落日・第二章  後編




包囲網−1回



 『包囲網』

3月下旬の土曜日、奈緒子は午前中、森下の運転する車で病院に行き12時前に帰
って来た。瑞希は外に出て工事を見ていた。
「奈緒子、どうやった?」瑞希が車から降りた奈緒子に声を掛けると、奈緒子に続
いて希ちゃんが降りて来た。奈緒子が笑いながら瑞希に頷いている。
「お姉ちゃん、こんにちは」希ちゃんが嬉しそうに挨拶した。
「希ちゃん、来てくれたんやね。こんにちは」瑞希も希ちゃんの笑顔を見ると思わ
ず声が弾んだ。希ちゃんは黄色のジーンズに萌黄色のトレーナーを着て赤いデイパ
ックを背負っている。いかにも春らしい色合いで子供ながら上手く着こなしている。
パパ〜、希ちゃんが離れの玄関から声を掛けた。直ぐに大原さんが笑いながら出て
来ると嬉しそうな顔で抱きついた。
「わざわざ迎えに行ってもらってどうもすいません」大原さんが瑞希と奈緒子に声
を掛けた。
「いえ、病院のついでですから」奈緒子が笑うと希ちゃんも嬉しそうな笑顔を見せ
ている。瑞希はどうしたらあんな笑顔が出来るのかと、不思議に思うほど希ちゃん
の笑顔は可愛いと思った。

「パパ〜そろそろお昼だよ」希ちゃんがデイパックを肩から外して笑っている。
「そうやな、そろそろご飯にしようか。おにぎり持って来たんか」大原さんが笑う
と希ちゃんも笑いながら頷いている。
「お〜い、昼にしようか」大原さんが離れの中に向かって呼ぶと工務店のみんなが
出てきた。日当たりの良い所にブルーシートを敷いてみんなが輪になって座った。
希ちゃんは大原さんの横に座り、デイパックから水筒と竹編みの弁当箱を出してい
る。直ぐに勝手口からお手伝いの長岡瑠美と芳江婆やが、ジャーとお椀を持ってみ
んなの所へ行った。ありがとうございます。味噌汁を入れたお椀を受け取りながら
口々に言っている。
「お婆ちゃん、お姉ちゃん、ありがとう」希ちゃんが言うと、芳江婆やは嬉しそう
な顔で希ちゃんを見ている。瑞希や浩貴、奈緒子だけじゃなく圭爺も芳江婆やもあ
の日以来希ちゃんが気に入っているようだ。それにしてもあそこまで父親にべった
りというのも不思議な気がする。

瑞希も子供のころは父親が好きだったが、あそこまで素直に甘える事は無かった。
話に聞いた大原さんの婚約者で、有希さんのお姉さんだった人の生まれ変わりらし
いという話を思い出した。みんなの楽しそうな笑い声を聞きながら瑞希たちも食事
に戻った。
1時を過ぎて、みんなが仕事に掛かったのを見て希ちゃんを屋敷に呼んだ。
「お姉ちゃんのお家、大っきいんだね〜」希ちゃんは珍しそうにキョロキョロしな
がら家の中を見ている。リビングのソファーに座ると芳江婆やがショートケーキと
ジュースを持ってきた。今日、希ちゃんが来るということで、瑞希が頼んで瑠美が
午前中に買いに行ったものだ。
「お姉ちゃん、ありがとう」希ちゃんが美味しそうにケーキを食べると、みんなも
一緒に食べ始めた。

「今、春休みなんやろ?」瑞希が聞くと嬉しそうに頷いた。
「今度4年生になります。4年生になるとパソコンの授業が有るので楽しみです。
クリスマスにパパがパソコンを買ってくれたんだよ。2学期に算数の成績が上がっ
たからご褒美って」希ちゃんは大原さんの話をする時本当に嬉しそうな顔で話した。
「そう、算数の成績が上がったん。じゃあまた上がったらまた買ってもらえるね」
「はい。でも、パパは勉強ばっかりでもあかんでって言うの。勉強はそこそこでも
良いから、明るい元気な子になれって。繭子のパパもそうだよ。でも成績が上がる
とパパとママが喜んでくれるから嬉しくて頑張れるよ」希ちゃんの話を聞きながら
奈緒子や芳江婆やも頷いている。最近の親は何かにつけて勉強勉強と口うるさく、
学校が終っても塾に通って勉強漬けで、それが重荷になって自殺したり家に火を点
けたりする事件が続いているが、大原さんの言う、勉強はそこそこでも明るく元気
な子供になれっていうのには瑞希も賛成出来ると思う。目の前の希ちゃんがそのお
手本みたいな存在に思えた。

「何処の学校に行ってるん?」
「橘小学校です。幼稚園も橘幼稚園だったんだよ。弟の翔がこの前卒園して来月か
ら1年生です」
「橘幼稚園と橘小学校って、山本の方にある学校?」
「はい、スクールバスで通っています。お姉ちゃん、知ってるん?」
「お姉ちゃんも橘幼稚園と橘小学校だったんだよ。幼稚園の制服、グリーンのジャ
ケットに赤地に緑のチェックのスカートやろ?赤の蝶ネクタイで赤のベレー帽」
「はい、お姉ちゃんも一緒の幼稚園と小学校やったん?じゃあお姉ちゃんはの〜の
のず〜っと先輩なんやね」希ちゃんが嬉しそうな顔で瑞希の顔を見た。瑞希は何度
見てもその笑顔に吸い込まれそうな感覚を覚えた。
「ちょっと待っててね」瑞希は2階に上がると、部屋の本棚から小学生の時のアル
バムを持って来た。
「ほら、お姉ちゃんが小学校の時だよ。一緒の制服やろ」アルバムを捲って見せる
と、希ちゃんは興味津々といった顔で見ている。

「あっ、野崎先生。この頃の野崎先生凄く若いね〜」希ちゃんはアルバムの中に野
崎先生を見つけると嬉しそうに笑っている。
「の〜のも3年生の時は野崎先生だったんだよ。4年生になったら・・・どの先生
になるか分からんけど、また野崎先生になったら良いなぁ」
「希ちゃんも野崎先生やったん。あの先生、時々授業と関係ない話をして笑わせて
くれるやろ」
「うん、この前もね、算数の時間に旅行に行った時お金の計算を間違えて大損した
事を話してくれたよ。の〜のも幼稚園の時にロンドンって所に行ったんだよ。ママ
の理容師の大会の時だったけど、あの時は翔と奈央姉ちゃん、由香里姉ちゃんや喫
茶店の祐子姉ちゃんも一緒に行ったんだよ。ほんで、みんなで応援したらママが優
勝したんだよ」希ちゃんの話を聞いていると、どんな事にでも興味を示す好奇心の
旺盛な子に思えた。清水や奈緒子から聞いていた話そのままの子供だと感じた。こ
ういう素敵な子供たちを守るためにも、テロは断じて防がねばならない。瑞希は希
ちゃんの笑顔を見ながら心に誓った。

          *

日曜日の夕方、野村と小林が訪ねて来た。2人の顔色を見て苦労している様子が伺
える。2人は北が核をチラつかせながら日本を牽制する理由が分からない事。テロ
の首謀者と思われる3人を未だに発見出来ない事。関東連合会の次の動きを封じた
事などを話した。
「それで、アハマドと思われる人物が宝塚インターから車で40分内外の地域に潜
んでいる可能性があります。伊丹、川西、西宮、芦屋辺りが範囲内と思われますが
まだ突き止めていません。このお屋敷に変化はありませんか?」野村が苦しそうな
顔で話しながらみんなを見渡した。奈緒子と瑠美は部屋に下がっていて顔を出して
いない。浩貴は日曜日だが石田と会うからと出かけていた。
「今のところ何も変わった事はありません。工事に来ている工務店のみなさんは信
用出来る人たちのようですし」工藤と佐伯が野村に頷いた。

「野村さん、小林さん、ずい分苦労しているようですね。この前の処理のお礼に1
つ情報を上げましょう。ただ、相手はかなりの大物らしいので気を付けて下さいよ。
神戸の南京町に劉という台湾人が居るようです。その男、何軒かの店を持っていて
裏の世界との繋がりも太く、迂闊に手は出せないでしょう。ですが調べてみるだけ
の価値はあると思いますよ。近江舞子の貸し別荘から逃げた3人、近江舞子から舞
鶴に入り、舞鶴から芦屋に行ってそこから行方が途絶えています。今、私の方でも
探していますがもう少し時間が掛かるでしょう。野村さん、小林さん、彼らを助け
ている支援者の大元締めはこの劉という男に間違いないと思います」瑞希がきっぱ
り言い切ると、野村、小林を始め、工藤と佐伯も驚いた顔で瑞希を見つめた。

「瑞希様、それは本当ですか?神戸の劉という男が支援者の元締めという話は」野
村は何故そこまで分かったのか不思議で仕方なかった。国家権力の警察という組織
を総動員しても分からなかった事が、多少の協力者がいるとは言っていたが、警察
とは組織力が違う。前の時にも驚いたが、ここまで調べ上げている組織力には驚か
ざるを得なかった。
「分かりました。神戸の南京町にいる劉という人物ですね。早速兵庫県警に連絡し
て調べさせます」野村は携帯電話を出すと席を離れて誰かと話している。
「ところで小林さんの方はどうなんですか。協力者の人選は出来たんですか?」今
度は小林に聞いた。
「えぇ、人選も終って何時でも動ける態勢ですが、肝心の相手が・・・」小林は苦
笑いしながらみんなを見渡した。

「芦屋からの足跡は途絶えているけどそんなに遠くやないと思うわ。神戸やと思う
けど南京町には居ないやろ。あそこは中国や台湾系の人が多いからアラブ系やと目
立ち過ぎると思うんよ。多分劉の屋敷か別荘、あるいは船という可能性も有るね。
どちらにしろもう少ししたら分かると思うわ。期待せんで待っといて」瑞希が笑う
と小林も笑いながら野村を見ている。
「兵庫県警に劉という人物の捜査を依頼しました。気付かれないように極秘扱いで
ね。何処に彼らの支援者がいるか分かりませんからね」電話を終った野村が座りな
がら話した。
再び野村の携帯電話が鳴った。大阪府警捜査本部の刑事からだ。北朝鮮の漁船が2
隻、昼前に香住漁港に入港してカニを水揚げした後、船室から船底まで徹底的に調
べたが何も出てこなかったそうだ。今夜は漁港に停泊して、明日は朝から中古の自
転車や冷蔵庫、ファンヒーターなどを積み込んで出航するという。

香住警察署員が徹夜で見張り、船員も上陸はしないで船に留まる事になっていると
連絡してきた。野村は拍子抜けした顔で電話を切ると、ますます北朝鮮のやろうと
している事が分からなかった。
「野村さん、あれはどうなっているんですか」小林が潜水艇らしい物の事を聞いた。
「すでに捕捉していて、舞鶴の海上自衛隊から護衛艦と潜水艦が現場に向かってい
る。浮上を促して浮上しなければ撃沈の命令が出ている。多分浮上はしないだろう。
彼らは何のために死ぬと分かっていて来たんだろうか」野村はみすみす死ぬと分か
っていながら、国のためとはいえ理不尽な命令のように思えた。

北の指導者たちは、兵隊の命など紙くず同然くらいにしか思っていないのだろう。
瑞希がトイレに、と言って席を外した。ソファーに置いていた瑞希の携帯電話のメ
ロディが鳴った。みんなは顔を見合わせたが他の者が出る訳にはいかない。
「お嬢さん、電話が鳴っていましたが」戻って来た瑞希に佐伯が声を掛けた。瑞希
が携帯電話を取り上げた時屋敷の電話が鳴った。
「お嬢様、小池貞夫という方からお電話が掛かっていますが」お手伝いの瑠美が顔
を出して瑞希に告げた。瑞希はリビングに回すように言って受話器を取った。
「兄(あん)ちゃん、こんな時間にどうしたん」瑞希は笑いながら話しかけた。話し
ながら瑞希の表情が変わったのを野村と小林は見逃さなかった。



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