吾眠は猫である:その5



 『吾眠ハ猫デアル』

  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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 その5 人語翻訳:文字ゲリラ


 吾輩が娘について行こうとすると、娘は振り返って言う
「あんた、まだお腹すいてんの?」
ここでニャーと答えては肯定に取られかねないから、あくびをして食べ物に無関心な様子をみせた。それを見て安心したのか娘は
「なーんだ」
と言って歩き出した。足取りは重そうだ。気になってついて行く。すると、また振り返って
「こっから先は危ないから来ちゃ駄目よ」
 危ない? 何が? どのように?
 理由は分からぬが、この恩人が危ないというから危ないのだろう。だが、吾輩は考えた。ここに残ってもあの野良猫たちに見つかったら同じではないか。どうせ危ないなら、娘について行くべきだ。しかし、その一方で、娘を心配させては恩を仇で返す事になる。そうだ、ちょっと距離を置いてついて行けば良い。
 2分も歩かないうちに彼女の服から音楽がなった。しかも、何だか弦を鳴らす音である。これには驚いた。俗謡に使われる弦音楽と言えば同族の皮を使った三味線とかいう楽器で奏でるものに決まっている。もちろん、その手の音楽が至る所から鳴るのは昨日から何度も経験しているので…交差点で、店の前で、道行く雑踏から、あるいは遥か彼方のゴーゴーする音のするあたりから…今更恐れるには値しないが、そんな危険な音楽が、先程猫たちに食事を与え、この吾輩にすら恩恵を施し、更には危険を警告してくれた、この恩人から聞こえてくるとは、まさに人を見たら猫食いの書生と思えという格言の通りである。
 だが、驚きと同時に奇妙な感じもした。というのも、こんな危険な楽器を持ち歩いている癖に、彼女への親近感が失せなかったからである。彼女への親近感は、その他の人間への警戒の裏返しである。それほどに昨日の雑踏には人間味が感じられなかった。皆が皆、せかせかと歩いていたのである。しかも、仮面でもかぶったようなぶすっとした表情で。これでは機械じかけのおもちゃと変わり無い。大平の逸民の集う中学教師の家では考えられない没個性ぶりだ。
 その逸民たちの話によれば…山羊髭の独仙君だったか主人だったか忘れてしまったが…人情と表情を失うのは文明の行き着く先だそうである。この事実に昨日の雑踏で気付いたからこそ、今が未来であると推定し、その推定に基づいて今朝は行動しているのだ。しかし、それにしても、不思議な事が余りにも多い。娘の服から鳴り出した音楽にしてもそうだ。
 どういう仕掛けになっているものかと思ってじっと見ていると、娘は小さな鰹節のようなものを取り出してそれを耳に当てた。昨日、雑踏のオッサンたちがやっていたのと同じだ。昨日は小型の三味線に見えたが、今は小型の鰹節に見える。鰹節と三味線とは雲泥の差がある。もっとも、持ち主が違うと、同じものも異なって見えるのは、別にこれに限らない。刀は鍛冶が持ては伝統を感じるが、博打打ちが持つと危なっかしい。税金の本は代議士が持つと胡散臭いが、教師が持つと物悲しい。小判は貧乏人が持つと有難いが、吾輩が持っても全く意味が無い。同じ論理で、彼女の持っているモノは吾輩には危険ではなかろう。
 仕掛けは分からないが、話をしている所をみると、電話の仲間らしい。横町の金満家の家で見たやつとは似ても似つかぬ。吾輩の知識によれば、電話とは電話室なる特別な空間に鎮座すべきものである。そうして、ジルジルとかリリーンとか言った人を驚かすような警報をたて、その警報を受けて受話器を耳にあてるべきものである。しかるに、昨日以来見てきた電話は、公衆空間に存在し、音楽を鳴らし、その音楽に応じて、なんと半数の人間が電話と睨めっこをする。今は未来であるから、技術の進歩ごときには吾輩は驚かないが、それ以外のものの変化は唖然とせざるを得ない。なんだか、外国よりも遠い、そう月か火星あたりに飛んでしまったような感じすらする。
 そうこう考えるうちに恩人の話声が聞こえて来る。猫の聴力に聞こえないものはない。
「あー、小春」
さっきまでの声とは違う猫なで声だ。若い娘が声色を使い分けるのは、恩人に始まった訳では無い。あの、金田の娘なぞ、2秒で夜叉声と菩薩と使い分けておった。
「えーっ! うっそー」
今度は全然違う歓喜の声。その間、確かに2秒だ。
「ふんふん、学祭ねえ」
またしても声色が変わる。さすがに娘だ。
「へえ、小春は送籍大の人と知り合いなの?」
小春というのは恩人の友だちらしい。
「飯倉? そんなダチ、いないわよー」
ダチとは友だちの事だろう。
「で、何やんの?」
ははあ、頼まれ事と見える。
「いやーよ。そりゃ、あたし猫好きだけどさあ」
そうだろう、そうだろう、そうでなければ恩人にはなるまい。
「それってほんとに主役? 嘘じゃ無いの?」
ニャーって言って驚きたいのはこっちのほうだ。恩人が主役を? さすが我が恩人である。偉い娘なのだ。
「しゃあないわあ、あたし、ほんとはそんなんイヤなんよ……分かった、放課後ね」
電話を服に戻した娘は、イヤと言った割には明るそうな表情だ。少なくともさっきまでの寂しさは無い。恩人が嬉しそうな顔をしていると吾輩も嬉しい。だが、一方で一抹の不安もある。かの中学教師の家で聞いたところによると、主役とは、越智東風先生の催す朗読会や水島寒月先生の俳劇の世界に登場する連中である。どうみても賢い役回りとは思えない。そういう役を彼女は引き受けるのであろうか。
 気がつくと、何時の間にか大きな門の前に来ている。恩人と同じ服を着た連中が次々に入っていくその門には『落雲館高等学校』と書いてある。落雲館と言えば、主人の家の隣の腕白坊主の根城である。吾輩の記憶に間違いがなければあれは中学校だった。そうして、その中学生のうち、もっともデキル奴が高等学校とかいう所に進学して、書生という世の中で最も危険な種族になるとか聞いておる。何がデキルのかは定かではないが、ともかく高等学校というのは吾輩にとって危険な場所である事には変わり無い。
 そう思って身構えるや、ほのかな甘い香りがしてきた。言わずと知れたマタタビの香りだ。痺れるように気持ち良い。ここは危険な場所なんだぞ、と我が身に言い聞かすが、この香りには逆らい難い。駄目だ、ここで誘惑に負けては高等学校の書生に食われて、皮は三味線になってしまう。三味線の猫捕りがマタタビを使うのは昔からのやり口だ。昨日から町中を埋め尽くしている弦の音で神経過敏になっているのかも知れぬが、用心に越した事は無い。そうとは分かっているものの、理性は吾輩に警告を発するものの、本能はついつい香りの元を捜す。

 かの危険な男の不細工な顔を吾輩は二度と忘れないであろう。マタタビの香りはその近くから発されているのである。こいつに捕まっては食われてしまう、三味線になってしまうと分かってはいても、マタタビが我が身を縛り付ける。誘惑に負けてそろりそろり近付いて行くと、別の野良猫がマタタビに近付いて行くのが見えた。そうして、その猫がマタタビにじゃれ始めるや、不細工な顔の男が隠しもった網でばっさりと猫を捕まえた。あの野郎め、と思った時には我が身にも危険が訪れていた。そうである、男は一人では無かったのだ。
 危険を察して慌てて逃げようとしたその刹那に、別の網が降り降ろされ、吾輩は髭の差で魔の網から逃れた。なるほど、恩人の警告の通りだ。ここは危険極まりない。振り返ると、3人目の男が網をもった吾輩を捕まえようとする。こうなれば、虎口に活を見い出すしかない。そう思って、一人目の不細工な顔の男に飛びかかった。こう見えても吾輩は明治の猫である。いくら仲間の猫に運動神経が劣るとはいえ、現代猫の比ではない。男の頭を飛び越えて、一目散に、近くに止まっていたトラックの上に登った。危険を感じるたら高い所に登る。降りる時の事は考えてはならない。これは猫の秘伝である。そして、今回もこの秘伝のお陰で猫狩りの難を逃れたのである。というのも、吾輩が登るやトラックが動きだしたからである。背後には保健所と書かれた車が残された。
 乗ってみて始めて気付いたのだが、このトラックと言うのは便利なものである。安全に何処にでも連れて行ってくれる。危険な野良猫に襲われる心配もなければ、猫捕りに追われる心配も無い。しかも、若干あたたかい。こりゃ、今後もちょくちょくお世話になろうかな、とそう思って道路を行き交うトラックを眺めると、時折猫の姿を描いたトラックが走っている。荷台が無いのが玉に傷だが、もぐり込む事は可能なように思える。猫のマークがあるほどだから、よもや猫を虐待はしないだろう。これは良いものを見つけた。そう喜んでいるうちに、やがて、吾輩を載せたトラックは『送籍大学』と書かれた門の中に入っていった。恩人が電話で話していた大学だ。
 大学と言えば書生の本拠地である。そんな危険な所に入り込んでしまった吾輩は不運の輪廻から抜けきれないでいるらしいが、同時に、あの恩人に再びあえるのでは無いかという期待がもたげて来た。恩人に何の恩返しも出来ずに逃げ出して残念に思っていたところなので、危険を承知で夕方まで恩人を待つ事にした。なあに、マタタビの誘惑に負けなければ大丈夫だろう。門を見下ろす位置に木を見つけて、その梢で寝る。昼寝をしない猫は猫ではない。

 目を覚ますと日は既に傾いている。寝そべったままで門を見張っていると、やがて恩人が2人連れ立ってやって来た。嬉しくなって飛び出しニャーと言う。
「あれ、今朝の猫にそっくり!」
ニャーニャーいってじゃれつく。
「まさか、ここまで2キロも離れているのよ」
そう言っているのは今朝の電話相手の小春だろう。
「そうね、でもどうしてこんなに人懐っこいのかなあ」
もちろん同じ吾輩であると知って欲しいからだ
「それは凛子が猫に似てるからよ」
恩人の名前は凛子っていうらしい。
「似てないってばあ」
 と、その時、不健康そうな顔をしたひょろ男がやってきた。こんな男が女にもてるとは思えないが、それでも小春に親しそうに手を上げる。暫く人間世界の退屈な儀式…挨拶と紹介…が続き、いよいよ本題に入る。
「まず脚本なんですが」
「文字なんてタルイ、ぶっつけ本番じゃ駄目?」
「へへへ、そうでしょうそうでしょう」
と男は愛想笑いをする。だが、よく見ればあの迷亭が主人をかつぐ時とおなじ表情だ。腹に一物あると見える。
 男は2人をオンボロ長家に連れて行き、そこの部室とか称する汚い部屋で機械の説明とかしている。なんでもビデオとかいうものだそうだ。その原理は分からないが、活動する写真のようなものらしい。先客がいて、これまた貧相な若者だったが、彼が飯倉という奴だそうだ。連中が説明を受けているスキに、男の書いたと思われる脚本をさがす。するとアルファベットと数字の並んだ板の上に立て掛けてあった。板の前に座って読む。

ーーーー 読者の皆さんは、ここで高橋京希さん作の外伝を御覧下さい ーーーー

 こういう役を恩人は好むであろうか? 吾輩には分からぬ。分からない時は傍観するに限ると思って、カメラの置いてある部屋に向き直った瞬間に、足元からカチカチと音がした。この時は分からなかったが、吾輩はパソコンのキーボートを叩いていたらしい。後ろを振り返ると、白い画面に書かれていた筈のさっきの文章が、こんどは赤い画面の中に入っている。吃驚した反動で、足が動いて、カチっと音がするや、今度は文字が一瞬に消えて真っ白な画面が残るのみとなった。これは魔法だ。恩人の劇どころではない。呆然としていると、さっきの男が駆け込んできた。
「コラーッ」
慌てて飛び下りる。男は吾輩に目もくれず画面を見ている。
「ええーっ、何だって、セイブされてる!」
気も狂いそうな姿だ。小春も入って来る。
「どうしたの」
「台本が消えてしまったよう、あの猫のせいで」
「バックアップは」
「とってない、うえーん。」
「ばーかみたい」
 歎く男を尻目に娘たちは飯倉という若者と一緒に帰ってしまった。吾輩もついて行きたかったが、飯倉という若者の目つきが危なそうだったので諦めた。下手について行ったら実験材料に使われ兼ねない。台本にもそう書いてあるではないか。
 危険な男たちを避けて、漸く外に出ると、そこには猫の絵を描いたトラックが泊まっていた。