落日・前編
第4回
『戸惑い』
翌日の新聞、テレビのニュースは暴力団の抗争事件で3人が死亡したと報じていた。 宮園勲は自宅で新聞を読み愕然とした。永山組は浅野興業と対立関係にあるといっ ても、最近表立った事件は起きていなかった。下部組織同士の小競り合いはあった が、殺人にまで発展するような事はなかったはずだ。なぜこんな事件が起きたのか 宮園は理解に苦しんだ。受話器を取ったものの、浅野興業の事務所に電話を掛ける のはまずいと思い受話器を下ろした。リビングのテレビを点けると、昨夜のクリス マスイブの催しや若者たちが楽しんでいる画面が流れていた。その後暴力団抗争事 件のニュースになり、永山組の事務所に爆発物が投げ込まれ、浅野興業の組員が3 名殺されて川に投げ込まれていたと報じている。3人の死因は2人が拳銃で射殺、 1人は首の骨を折られ、即死状態で川に投げ込まれたらしいとアナウンサーは喋っ ている。画面には浅野興業、永山組の事務所前で警戒に当たる警察官の姿が映し出 されていた。 「お父さん、おはよう」階段を降りる足跡に続き、大学3年生の娘の麻里絵が顔を 出した。宮園はテレビを消すとおはようと麻里絵に笑いかけた。麻里絵は今日から 2週間、大学の友達とハワイに行く事になっていた。毎年正月はハワイで過ごすの が、ここ数年の麻里絵の恒例行事になっている。
「気をつけるんやで。何時に出るんや」宮園が声を掛けると 「関空が夜の8時やから5時に出れば間に合うやろ。渋滞を考えたら早めに出る方 が良いかも知れんね」麻里絵が笑って言うと、妻の昌枝がお茶を出しながら麻里絵 に笑いかけた。 「お父さんたちも正月くらい夫婦で何処か行ったらいいのに。オーストラリアは暖 かくて良いところよ」麻里絵が2人に言ってお茶に手を伸ばした。 「お食事の用意が出来ていますが」お手伝いの佐知子が顔を出して伝えると3人が ダイニングに向かった。麻里絵は紅茶にフランスパン、野菜サラダにフルーツだが 宮園と妻の昌枝はご飯に味噌汁、焼き魚の日本食だ。娘のパンに紅茶という朝食を 見ながら、宮園自身は嫌いじゃないがやはり日本食の方が口に合う。いまだに海外 旅行の経験のない宮園は、食事の事が気になって海外旅行へは二の足を踏んでいた。 「雅人はどうしたんや。昨日遊び過ぎてまだ寝ているんか」宮園が昌枝に聞いた。 「帰って来たのが明け方やったから、夕方まで寝てるやろ」昌枝が言うと、宮園は 苦りきった顔で箸を置くとお茶に手を伸ばした。
*
「いったいどないなってんねん」浅野は電話に出た男に怒鳴った。夜中の2時過ぎ に泊まりの組員から3人殺られたとの報告を受けた。そのうちの1人は幹部の大滝 だった。6人の泊まりの男たちは2人が門を固め2人が玄関の内側を固め、後の2 人は浅田と一緒にリビングに陣取った。事務所に電話しても遺体は警察に収容され ているから仔細は分からないと言う。事務所には幹部の阿部をはじめ組員が続々集 まっているらしい。若い男たちは直ぐにでも戦争を始めそうな雰囲気だが、相手が 誰だか分からないからどうしようもなかった。朝一番のニュースで永山組の事務所 に爆発物が投げ込まれ、数名の組員が負傷したと言っている。 「誰が永山の事務所を襲ったんや」阿部が聞いても誰も知らないと言いながら首を 振った。阿部は浅野に電話で指示を仰いだが相手が分かるまで動くなと言われた。 夜明けと同時に警察官が数名、浅野興業の事務所を警戒に当たると、遠巻きにテレ ビカメラや報道記者たちが集まっている。テレビのニュースでは永山組事務所にも 警察官が警戒に当たり、同じように記者たちが遠巻きにカメラを回している姿が映 った。
「ほんまに永山を襲ったもんは居らんのか」阿部がもう一度聞くとみんなは首を振 った。 「兄貴、昨日はクリスマス・イブやからそれぞれ楽しんでいたんですわ。家族持ち は家で楽しむと言ってたし、若いもんは行きつけの店で楽しんでいたみたいやわ。 大滝の兄貴は電話をしていて、これから女と会って楽しむって言ってはりましたし、 もめる様な感じじゃなかったですわ」今井という男が阿部に言うと、阿部は考え込 んでソファにもたれた。 「しかし兄貴、ほんまに永山の連中やろか。確かに対立していて小さな小競り合い は起きているけど、殺しをするほど険悪にはなっていないから信じられへんわ」今 井が言うと 「俺もそう思ってんねん。小競り合いゆうても下部組織同士やろ。いきなり浅野の 幹部を狙うとは思われへんのや。ここはおやじさんの言うように、はっきりするま で下手に動かん方がいいやろ。みんな、ガサ入れが有るかも知れんから、チャカや ドスは見つからんように隠しとくんやで」阿部もみんなに言いながら、いったい誰 が・・と考えても思い当たる相手が分からなかった。
「兄貴、ひょっとして香田の奴らでは」今井が聞いた。 「それはないやろ。今の香田に3人も殺れるほど骨のあるヤツは居らんのとちゃう か。しいて言えば田畑くらいやろうけど、今は香田のおやじとシマを守るので精一 杯やろ。それより気になるのは、この前宗右衛門町で2人やられたやろ。遠藤は女 やと言ってたけど、酔っ払ってて見間違えたんやろ。酔ってたとはいえ遠藤は腕っ ぷしも強いし、そう簡単にやられるとは思われへんのに、一撃でやられたらしいや ん。助っ人が来ているという話も聞かんし・・・。それより遠藤と日高の具合はど うなんや」今井に言いながら、阿部は訳が分からなくなって考え込んでしまった。 「遠藤の兄貴は肋骨を3本折られて、日高は鼻の骨が折れて片目が潰れています。 当分病院暮らしでしょう」今井は2人の状況を説明しながら、3日の間に5人がや られた目に見えない相手に、少なからず恐怖心が湧いていた。
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「田畑、うちの連中やないやろな」香田は新聞を読み、テレビのニュースを見ると 田畑に電話で確認した。 「おやっさん、夕べは事務所の泊まりと見回り以外の連中は由美の店で楽しんでま したで。お嬢も一緒やったから間違いありません。わしもニュース見てびっくりし てまんねん。これから直ぐに事務所に行って確かめますわ」田畑は電話を切ると靖 夫に車を回すように言った。 「ご苦労さんです」田畑が事務所に着くと泊まりの4人が挨拶した。ニュースを知 ってみんなが事務所に詰めかけた。 「おやっさんも心配してたけど、お前らの抜け駆けやないやろな」田畑がみんなを 見渡すと、それぞれがお互いを見ながら首を振った。 「兄貴、夕べは姉さんの店に居たじゃないですか。おやっさんに心配掛けるやつは 居ませんよ。お嬢さんも来てはったし、日付が変わるまでみんな一緒やったじゃな いですか」若い男が口を開くと、田畑も頷きながらソファに腰を下ろした。
「それにしても兄貴、浅野の大滝を殺るとは相当のやり手みたいでんな。まして一 晩に3人もって単独犯じゃないかも知れませんで。ひょっとしてほんまに永山組と 戦争が始まったんやろか」若い連中の中でも兄貴分格の孝二が言うと、田畑も頷き ながら新聞の記事に目を落とした。 「兄貴、ひょっとして、もしも、もしもの話やけど、お嬢さんじゃないでしょうね。 お嬢さん、浅野の連中を1人ずつ潰すって言うてはったし、この前遠藤ともう1人、 2人の男をあっという間にやってはったから・・・」靖夫が囁くように言うと 「靖夫、バカな事言うな。お嬢は昨日店に来て一緒に楽しんでたやんか。発表の死 亡推定時間から考えれば可能性もあるけど3人やで。それに、もし、お嬢やったと したら永山の事務所に投げ込まれた爆発物は説明がつかんやろ。お嬢は永山と浅野 がもめているのは知らんし、第一永山の事務所が何処にあるかも知らんやろ」田畑 が靖夫に言うと、昨夜一緒に飲んで楽しんでいて男たちも、そんな事はありえんわ と笑った。
「兄貴、お嬢さんは無事なんでしょうね」孝二が気になる素振りで聞いた。 「帰りはタクシーに乗るまで一緒やったし、直ぐそこやから大丈夫やろ」田畑はみ んなの顔を見渡しながら、それでも気になって聞いていた番号に電話を掛けた。 「もしもし、お嬢、田畑です。えらい朝早くから済んまへん。まだ寝てたんと違い ますか。お嬢、何か変わった事はありまへんか?えぇ、それやったら良いんやけど、 浅野の連中が3人殺られたみたいで。えぇ、新聞に載ってますわ。お嬢も気をつけ てくださいよ。じゃぁ」と田畑は電話を切った。 「お嬢は大丈夫や。まだ寝てて事件の事は知らんみたいやったわ。新聞に載ってる って言うたら、起きたら読むわって笑ってたわ」みんなを見渡して安心するように 言ったが、内心田畑が一番ほっとしていた。事務所の電話が鳴って若いもんが出た。 「兄貴、浅野の阿部です」と受話器を渡した。田畑が出ると事件の事を聞いてきた。 昨夜は若いもんと一緒に飲んでいたから事件の事は今朝知ったと説明し、とりあえ ずお悔やみを言い、若い連中にミナミを歩かさんようにと釘を刺して電話を切った。
*
瑞希は携帯電話の音で目を覚ました。煙草に火を点けながら電話に出ると田畑から だった。 「兄ちゃん、昨日はありがとう。こんな早くからどうしたん。うん、何にもないで。 昨日は帰ってから直ぐに寝たわ。うん、うん、ほんま?まだ見てないねん。後で見 るわ。うん、おおきに」瑞希は電話を切るとベッドから降りてカーテンを開けた。 田畑の兄ちゃんは心配して電話をくれたが、昨夜の事はまだまだ序の口で、これか らが本当の戦いになると自分に言い聞かせた。煙草を消してバスルームに入ると熱 いシャワーを浴びた。テレビのスイッチを入れニュースをやっているチャンネルを 探したが、朝のニュースは終わっている時間だ。テレビを消すと食事に行くために 着替えて部屋を出た。アイリーンとナターシャに電話を掛け、2人が泊まっている ホテルのロビーで会う約束をした。瑞希はタクシーを拾うと立売堀(いたちぼり)に ある英(はなぶさ)建設に向かった。会社の玄関を入ると受付が有るが、座っている 2人の女には見覚えがなかった。入り口に2人、受付の横に2人、3台あるエレベ ーターの前に4人の警備員がいる。エレベーターに乗ろうとした瑞希に若い警備員 が声を掛けた。
「どなたとお約束でしょうか。受付を通して頂きたいのですが」若い警備員は瑞希 を外来者と思ったようだ。社員は全員社員証を首からぶら下げているから、誰が見 ても外来者と分かる。 「副社長の石田に」瑞希はひと言言ってエレベーターに乗ろうとすると、もう1人 の警備員が瑞希の前に立ち塞がった。隣のエレベーターを待っている社員が数人こ ちらを見ている。瑞希は一瞬身構える素振りをしたが、会社を守る警備員としては 当然の態度と思って回りを見渡した。あと2人の警備員も瑞希を取り囲む体勢をし ている。その中の1人の警備員に見覚えがあった。瑞希が高校生の頃から居る警備 員で内藤の名札を付けている。 「内藤やろ。私や、瑞希、一之宮瑞希や」瑞希が内藤の方を向いて微笑みかけると、 内藤と呼ばれた警備員は訝しげに瑞希を見つめていたが 「お嬢様、瑞希お嬢様」と驚いたように名前を呼んだ。隣のエレベーターに乗りか けていた社員の何人かが乗るのを止めて瑞希を見ている。 「お嬢様、瑞希お嬢様、ご無事だったんですか。営業部長の山本です。覚えていら っしゃいますか」警備員を押しのけて1人の男が瑞希の前に立った。瑞希は山本と 名乗った男を見ながら頷いた。
ここは良いから、と警備員に言って瑞希と一緒にエレベーターに乗ると、役員室の ある8階でエレベーターを降りた。山本が副社長室のドアをノックすると中から秘 書らしい男が顔を出し、山本が小声で囁くと瑞希を促して一緒に部屋に入った。 「副社長、お嬢様です。瑞希お嬢様が帰られました」山本が大声で叫ぶと、窓側の 机に座っていた副社長の石田が、弾かれたように立ち上がると瑞希の前に進み出た。 「お嬢様、よくご無事で。青木様と奥田弁護士からは無事だと聞いていましたが、 お姿を見るまで安心出来ませんでした。よくお戻りになられました。さぁどうぞ」 石田は瑞希の顔を嬉しそうに見ながらソファーを勧めると山本が退室しようとした。 「山本、私が来たのは黙っててや。さっきの警備員にも口止めしといてや」瑞希が 言うと最初は不思議そうな顔をしたが、副社長の石田も山本に頷くと、分かりまし たと言って退室した。 瑞希は父の死後、石田や青木圭三、奥田弁護士達が会社を維持していた事へのお礼 を言った。
「お嬢様、とんでもないです。私どもより社員が一丸となって頑張ってくれたから です。社長が亡くなられて少し規模を縮小しましたが、瑞希様、浩貴様がお戻りに なられるまで会社を潰す訳にはいきませんから。取引先も社長が亡くなられた後何 社かは宮園建設に変わりましたが、社員の頑張りで新しい取引先も増えていますし、 ミナミの再開発からは手を引きましたが、キタの開発事業の方が少しですが受注が 増えつつあります。本来なら今直ぐにでも社員を集めてお嬢様のお帰りを報告した いところですが、青木様と奥田弁護士も今しばらくは内密にという事でしたので暫 くは伏せておきますが、お嬢様、なるだけ早く浩貴さま共々お戻りになられますよ うに」石田は瑞希を見つめて現況を説明した。 瑞希は話を聞いて、しばらくは今の状態での経営を続けてくれるように頼み、父の 秘書だった清水を、何とか会社に戻れるように頼んだ。 「お嬢様、こちらへどうぞ」石田に案内されて副社長室を出ると、一番奥にある社 長室のドアを開けた。
「お部屋は当時のままにしてあります。変わったものといえば社長が戻られない事 と、小さいものですが位牌を収める仏壇を用意しました」石田が続きの部屋を開け ると、片隅に上置き式の小さな仏壇があり父の位牌が祀ってあった。瑞希は仏壇に 手を合わせながら、青木圭三、奥田弁護士、副社長の石田たちの重ね重ねの配慮に 涙が溢れてきた。 「石田、ありがとう」瑞希は涙を拭くと深々と頭を下げた。 「お嬢様、おやめ下さい」石田は瑞希の手を取ると顔を上げさせた。社長室に戻る と父の座っていた椅子に腰を下ろして部屋を見渡した。机には父の好きだった黄色 いバラが飾ってある。時計を見て立ち上がるとタクシーを手配してもらった。石田 が一緒に下まで降りると、噂を耳にした社員が数人ロビーに居て瑞希を見て駆け寄 った。瑞希はみんなの顔を覚えていた。学生の頃からよく会社に来ていて、一緒に 食事をした社員もいた。お嬢さん、みんなが声を掛けたが、石田がこの事はまだ内 密にするように言うと不思議そうな顔をしながら頷いた。
みんなに見送られてタクシーに乗ると、ナターシャたちの待っているホテルへ向か った。2人はロビーで待っていて一緒にレストランに入った。早めの昼食を取りな がら、奥田弁護士に手配してもらった温泉の宿泊券と新幹線のチケット、100万 円入った封筒を渡し、瑞希も30日から5日まで木曽福島に帰るから、その間2人 も温泉でのんびりするように言った。九州の別府温泉で、2人は日本の温泉は初め てだと喜んでいる。食事の後、ホテルの南隣にあるショッピングデパートに行き、 2人の着る物を何点か買った。2人は下着やシャツなどの着替えは持っていたが、 冬物のジャケットやパンツなど、アウターの着替えはほとんど持っていなかったか ら、セーターにジャケット、パンツなど数点を買い、瑞希も奈緒子や浩貴、圭三夫 婦、佐伯や工藤、森下へのお土産を買うとマンションに向かった。コーヒーを入れ ると清水の手帳を細かく分析し、正月前にもう一仕事済まそうと相談した。 クリスマス・イブの3人は瑞希たちの仕事だが、永山組の事務所に爆発物を投げ込 んで暴力団同士の抗争事件にみせかけ、警察の目をそちらの方に向けさせたのが誰 なのか、2人には話さなかったが瑞希にも見当がつかずに戸惑っていた。
*
12月29日は土曜日で官庁関係、一般の会社は昨日で仕事が終わり、今日から正 月休みに入っている所為かビジネス街は閑散としている。夜になると瑞希とナター シャ、アイリーンの3人は昨日のうちに下調べしていた、大国町に建設中のマンシ ョンに忍び込んだ。この建設中のマンションは2日前で工事を止めて休みに入って いる。足元に気をつけながら8階まで上がり、マンションを覆っているカバーの隙 間から、高性能の双眼鏡で覗くと浅野興業の事務所が見える。見えるといっても直 線距離で約700メートル、浅野興業の事務所は3階建のビルで国道に面している。 国道を挟んで反対側だから途中に遮るような高い建物はなく、双眼鏡で覗けば窓の 中までよく見える。すでに夜の9時を過ぎて人影もまばらだ。明かりが外に漏れな いように小さなライトを点け、ナターシャが持っていた大きなカバンを開けてシー トを出して敷き、注意しながら狙撃銃『ドラグノフSVD−S改良型』の銃床を組 み立てた。スコープを着けて消音器をつけ、10発入りのマガジンをセットすると 瑞希が腹ばいになり、スコープを調整すると浅野興業の事務所の窓が直ぐ近くに見 える。事務所の中では3人の組員が笑いながら酒を飲んでいる。すでに警察官の姿 や報道記者の姿は無かった。
瑞希から少し離れてアイリーンが狙撃銃『DAKOTA ARMS TR-76ロング ボウ新型セミオートマチック』をセットした。セットし終わるとイヤホーン付きマ イクを3人が付けて準備が完了した。瑞希はスコープを覗きながら、父親の厳しく も優しかった顔を思い浮かべ、しばし沈黙した時間が流れた。 ミズキ、双眼鏡を覗いていたナターシャの声がイヤホーンから聞こえた。瑞希も双 眼鏡を覗くと、事務所の入り口に車が止まり2人の男がビルに入って行った。3階 に居た男たちが立ち上がり誰かに挨拶している。その男が誰なのか知らないが、み んなの態度からみると幹部かそれ以上の人物と思われた。アイリーン、瑞希がマイ クに喋るとアイリーンも腹ばいになりスコープを覗いた。瑞希もスコープを覗くと アイリーンに左の2人を、瑞希が幹部と思われる男と右の2人を狙うと示唆した。 レディ、アイリーンが合図した。レディ、アタック。瑞希の合図と同時に、ブッ、 ブッ、ブッ、サイレンサーの連続音が響いた。窓のガラスが割れ、5人の男が倒れ るのがスコープ越しに見える。
アイリーン、車。瑞希が叫ぶと、表の車に狙いを定めて引き金を引いた。アイリー ンのダコタは5発装填だから残りの3発をぶち込んだ。その瞬間車は轟音を上げて 爆発を起こした。走っていた車は巻き添えを恐れて急停車し、反対側に逃げて行く 車もある。3人は狙撃銃を仕舞うと静かに階段を降り、周りに人が居ないのを確認 して表通りに出ると地下鉄の駅に向かった。 それより少し前、生野区今里にある解体前の無人のアパートの一室から、ロケット 弾のような発射音が連続して響いた。近所の人が何事かと出て来るとアパートの部 屋から火の手が上がった。アパートの家主や近所の人が消防と警察に電話し、消火 器を持ち寄ってボヤのうちに消すことが出来たが、部屋には東に向けて3本の金属 パイプが設置してあった。アパートから東に数百メートル離れた場所に永山組の事 務所があり、2発のロケット弾と思われるものが命中爆発し、組員2人が死亡6人 が重軽傷を負った。3発目は組事務所横のガレージに着弾していたが不発だった。 警察と消防、救急車のサイレンが鳴り響き、付近の住民は恐怖に顔を引き攣らせな がら遠巻きに見ている。
同じ頃、今里から南に下った巽にある永山組の下部組織、橋本組の組長宅に、走っ て来た2人乗りのオートバイから爆発物が投げ込まれ、組長の橋本信男が重症を負 い2人の組員が負傷していた。目撃者の話では、オートバイそのまま走り去ったと 言った。 瑞希、ナターシャ、アイリーンの3人は少しずつ離れ、地下鉄で難波に出るとタク シーでマンションに戻った。荷物をベッドの下に押し込むとアイリーンとナターシ ャを表まで送り、明日の朝8時にホテルに行くからと言って別れた。 瑞希は湯船に身を沈めて目を瞑ると父の顔が浮かんだ。瑞希の行動を父は決して喜 ばない事は分かっていた。分かっていたが、瑞希には浅野興業の組長、浅野実と宮 園建設の社長、宮園勲を許す事が出来なかった。父の命を奪った2人を断じて許す 事が出来なかった。このためだけに2年もの間、命を懸けてモサドの訓練を受けて 来た。パレスチナで命を落としかけた事も有ったが、全てはこの事だけのために一 度は落とした命だと思った。2人を狙う時は自分で引き金を引くつもりでいた。風 呂から出ると圭三に電話を掛けて明日帰るからと伝え、その後奥田弁護士と田畑に 電話を掛け、明日木曽福島に帰る事を伝えた。
翌朝、アイリーンとナターシャを迎えに行くと2人は昨日買った洋服を着ていた。 喫茶室で軽い朝食を取るとタクシーで新大阪駅に向かった。さすがに年末で新幹線 のホームは帰省客で混雑している。10時過ぎの新幹線で2人を見送ると、瑞希も 「こだま」に乗り込み買っていた新聞を広げた。一面のトップに昨夜の事件が載っ ていた。記事を読みながら、またしても永山組の事務所を襲った人物が居る事を知 った。瑞希たちが浅野の組員を射殺した頃、永山組の事務所に手製のロケット弾が 撃ちこまれていた。警察は永山組と浅野組の抗争事件と発表しているが、死亡した 浅野組の組員から銃弾を取り出して調べれば、暴力団が入手できる銃ではない事が 直ぐに分かるはずだ。それにしても前回の時といい今回といい、抗争事件に見せか けようとして永山組を襲った人物が誰なのか、瑞希には見当がつかなかった。 車内放送が岐阜羽島に着くことを知らせた。瑞希はお土産の入った紙袋2個を持つ と乗降口に向かった。 「瑞希さん、お帰りなさい」改札口で瑞希の姿を見つけると奈緒子が嬉しそうに手 を振った。奈緒子はクリスマスに瑞希が贈った赤い皮のジャケットを着ている。 「奈緒子、来てたんか」瑞希が笑い掛けると嬉しそうに微笑んだ。瑞希が持ってい た2つの紙袋を森下が受け取った。
「瑞希さん、クリスマスプレゼント、ありがとう」奈緒子が着ているジャケットを 示した。 「うん、よく似合ってるやん。やっぱり奈緒子には赤が似合うね」瑞希が言うと、 奈緒子は森下の後から駐車場に向かいながら瑞希と腕を組んだ。2人が四輪駆動車 の後部座席に乗ると森下が車を発進させた。尾西インターチェンジで東海北陸自動 車道に入り、飛騨清見で降りると国道158号線で高山に出て361号線を走った。 東海北陸自動車道も国道も、帰省の車と正月旅行の車で混んでいて高山に出るまで に時間を要した。 東海北陸自動車道のサービスエリアで少し遅い昼食を取り、361号線で開田村に 入ったのは4時を過ぎていた。この時期の361号線は地元の車かスキー客以外の 車は見当たらない。それでも森下は東海北陸自動車道でも158号線、361号線 でも常にバックミラーを確認していた。花岡産業山の家に着いた時にはすでに暗く なり、森下が無線式のガレージを開けて車を入れると電気を点けた。
「お嬢様、奈緒子様、お帰りなさい」佐伯がロビーへのドアを開けて2人を迎えた。 ロビーには圭三と芳江、浩貴が待っていた。 「姉さん、お帰り。元気そうだけどずいぶん変わったね」圭三夫婦の後ろから浩貴 が笑いながら声を掛けた。 「浩貴、浩貴か。いつ戻ったんや。それにしても男らしい顔つきになったな」瑞希 が笑いながら抱きしめると、浩貴も嬉しそうな顔で瑞希を抱きしめた。みんながロ ビーのソファに座ると佐伯がコーヒーを持ってきた。 「圭爺、今回はありがとう。奥田弁護士がいろいろ手配してくれたので助かったわ。 香田のおじちゃんも元気やって、石田は会社の方をちゃんとやってくれてたし、お 父さんの墓参りも済ませたわ。これ、大したもんじゃないけど」瑞希が紙袋からお 土産を出してみんなに渡した。 「あれ?工藤は?」工藤の分が余って、工藤が居ないことに気付いた。 「工藤は私の用事で出かけています。今夜遅くには帰ってくるでしょう。帰ってき たら婆さんから渡してもらいましょう」圭三がコーヒーに手を伸ばしながら芳江に 頷いた。ロビーには迎春の飾り付けも終わっていた。明日は朝から餅つきをすると いう。
「浩貴、あれからどうしてたんや」瑞希が奈緒子と一緒に向かいに座っている浩貴 に聞いた。 「防衛大学を出てから東京の市ヶ谷や伊丹の第三師団を回り、今は御殿場の第一戦 車大隊で戦車に乗ってねん。位は陸曹長やけどな」浩貴がみんなを見渡しながら話 した。 「浩貴は子供の頃から戦車に乗りたいって言ってたもんな。ところで陸曹長って偉 いんか?」瑞希が笑いながら聞くと 「昔の軍隊風に言ったら曹長やねん。一応下士官やけどな」と言いながら浩貴も笑 うと、圭三も笑いながら聞いている。 「お食事の用意が出来ました」佐伯が声を掛けてみんながダイニングルームに移動 した。食事をしながら、5年ぶりに会う浩貴が逞しくなっていたのに驚いた。 食事のあと、ロビーでくつろいでいる時ガレージの開く音がして工藤が帰って来た。 「青木様、ただいま戻ってまいりました」ガレージからロビーへ入るドアを開け、 工藤が入ってくると圭三に挨拶した。 「ごくろうさん。疲れただろう。食事はまだだろ?今日は早めに休みなさい。優子 さん、工藤に食事を出してくれるかな」圭三は工藤に労いの言葉を掛け、ダイニン グルームで後片付けをしている佐伯に声を掛けた。
工藤がダイニングルームに入ると、佐伯と芳江がお疲れさまと労った。佐伯が食事 の用意をしている間に、芳江が瑞希からのお土産と言って小さな包みを渡した。 工藤はロビーに顔を出して瑞希に礼を言い、ダイニングルームに戻ると包装紙を捲 った。中にはネクタイのケースが入っていて、出してみるとエンジの地色にストラ イプ柄で、イタリアブランド製ネクタイが入っていた。 「いい色ですね。工藤さんに似合いそう。私はスカーフを頂きました」佐伯が食事 を出しながら工藤に微笑んだ。 翌朝、瑞希は9時少し前に目覚め、ベッドでまどろんでいるとドアがノックされた。 ガウンを羽織ってドアを開けると佐伯が立っていた。 「おはようございます。まだお目覚めじゃないと思っていましたが、青木様が是非 起こしてくるようにおっしゃられまして」佐伯は申し訳なさそうに言った。 「圭爺が?こんな時間に何やろ」昨夜は遅くまで浩貴と話していて、寝たのは深夜 の2時を過ぎていたから少し寝不足気味だ。欠伸をしながら聞くと 「今、餅つきの用意をしています。お嬢様もご一緒にと言っておられます」と佐伯 が微笑んだ。
「餅つきかぁ、分かった、直ぐに行くわ」瑞希は顔を洗うとジーンズとトレーナー に着替え、ロビーに降りると誰も居なかった。窓から外を見ると工藤や浩貴、森下 に圭三たちが餅を搗いている。 「お嬢様も一緒にどうぞ」芳江がダイニングルームから出てきて声を掛け、瑞希が 頷いて一緒に外に出ると奈緒子が瑞希さ〜んと手を上げた。瑞希の知らない顔が3 人居た。女が2人と男が1人だ。お爺ちゃんの会社の人で、3人とも独身だから正 月はこの山荘で過ごすのだと奈緒子が説明した。 「お嬢様、お嬢様もどうぞ」工藤が笑いながら杵を差し出した。瑞希も笑いながら 受け取ると、よ〜し、いくわよ〜と声を掛け、瑞希が杵を打つと工藤が餅をこねた。 瑞希の杵を打つタイミングに合わせてみんなが掛け声をかけている。瑞希は餅を搗 きながら、何年振りかで心地いい安らぎが心の中に広がっていくのを感じていた。
前編 完
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