落日・前編
第3回
『プレゼント』
「雄ちゃん、一皿頂戴」大阪の道頓堀、戎橋南詰の近くの1坪店舗でたこ焼きを売 っている雄二に声を掛けたのは、近くの喫茶店に勤める麻耶だ。 「麻耶ちゃん、今日はもう上がりか」雄二はたこ焼きを舟に盛り、丸椅子を勧めて 笑いかけた。 「うん、今日は7時で上がりやねんけどちょっと小腹が空いてんねん」麻耶と呼ば れた女は丸椅子に座ると、笑いながらたこ焼きを食べ始めた。 木村雄二、28歳。大阪南部の八尾の出で、高校卒業後に自衛隊に入り、2年前に 除隊するまでいろんな資格を取ったが、今の雄二の役に立つものは何もなかった。 ただ身長が186センチ、95キロと自衛隊で鍛えぬいた体だけは一種の武器とし て周りからも一目置かれていた。除隊後も八尾には帰らず、2年前から始めたたこ 焼きはミナミでも評判で多くの固定客が付いている。戎橋の上で何度かトラブルの 仲裁に入り、そんな雄二を数人の若いもんが慕って遊びに来ていた。そのうちの1 人、悟が息を切らして走って来た。
「雄ちゃん、なんやもめそうやで」と戎橋の方を指差した。 「悟、店番頼むわ」雄二は悟に言って走り出した。麻耶も雄二の後を小走りで追い かけた。クリスマス直前の戎橋の上は人が多く、カップルや観光客らしい人も大勢 たむろしている。橋の中ほどに数人が人垣の輪を作っていた。雄二は人垣の後ろか ら輪の中心を見ると、大柄な女が2人、そのうちの1人は外国人らしく金髪だ。 雄二は2人に絡んでいる4人の若い男を見ると、この辺では見かけない顔でナンパ 目的の男みたいだ。戎橋、通称引っ掛け橋と呼ばれ、ナンパ目的の男と女が時々も めている。4人の男はしきりに話しかけているが、2人の女は無視してタバコに火 を点けると、鋭い視線を男たちに戻した。 「どないなってるん」追いついて来た麻耶が雄二の腕を掴み、人垣の隙間から覗い ている。雄二は2人の女を見ながら、あの2人は昨夜、雄二の店でたこ焼きを買っ た2人だと思った。大柄な日本人と外国人で昨夜の事だから記憶に残っている。
雄二は2人を見ながら、昨夜とはまるで違う自信に満ちた態度と冷たい視線に思わ ず身震いした。あの2人は並みの女じゃないと直感した。子供の頃から喧嘩ばかり していて高校の時に空手を習得し、自衛隊で鍛えぬいた雄二は素手では誰にも負け ないと自負しているが、2人の女、特に日本人の女の視線に恐ろしいものを感じた。 日本人の女はジーンズに皮のハーフコートを着て、外国人の女は皮のパンツに黒の コートを着ている。周りの人垣は面白そうに見ているが、喧嘩になれば4人の若い 男はひとたまりもないだろうと思っていた。 突然外国人の女が鋭い口調で男たちに喋った。外国語だ。それも英語じゃない。鋭 い口調と意味の分からない外国語で男たちは怯んだ様子を見せた。日本人の女は煙 草を吸いながら冷たい笑みを浮かべている。 「人を待ってんねん。あんた等と遊ぶ気なんてさらさら無いからとっとと消えてや」 日本人の女が口を開いた。鋭利な刃物を思わせるような冷たい視線と、喋る言葉が 大阪弁というミスマッチが妙に気になって、雄二は止めに入るのを思い留まって見 ていた。
日本人の女が吸っていた煙草を指で弾いた。弾かれた煙草は4人の男のリーダーら しい男の顔に当たった。男は一瞬怯んだ様子を見せたが 「このアマ、下手に出てれば調子に乗りやがって」煙草を投げられた男が日本人の 女に掴みかかろうとした。雄ちゃん、麻耶が雄二の腕を引っ張った。止めてやった ら、と言いたげな顔で雄二を見た。雄二は麻耶に笑いながら、大丈夫や、と言って 輪の中に視線を戻した。若い男が掴みかかろうとした瞬間日本人の女の手が動いた。 あまりにも素早い動きで周りの人間には何が起きたのが理解できなかった。いきな り若い男が顎を押さえて呻いた。 「何しやがんねん」もう1人の男が動こうとした瞬間外国人の女が動いた。動いた 瞬間男はわき腹を押さえ膝を突いて呻いた。あとの2人は怯えた顔で女を見ている。 雄二は2人の女の動きに背筋が凍りつくような感覚を覚えた。雄二の横をすり抜け て1人の外国人女性が彼女達に近づいた。ジーンズに革ジャンを着ているその女も 180センチを超える大柄な女だ。
「ナターシャ、ミズキ」近づいた女が声を掛けると、2人もアイリーンと呼びなが ら嬉しそうな顔をしている。先ほど見せた鋭利な刃物を思わせるような視線は消え、 愛くるしい笑顔が雄二を驚かせた。昨日、雄二の店の前でたこ焼きを食べていた時 のような、楽しそうな感じの顔になっていた。残っていた男は女が3人になったの に恐れをなしたのか、呻いている男を抱え上げると人垣をかき分け逃げるように去 っていった。人垣が崩れると何事もなかったように人々が橋の上を往来している。 雄二は少し離れた所から3人の女を見ていた。外国人が2人と日本人が1人という 取り合わせを見ながら、先ほど見た一瞬の動きが雄二の頭を離れなかった。後から 合流した女は分からないが、最初の2人の女には雄二も太刀打ち出来ないだろうと 思った。2人は人体の弱点、急所を知り尽くしているように思えた。最初の一撃が 的確に急所を捉えていた。3人の女が心斎橋筋の方に姿を消すと、雄二は暫くの間 後姿を追っていた。
「3人とも綺麗な人やったね〜」麻耶が呟く様に言うと雄二は思わず頷いていた。 「どうやった?」店に戻ると2人の女の客にたこ焼きを渡しながら悟が聞いた。 「すっごい女の人やったわ。目にも止まらん速さで2人を痛めつけてんで。びっく りしたわ。おまけに3人とも綺麗やったしなぁ」麻耶が悟に言いながら 「雄ちゃん、クリスマス・イブ、ご飯食べに行こうな」と振り向くと、雄二は考え とくわと笑って悟と交代した。 「ほんまに考えといてや。ほな、帰るわ」麻耶が笑いながら去って行った。 「雄ちゃん、外人と日本人が居たやろ。あの日本人の女、昔は、といっても10年 くらい前やけど、この辺では知らんもんが居らんくらい有名やったんやで。雄ちゃ んが来たんは2年前やから知らんやろうけど、高校の制服着て香田のおやじや田畑 の兄貴たちと腕を組んで歩いてたんやで。
雄ちゃん、3年前にミナミの再開発に絡んだ事件の噂は聞いて知ってるやろ。建設 会社社長の一之宮秀英が死んだ事件。警察では事故死扱いになったけどあれは殺し やで。その殺された一之宮の娘で瑞希っていうのが居るんやけど、さっきの橋の上 の日本人、あれは瑞希やで。高校の頃からやから10年近く経っているけど多分間 違いないわ。何時帰って来たんやろなぁ。しかし、今の香田興業は浅野に押されて 落ち目になってるやん。今んとこは何とかミナミを守っているけど、あんまり長く はないかもな」悟は自分の知っている事を自慢げに雄二に話した。悟に言われて、 後から来た外人の女性がミズキと呼んでいたのを思い出した。 「悟、お前色んなことをよう知ってんねんなぁ」雄二が感心したように悟を見た。 「これでもミナミで生まれてミナミで育ったんやで」と誇らしげに笑った。
☆
清水健一、42歳。清水は今日もある男の行動を監視していた。清水の手帳には 10人近い人物の名前と住所、家族構成や日ごろの行動パターンが仔細に記されて いる。今日も浅野興業の1人の男を尾行していた。この男の尾行を始めて3ヶ月が 経っていた。毎日尾行する時も有れば1週間空く時もある。何とか隙を見て、適わ ぬまでも一矢を報いたい気持ちが強かったが、いかんせん清水は生まれてこの方喧 嘩なんて一度も経験がなかった。一度若い男を襲ったが、あっさり逆襲されて肋骨 を折って入院した事があった。それ以来襲う事はやめて行動パターンを仔細に調べ 上げた。いつか必ず役に立つ時が来ると信じていた。 清水はあの日以降会社を辞めていた。副社長の石田賢三、弁護士の奥田昭三や青木 圭三等に引き止められたが、社長の一之宮秀英が亡くなった、いや、殺されたのは 自分の責任だと感じていた。
清水は社長の秘書兼運転手をしていたが、あの日、煙草を買うために車を離れた僅 かな隙に大型トラックが突っ込み、車は社長を乗せたまま炎上して手の施しようが なかった。事故を起こした運転手の自供で酒を飲んで運転していた事が分かり、酒 気帯び運転での業務上過失致死として処理された。 責任を感じて退職した清水は家族を故郷の高松に帰し、1人で社長の仇をと思って いたが、喧嘩もした事がない清水に出来る事ではなかった。調べて分かった事だが、 事故を起こした運転手は浅野興業の下請けの子会社の運転手で、当事サラ金に借金 があり、事故後返済されていた事が分かった。はっきりした証拠というものはなか ったが、ミナミの再開発で英(はなぶさ)建設と宮園建設の間で受注の争奪戦があっ た為の事件だと思っていた。
事件後、香田興業の若い連中が血気に逸って十数人が逮捕され、一気に勢力が衰え ていった。だが、一之宮のお嬢さんの瑞希さん、息子の浩貴さんは無事だと青木圭 三に聞かされていた。暴力的な事では役に立たないが、調べ上げた事が何時か役に 立てばと今日も尾行を続けていた。時々英建設の旧友と会って話を聞いても、2人 が帰って来たという話は清水の耳に入らなかった。年が明ければ3年が経過しよう としているのに。 夕方、浅野興業を出た男は若い男を2人連れてミナミにやって来た。ミナミで暴れ るわけじゃなく、大人しく食事をして飲みに行く程度の毎日を繰り返していた。そ れでも香田興業の勢力地域に出入りする事は、今の浅野興業と香田興業の力関係を 見せつけていた。何時も行く千日前の飲み屋に入ったのを見届けると、清水はその 場を離れて道頓堀に来た。飲み屋に入ると2時間は出て来る事がなかったが、出て 来てもそのまま帰ってしまう。今日も何事も起こらないだろうと何時ものたこ焼き 屋に寄った。
「雄ちゃん、一皿頼むわ」と丸椅子に座った。 「いらっしゃい。清水さん、元気が無いですね。明日はクリスマス・イブですが家 族で楽しみはるんですか」雄二がたこ焼きを舟に盛り、渡しながら笑った。 「出来ればそうしたいけど、中々ねぇ」清水も笑ってたこ焼きを食べ始めた。すで に10時を回っていたが、クリスマス前という賑やかさのためか、若いカップルや 数人のグループが楽しそうに歩いている。清水は行き交う人を見ながら、高松に帰 した家族の事を思っていた。 「先日宗右衛門町の方で浅野の2人が叩きのめされたらしいけど、今の浅野に喧嘩 を売るって根性あるよなぁ。それも女やったらしいねん。香田にはそんな女はいな いやろうし、誰なんやろなぁ。そういえば一昨日の晩、橋の上ですげぇ女を見たけ ど、ひょっとしたらその女かもしれんわ。日本人と外人やったけど、日本人の方は 確かミズキとか呼ばれてたわ」雄二が何とはなしに話しかけると、清水は驚いた顔 で雄二を見つめた。
*
午後3時過ぎ、部屋のインターホンが鳴った。瑞希がモニターを見ると、宅配便の 業者が大きな荷物を持ってカメラの方を向いていた。 「雨は降っている?」ナターシャが瑞希の耳元で囁きその言葉を宅配業者に言った。 「雨は降っていませんが、風が突き刺さるような冷たさです」宅配業者の言葉を聞 いてナターシャが頷くと、エントランスホールから中へ入るドアのスイッチを入れ た。暫くするとドアチャイムが鳴り、ドアスコープを覗くと先ほどの宅配業者だ。 瑞希がドアを開けると、長い段ボール箱と大きなダンボール箱を2個運び込んだ。 ナターシャが宅配業者に頷くと、宅配業者も黙って頷きそのまま帰った。長い方の 箱を開け、中のジュラルミンケースを開けるとナターシャが笑いを浮かべて瑞希を 見つめた。瑞希も箱の中身を見るとナターシャに微笑んだ。夕方、アイリーンがリ ボンの付いた大きな箱を抱えてやって来た。大きな箱はいかにもクリスマスプレゼ ントらしい包装紙で包んであり、誰が見てもプレゼントにしか見えない。23日の 夕方でイブには1日早いが、誰もそんな事は気にしないだろう。瑞希がエントラン スホールからのドアを開けると、暫くしてドアチャイムが鳴った。
「メリークリスマス」瑞希がドアを開けると、アイリーンもメリークリスマスと言 いながら部屋に入った。アイリーンがプレゼントに見える大きな箱を渡すと、瑞希 は直ぐに包装紙を捲って箱を開けた。中身を見て瑞希が微笑むとナターシャも微笑 んでいる。 「アイリーン、ナターシャ、ありがとう」瑞希が2人の手を握ると2人は何も言わ ず握り返した。瑞希は蓋を閉めるとベッドの下に押し込み、食事に行くために3人 で部屋を出た。アイリーンの寿司が食べてみたいという希望で、心斎橋筋から東に 入った所にある寿司屋に入った。瑞希の食べ方を真似て何とか食べているが、イカ とタコはどうしても食べる事が出来ないみたいで注文をすることはなかった。 ナターシャはイカもタコも平気で食べている。先日、たこ焼きを美味しいと食べて いたから、タコは何ともないのだろう。ゆっくり時間を掛けて食べ、寿司屋を出た のは9時を少し過ぎていた。
「ミズキ、タコヤキ」とナターシャが笑った。先日、道頓堀で食べたたこ焼きが気 に入ったようだ。心斎橋筋の人ごみに紛れてのんびり歩き、戎橋にさしかかると相 変わらず橋の上は賑やかだ。 「瑞希お嬢さん」背後から声を掛けられ、瑞希が振り向くと靖夫ともう1人若い男 がいた。 「今日はどうしたん。この前は大丈夫やった?」 「えぇ、田畑の兄貴がちゃんと処理してくれました。今日は見回りです。お嬢さん はどちらへ?」 「そこのたこ焼き屋。友達が食べたがっているから。気ぃつけや。また顔を出すか らって、兄ちゃんとおじちゃんに言っといてや」瑞希が笑って歩き出すと、お気を つけて、と靖夫が声を掛けた。 ナターシャが1皿頼むとアイリーンは珍しそうに見ている。この店、具はタコ以外 にも色々あるようで、何種類かのメニューが貼ってある。瑞希がコンニャク入りを 頼み、アイリーンに囁くと頷きながら笑っている。
3人の横で中年の男が椅子に座ってたこ焼きを食べていた。雄二は3人の女にたこ 焼きを焼きながら、先日橋の上で見た3人だと思った。 「失礼ですが、お姉さんは一之宮瑞希って方ですか?」雄二は先日悟に聞いた事を 思い出して聞いてみた。途端に女の顔が厳しい顔つきになり、2人の外人も身構え る姿勢を見せた。 「あっ、いや、すいません。変なもんじゃないんです。先日橋の上での事を見かけ て、一之宮のお嬢さんらしいという話を小耳に挟んだもんで、つい要らん詮索をし てすいません」雄二が申し訳なさそうに言った時 「お嬢様、一之宮の瑞希お嬢様ですか?」それまで椅子に座ってたこ焼きを食べて いた男がいきなり瑞希に話しかけた。瑞希は身構えた姿勢を崩さず、話し掛けてき た男の顔を見つめた。サラリーマンにしては服装が乱れているし、女目当てに遊び に来るほど若くない男の顔を無遠慮に見つめた。見つめながら見覚えのある顔だと 思った。1度や2度じゃなく、何度も会っている顔だと思いながら、記憶の糸を手 繰るように男の顔を見つめた。
いきなり男が土下座して涙を流し始めた。瑞希は困惑したが、男はお構いなしに申 し訳ありません、と地面に頭を擦り付けている。 「お嬢様、清水です。お父様の秘書をしていた清水健一です。私の不注意でお父様 があんな事になって、お嬢様に合わせる顔などないのですが・・・」男は地面に頭 を擦り付けながら声を震わせている。周りの人は何事かと遠巻きに見ていたが、雄 二が何でもありませんからと人を遠ざけた。 「清水って、秘書兼運転手をしていた清水か?」瑞希は男の前にしゃがむと、顔を 上げさせて暫く見つめた。父の迎えと仕事の話で家に来た時、何度か顔を合わせて いる清水に間違いなかった。 「こんな時間にどうしたんや。帰らんと家族が心配するやろ」瑞希は男を丸椅子に 座らせると、くしゃくしゃになった清水の顔を見つめた。 「清水さん、お姉さん、こんな所での話もなんですから」雄二が数件隣の喫茶店に 案内した。
「麻耶ちゃん、奥の人目に付かない席を頼むわ」雄二は麻耶の姿を見つけると案内 を頼んで店に戻った。ありがとう、瑞希は男に礼を言うと清水を座らせ、コーヒー を4人分頼んだ。清水は席に座っても申し訳ないという気持ちが強いのか、俯いた まま顔を上げようとしなかった。瑞希が何度か促し、恐る恐る顔を上げるとナター シャとアイリーンを不思議そうに見ている。瑞希が心配いらないからと笑うと、少 しは気持ちが落ち着いて来たのか、今までの事を少しずつ話し始めた。瑞希は話を 聞きながら、会社を辞め家族を田舎に帰してまで何とかしようとした清水の気持ち が嬉しかった。 「ありがとう。でも清水、家族を犠牲にすることは父も反対やった筈よ。どんなに 優秀な社員でも仕事のために家族を蔑ろにする社員を怒っていたやろ。清水、明日 にでも田舎に帰って家族を安心させてやり。田舎に帰って、奥さんや子供たちとク リスマスを楽しむんやで。清水の気持ちはありがたく受け取っとくわ。家族に何か プレゼントを買って帰るんやで」瑞希は財布から10万円を出すと清水の手に握ら せた。
「お嬢様・・・」清水が驚いた顔で言いかけたのを制して 「清水、家族を大切にするんやで。今の清水を見ても父は喜ばんよ。家族と一緒に いてこそ良い仕事が出来るって、口が酸っぱくなるほど言ってたのを覚えているや ろ。後は私に任せて家族の元に帰り。清水、いずれ石田から連絡させるからな。そ の時は会社に戻って来るんやで。ところでその手帳、ウチに預からしてくれへんか」 瑞希が諭すように話すと清水は落ち着きを取り戻し、ポケットから手帳を取り出し て瑞希の前に出した。瑞希は手帳を開くとびっしりと書かれた文字を読みながら、 よくこれだけ調べられたと感心した。 「清水、奥田弁護士は知ってるやろ。何かあったら奥田弁護士に連絡したら良いわ。 奥田からウチに連絡してくれるから」瑞希が言うことを清水は神妙に聞きながら頷 いた。喫茶店を出るとたこ焼き屋の男に礼を言い、御堂筋に出てタクシーを止める と清水を乗せた。
☆
奈緒子はここ数日眠りの浅い日が続いていた。瑞希の生々しい背中の傷が奈緒子の 脳裏から離れなかった。瑞希がロンドンに留学して2年目に瑞希の父が亡くなり、 圭三達と一緒に故郷の松本に戻り、3ヵ月後に開田高原のこの山荘に住むようにな ったが、瑞希と浩貴の行方は分からなかった。圭三に聞いてもまだ知らない方が良 いと言われていた。奈緒子は圭三の不動産会社の経理をこの山荘で担当している。 毎日送られてくるデーターをこの山荘のパソコンで管理していた。あの事件のおお よその見当はついていたが詳しい事は知らなかった。この山荘に来てから工藤と佐 伯、運転手の森下の3人が来た。圭三はよく電話で話しているが内容までは分から なかった。今年の夏頃に瑞希が帰って来ると知らされ、奈緒子は飛び上がりたい気 持ちを抑えるのに苦労した。留学中は時々絵葉書を送ってくれたが、この3年間何 処にいたのか圭三も教えてくれなかった。12月中旬、圭三が瑞希を迎えに行く時、 奈緒子も同行を頼んだが断られた。留学する時にはふっくらしていた瑞希の顔が、 帰ってきた時には少し変わっていて昔のふっくらした姿はなかった。えくぼの出来 る笑顔は昔のままで、笑顔を見れば直ぐに瑞希だと分かった。
出来ればクリスマスを一緒に楽しみたいと思っていたがそれも無理みたいだ。瑞希 が大阪で何をしようとしているのか奈緒子には分からなかった。正月には瑞希も 浩貴も帰って来ると言っていたから、何年ぶりかで楽しい新年を迎える事になりそ うだ。 午後から芳江と一緒にクリスマスの飾り付けをした。佐伯は料理を作っているが、 圭三の会社の人が松本から3人来て飾りつけと料理を手伝っている。奈緒子も何度 か顔を合わせているから、冗談を言いながら楽しい雰囲気で飾り付けを済ませた。 夕方には圭三と森下が帰って来たが、工藤は数日前から仕事だといって出かけたま ま姿を見せなかった。7時から圭三夫婦と奈緒子、佐伯、森下、圭三の会社の3人、 木曽福島の圭三の友人で、手広く事業をしている花岡産業の家族4人が来ていた。 クリスマスパーティというほど賑やかじゃなく、普段の食事と同じ雰囲気だが料理 だけはクリスマスらしく豪華だ。みんなが持ち寄ったプレゼントを交換した。
「奈緒子、瑞希お嬢様からプレゼントが来てるよ」芳江が笑いながらリボンの付い た大きな箱を持って来ると、奈緒子が嬉しそうな顔になった。奈緒子が一之宮家の 圭三夫婦の元に引き取られてから、誕生日とクリスマスには必ずプレゼント貰った。 瑞希が大学生になり奈緒子が高校生になると、毎年夏休みと冬休みには旅行に連れ て行って貰った。ニューヨークやオーストラリア、フランスにオランダと何時も2 人で出かけていた。瑞希が留学する時も一緒にと頼んだが、大学を卒業してからと 瑞希と圭三に諭された。そんな瑞希から3年ぶりのプレゼントに奈緒子の胸が躍っ た。奈緒子が箱を開けると真っ赤な皮のジャケットが入っていた。着ていたカーデ ィガンを脱いでジャケットに袖を通すと、みんながよく似合うわと言いながら優し い顔で見ている。
*
24日の夜10時過ぎ、瑞希は戎橋の上にナターシャと一緒にいた。クリスマス・ イブの今夜は大勢の若者で賑わい、時々歓声が上がっている。さすがに今夜は戎橋 南詰めにある派出所の警察官がパトロールをしている。煙草を吸いながら橋の上の ざわめきを眺めていると、瑞希とナターシャをもの珍しそうに見ながら通り過ぎる 若者も多い。中には勇気を出して声を掛けて来る男もいたが、ナターシャがわざと にロシア語で怒鳴ると、恐れをなしてすごすご引き下がっている。その度に瑞希は 声を出して笑った。瑞希の携帯に電話があり、一言二言喋るとナターシャに頷き、 2人は橋の上で別れた。ナターシャとアイリーンは瑞希のマンションには泊まらず、 心斎橋にある御堂筋に面したホテルに泊まっている。 瑞希は道頓堀筋から坂町(旧町名)に向かい、飲み屋の入った雑居ビルの3階に上が ると、聞いていたクラブには洒落た制服を着たドアボーイがいてドアを開けた。 「お嬢さん、いらっしゃい」瑞希の姿を見つけて靖夫が声を掛けると奥の席に案内 した。奥の席には田畑靖彦を中に両脇に2人の男が座り、手前のテーブル2つに4 人の男が座っている。瑞希を見るとみんながご苦労さんですと頭を下げた。
「兄ちゃん、今日は呼んでくれてありがとう」瑞希が田畑の横に座ると、田畑は愛 想を崩して嬉しそうな顔をしている。 「お嬢、こちらこそありがとう。みんなに分けてやったら喜んでいたわ」田畑は瑞 希に言うと手を上げて女を呼んだ。 「お嬢、覚えているかな。連れの由美やねん」田畑が1人の女を紹介した。女は由 美です、お久しぶりです、と微笑んでいる。瑞希はその女の顔を見つめていたが、 思い出したように 「由美姉さん?懐かし〜い。あの頃は喫茶店をしてて、何度か香田のおじちゃんに 連れて行ってもらった事が有ったけど、今はこのお店を?」瑞希が懐かしそうな顔 をすると、由美という女も懐かしそうに瑞希の横に座った。 「うちの人がだらしなかったばっかりに、お嬢さんのお父さんがあんな事になって しまって、ほんまにごめんね」由美は瑞希の手を握りしめると、田畑や若い男たち を見つめて謝った。
「お姉さん、その事はもう気にしないでくださいよ。それより香田のおじちゃんや 靖彦兄ちゃん達みんなが無事で良かったわ」瑞希も由美の手を握り返した。 同日午後11時過ぎ、西道頓堀川の汐見橋の下に男の死体が浮いているのを、通り がかったカップルが見つけて警察に通報した。同時刻、大阪環状線、大正駅の横を 流れる木津川に、2人の死体が流れているのを勤め帰りの飲食店店員が見つけて警 察に電話した。同じ頃、浅野興業と対立する永山組の事務所に爆発物が投げ込まれ、 組員数人が負傷した。
続く
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