『吾眠は猫である』その4



『吾眠ハ猫デアル』
  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その4  人間語翻訳:mura


 自分で思っていた以上に疲労していたのであろうか。吾輩は社殿の下の雨露の凌げるあたりに潜り込むと、まさに泥のように眠ってしまったのである。あのような深い眠りは初めてというほどの、底なしの眠りであった。
 その眠りを覚ましたのは、恐ろしいまでに悪意の篭ったうなり声と、胴体に与えられたドスンという衝撃だった。吾輩は慌てて飛び起きた。夜はとっくの昔に明けたようだったが、吾輩のいる社殿の床下は真っ暗だった。
 その暗闇の中、赤く丸く光るものが幾つも動き回っている。猫の瞳だというのは、吾輩にもすぐにわかった。これこそが吾輩が目覚めたら探そうと思っていた”仲間”たちだ。何やら怒っているようにも見えるが、そこはそれ猫同士のこと、話せば解るに違いない。
「えー、ちとものをお尋ね申すが」
 吾輩は丁寧に話し掛けた。礼儀正しいのである。
「こちら様の大将殿にご挨拶を申し上げたい。どなたかご案内を……」
 返事は暗闇から勢いよく繰り出された前脚だった。危ういところで頭を引いたので鼻先を少し引っ掛けられただけで済んだが、下手をすると目をやられていたかもしれぬ。
 これは拙いことになったわい、と吾輩も感じていた。人間の家庭で飼われるうち、感覚が少々ずれていたらしい。猫の野生の中で一番重い”縄張り意識”というものを吾輩は甘く見ていたのだ。
 怯んだ吾輩の尻に、別な猫が噛み付いた。吾輩、思わず、ぎゃあ、と悲鳴をあげた。吾輩は思考するを得意とする猫であって、喧嘩は苦手、ご免蒙りたい。
 三十六計逃げるに如かず、とばかり吾輩は遁走を試みた。この森は危険すぎる、脱出しなければならぬ。が、ここでも知性派と武闘派の差が歴然、怒り狂って追いかけてきた野生の猫たちに、森の出口あたりであっさり追いつかれてしまったのだ。やられる、野生の猫たちにずたずたに引き裂かれて今度こそ一巻の終わりである。
 溺死したはずが不思議の力でこの世界に転生し、あの恐ろしい”走る墓”車からも逃げ切れたというのに、まさか同胞たちの手にかかって果てるとは。そんなことを思いながら目をきつく閉じ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱える。が、今回はあの時と違って、とてもじゃないが、ありがたいありがたいという気にはなれぬ。
 そのときである。
「こらあ。喧嘩するんだったらあげないよー」
と言う、うら若き乙女と思しき声が響いた。地に伏し仏の名を唱えていた吾輩は、そろりと片目を開けてみた。吾輩を今まさに引き裂かんとしていた野生の猫たちは皆、同じ方向を見つめ、耳をピンと立てている。そして次の瞬間には、彼らは一目散に同じ方向に向かって走り出していた。
 何が起こったのであろうか。吾輩はこっそりと彼らの後を追った。すると、若い娘が、森に隣接する雑草だらけの空き地で、紙袋から何やら土くれのようなものを地面に撒いている最中で、猫たちは遠巻きにしてそわそわとそれを見守っているのだった。吾輩、初見では土くれと見たが、風下であるこちらに、食欲を刺激する良いにおいが漂ってきた。娘が猫たちの方に顔を向けながらそろそろと後ずさりを始めるや、みな、わっとばかりその土くれに駆け寄り、がつがつと食しだした。やはり食べ物だったらしい。
 強烈に空腹を意識したが、その群れに加われば先ほどの仕打ちが繰り返されることは目に見えている。吾輩は彼らを遠回りして避け、娘の方を追うことにした。
 娘は空き地を出、大通りをだらだらとしまりのない歩き方で歩いていた。やはり以前吾輩がいた世界の女たちとは随分様子が違って見える。まず何と言っても着物が短い。短すぎる。おまけに膝からくるぶしまでを、奇妙なぶわぶわした白いものが覆っている。そしてこの娘も髪の色が黒ではなく黄色がかった茶色だった。
 娘はぺたんこの黒い鞄を振り回しながら、
「チョーかったりー。ガッコばっくれよっかなー」
と、ひとりごちた。
 吾輩は悩んだ。今のは果たして日本語だったのであろうか。辛うじて聞き取れたのは”学校”に近い発音だった。あとは腸がどうしたとか。
 更に彼女の口元から白く丸いものがぷぅーっと膨らみながら出現したときには、心底魂消た。おまけに吾輩の存在に気付いた彼女が「ん?」とこっちを向いたとたんそれがパチンと弾けたので、吾輩は思わず背中の毛を逆立て、飛び上がった。
「あれぇー? アンタ新顔? 喰いっぱぐれたん?」
 娘は口の中で何かをクチャクチャ言わせながら、吾輩の傍でしゃがんだ。手を差し出されてまた驚いた。突き刺さりそうな長い爪に、花が咲いている。恐る恐るにおいを嗅いでみた。花の匂いはしないが、厭な感じではない、柔らかな匂いを彼女は発していた。
「やっぱおなかすいてるんだぁ? 待ってな、そこのコンビニでネコ缶でも買って来てやるから」
と、吾輩の頭をクシャクシャと撫でた。
 コンビニというのは朝から晩まで人間相手にいろいろな物を売る場所で、ネコ缶というのは丸い金属の容器の中に猫が好みそうな食品を詰め込んだものであると、このとき知った。吾輩はコンビニの駐車場の片隅で、そのネコ缶の中身を恥ずかしいほどの勢いで貪り食った。こんな美味しいものがこの世にあったとは。そんな吾輩を娘はしゃがんだ膝の上で頬杖をつき、笑みを浮かべ見守っている。
 ネコ缶を食べ終え、盛んに舌なめずりしている吾輩を、娘はひょいと抱き上げ、
「ネコはいいよなー。あーガッコ行きたくねー」
と、たまらなく淋しげに呟いた。
 そんな呟きを漏らすこの娘も、先の主人やその友人たちと同じく、呑気に見えて心の底を叩いて見ると悲しい音がしそうに思えた。少々日本語が変でも服装が珍妙でも、人間というものは、その辺は今も昔も変わりはないらしい。
 この娘には危ないところを救われ、空腹をも満たして貰った。吾輩は彼女に借りがある。しばらくはこの娘に付き合い、必ずや恩義に報いたいと思う。
 吾輩は義理堅い猫である。