『吾眠は猫である』その3



『吾眠ハ猫デアル』
  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その3  人間語翻訳:とっと

 はてさて、今の状況をいかが説明するべきか。
 歩けども、歩けども、見る物は人間の足、足、足。その傍らを墓石改め、四輪自動車が信じられないほどの速度で走り抜けてゆくばかり。所変われば人変わると言うが、変わるのは人間ばかりではないらしい。人間も自動車も、吾輩の知っているそれとは大きく容姿を変えてはいるが、なにより不可思議なのはそれ以外のものをまったく見かけぬ。猫はおろか、人間の忠実な僕である犬すらも見かけぬ。この世はあの獰悪な人間に支配され、その他の種は淘汰されてしまったのだろうか?
 吾輩は歩きながらそう考え、何度も首をひねったが、それにはどうにも合点がいかぬ。あの墓石ならぬ自動車のたまり場でたしかに人間は吾輩のことを『バカネコ』と呼んだ。つまりは猫というものがまだ認知されている所為である。猫と言うものがこの世界に存在しているのであれば、何故出会わぬのだろう?
 同輩に会わぬこと以上に困惑するのがあたりの様子である。ここらの土は真っ黒でしかも硬い。細かな石ころが敷きつめられているだけなのに、それがまるで糊ででも貼り付けたかの様に礫のひとつもびくともせぬ。歩きにくいというほどでもないが、なんとも気持ち悪い。さらには周囲の塀も皆、見たこともないようなものばかり。塀と言えば木と相場が決まっておるものだとばかり思っていたが、ここらには木の塀など見当たらぬ。目が覚めてから何度も思うことではあるが、本当に異国の地にでも迷い込んだ気分である。なれ親しんだ景色が見えぬというのがかようにも心細いものとは……。

 さらに暫く歩き続けると道を遮る白い塀の向こうにこんもりと繁る森を見つけた。
 あぁ、助かった。
 そこがまるで故郷でもあるかのように感じる。こんなところには一刻もおれぬと駆け出した吾輩に黒い影がかぶさる。ハッとして足を止めた吾輩に向かい、これまで聞いたことも無いような獰猛な金切り声をあげて例の四輪自動車が目の前に迫った。まったくもって人間の僕に過ぎないあの犬でさえあのように恐ろしげな声をあげることはあるまい。ここだけの話、吾輩は瞬間、喰われる! と思った。後から考えれば自動車が猫を喰らうというのはとんと馬鹿げた話ではあるが、そのときはそれほどに恐ろしい心地がしたのだ。どうせ一度は死んだと思ったこの身、なにを怖がる事があろうか等とは到底思えぬ。あぁ、今度こそ本当にお陀仏か……。
 ところが吾輩はよくよく悪運が強いのか、その獰猛なる四輪自動車は大きくその体をうねらせると、まるで吾輩の存在を無視するかのように彼方へと走り去ってしまった。

 久しぶりの土の感触が心地よく、吾輩は大きく伸びをした。久しぶりと言うのも変な感じがするが、最後に土を踏んでからどのくらいの時間が経っているのかかいもく見当がつかぬ。ただ感覚的に久しぶりと感じたので、やっぱり久しぶりなのであろう。
 森の中にようようたどり着いて初めて心持ちを落ち着けることができた気がする。ここら辺り――ここがどこなのかは皆目検討もつかぬのだが――は土埃こそないものの、吾輩が以前いた所に比べて格段に空気が悪い。これまでは吾輩も混乱して気がつかなかったが、森の中に入ってみて初めてそれに気がついた。奥に社殿のようなものが見えるので、神社・仏閣のたぐいなのではあるまいか。それで空気が住んでいるのかも知れぬ。どのみち吾輩の知っているそれとは比べるべきもないが、それでもここは外よりも幾分ましであった。同輩達が一向に姿を見せぬのも、あの空気を嫌ってのことなのかも知れぬ。さすればこの森の中でならば一匹や二匹は見つかるのではないだろうか? さすればここがどこなのかわかるやも知れぬ。
 淡い期待ではあるが、今はそれにすがるしかあるまい。吾輩はそう考えた。――そう考えたが、見知らぬ場所に放り出されたことに思いの外気疲れをしたようだ。もはやヘトヘトという他なく、動くことは一歩もままならぬ。落ち着ける場所を見つけたと言うことがこれまでの緊張を一気にゆるめてしまった所為であろう。とりあえずは一休み。しかし目を覚ましたらここらの大将を探さねばなるまい。ひょっとしたらここが当面のねぐらとなるやも知れぬのだから。