落日・第二章  後編




包囲網−3回



野村と小林、工藤、佐伯は電話で話している瑞希の口からアハマドという言葉を聞
いて顔を見合わせた。ちょっと待っててや、と電話を保留にしてリビングを飛び出
し、2、3分で戻って来た時は手に地図が握られ、テーブルに広げてみんなを呼ん
だ。瑞希が地図を広げるとみんなが覗き込んだ。六甲山のガイドブックの地図だ。
瑞希が電話に呼びかけると話を聞きながら地図をなぞった。六甲ケーブル駅から左
に少し行った別荘やね。名前はフォート・ジョーンズやね。瑞希が復唱する言葉に
野村たちは地図で位置を確認した。瑞希も少し興奮した様子で電話を切った。
「野村さん、小林さん、アハマドを見つけたで」瑞希が地図の一点を指差すと野村
と小林が頷いた。
「どうします。直ぐに突入しますか?準備は出来ていますが」小林が興奮気味に野
村を見た。
「先ず確認が先やろ。万が一人違いという場合も有るし」野村が言うと、瑞希も頷
いて森下に車を出すように言った。森下が車を用意している間に小林が誰かに電話
している。

瑞希と野村、小林、工藤の4人は森下の運転する四輪駆動車に乗り込んだ。森下は
宝塚から六甲山への道に入り、カーブが続く上り坂を巧みなハンドル捌きで駆け抜
けた。六甲山上の道路に出ると対向車に注意しながらゆっくり走った。六甲ケーブ
ルの山上駅前をゆっくり走り、地図の位置を確認しながら聞いていた別荘を探した。
その間小林は携帯電話で誰かと連絡を続けている。六甲ケーブル山上駅を少し過ぎ
た所に、フォート・ジョーンズという名前の別荘を見つけた。そのままゆっくり通
り過ぎて車を止めた。別荘には明かりが点いていて住人は居るようだ。
「ここからでは別荘の中は見えないしアハマドかどうか確認出来ないなぁ。何か良
い手はないものか・・」小林がポツンと呟いた。さっき前を通った時、門は閉ざさ
れていて中の様子は分からない。暫くすると2台の車が瑞希たちの前に止まった。
小林が降りて前の車の人物と話をすると戻って来た。

「帰りましょうか。彼らに見張らせます。彼らだけでは人数的に足りませんが彼ら
にも協力する人物は居ますから見逃す事はないでしょう。先ずアハマドで有る事を
確認する事。この別荘の持ち主の身元調査も必要でしょう。一味なのか、単に頼ま
れているだけなのかによって彼らの処遇も変わって来ますから」小林の言葉に野村
が頷いた。
「小林さん、彼らに会うわけにはいきませんか?」瑞希が聞いた。小林は驚いて瑞
希に振り向き、少し考えると頷いて車を降りた。瑞希も降りると小林と一緒に前の
車に向かった。2台の車には2人ずつ乗っていて、1台には男が2人、もう1台に
は男と女が乗っていた。小林が小声で話すと4人が車から降りて瑞希の方に来た。
瑞希は4人を見ながら以外に若いのに驚いた。女の人は瑞希と同じくらいか少し若
く見える。3人の男たちも30代前後だろうが一見普通のサラリーマンに見える。

特務機関の陰の協力者という事で、工藤みたいな屈強な人物を想像していたからだ。
4人は笑いながら手を出し、自己紹介しながら瑞希の手を握りしめた。瑞希も名前
を言って彼らの手を握りしめた。見た目は普通のサラリーマン風に見えたが、瑞希
の手を握りしめた彼らの手には並々ならぬ決意が感じ取れる。
「お噂は聞いています。よろしくお願いします」高野と名乗った男が微笑んだ。瑞
希もよろしく、と微笑むと、後はよろしく頼みますと言って小林を誘った。小林と
一緒に歩きながら別荘を見渡せそうな場所を探した。別荘の裏手の方の道を見て回
った。道路から細い道を小さなペンライトの灯かりを頼りに登った。
ここからなら別荘が良く見え、別荘までは200メートルくらいの距離だ。バッグ
から小型の双眼鏡を出して覗いたが、灯かりは点いて窓のカーテンは開いているが、
部屋に人影は見えない。来た道を戻り、車に戻ると森下が車を出した。

六甲山から宝塚に戻りながら野村が誰かに電話を掛けている。話の内容から防衛省
の誰かと話しているようだが、うん、うん、と言うだけで話の内容までは分からな
い。11時過ぎに屋敷に戻ると野村と小林は彼らの車で帰った。瑞希と工藤がリビ
ングに入ると浩貴が帰っていて奈緒子や圭爺たちと話していた。みんなを見て工藤
がおやすみなさいと挨拶して下がった。瑞希は佐伯にコーヒーを頼み、浩貴たちの
話の輪に入った。
日付が変わった頃、海上自衛隊舞鶴基地を出航していた護衛艦と潜水艦は、東尋坊
沖120キロ地点で北朝鮮の潜水艇と思われる艦影を捕捉していた。何度か浮上を
促す無線やモールス信号を送ったが、潜水艇は返信する事も無くゆっくりと南下を
続けた。威嚇の爆雷を投下したがそれでも浮上する事はなかった。護衛艦の艦長は
防衛省に連絡して攻撃の指示を待った。

潜水艦も潜水艇の後方500メートルを維持して追跡している。防衛大臣は総理の
大山や幕僚長と首相官邸で協議していた。協議は時間掛けて行われたが、領海侵犯
は明白で浮上の警告も無視し続ける潜水艇に対し、大山は自国を守るという大義名
分で潜水艇撃沈の判断を下した。総理の決断を受けて防衛大臣は直ちに護衛艦と潜
水艦に対し攻撃命令を下した。
午前2時48分、潜水艦から発射された魚雷は潜水艇に命中し、潜水艇はそのまま
海底深く沈んでいった。総理官邸で潜水艇撃沈の報告を受けた大山の顔には、苦渋
の決断を下した苦悩の色が滲んでいた。

          *

火曜日の午後1時過ぎに瑞希の携帯電話が鳴った。
「ミズキ、アハマドの潜伏先が分かったよ」瑞希が電話に出るとアブドールの弾ん
だ声が聞こえた。
「六甲山のフォート・ジョーンズという別荘やろ?」瑞希は浪花連合会の3人が見
つけてくれた別荘の名前を口に出した。
「違う、ミズキ、それはアハマドじゃないぞ。我々ももう少しで騙されるところだ
ったんだ。彼はアハマドとは全然関係なくて、フォート・ジョーンズという神戸で
貿易会社を経営している人物の友人で、1週間前にアメリカから来日したヨルダン
人で単なる旅行者だよ。ヨルダン人という同じアラブ系だから我々も勘違いしてい
た。ミズキ、アハマドは西宮のヨットハーバーに停泊している『Blue Sea』という
船に隠れている。ミズキ、フォート・ジョーンズと一緒にいるのは別人だぞ。西宮
のヨットハーバーに隠れているのがアハマドだ。『Blue Sea』というクルーザーだ
よ」瑞希はアブドールの言葉を聞きながら頭の中が真っ白になった。

アブドールからの電話を切ると大急ぎで小林に電話を掛けた。
「小林さん、六甲は人違いや。フォート・ジョーンズの別荘にいるのは別人やで。
アハマドは西宮のヨットハーバーに停泊している船に潜んでいる」瑞希は小林に話
しながら、あの日、強行突入しなくて良かったと思った。野村の、先ず確認が先だ
と言った言葉に感謝した。瑞希からの電話を受けた小林は大急ぎで別荘を見張って
いる高野に電話を掛け、西宮のヨットハーバーに行くよう指示した。野村も小林か
ら話を聞いて驚いたが、瑞希の早い連絡と小林の的確な指示に感謝した。
野村は昨日防衛省からの連絡を受け潜水艇を撃沈した事を知らされていた。今のと
ころ北朝鮮の動きは見られず、アハマドだけに全力を注ぐ態勢になっていた。
「小林さん、西宮に行ってみようか」野村が言って地理に詳しい大阪府警の刑事が
案内に付いて西宮に向かった。阪神高速から湾岸線に入り、西宮浜のインターで降
りるとヨットハーバーは直ぐだ。

直接桟橋に入らず遠くから地形を確認した。モーターボートやヨット、小型のクル
ーザーが停泊しているが、あの中の何処かにアハマドが潜んでいると思うと、全署
員を総動員して今直ぐにでも突入したいという思いに駆られた。だが、周りには大
勢の市民がマリンスポーツを楽しんでいる。ここで銃撃戦が起きれば市民を巻き込
む可能性が大きい。野村は極秘裏にアハマドを消し去る方法はないものかとヨット
ハーバーを観察した。
小林の電話が鳴って協力者から配置に着いた事を連絡して来た。小林が周りを見渡
したがそれらしい人物や人影は見当たらなかった。
瑞希は副社長の石田の部屋を訪ねた。
「お嬢様、お呼びになれば伺いましたのに」石田は驚いたような顔でソファーを勧
めた。
「石田、うちとの取引先や下請けに西宮のヨットハーバーにヨットかボートなんか
を持ってる人は居てないかなぁ」瑞希が笑いながら聞いた。

「西宮ですか。ボートかヨットを持っている人・・・・ちょっと待って下さいよ」
石田は心当たりでもあるのか、受話器を取り上げると何処かに電話している。掛け
たり切ったりしながら数回目に石田の顔が安堵の色を見せた。
「お嬢様、西宮のサカエ建設の社長がレジャーボートを持っていて、西宮のヨット
ハーバーを借りているそうです。平日は乗らないからよければ使ってもいいそうで
すが」石田が受話器をもったまま瑞希を見た。
「うちは操縦免許を持ってないで」瑞希が苦笑いすると石田が電話で話した。
「社長の娘が案内するそうですが」再び石田が瑞希を見た。瑞希が頷くと少し話し
て受話器を下ろした。
「サカエ建設の社長で麻田弘道で娘の名前は弘枝というそうです。これが娘の携帯
の番号です。30分前に電話すれば間に合うそうです」石田はメモ帳を瑞希に渡し
ながら話した。

翌日、瑞希は会社には行かずに直接西宮のヨットハーバーに向かった。9時少し過
ぎに聞いていた番号に電話を掛け、10時にヨットハーバーの入り口で待ち合わせ
した。
西宮北口からタクシーで行くと、ヨットハーバーの入り口に25、6くらいの女性
が待っていた。電話で聞いていた通りジーンズに紺色のパーカー着ている。
「一之宮です。今日はわざわざすいません」瑞希がタクシーを降りて女性に話しか
けた。
「麻田弘枝といいます。何時も父がお世話になっています。何時も父の釣りの相手
ばかりでうんざりしていたんです。今日は久しぶりにリフレッシュできそうです」
弘枝と名乗った女が笑いながら手を出した。瑞希も笑いながら女の手を握った。弘
枝の案内でヨットハーバーの桟橋を歩きながら船の名前を探した。小型のモーター
ボートやヨットが多く、クルーザー船は小型を含めて6隻停泊している。瑞希は桟
橋の奥の方に停泊している中型のクルーザーにBlue Seaという名前を見つけた。

弘枝のモーターボートは2つ手前の桟橋に停泊していた。弘枝がエンジンを掛けて
離岸するとゆっくり防波堤から外に出た。平日だというのにヨットが何艘か帆に風
を受けて水面を滑っている。
「父は先代の社長に随分可愛がってもらったそうです。4年前に亡くなられた時、
父もショックで暫く寝込んでいました。その後も副社長の石田様にも先代同様良く
してもらっています。これからもよろしくお願いします」弘枝はハンドルを握った
まま瑞希に微笑んだ。
「浩貴も私も去年の4月に就任したばかりやから分からない事ばかりで。何か有っ
たら何時でも言って来てね。女同士、仲良くやっていきましょう」瑞希も弘枝に微
笑み返すと、ありがとうございますと嬉しそうな笑顔を見せた。

1時間ほど走ってヨットハーバーに戻って来た時、Blue Seaというクルーザーのデ
ッキに人影が見えた。遠目で分かりにくいが、髭を生やしているところからアハマ
ドかも知れないと思ったが、弘枝の前で双眼鏡を覗けば不審がられる気がして控え
た。
「クルーザーなんかも有るんだね」桟橋に接岸してボートを降りると、珍しい物で
も見るような顔でクルーザーに近づいた。弘枝も笑いながら一緒に見て回った。
Blue Seaのデッキにいる人物はキャビンの陰で見難かったが、瑞希と弘枝の笑い声
に振り向いた顔はアハマドに間違いないと確信した。小林の話では、協力者はすで
に六甲からこのヨットハーバーに監視を移したと言っていたが、それらしい人物は
見当たらなかった。瑞希と弘枝はヨットハーバーを出ると、弘枝の車で阪急電車の
西宮北口まで送ってもらった。



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