『吾眠は猫である』その2



『吾眠ハ猫デアル』
  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その2  人間語翻訳:BUTAPENN

 墓場だと思っていた場所(実際にはそれは駐車場だった)を命からがら逃げ出した吾輩は、通りに出て、またもや八万八千八百八十本の毛髪を一度に逆立てることになった。
 川に似ている。水がない川である。その上を墓石がけたたましい音を立てて往来している。
 中洲には樹木が植わり、その中州より手前の墓石は右から左へ、中洲より向こうの墓石は左から右へと整然と走り、しかも、その走る速度の猛烈さたるや、隅にへばりついて見ている吾輩の髭をぶるぶると震わすほどなのだ。
 その時分には、吾輩もようやくそれが墓石ではなく、車輪のある自動車であることに気づいた。正面からばかり見ていたから、今までわからなかったのだ。
 先ほども言ったように、我輩はかの金満家の屋敷で輸入自動車を見たことがある。そもそも四輪自動車は明治31年に初めて日本で外国車が試走、吾輩が生まれた年に国産第一号が誕生している。しかし馬のない馬車といった風情だったあれに比べて、なんとも奇妙な形をしているではないか。時には家一軒まるごと移動しているような大きさのものもある。
 唖然として観察していると、通りの縁を、がやがやと若い人間たちが一団となって通り過ぎていった。吾輩はまた目を疑った。
 その人間たちの毛髪が茶色や黄色なのである。黒もいるにはいるが、ごく少数だ。
 おまけに、着物を着ている者はひとりもいない。すべて西洋式の洋服だ。女も髷を結わずに洗い髪のままである。
 さらに言うならば、みな驚くほどひょろ高く、しかも足が長い。まるで竹馬に乗っているようだ。それに比べれば、吾輩の家の主人や細君や下女のおさん、主人の友人の寒月、迷亭先生たちなどは、胴から屏風の台が生えているようなものだ。
 吾輩はそれらのなつかしい人間の顔を思い浮かべて、ちょっと悲しくなった。
 ここが吾輩の家から、二度と戻れぬほど遠く離れた場所であるのは、もう間違いない。吾輩は甕の中で溺れたと見えて、実は甕の底から地面を突き抜けて、地球の裏側に出てしまったのではあるまいか。ここは異国なのだ。そう考えれば、この人間たちの風体も合点がいく。
 しかし、それでは妙だ。この人間たちは、風体は異国人でも、口から出ることばはどれもこれも国語に相違ないのである。多少早口で甘ったるい発音だが、理解できる。そう思って見れば、顔ものっぺりとして西洋人には見えぬ。
 それならば、ここは本当に日本なのか。吾輩のうちにむくむくと学者の家に寄寓する猫としての好奇心が頭をもたげてきた。
 そこで、こっそりとその人間たちの後をつけることにした。

 やがて、地面の一角が、白黒の縞模様になった場所に来た。人間たちが立ち止まって待っていると、ほどなく車が次々とその前でうやうやしく止まるではないか。そして、吾輩が地面から三寸くらい飛び上がったことには、どこからか「通りゃんせ」のわらべうたが聞こえてくるのだ。誰かが隠れて笛でも鳴らしているのだろうか。人間の一団はその中を悠々と通っていく。
 わかった。これは大名行列に違いない。笛や太鼓の囃子の中を、大名一行を通すために、車は止まっているのだ。そうすると、ここは旧幕時代か。吾輩は過去に来てしまったのか。
 いや、それはいかにも可笑しい。江戸の世には、こんな車はなかったはず。
 不思議だ。何もかもが解せない。
 ぼんやりと考え込んでいた吾輩は、ふと我に帰り、あわててあの人間たちを追いかけようとして、もう少しで、走り出した車にぺしゃんこにされるところだった。
 しくじった。遅れをとってしまった。
 地団駄踏んでいると、また新しい人間たちがやってくる。しばらくすると車が止まり、人が渡りだす。今度は対岸からも人がやってくる。吾輩もおっかなびっくり渡ろうとすると、また車に轢かれそうになる。
 何回かそんなことを繰り返して、ようやく規則らしきものが見えてきた。
 正面に二種類の奇妙な絵図があって、それが緑の絵図になったとき、車は止まり人が往来する。
 赤い絵図に変わったとき、車は走り出し、今度は人が止まる。
 この赤緑の絵図が、それぞれに指示を出しているに相違ない。吾輩はその法則を発見して、風呂から素っ裸で飛び出たという希臘の哲学者のごとく有頂天になった。
 こんなことは、車屋の黒や他の凡庸な猫にわかるはずはなく、ましてや遠近無差別黒白平等の水彩画程度にしか物が見えないという犬などに理解できる道理もない。
 この赤緑絵図は、通る者の進化を試す試験を与える役目を負っているに相違ない。
 そして、吾輩はその試験に合格したのだ。
 いささか迷う気持ちもあった。ここを渡って行けば、あの駐車場からどんどん遠く離れてしまう。それは、元いた主人の家に戻る道を絶ってしまうことを意味する。
 しかし、こうも思った。
 行きたいところへ行き、見たいものを見、聞きたい話を聞くのが、猫の本分である。ここで怖気づいて、珍しいものを見聞できぬのは、猫たるものの恥ではないか。
 そう決意して、吾輩は髭をぴんと立てた。
 そして、空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、尻尾を振って縞模様の道を渡っていくのであった。