落日・後編
第2回
『開始』
「ちょっと待った、女かよ」瑞希がアイリーン、ナターシャと別れて香田興業の事 務所に行くと、25、6歳くらいの若い男が瑞希を見て呆れた顔をした。孝二が何 とかなだめているが、いかにもヤル気のない顔で瑞希を見ている。 「ヤル気がないんなら仕方ないわ。あんたも車を転がしてるんやったら名前くらい 聞いた事があると思うけど、溝口って男を知ってるか?昭ちゃんと言えば誰でも知 っているらしいけどな」瑞希が座っている男に言うと、男は薄笑いを浮かべて瑞希 を見ている。お嬢さん、孝二が言う前に男が口を開いた。 「俺がその溝口やけど、何処でそんな噂を聞いてきたんや」溝口と名乗った男が瑞 希に聞いた。 「森下って男を知ってるか?森下勲。ちょうどあんたと同じくらいの年やけどな」 瑞希も溝口を見つめて森下の名前を出した。男は森下勲という名前を聞くと、びっ くりしたような顔で瑞希の顔をまじまじと見つめている。瑞希は溝口が驚いた理由 が分からなかった。 「そうか、森やんの紹介やったら聞かなしゃぁないな。けど、こっちの方はどうな んや。いくら森やんの紹介でもへタレやったらお断りやで」溝口が立ち上がると喧 嘩の構えをして見せた。瑞希が、なんなら試してみてもいいんやでと笑うと、溝口 がファイティングポーズをとった。
「お嬢、止めときや。溝口もいい加減にせんかい」と田畑が止めに入った。 「兄ちゃん、かまへんから」瑞希が笑うと、みんなが椅子やテーブルを端に寄せて 中央にスペースを作った。 「ナイフを持ってるか?」横に居た靖夫に聞くとポケットから出して渡した。瑞希 が刃を引き出してテーブルの上に置いた。 「素手では物足らんからそれを使いや。手加減は要らんで」瑞希が言うと、溝口は バカにされたと思ったのかいきなり殴り掛かってきた。瑞希は溝口の拳を紙一重で かわし、体を捻ると右肘で溝口の顎を捉えた。手加減をしたから顎が砕ける事はな かったが、それでも壁際まで吹っ飛んだ。瑞希の動きが早過ぎて溝口は何が起こっ たのか理解できなかった。若い男が立たせてやると、今度はテーブルのナイフを取 って構えた。途端に瑞希の目が刃物を思わせるような冷たい眼になり溝口を見据え た。溝口はナイフを構えたまま瑞希に見据えられて動けなかった。
田畑は瑞希の動き見て、先日宗右衛門町で浅野の2人を叩きのめした力を感じた。 周りで見ている男たちも、瑞希の刃物のような眼に冷や汗を流した。溝口がナイフ を置いてすいませんと頭を下げた。 「溝口、命拾いしたな。最初の一撃もお嬢が手加減せんやったら顎が砕けてたで。 もしナイフでかかっていたらやられたやろな。しかしお嬢、子供の頃から空手をし てたのは知っていたけど、今のは空手の動きじゃありまへんで」田畑が溝口に言っ て瑞希の顔を驚いたように見ている。 「お嬢さん、凄いでんな。この前浅野の2人を叩きのめしたんも分かるような気が するわ」靖夫が驚いた顔で瑞希に言うと、みんなも驚いた顔で瑞希をみている。若 い男が冷蔵庫から氷を出し、タオルを持って来て溝口の顎を冷やしている。 「ところで森下とはどういう仲なんや。森下は詳しくは言わなんだけど」瑞希が聞 くと、溝口は氷を包んだタオルを顎に当てたまま話し始めた。
「森やんと俺はガキの頃からの親友で、16でバイクを始めて18で車の免許を取 ると、仲間を集めて族(暴走族)を結成して走り回っててん。二十歳(はたち)で族を 辞めるとラリーやジムカーナを始めたんやけど、なんや物足りんでローリング族に なったんや。昔の族の仲間もローリングを始めた頃、俺のミスで事故を起こし、横 に乗っていた森やんの弟を死なせてしまって・・・・・。その日を境に森やんはみ んなの前から姿を消したんや。俺もローリングから足を洗ってまたラリーを始めた んや」瑞希は溝口の話を聞きながら、森下が運転が上手い理由が分かった。四輪駆 動車とはいえ雪の有る山道でも普通に走っていた。 「姉さんは森やんとはどういう関係なんですか?」溝口が不思議そうに聞いた。瑞 希が、森下は木曽福島の山荘で青木の運転手をしていて、青木と瑞希の関係、瑞希 と香田興業の関係を話すと驚いた顔をしている。
「そうですか。森やんが姉さん一族の運転手をしているんですか。分かりました。 姉さん、俺を好きなように使ってください。森やんとまではいかんでも、出来る限 りの事はお手伝いさせてもらいます。人手が要る時は言ってもらえれば昔の仲間が 幾らでも集まりますから」溝口はそう言いながらみんなを見渡した。 「車はどうなんや」 「多少のチューンナップはしてます。ほんまはエンジンを積み替えたいんやけど先 立つもんが・・・。一応確保はしてるんやけどね」と少しバツの悪そうな顔で瑞希 を見た。瑞希はバッグから300万入りの封筒を出して渡した。 「これで何とかなるんか。出来れば防弾ガラスに替えれたら一番いいけどな」瑞希 が言うと溝口は封筒の中を見て驚いたが、瑞希は笑いながら頷いた。 「分かりました。1週間だけ待ってください。で、どちらに連絡すれば・・・」 「田畑の兄ちゃんに連絡してくれたら良いわ。兄ちゃんからうちに連絡してくれる から」瑞希が田畑を見て言うと、田畑も瑞希に頷いた。
☆
1月も中旬を過ぎると寒さも厳しくなり、大阪でも雪の舞う日が数日続いた。その 頃瑞希は1人の男を追っていた。後を追い続けて今日で3日目だ。清水の調べた手 帳によると、その男の名前は鎌田啓介、42歳。交通刑務所を昨年11月に出て来 ると大正区のアパートで暮らしていた。仕事もせずにパチンコや競馬に競艇と毎日 ぶらぶらしている。夕方からいつも行く立ち飲み屋でかるく飲むとそのまま帰って いるが、今日は夕方から天王寺にある運送会社に寄っていた。9時過ぎにアパート の近くまで帰って来ると公園の前で瑞希が声を掛けた。 「あの〜、すいません。ちょっと教えて欲しいんやけど」瑞希が地図を取り出すと 鎌田は瑞希に近寄って来た。冬のこの時間は人通りもまばらで、瑞希と鎌田以外周 りに人影は見えなかった。鎌田が街灯の明かりで地図を覗き込むと、地図の下から 銃口が覗いていた。
「な、な、何やねん」鎌田は驚いた顔で瑞希の顔を見た。瑞希は顔を振って公園に 入るよう指図した。鎌田は恐る恐る公園に入ると瑞希を見た顔が恐怖に引きつって いる。 「私が誰だか分かるか?」瑞希はポケットから消音器を取り出すと銃口にねじり込 んだ。鎌田は反対側に逃げようとしたが、アイリーンとナターシャが行く手を塞ぐ とその場にへたり込んだ。 「お、お、お前は誰や。殺される覚えはないで」恐怖で喉が引きつっているのか、 唾を飲み込むとやっとの思いでそれだけを言った。 「3年前、トラックをぶつけて人を焼き殺したやろ。ぶつけられた車に乗っていた のは私の父やったんや。今日という日を長い事待ったんやで。誰の指示で父を殺し たんや」瑞希が銃口を鎌田の額につけると、鎌田は両手を合わせて哀願した。 「助けてくれ、俺には女房と子供が居るんや。た、頼む、助けてくれ」今にも泣き そうな顔で瑞希を見つめて哀願を繰り返した。父はこんな情けない男に殺されたの かと無性に腹が立った。
「焼き殺された父にも私と弟という子供が居たんや。謝るんやったらあの世で父に 謝り」瑞希は冷たく言い放つと、鎌田から少し離れて躊躇せずに引金を引いた。 ブシュ、小さな音がすると鎌田は崩れるようにその場に倒れた。公園の反対側に行 くと1台の車が止まっていて、瑞希とアイリーン、ナターシャが乗り込むと、直ぐ に数台のオートバイが派手な音を撒き散らしながら走って来た。溝口はオートバイ の後を追うように走ると途中でオートバイの連中と別れ、御堂筋に戻って来ると道 頓堀で3人を降ろした。 「すまんやったな。みんなに飯でも奢ってやってや」と降り際に20万渡した。 「姉さん、そんなに気ぃ使わんといてや」溝口は断ったが、頼みが有るんやと溝口 に耳打ちした。溝口は最初驚いた顔をしたが、直ぐに分かりましたと笑い、ありが とうございますと受け取った。
*
「宮園さん、鎌田が殺られました」浅野からの電話を受けて宮園は慌てて新聞を広 げた。『昨夜10時半頃、大正区の公園で射殺死体が発見された。警察の調べでは、 殺されたのは同じ大正区のアパートに住む無職の鎌田啓介、42歳。死因は額に拳 銃で撃たれた後があり、恨みか物取りの犯行と思われる。近所の人の話では9時半 頃、暴走族と思われる数台のオートバイが走り回っていたということで、行きずり の犯行の可能性も有るらしいとの発表。警察では恨み、行きずり両方の線で捜査を 続ける方針です』宮園は三面記事の片隅に載っていた記事を読むと、新聞を持った 手が震えだした。鎌田が殺されたとなると、3年前の事件の背景を知っている者の 仕業に違いない。一之宮姉弟(きょうだい)か青木の可能性が大きいが、年寄りや女 に浅野の事務所を襲って5人を射殺し、永山組に手製のロケット弾を撃ち込むよう な事が出来るだろうか。それとも暴走族による単なる行きずりの犯行か・・・。 どちらにしろ、宮園にとっては鎌田が死んだ事であの事件の真相は永久に闇の中に 葬られた。だが一之宮姉弟の行方は依然として掴めていない。松本からの報告に よると青木にも目立った動きはなく、瑞希も浩貴も姿を見せていないという。
その日の夜、9時半過ぎに浪速区の会社を出た宮園は、秘書の大倉が運転する車で 25号線を走り、杭全(くまた)町の自宅に向かっていた。天王寺駅前を過ぎた辺り から数台のオートバイがけたたましい爆音を響かせながら車の前でジグザグ運転を 始めた。宮園が驚いていると、車の後ろにも10台近いオートバイが爆音を響かせ ながら着いてくる。大倉はどうしたものかと怯えていたが、杭全町の交差点まで来 るとオートバイの一団はそのまま走り去った。次の日もその次の日も、宮園が帰る 時間になると決まって暴走族風の一団が現れ、宮園の車の前でジグザグ運転を繰り 返し、後方のオートバイと乗用車も、爆音とクラクションで威嚇を繰り返した。 暴走族風の男たちが着ている特攻服には『浪花連合会』と刺繍がしてある。
宮園は浅野に電話して何とかならんかと相談した。浅野は浪花連合会を何とか準構 成員にしようと組員に接触をさせたが、暴力団の使いっ走りはごめんだね、と断ら れている事を説明した。最近は警察の取り締まりも厳しくなり、暴走族やローリン グ族の走る場所も少なくなって人数そのものが減りつつあるから、準構成員の人員 確保にも苦労していると笑った。どうしても目障りなら、うちの若いもんに話しを つけさせると言った。 翌日、宮園が会社を出ると浅野興業の若い男3人が乗った車が先導して自宅に向か った。天王寺駅前を過ぎると数台のオートバイがジグザグ運転を始めた。浅野興業 と宮園の車を囲むように、横と後方にもオートバイと乗用車が数台、クラクション と爆音を響かせ、ヘッドライトをパッシングさせて威嚇した。浅野興業の車に乗っ ていた男が窓をあけ、横を走っているオートバイの男に大声で怒鳴った。
「俺は浅野興業の今井ゆうもんや。お前らの頭は誰や」オートバイの後部座席に乗 っていた男が後方を指差し、スピードを落として後方のグループに接触している。 直ぐに黒塗りの車が浅野興業の車と並走を始めた。窓はスモークガラスで中は見え ない。助手席の窓が少し開き、浅野興業の車について来いと示唆した。今井が頷き、 黒い車が派手なクラクションを鳴らすとオートバイは各自バラバラに散っていった。 頭とおぼしき男の車を守るように2人乗りの2台のオートバイが着いて来た。車は スピードを上げると25号線を南下し、中央環状線に入ると久宝寺緑地の近くで側 道に入って止まった。今井と2人の男が車から降りると、2台のオートバイが後ろ を固めるように囲んだ。黒塗りの車から溝口が降りると、助手席側のドアから皮の ジャンプスーツに身を包んでいる女が降りた。胸のふくらみで女だと分かる。フル フェイスのヘルメットを被ったまま今井たち3人を見ている。
「俺は浅野興業の今井っちゅうもんやけど」今井が溝口に話し掛けた時、オートバ イの後部座席から降りた2人が、今井と一緒に居た2人を一撃で叩きのめした。叩 きのめしたというより首を捻り折ったと言う方が正しいだろう。一瞬の出来事で今 井は言葉が出なかった。足元に崩れ落ちた2人を呆然と見ている。 「お前ら、誰に戦争仕掛けてるか知ってんのか」今井は精一杯意気がったが、溝口 は薄笑いを浮かべてヘルメットを被っている女に目を移した。 「悪いがあんたにはここで死んでもらうで」ヘルメットを脱いだ瑞希が今井を見据 えた。今井は唖然とした顔で瑞希を、後ろの2人を見た。後ろの2人がヘルメット を脱ぐと外国人の女だった。直ぐに数十台のオートバイがクラクションと爆音を響 かせながら、中央環状線を傍若無人に走り回りだした。数台のオートバイが側道へ の入り口にオートバイを止め他の車が入れないようにしている。今井はたかが暴走 族と軽くみていた事が間違いだと悟ったが、すでに今井の逃げる道はなかった。
「いったい何もんやねん。浅野興業相手に戦争仕掛けるとは大した度胸やな」今井 が言うと瑞希は薄笑いを浮かべて前に進み出た。 「せっかくやから良い話を聞かせてやろうか。クリスマス・イブに大滝ら3人を殺 って川に流したんはうちや。暮れに事務所の5人を殺ったんもうちや。いずれ浅野 興業は1人残らず死ぬ事になるんやで。あんたは少し早くなっただけや。あの世で 仲間と会えるから待ってるんやな」瑞希が言うことを今井は信じられない思いで聞 いていた。クリスマス・イブに幹部の大滝を含めて3人が殺され、29日の納会の 後、事務所に戻った幹部の光岡を含めて5人が射殺されたが、その犯人が女だとは 信じられなかった。 「浅野を狙う理由は何やねん」今井は喉が干からびて声がかすれていた。
「3年前、宮園の頼みで鎌田を使い、事故に見せかけて一之宮秀英を殺したやろ。 知らんとは言わせんで。うちは一之宮秀英の娘で瑞希っていうねん。名前くらいは 聞いた事があるやろ。父の仇を討つために仕掛けた戦争や。浅野だけやない、宮園 にも死んでもらう事になるけどな」瑞希が言い終わらないうちに今井がヤッパを抜 いて切りかかった。瑞希は体を振ってヤッパの切っ先を避けた。小太刀を習ってい た瑞希には間合いを見切るのは難しい事ではなかった。 仕留めた、と思ったヤッパが空を切った今井は次の瞬間、女の指が目の前にあるの に驚いたが、直ぐに激痛が襲って目が潰れたのを悟った。人間の体で絶対に鍛える 事の出来ない場所、最大の弱点である目を一瞬に潰されて今井は死を悟った。クリ スマス・イブに大滝の兄貴たち3人が殺された時、不意に湧いて出た恐怖心が今現 実になろうとしている。瑞希が頷くとナターシャが今井の首を捻った。今井は声も 出さずにその場に崩れ落ちた。倒れている3人を車の中に押し込むと、溝口が手を 上げて合図した。1台の車が賑やかなクラクションを鳴らすと、それまで走り回っ ていたオートバイが一斉に走り去った。瑞希、ナターシャ、アイリーンも溝口の車 に乗り込むと久宝寺緑地を後にした。
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「おやっさん、今井が殺られました」阿部の話を聞いて浅野は愕然とした。先日、 宮園からの頼みで暴走族のリーダーと話をつけるため、若いのを2人付けて宮園に 同行させていた。今井ほどの男がたかが暴走族に殺られるとは思えなかった。昨夜 遅く宮園から電話があり、暴走族のリーダーらしい車と南に向かったと聞いていた。 今井は八尾の久宝寺緑地の側で目を潰されて首を折られ、他の2人も首を折られて 車の中で死んでいた。新聞の記事に載った目撃者の話よると、昨夜久宝寺緑地の辺 りで暴走族の集団が暴走行為をしていたが、僅か5分足らずで解散したという。 普通、暴走族の行為は信号無視を繰り返し、一般車両の走行を邪魔してジグザグ運 転を長時間繰り返すが、僅か5分足らずで解散したとは信じられなかった。
今井たち3人を殺害するためのカモフラージュだったのか。そうなると暴走族を影 で操る人物が居ることになる。今井を始め何人かが浪花連合会を取り込もうと画策 したが、暴力団は嫌だと断られていた。その暴走族が今井の殺害に関与している。 場所が八尾ということで浪花連合会とは別のグループかもしれない。しかし、宮園 からの電話では浪花連合会の暴走族だったと言っていた。浪花連合会が八尾辺りに 進出すれば、地元の暴走族が黙ってはいないだろう。それとも浪花連合会と話をつ けた後に別の誰かに殺されたのか。3人の殺され方は暴走族同士の喧嘩ではなく、 あきらかにプロの手口だ。素人の殺し方じゃないのは確かだ。クリスマスから暮れ にかけて襲われたのも素人の仕業とは思えなかった。
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その日の夜、浅野は阿倍野にある浅野興業の経営するクラブで宮園と会っていた。 クラブの奥の部屋には浅野、宮園、幹部の阿部、大阪市の市会議員の河野が居た。 浅野が今までの経緯を話した。幹部2人を含め、すでに10人が殺されたのに犯人 像が浮かんで来ない事を説明し、どう対処するかを相談していた。 「おやじさん、府警の林警部が来ました」若い男がドアを開けて来訪者を告げた。 「林、いったいどないなってんねん。府警はまだ犯人の割り出しが出来んのか」浅 野は林の顔を見ると大声で怒鳴った。林則夫。大阪府警の警部だが金使いが荒く、 借金に苦しんでいる所を宮園の口利きで浅野に飼われている。 「浅野さん、大変なことが判明しましたで。クリスマス・イブに射殺された2人、 使われた拳銃はブローニングやけど、暮れに事務所が襲われたのはとんでもない銃 でっせ。遺体から取り出した銃弾を調べところ2種類の弾が出ましたんや。つまり 2種類の銃が使われたって事で犯人は1人じゃないという事ですわ。その銃ですが、 どうも日本には無い銃らしく、各国に問い合わせて判明したんやけど、一つはロシ アの銃でもう一つはアメリカの銃らしいですわ。
ロシアの方の銃はドラグノフSVD-Sというやつで、アメリカの方の銃がダコタ ARMS T-76 ロングボウという銃で、どちらも狙撃用で軍やテロ対策の特殊 部隊用ということですわ。まだはっきりと断定出来た訳じゃないから発表は控えて ますが、素人や暴力団が入手できる銃じゃありまへんで。ひょっとして外国の軍隊 や特殊部隊を相手に戦争してまんのか?」林がみんなの顔を覗き込むと、浅野をは じめ、宮園も阿部も、市会議員の河野も恐怖に引きつった顔でお互いを見つめた。 さらに林が言葉を続けた。 「ロシアの狙撃銃ドラグノフは最大射程が1キロで、改良型はもう少し伸びて有効 射程が1.2キロくらいになっているみたいですな。アメリカのダコタ・ロングボウ の方は最大射程が1.6キロ、有効射程が1.4キロとかなりの銃で、こんな銃は警察 でも使ってませんわ。外国の軍隊か特殊部隊くらいのもんですが、1キロ先から狙 われたら相手の姿も見えまへんやろ。暴力団が対抗出来る相手じゃありまへんで。
昨夜の暴走族絡みに見せかけた殺しもプロの仕業でっせ。宮園さん、浅野さん、い ったい誰を相手にしてるんです?わしもまだ命は惜しいからこんな連中を相手にし てるんなら、今度のことからは降ろさしてもらうわ」林はそこまで言ってビールを 口に運んだ。 「馬鹿野郎、いまさら何言ってんねん。来月ブツが入って来るんやで。サツの動き をしっかり把握して連絡するんや」浅野は林に怒鳴りながら、殺しのプロ集団、外 国の特殊部隊、浅野の頭にそんな言葉が浮かんだ。 「しかし、たかがヤクザ相手にそんな連中が戦争を仕掛けてくるとは信じられんわ。 他に理由があるんかな」阿部が浅野を見るとみんなも浅野の顔を見つめた。 「バカな事を言うんじゃねえよ。南米辺りの麻薬カルテルならいざ知らず、たかが ヤクの密輸くらいで外国の特殊部隊が動くなんてありえんわ。しかし、今はこうい う状態やから、今度の取引が終わったら暫く大人しくしている方が良いかも知れん な」浅野が言うとみんなは頷きながらグラスに手を伸ばした。
☆
正月休みが終わると瑞希が大阪へ帰り、浩貴も自衛隊へ戻ると賑やかだった山荘が 急に静かになった気がして、奈緒子は寂しさを感じていた。 瑞希が大阪へ帰った翌日、浩貴が自衛隊へ帰る朝、圭三夫婦の前で奈緒子と一緒に なりたいと言ってくれた事が、奈緒子にとってこの上ない幸せを感じた一瞬だった。 3月か、遅くとも5月には除隊する予定だと言った。今、姉さんがしている事が片 付いたら奈緒子と一緒になって父の後を継ぎたいから、一緒に大阪に行って欲しい と言われた。もちろん奈緒子に異存はなく圭三夫婦も喜んでくれた。森下の車で帰 る浩貴を見送りながら、木曽福島に来てからの長かった3年間を思い返した。
*
瑞希と浩貴の父、一之宮秀英(しゅうえい)が事故で亡くなると、おじいちゃんは毎 日のように電話を掛け、大阪へ出かけての忙しい日々を繰り返していた。 一之宮秀英の葬儀を社葬で済ますと、宝塚の屋敷を出て信州松本のおじいちゃんの 田舎に引っ越した。3ヶ月後に木曽福島の開田高原の山荘に移り住んだが、瑞希は 留学先のロンドンから帰って来る事はなく、浩貴も防衛大学から自衛隊に入ったま ま連絡がなかった。おじいちゃんに聞くと、2人とも無事に過ごしているが、今は 連絡が取れないから我慢するように言われた。1年が過ぎ2年が過ぎても瑞希から は何の音沙汰もなかった。浩貴は年賀状や暑中見舞いのハガキをくれたが住所は書 いてなく、奈緒子の方から連絡する手段はなかった。ただ、秀英が亡くなる前、防 衛大学を卒業したら一緒になろうと言ってくれたのが奈緒子の心の支えだった。
一度だけ、電話の後でおじいちゃんの顔色が変わった時があった。4月の初め頃で、 桜が咲き始めたとのニュースがテレビを賑わせ始めた頃だ。おばあちゃんと奈緒子 が聞いても答えてくれなかったが、瑞希か浩貴の身に何かが起きたんだと感じた。 暫くの間、話し掛けるのも躊躇するほど厳しい表情をしていた。 世間ではゴールデンウィークが終わり、梅雨が明けて暑い夏が訪れても奈緒子の気 持ちは晴れなかった。夏の終わり頃、12月に瑞希が帰って来ると聞かされ、奈緒 子は飛び上がりたい気持ちになった。正月には浩貴も帰って来ると聞かされ、何年 振りかで楽しい正月になりそうだと心が躍った。夏が終わり、錦秋の季節も奈緒子 の目には何も映らなかった。12月の中頃に瑞希の荷物が送られて来ると、瑞希の 帰国が現実のものとなった喜びで心が躍った。
おじいちゃんが大阪へ行く事になった。瑞希が帰って来るから大阪まで迎えに行く という。奈緒子も一緒に連れて行ってくれるように頼んだが何故か断られた。一之 宮秀英が亡くなったのも、瑞希、浩貴が3年もの間行方が分からなかったのも何か の所為だと思っていたが、奈緒子には分からなかったしおじいちゃんも話してくれ なかった。その瑞希が5年ぶりに帰って来る。おじいちゃんが山荘を出た翌日、夜 の8時半ごろに帰ると電話があり、奈緒子はおばあちゃんと一緒に部屋の掃除をし、 食事の用意をして瑞希の到着を待った。 「奈緒子、嬉しくても泣いたら駄目よ。5年ぶりに帰って来るんだから笑顔で迎え なきゃね」おばあちゃんの言葉に頷いた時ガレージの開く音がした。ガレージから ロビーへ入るドアが開き、瑞希の姿を見た時は一瞬別人かと思った。学生の頃はふ っくらしていた瑞希の顔があまりにも変わっていたのに驚いた。だが、おばあちゃ んが迎え、おばあちゃんを抱きしめた笑顔はまさに瑞希そのものだった。顔つきは 少し変わっていたが、笑うとえくぼが出るのは昔のままだった。
「瑞希さん、お帰りなさい」奈緒子は飛びつきたい気持ちと泣き出したい気持ちを 抑えて笑顔で迎えた。 「奈緒子?ほんまに奈緒子なん?」と大阪弁で聞いた声はまさに瑞希だった。 本当はもっともっと話をしたかったが、ロンドンからここまで飛行機と車に揺られ て疲れていると思い、おばあちゃんの言うように今日はゆっくり休ませたいという 気持ちが強かった。翌日、瑞希を起しに部屋へ行き、着替える時に見た瑞希の背中 の傷に声が出なかった。生々しい無数の傷跡に、この5年の間に瑞希に何が起こっ ていたのか聞くのが怖かった。 それでも5年ぶりに会い、瑞希の笑顔を見ると奈緒子は嬉しかった。また、昔みた いに一緒に暮らせる日が来ると思った。奈緒子、瑞希、浩貴、おじいちゃんとおば あちゃん、みんなで楽しく暮らせる日が戻って来たと感じていた。
続く
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