこれまでの事を思い出し、父の無念を思うと涙が止まら なかった。風呂から上がると着替えをして、食事をするために夜の街へ歩み出た。 同日の夕刻、東京の麻布にあるロシア大使館へ入るナターシャの姿があった。 同時刻、福生(ふっさ)の米軍横田基地に入るアイリーンがいた。
*
翌朝、瑞希は宝塚にある一之宮家の墓を訪れた。暮れも押し迫った今頃に墓参りを する人は居ないのだろうか、墓地には誰もいなくてひっそりとしている。時折吹く 冷たい風がコートに身を包んだ瑞希の体にまとわりついてくる。瑞希は手を合わせ ながら墓の前で父に決意を誓った。帰りにタクシーの窓から垣間見えた実家に涙が 溢れた。その足で難波にある奥田弁護士事務所を訪ねた。ドアを開けると事務員が 応対に出てアポイントの有無を尋ねたが、瑞希は事務員を無視して奥のドアを開け ると、事務員は慌てて引き止めようとした。奥の部屋に座っていた男が立ち上がっ て瑞希を見つめた。瑞希は直ぐに奥田弁護士だと分かった。 「瑞希お嬢様、一之宮瑞希様ですよね。よくご無事で。もういいから」奥田弁護士 は部屋に入って来た瑞希を訝しげに見ていたが、瑞希が笑い掛けると驚いたような 顔で言葉を掛け、事務員にドアを閉めるように言った。
「本当にお久しぶりです。青木様から電話を貰った時は嬉しかったです。いつかは 必ず戻って来られると信じていました。ですがお父様の事は残念でなりません。青 木様のお話では裏が有りそうな口振りでしたが詳しくは伺っていません。一之宮家 の財産は全て昔のまま管理されていますが、青木様のお話では瑞希様と浩貴様のお 名前は出さない方が良いというお話でしたが、法的にそのままというのは都合が悪 いので、瑞希様と浩貴様の共同名義で変更しておきました。瑞希様が留学される直 前、瑞希様の書かれた委任状をお父様からお預かりしていましたので」奥田は瑞希 にソファを勧め、自分も向かいに腰を下ろして話し始めた。
「あの委任状はあなたの元にあったの?」瑞希はなぜ父が委任状を奥田に預けたの か分からなかったが、そのお陰で一之宮の家は無事であるらしいとの事だ。 「浩貴の分は?」 「はい、青木様が用意してくださいました。お屋敷は昔のままにしてあります。月 に1度信頼出来る管理会社に手入れを頼んでいます。お父様の葬儀は青木様と副社 長の石田様、私どもで社葬として済ませておきました。お嬢様、今直ぐにでもお屋 敷の方に住まわれたいでしょうが、もう暫く我慢して欲しいと青木様から託かって います」奥田はこれまでの経緯を瑞希に説明した。瑞希は話を聞きながら、圭三爺 と奥田弁護士の配慮に涙が溢れてきた。 「ありがとう。あなた達の力添えがなかったら、一之宮の家も名前も今頃は全てが 無くなっていたでしょう。私もこの3年間、ただこそこそ逃げ回っていた訳じゃな い。父の無念を晴らすためにそれなりの事はしてきたつもりよ」瑞希は涙を拭くと 奥田の顔を正面から見つめた。
「しかしお嬢様、お父様の無念を晴らすといっても・・・。黒幕は察しがついてい ますが証拠になるものは何も無く、後ろには浅野興業が・・・」奥田は後の言葉を 飲み込んだ。 「つかぬ事を聞くけど、父にも香田興業が付いていた筈やけど?」瑞希が薄笑いを 浮かべて聞いた。 「お嬢様、ご存知だったんですか。確かに香田興業がいましたが、お父様が亡くな られた後急に勢力が衰え、今では形ばかりで十数人が残っているらしいです。香田 さんはもめ事が嫌いな方で、いつも話し合いで解決されていましたが、浅野興業の 強引なやり方に力を落とされ、ミナミでの勢力図も書き換えられつつあります。で も、お嬢様が裏の事までお知りになっていたとは」奥田は驚いた顔で瑞希を見つめ て立ち上がるとドアを開け、事務員にコーヒーを入れるように言って再び腰を下ろ した。 「これでも一之宮秀英の娘よ。父の良い面も悪い面も見てきているわ」瑞希は笑い ながら奥田を見つめた。
「会社の方はどうなっているの?」瑞希は気になっている事を聞いた。 「お父様が亡くなられた後ミナミの再開発からは手を引き、少しですが規模を縮小 して副社長の石田賢三が経営を続けています。もちろん瑞希様か浩貴様がお帰りに なられれば経営権は引き渡されます」奥田が言った時ドアがノックされ、先ほどの 事務員がコーヒーを持って来た。2人の前に置くと下がってドアを閉めた。 「携帯電話を3台欲しいんやけど都合つけてもらえる?」コーヒーカップを口元に 運び、一口飲んで口を開いた。 「3台ですね、分かりました。近所に携帯のショップが有るので1時間ほど時間を 頂ければ用意出来ますが」奥田は腕時計に目をやると時間を確認した。 「お願いね。今から銀行に行くので帰りに寄るから」瑞希が立ち上がりかけると 「お嬢様、一緒に出かけましょうか」と奥田も立ち上がった。事務員に2時間ほど 出掛けるからと声を掛け、グレーのコートに袖を通して表通りに出た。
☆
数分歩いた所にある携帯電話のショップに寄り、奥田の名義で3台頼んだ。後で寄 るからと言ってそのまま銀行へ向かった。奥田が案内係の男に耳打ちすると、少し 待たされて別室へ通された。奥のドアを開けて50歳くらいの男が入って来た。白 髪まじりの頭を七・三に分け、メガネをかけた男に瑞希は見覚えが有った。 「奥田様、よくいらっしゃいました。今日はどんなご用件でしょう」2人の向かい に座りながら声を掛けた。腰を下ろして奥田に目をやり、隣の瑞希を見つめると急 に驚いたような顔になった。 「瑞希様、一之宮瑞希様じゃありませんか?支店長の千堂(せんどう)です。覚えて ・・・」 「覚えていますよ。よく宝塚の家の方にシュークリームを手土産に持って来てくれ てたね」瑞希が微笑むと 「お父様の事は本当に残念です。あれ以来音沙汰が無かったから心配していたんで すよ。浩貴様もご無事で?」千堂は懐かしいものでも見るような顔で瑞希を見つめ た。
「浩貴も無事ですよ。千堂もずいぶん老けたね。白髪もかなり増えたみたいだし、 きっと苦労しているんでしょう」瑞希が笑いかけると、千堂もメガネを外してハン カチで拭きながら笑いかけた。瑞希が貸し金庫の鍵を出してテーブルに置くと、ど うぞこちらへと促されて貸し金庫室に向かった。貸し金庫室に入ると、瑞希の鍵と 銀行の鍵で金庫を開け、引き出しを個室に運んだ。 「どうぞごゆっくり。御用があれば声を掛けてください」と言って千堂は金庫室を 出た。瑞希は個室に入ると引き出しの蓋を開けた。引き出しの中には瑞希名義の株 券、預金通帳と印鑑、封筒に入った現金などが入っていた。現金は封筒に小分けさ れていて、1つの封筒に3束、300万入りの封筒が5つある。通帳には5年定期 で5000万、普通預金で800万が入っていた。定期預金の預け入れ日付は瑞希 が留学に行く直前の日付で、年が明ければ満期になる。瑞希は封筒を2つとキャッ シュカードをバッグに入れると引き出しを戻して鍵を掛けた。
*
瑞希は戎橋の中ほどでネオンを眺め、煙草に火を点けるとゆっくり吸い込んだ。橋 の欄干にもたれ、行き交う人波を見ながらクリスマスが近い事を思っていた。 「お姉さん、火を貸してもらえない?」いつの間にか男が近寄って来て声をかけた。 クールな素振りをしているが、一見してナンパ目的の物欲しそうな顔をしている。 「あんた、煙草を吸うんか。煙草を吸う人間がライターも持たんでどうするんや。 ナンパやったら他を当たり」瑞希は冷たく言い放った。男はチッと舌打ちすると瑞 希の側を離れた。少し離れた所でライターを取り出して火を点け、瑞希の様子を伺 っている。煙草を吸い終わった瑞希は、今は町名が変わっているが宗右衛門町から 三ッ寺筋へ向かい、飲み屋の入っている雑居ビルの階段を登ると、2階の突き当た りにある香田興業と書いてあるドアを開けた。部屋には若い男が5人居て、奥の机 に40絡みの一見紳士風な男が座っている。 「おい、こら、おんどれは何もんじゃい。ここを何処やと思ってんねん」入り口の 近くに居た若い男が意気まいた。瑞希は若い男には目もくれず奥の男を見つめた。
「田畑の靖彦兄ちゃんやね」と言いながら歩み寄った。 「兄貴に何の用事やねん」周りの若い男が奥の男を庇うように瑞希の前に立ち塞が った。 「田畑やが、靖彦兄ちゃんって気安く呼ばれるほどあんたの事は知らんけどな」男 は立ち上がると若い男たちを抑えて瑞希の顔を見つめた。 「靖彦兄ちゃん、ウチや、瑞希や、一之宮瑞希やねん」瑞希は声のトーンを変えて 笑った。 「瑞希やて?一之宮瑞希って・・・一之宮のお嬢かい。おう、そういえば面影があ るなぁ。今までどないしてたんや。お父さんが亡くなって、お嬢もボンも行方知れ ずでみんな心配してたんやで。けど、よう来てくれたなぁ。おやじも心配してたん やで」田畑は瑞希の顔をまじまじと見つめると嬉しそうに抱きしめた。瑞希に椅子 を勧めると、若い男に寿司を取るように指示してコーヒーを用意させた。 「お嬢に会うのは何年振りやろなぁ。確か留学する時に挨拶に来てくれたから、か れこれ5年になるんか。今まで何処に居たんや。ボンは無事なんか」田畑は目の前 の瑞希を嬉しそうに見つめ、若い男たちに瑞希の素性を説明した。話を聞いて男た ちは恐縮したが、気にしないでと笑うと安心したように笑顔を見せた。
瑞希が今までの経緯を話すと、田畑を始め若い男たちも驚いた顔で瑞希を見つめた。 「それじゃぁ青木の爺さんの計らいで・・・・・そうだったんですか。でも無事で 良かった。うちも御覧のように落ちたもんです。お嬢、何時でも言ってくださいよ。 落ちぶれても香田の看板を汚すような真似は出来ません。体を張ってお手伝いさせ てもらいます」田畑が言うと、若い男たちが俺も俺もと意気まいた。 「ありがとう。でもこの事はうちがカタをつけるから。それより兄ちゃん、ちょっ と乱れてるんと違う?変なんが多いで」瑞希はコーヒーに口を付けると田畑を見て 笑った。 「申し訳ない。最近浅野の連中がしゃしゃり出て来てわしらの手に負えんのや」田 畑は苦笑いしながら煙草に火を点けると若い連中を見渡した。 「兄ちゃん、香田のもんは手を出さんで見ててや。浅野の連中を1人ずつ潰すから ね。浅野を潰して最終目的は宮園やねん」瑞希が涼しい顔でとんでもないことを言 うので、みんなが驚いて瑞希を見ている。
「お嬢、あんまり無茶は言わんでくださいよ」田畑は瑞希の言ったことがあまりに も突拍子もない事だったので、呆気にとられて笑い出した。 「それより香田のおじちゃんは元気?」瑞希も田畑に合わせて笑いながら聞いた。 「元気ですよ。そろそろ顔を出す頃やけど」と時計を見た。寿司屋が出前を持って 来ると若い男がお茶を煎れ、みんなで寿司をつまんだ。 「兄ちゃん、そろそろクリスマスで正月も近いやろ。これで若い子達に何かしてや ってや。ささやかなクリスマスプレゼントと思って何にも言わんで受け取ってや」 瑞希はバッグから封筒を1つ取り出すと田畑の前に置いた。田畑は分厚い封筒の中 身を見て驚いた顔をした。 「お嬢、あきまへん。お嬢にこんな事を・・・・」 「兄ちゃん、何言うてんの。おじちゃんや兄ちゃんには子供の頃から可愛がっても らったのに。お願いやから何も言わんと受け取ってや」瑞希が言った時、ドアが開 いて男が数人入って来た。
「おやじさんです」若い男が言うと部屋に居たみんなが立ち上がった。60過ぎの 少し頬がこけた男が入ってくると、ご苦労さんですとみんなが頭を下げた。 「香田のおじちゃん」瑞希が思わず声を掛けると不思議そうな顔で瑞希を見つめた。 「お嬢、一之宮のお嬢やないか。どうしてまたこんな所へ。青木の爺さんから無事 だとは聞いていたけど、よくまぁ無事で」香田は愛想を崩すと嬉しそうに瑞希を抱 きしめた。 「お嬢、お父さんの事はほんまに申し訳ない。わしが知ったんは事が終わった後で どうにも出来んやった。ほんまに済まなかった。この通りや」香田は瑞希から離れ ると頭を下げた。 「おじちゃん、そんな真似は止めてや。おじちゃんの所為じゃないやん。あんまり 自分を責めんといてや。香田のおじちゃんや圭爺のお陰で今のウチが居るんやもん。 感謝してるんよ」瑞希は香田の手を握って微笑みかけた。
「おじちゃん、一緒に食べよう」瑞希は香田と一緒に座ると、食べかけていた寿司 に手を伸ばした。香田は嬉しそうに頷き、寿司に手を伸ばすと瑞希の顔を見つめて 微笑んだ。おやじさん、田畑が封筒を渡して経緯を話した。 「お嬢、そんな事をしたら・・・・」 「おじちゃん、たまにはウチに孝行させてよ。大した事は出来んけど、クリスマス のプレゼントやと受け取ってや」瑞希は香田が言いかけたのを制した。 「ありがとう、お嬢。お嬢の気持ちはありがたく頂きます。みんな、お嬢に礼を言 いや。それとお嬢の顔を良く覚えておくんやで。ミナミで粗相のないようにな」香 田が言うと、ありがとうございますとみんながお礼を言った。 「けど、あんまり無茶しないでくださいよ。お嬢にもしもの事があったら、亡くな ったお父さんや青木の爺さんに顔向けが出来なくなりますから」と香田は瑞希の手 を握りしめた。瑞希は宮園や浅野の事で何か分かったら連絡してくれるようにと、 メモ用紙に携帯の番号を書いて渡した。
「お嬢、今何処に住んでるんや。青木の爺さんからはマンションを用意したと聞い たけど」 「南堀江やねん。心斎橋から直ぐやからご飯に行くのも楽でええわ。暫くは自炊な んて出来そうもないし」と笑った。 「友達と会う事になっているからそろそろ行くわ」瑞希が時計を見て立ち上がると、 そこまで送らせるわと言って靖夫という若い男を付けた。 雑居ビルを出ると、三ッ寺筋から宗右衛門町に出る直前で 「お嬢さん、ちょっと」靖夫が瑞希を庇うように物陰に隠れた。 「浅野のヤツ等ですわ」物陰から様子を伺うように見て靖夫が言った。男が2人、 宗右衛門町に出る手前で話し込んでいる。 「浅野のヤツって、この辺は香田のシマやろな」瑞希が聞くと靖夫は申し訳なさそ うな顔をした。
「ちょっと待っとき」瑞希は靖夫に言って2人の男に近づいた。 「火を貸してくれへん」瑞希は煙草を取り出して声を掛けた。物陰に隠れて様子を 見ていた靖夫は、慌てて応援を呼びに雑居ビルに飛び込んだ。靖夫の話を聞いて香 田は激怒したが、それより早く田畑と4人の男が飛び出した。田畑たちが瑞希の所 に駆けつけた時、瑞希の足元に2人の男が倒れていた。通りすがりの数人が遠巻き に見つめている。 「お嬢、これは・・・」田畑は驚いて瑞希を見つめた。瑞希は息も乱さず涼しい顔 をしている。 「兄ちゃん、ごめん。浅野って聞いてつい・・・。急所は外しているから死ぬよう な事はないやろうけど後が面倒になるね」瑞希は申し訳なさそうに謝った。 「そんな心配は要らんわ。大体うちのシマを大きな面で歩き回っているからや。い い薬になったやろ。それにしてもお嬢、いったいどうやって2人も」と驚きの顔で 瑞希を見つめた。後始末を田畑に任せて瑞希は戎橋に向かった。
戎橋に行くと、橋の中ほどで1人の外国人女性が煙草を吸いながらネオンサインを 見ている。外国人が珍しいのか数人が物珍しそうに見ている。 「ナターシャ」瑞希が近づいて声を掛けると嬉しそうな顔で振り向いた。瑞希が食 べる格好をするとテンプラと笑った。道頓堀にある天麩羅の店に入り、席に案内さ れるとナターシャが東京での成果を話した。アイリーンとも連絡は取れて明日の夜 には戎橋に来るという。瑞希はナターシャの話を聞きながら、気持ちが高ぶってく るのを抑えるのに苦労した。木曽福島で別れる時、大阪に来て戎橋、通称引っ掛け 橋といえば誰でも知っているからと説明していた。ナターシャは新幹線で大阪に入 り、何人かに聞きながら辿り着いたと言った。日本人は親切で、若い男が橋まで連 れて来てくれたと笑った。 天麩羅の店を出るとナターシャがたこ焼き屋の前で立ち止まり、不思議そうな顔で 見ている。瑞希が笑いながら一皿頼むと、ナターシャは美味しそうに食べている。
続く
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