落日・後編

第1回



          『正月』

一之宮瑞希(みずき)、28歳。一之宮秀英(しゅうえい)の娘で兵庫県の宝塚で生ま
れ、3歳離れた弟と父親の3人で暮らしていた。母親の富貴(ふき)は病弱で、瑞希
が生まれて間もない頃、一之宮家の離れに住むようになった青木圭三夫婦の妻芳江
が乳母として瑞希を育てた。弟の浩貴(ひろき)が生まれて直ぐに母親が亡くなると
浩貴も芳江に育てられた。瑞希は幼いながらも母の病弱ぶりを知り、体を鍛えるた
めに空手、剣道、水泳を習い始めた。小学校に入る前だ。弟の浩貴も幼稚園になる
と同じように空手や剣道を習い始めた。小学生になると身長も伸び始めて、中学、
高校とバレーボール部に誘われたが断っていた。空手は高校2年の時に近畿大会の
女子の部で優勝した。中学の終りから竹刀を振り回すだけの剣道を辞め、青木の勧
めで真剣を使う小太刀を習い始めた。弟の浩貴は空手を続け、中学生になった時に
は県大会で優勝するくらいになっていた。浩貴が小学校の4年生の時、青木夫婦の
元に引き取られて来た奈緒子を、同じ歳という所為もあってか良く可愛がり、登下
校や塾の行き帰りはいつも一緒にいた。瑞希も奈緒子を妹のように可愛がり、奈緒
子も瑞希に懐いた。瑞希が大学生になると、毎年夏休みと冬休みには2人で海外旅
行に出かけた。瑞希と浩貴が奈緒子を可愛がるのを圭三夫婦は喜んでいた。

父は一代で今の地位を築いた。ある種強引なやり方もあったが瑞希が父を非難する
ような事はなかった。瑞希が中学生の頃には大阪に自社ビルを建て、英(はなぶさ)
建設の名前は近畿一円に認められるようになった。その頃に裏の世界との繋がりが
ある事を知った。ミナミを仕切っている香田興業という名前を知ったのは、瑞希が
高校に入ってからだが、噂では父の親友で最初はお互い建築業を始めたが、香田興
業は裏の世界で名前を知られるようになっていった。
瑞希が高校2年生の夏、久しぶりに同級生とミナミに遊びに来ていた。瑞希は高校
2年生といっても背は170センチ近く有り、着る物によっては大人びて見える。
そんな瑞希に戎橋でナンパを仕掛けた2人連れの男がいた。
「ば〜か、鏡で顔を見て出直して来いや」瑞希が鼻で笑うとカチンと来たのか、2
人連れのうち1人の男が瑞希の腕を掴むと、瑞希は体を反して腕を掴んだ男の顔を
肘で弾いた。男は呻いて鼻血を出しながらなおも掴みかかろうとした。

「こら、やめんかい」男の腕を摘んで1人の男が割って入った。鼻血を出した男は
今度はその男に殴りかかろうとしたが、男が足払いを掛けると尻餅をついて倒れた。
割って入った男の連れらしい男が笑っている。
「おい、ミナミで香田興業に喧嘩売るとはいい根性してるな」男がドスの利いた声
で言うと、倒れた男はびっくりした顔でもう1人の男と逃げ出した。
「礼は言わんで。あんなんはうち1人で十分やったわ」
「鼻っ柱の強い姉ちゃんやな。けど、ここではあんまり暴れんといてくれるか。ミ
ナミの印象が悪くなるさかいな」男が笑いながら瑞希を見た。
「関係ないわ。悪いのは向こうやで。そういうあんたも女目当てのナンパ師とちゃ
うんか」瑞希は男を睨み続けた。
「まだ若そうやけど、こんなところで遊ばんで早く帰りや」
「余計なお世話や。チンピラの世話なんか受けへんわ」瑞希が毒づくと男の顔色が
変わった。
「大人しくしてりゃぁ調子に乗りやがって」男が瑞希に掴みかかろうとした手を逆
に捻り上げると連れの男が割って入った。

「姉ちゃん、おふざけはその辺で止めときや。ほんまに怒るで」兄貴格の男が睨む
と、瑞希は手を捻り上げていた男を突き飛ばし、一緒に来ていた同級生を庇って身
構えた。
「ヤクザが怖くてミナミを歩けるかいな。一之宮瑞希、いつでも相手するで」瑞希
が空手の構えをすると男の態度が変わった。
「今、一之宮瑞希って言ったな。ひょっとして英(はなぶさ)建設の一之宮秀英のお
嬢さんか」男が瑞希の顔をまじまじと見つめた。
「それがどうした。父は関係あらへん」瑞希は男を睨みつけた。
「それが関係あるんや。うちのおやじとあんたの親父は昔からの親友で、時々会っ
て飯を食っているんやで。あんたも香田のおやじには何度か会ってるはずや。そん
なお嬢さんと喧嘩をする訳にもいかんやろ。それにしてもいい根性してるな。女に
しとくのは勿体ないで。俺は田畑っていうんや。良かったらそこまで付き合ってく
れへんか。心配要らん、喫茶店に行くだけや」田畑という男が言うと瑞希は首を振
った。
「そうはいかんで。上手い事言って騙すつもりやろ」瑞希は身構えた姿勢を崩さな
かった。いつの間にか野次馬が人垣を作って周りを囲んでいる。

「お嬢、こんな所で何してるんや」人垣を割って瑞希に声を掛けたのは、何度か家
に来た事がある男で、瑞希や浩貴を可愛がってくれる香田のおじちゃんだった。
「おじちゃん。いや、大した事ないねん。ちょっとややこしいのがね」瑞希は香田
に笑いかけると田畑と名乗った男を睨みつけた。
「お嬢、この男は田畑ゆうてうちのもんやねん。田畑、お前も大人気ない真似すな」
香田が瑞希に言って田畑に怒鳴ると、田畑はすんまへんと頭を下げて香田の後ろに
回った。
「ほんまにおじちゃんとこの人やったん?だったらうちの方こそごめん。てっきり
ナンパや思っててん。田畑って言いはったな、ほんまにごめんな」瑞希が香田の後
ろにいる田畑に謝ると田畑は笑っている。
「お嬢、時間があるんやったらお茶でも飲もうか。いい機会やからみんなを紹介し
とくわ」香田が言うと瑞希は頷き、同級生の子にどうする?と聞くと一緒に行くと
言ったので、心斎橋筋から少し入った所の喫茶店に入った。

「お嬢、親父さんに心配かけるような事したらあきまへんで。お嬢に空手や剣道、
小太刀を習わせたのは喧嘩をする為やありまへんで。お母さんが病弱やったさかい、
丈夫に育つようにと習わせはったんやで」喫茶店に入り、香田が説教するように言
うと瑞希は素直に頷いた。注文を聞きに来た店員に瑞希と友達がフルーツパフェを
頼むと、やっぱりまだまだ高校生やなぁと笑った。
「おやっさん、高校生ってほんまでっか?」田畑がびっくりして聞くと、瑞希は今
高校2年生だと言って笑っている。
「最近の女の子は分かりまへんなぁ。てっきり大学生かОLと思ってたわ」瑞希と
喧嘩になりかけた若い男が驚いたように瑞希を見た。田畑が女の人を呼んで瑞希に
紹介した。女の人は由美ですと挨拶し、瑞希も一之宮瑞希ですと自己紹介した。

          ☆

元旦の朝8時、みんながダイニングルームに揃った。
「明けましておめでとう」圭三が杯を上げると、みんながおめでとうと杯を上げた。
圭三は羽織袴を着ているがみんなはスラックスにセーター等ラフな格好をしている。
瑞希もロングスカートにセーター姿だ。佐伯と芳江がおせち料理を運んでくるとみ
んなが手を伸ばして食べ始めた。みんなの楽しそうな会話を聞きながら、瑞希は何
年ぶりかで穏やかな新年を迎えていた。おせち料理を食べるのは5年ぶりで、芳江
の味付けは5年前と変わっていなかった。
「婆やの味付けは変わっていないね」瑞希がおせちを食べながら笑うと、芳江も嬉
しそうな顔で瑞希に笑った。
姉さん、横に座った浩貴が瑞希の杯に酒を注いだ。瑞希が浩貴に注ぎ返すと圭三と
芳江は嬉しそうに2人を見つめている。
「浩貴、いつまで奈緒子を待たせる気なんや。早く一緒になったらどうや」瑞希が
奈緒子を見ながら浩貴に笑いかけると、奈緒子は顔を赤らめながら浩貴を見つめて
いる。
「姉さん、正月早々何て事言うねん」浩貴も少し照れくさそうに言うと、みんなも
2人を見て笑っている。

お嬢さん、と言いながら工藤が森下が、佐伯が酒を注ぎに来た。ありがとうと杯を
返すと浩貴にも酒を注いで回った。瑞希はみんなの楽しそうな顔を見ながら、5年
前までは父秀英と一緒に正月を過ごしていた事を思い出していた。圭三夫婦に瑞希
と浩貴、奈緒子に会社の何人かが来て、賑やかな正月だった事を思った。あの頃の
楽しさはもう戻って来ないと思うと、寂しさが瑞希の心に広がり始めた。
「瑞希さん、ほら、もっと食べてよ」奈緒子が声を掛けると瑞希は我にかえり
「うん、食べてるで。5年ぶりのおせちでちょっと感傷的になったけど大丈夫や」
瑞希が笑いかけると奈緒子も嬉しそうな顔を瑞希に見せた。瑞希は奈緒子の笑顔を
見ながら、昨夜浩貴と話した事を思い出した。瑞希は昨夜久しぶりに逢った浩貴と
遅くまで話していて、浩貴に父の後を継ぐように説得した。
「浩貴には奈緒子と一緒になって父さんの会社を継いで欲しいんや。石田を始めみ
んなも待っているし、女の私より男の方が良いと思うんや」瑞希が言うと、浩貴は
姉さんが継ぐべきだと反対したが、今、自分がしている事、これからしようとして
いる事を話して浩貴に後を継ぐように頼んだ。

浩貴は瑞希の話を聞いて驚き、自分にも協力させて欲しいと言ったが、手を汚すの
は私だけで浩貴には奈緒子を幸せにして欲しいと頼んだ。浩貴は姉さんを差し置い
てそんな事は出来ない。本来なら長子の姉さんが後を継ぐべきやから、会社に戻る
のなら姉さんと一緒じゃないと嫌だと断られた。瑞希は仕方なく浩貴の言う事を受
け入れ、もし生きていたら一緒に父さんの後を継ごうと約束した。浩貴は瑞希の手
を握りしめると死なないでほしいと涙を流した。瑞希もどんな事があっても必ず生
きるからと約束した。
「瑞希さん、午後からスキーに行こうよ。直ぐそこにスキー場が有るし、久しぶり
に一緒に滑ろうよ」奈緒子が声を掛けると、圭三の会社の社員も一緒に行きましょ
うよと誘った。
「だけど道具が無いしウェアも無いやん」瑞希が笑うと、貸しスキーと貸しウェア
もあるから大丈夫と奈緒子が笑った。圭三もぜひ楽しんで来なさいと勧めた。瑞希
と奈緒子、浩貴、会社の3人が2台の四輪駆動車で御岳スキー場へ行きスキーを楽
しんだ。久しぶりの瑞希は最初は足慣らし程度に滑っていたが、体が馴染んで来る
と奈緒子とウェーデルンで並走し、みんなで競争を楽しんだ。

          *

毎年正月はのんびり過ごす宮園だったが今年は少し様子が違った。宮園建設の裏の
部分を支えている浅野興業の人間が、クリスマス・イブに幹部の大滝を含め3人が
殺され、29日の夜には納会の帰りに事務所に寄った幹部の光岡を含めて5人が射
殺された。浅野興業を支えている浅野3人衆といわれた幹部が2人も殺されていた。
宮園は浅野に聞いたが相手が特定できないと言っていた。警察の発表や新聞、テレ
ビでは永山組との抗争と騒いでいるみたいだが、永山組の組長が浅野に電話して来
て知らない事だと言っていたそうだ。いったい誰が、何のために浅野と永山を争わ
せようとしているのか分からなかった。会社の重役が新年の挨拶に来ても宮園は正
月を祝う気持ちになれなかった。専務を始め副社長、部長クラスが7、8名来てリ
ビングで飲んでいるが、宮園は自室にこもっていた。あなた、妻の昌枝が声をかけ
て年賀状の束を持ってきた。
「みなさんお揃いなのに顔を出したらどうです?何が有ったか知らないけど、元旦
早々不機嫌な顔をしないでくださいな」昌枝は宮園に苦情を言うとリビングに戻っ
てみんなの相手をしている。

宮園は年賀状の束を1枚ずつ見ていたが、ある1枚で宮園の手が止まって顔色が変
わった。華やかな賀状とは違って、黒い縁取りのハガキには『次はお前だ』と一言
だけ書いてあった。差出人の名前はなく、悪戯にしてはあまりにもタイミングが良
すぎる。一瞬宮園の脳裏に一之宮の姉弟(きょうだい)と青木の事が浮かんだが、浅
野興業への襲撃は年寄りや女に出来る事ではなかった。まさか日本政府が・・・・
ハガキを持った宮園の手が震えだし、目に見えない恐怖に背筋が凍りつく感覚を覚
えた。
「大倉、大倉は居るんか」宮園は自室を出ると、名前を呼びながらリビングに向か
った。
「あなた、大倉さんはお正月休みじゃないですか。何時もは顔を出してはるけど、
今年は田舎の大分に帰るから来れないと言ってはったやない。あなたも了解してた
でしょう」妻の昌枝が咎めるような顔で言うと、そうか、大倉は正月休みやったな、
と言いながらソファに座ると一同を見渡し、苦笑いしながらグラスのビールを飲み
干した。

「社長、何処か具合が悪いのですか?顔色がすぐれませんが」専務の広田が声を掛
けると、大した事じゃないからと手を振り、大倉の携帯電話に掛けてみたが、電源
を切っているのか繋がらなかった。ゆっくりしていってくれ、みんなに言って自室
に戻ると、浅野の自宅に電話を掛けたが思い直して直ぐに切った。落ち着いて考え
てみると、いくら青木の頼みといっても日本政府がこんな事をする筈がなかった。
少しでも公になれば日本の国そのものが大変な事になる。たかが一介のヤクザや建
設会社ごときに政府が動くわけがなかった。そう考えると宮園も落ち着きを取り戻
し、ハガキを見つめて誰の仕業かを考えた。

          *

浅野実は困惑していた。クリスマス・イブに幹部の大滝を含めて3人が殺され、納
会直後に事務所に戻った幹部の光岡を含め5人が殺された。その前には宗右衛門町
で2人がやられ、僅か1週間ほどの間に8人が殺され2人が病院に入院している。
浅野興業を支えている浅野3人衆と言われた幹部が2人も殺されたのだ。警察やマ
スコミが騒いでいる永山組の仕業とは思えなかった。永山組もクリスマス・イブに
は爆発物が投げ込まれ、暮れの29日にはロケット弾が撃ち込まれて2人が死に6
人が怪我をしている。更に永山組の下部組織、橋本組にも爆発物が投げ込まれ、組
長の橋本が重症を負い組員2人が負傷している。幹部の阿部に聞いてもうちの連中
じゃないと言っていたし、永山組からも浅野の事務所を襲ったのはうちじゃないと
電話があった。ヤクザな世界といってもいきなりの不意打ちは他の組織からの反感
を買い、昔ならいざ知らず現代では生き残れない。それでなくても暴力団というだ
けで世間からつまはじきにされ、組事務所建設も住民の反対にあって簡単には出来
ない現状で、そんな無謀な事をする暴力団は居ないはずだ。

浅野は暮れから泊まりの組員を増やして厳重に警戒していた。だが、暮れに事務所
を襲った連中は何処から撃ったのか分からなかった。
窓が割れて銃弾が打ち込まれた方角には近くに高いビルは無く、建設中のマンショ
ンは12階建てだが500メートル以上離れていて、あそこから狙い撃つのは高性
能のライフルでも無理だろうと思っていた。警察はいまだに使用された銃の断定が
出来ないのか、凶器についての発表はなかった。
浅野は泊まりの若い組員を集めて小遣いを渡し、料理屋で頼んだおせちを振舞って
いた。浅野は妻とは離婚していて1人暮らしだ。子供は妻が引き取り郷里の福井で
暮らしている。
「おやっさん、阿部の兄貴が来られました」若い組員が阿部を連れて入って来た。
「阿部、どないなってるんや。永山じゃないみたいやし、誰が戦争を仕掛けて来た
か分からんのか」浅野は阿部の顔を見るとビールを勧めて聞いた。
「えぇ、うちの事務所がやられたんも永山が襲われたんも、誰の仕業かまだ分かり
ません。うちもかなりの被害が出たけど永山も怖がってるみたいですわ。けど組長、
これは素人の仕事とは思えまへんで。うちと永山を争わせて共倒れを狙っている奴
が居るかも知れまへんが、今んとこ何処の誰やらさっぱり分かりませんわ。早いと
こ相手を調べて潰さんと、若いもんに動揺が広がってますんや」阿部はビールを飲
みながら浅野のグラスに注ぎ返した。

「しかし暮れの事件が起こってからサツの警戒が厳しくなって迂闊に動けまへんの
や。イブに殺られた3人は2人が射殺やったから、若いもんは空身で出歩くのを恐
れてまんねん。かといって外に出る時はサツに身体検査をされるからチャカを持っ
て出る訳にもいかんし、何とかして早いとこ相手を特定せなあかんのやけど・・・」
阿部も今の所手の打ちようがないといった感じでおせちに手を伸ばした。
「おやっさん、年賀状です」若い男がハガキの束を持ってくると、浅野は1枚ずつ
目を通した。目を通しながら黒い縁取りがしてあるハガキが目に止まった。文面に
は『次はお前の番だ』と一言だけ書いてある。差出人の名前はなく、消印を見よう
としたが、年賀状に消印は押していないから何処で投函されたのかも分からない。
浅野は背筋が凍りつくような気がして阿部にハガキを渡した。阿部は文面を読むと、
おやっさんと浅野の顔を見ながら、ふざけやがって、いったい何処のどいつやねん、
とハガキを叩きつけた。若い男がハガキを拾って文面を読むと、他の連中にも回し
ている。おやっさん、ハガキを読んだみんなが少し怯えた顔で浅野を見つめた。
「正月早々ふざけた奴が居るもんやな」浅野は平静を装ったが、クリスマスと暮れ
の襲撃事件を思うと冷静では居られなかった。
「おやっさん、暫くは家を出ないでくださいよ。若いのを10人ほど置きますが、
外から見える窓にも気をつけてくださいよ。連絡は電話でしますから。とにかく組
織を上げて相手を探しますわ」阿部が言うと、浅野は顔を引きつらせながら頷いた。

          *

晩御飯の後みんなはロビーでテレビを見ている。圭三は夕方から掛かってくる電話
が多くて部屋に戻って話している。圭三夫婦の部屋はダイニングルームの隣にある。
この山荘は2階建てで2階には4部屋あり、どの部屋にもバス・トイレが付いてい
る。下にはロビーの奥に3部屋、玄関の横に2部屋、ダイニングルームの隣に2部
屋あり、他にトイレ、洗面所と風呂がある。
下のダイニングルーム隣の2部屋はバス・トイレ付だが他の部屋には無く、ロビー
奥の3部屋の廊下の反対側に洗面、トイレ、一番奥が風呂場になっている。瑞希、
浩貴、奈緒子は2階の部屋で、圭三夫婦と佐伯がダイニングルームの隣、森下と工
藤が玄関横の部屋に住んでいる。圭三の会社の社員はロビー奥の部屋を使っている。
「コーヒー入れようか」奈緒子が言って女子社員の2人と佐伯が立ち上がった。
「優子さん、私たちでやるから座ってて。いつも忙しく働いてくれてるから正月く
らいはのんびりしてよ」奈緒子が笑いながら言うと、でも、と言いながらダイニン
グルームへ歩きかけた。
「優子さん、ここは奈緒子に任せてゆっくりしてなさい」芳江が佐伯に笑いかける
と、すいませんと言いながら腰を下ろした。
暫くするとお待たせ〜と言いながらコーヒーとショートケーキを持って来た。みん
ながコーヒーに手を伸ばし、ショートケーキを食べ、テレビで正月番組を見ながら
のどかな時間が過ぎていた。

          *

のんびり過ごした正月は瞬く間に終わった。瑞希は平和に過ごす時間の流れが何と
早いものかと感じた。荷物をまとめて森下の車に積むと圭三夫婦、浩貴と奈緒子、
工藤、佐伯が見送った。
「姉さん、気をつけてな」浩貴はそれだけを言うと瑞希の手を握りしめた。
「浩貴も気をつけるんやで。奈緒子を頼むで」瑞希も小さな声で言って手を握りし
めた。
「お嬢さん、お気をつけて。決して無理をしないでくださいよ」工藤が声を掛ける
と、佐伯もお気をつけて、と手を握った。
「瑞希さん」奈緒子は今にも泣きそうな顔をしている。
「奈緒子。私は大丈夫だから心配しないで。浩貴を頼むね」と奈緒子を抱きしめた。
暮れに来た時の道を走り、名神高速道路に入ると車の運転が上手い男を知らないか
と森下に聞いた。足がないと不便やねんと笑うと、堺の方で溝口という男を捜して
みてください。はっきりした住所は知らないけど、暴走族やローリング族の間では
有名で、昭(しょう)ちゃんと言えば誰でも知っていますからと笑った。偏屈やけど
運転技術は折り紙つきで、会えたら私の名前を言ってもらえれば力になってくれる
でしょう。森下は運転しながら後ろの瑞希に話した。

大阪のマンションには午後4時過ぎに着いた。森下はどうかお気をつけて、決して
無茶はしないでくださいと言って車で走り去った。瑞希は部屋に入るとアイリーン
とナターシャに電話した。2人も大阪に帰っていて前回とは違うホテルに泊まって
いた。瑞希は奥田弁護士に頼んで賃貸マンションを手配してもらった。これからの
事を考えたらホテル暮らしよりマンションの方が良いだろうと思った。直ぐに瑞希
のマンションの近くで良い物件を見つけてくれた。12階建ての8階部分で2LD
Kだ。とりあえず直ぐに必要なベッドや寝具、ダイニングテーブルやソファ、テレ
ビなどを揃えた。

          *

9日、10日、11日と続いた大阪の風物詩『えべっさん』が終わると、瑞希は木
曽福島の土産を持って香田の事務所に向かった。時間が早い所為か事務所には若い
男が4人居ただけだ。瑞希がドアを開けると、おめっとうさんですと挨拶した。
「田畑の兄ちゃんはまだ来てへんの?」瑞希もおめでとうと挨拶して事務所を見渡
した。
「へぇ、兄貴は6時ごろに顔を出すと思いますわ。お嬢さん、暮れにとんでもない
事件が起こりましたんやで」孝二という兄貴分格の男が、暮れに起こった浅野組の
襲撃事件や永山組襲撃事件の事を詳しく話した。
「今んとこ何処の誰がやったんか分かりまへんのや。クリスマス・イブの襲撃の事
もあって浅野の若い連中はびびってますわ。それにしても浅野と永山を同時に襲う
って、これは素人じゃありまへんな。永山組を狙った金属パイプを発射管に使った
仕掛けは、昔の学生活動家や過激派が使っていた物と似ているらしいけど、活動家
や過激派が暴力団を狙うなんて聞いたこともありまへんわ」孝二は新聞やテレビで
見聞きして覚えた事を話した。瑞希は孝二の話を聞きながら、時々驚いた素振りを
見せた。

「これ、木曽福島の地酒やねん。みんなで飲んでや」瑞希が地酒の七笑い(ななわ
らい)を渡すとありがとうさんですと受け取った。若い男が入れてくれたコーヒー
を飲みながら、暫くの間正月の話などを雑談していた。
「兄貴です」ドアを開けて数人の男が入って来た。後ろから田畑が入ってくると、
兄ちゃんと瑞希が声を掛けた。田畑は瑞希を見ると愛想を崩し、おめでとうと言い
ながら横に座った。瑞希は久しぶりに弟の浩貴と逢い、正月はのんびり過ごした事
を話した。
「ボンもご無事で、青木の爺さんも元気みたいでんな」田畑は瑞希の話を嬉しそう
な顔で聞いている。
「兄ちゃん、頼みがあるんやけどな。香田の人間か下部組織に運転の上手いのがお
らんかなぁ。パトカーや白バイを振り切れるくらいの腕で、命知らずの人間って居
てへん?」瑞希が言った事に田畑をはじめみんなは驚いた顔で瑞希を見つめている。

「お嬢、無茶はやめてくださいよ。おやじも心配してますんやで。まぁ、どうして
もって言いはるんやったら心当たりがない事もないけど、ただ、偏屈やから中々言
うことを聞きまへんのや。気に入ったら命を投げ出すような奴ですけどな」田畑が
暫く考えて孝二に電話するように言った。
「兄貴、あいつはあきまへんわ。あいつは自分より格下やと思ったら相手にしない
し、特に女の言うことなんて聞きまへんで。いくらお嬢さんでも無理でっしゃろ」
若い男が言うと
「あいつの運転テクニックはずば抜けてて、一時はローリング族で鳴らしてたし、
族の仲間も多いけど偏屈やからなぁ」と言いながら孝二が立ちあがって電話を掛け
ている。
「9時頃やったら来れると言ってますがどうします?」孝二が受話器を持ったまま
田畑と瑞希の顔を見た。瑞希が時計を見ると6時になったところだ。
「わかった。9時頃にまた来るわ。これから友達と食事やねん」瑞希が言って田畑
を見ると、田畑も頷いて孝二に合図した。孝二は電話で一言二言言って受話器を下
ろした。

「兄貴、大丈夫ですか?」孝二が心配そうに田畑を見た。
「心配せんといてや。何とかなるやろ。これから友達と食事に行くから9時頃にま
た来るわ」瑞希が立ち上がると靖夫が下まで送って出た。お嬢さん、お気をつけて。
瑞希は靖夫の声を聞きながら歩き出した。
戎橋に行くとナターシャとアイリーンは居なかった。もしやと思ってたこ焼き屋の
方に向かうと、2人はたこ焼きを食べている。瑞希が近づくと2人も瑞希を見て手
を上げた。
「姉さん、こんばんは」雄二が瑞希を見て声を掛けると瑞希も雄二に微笑んだ。
アイリーンがしゃぶしゃぶと言ったので、道頓堀筋にある焼肉やしゃぶしゃぶの店
が入っているビルのエレベーターに乗った。




              続く