『吾眠ハ猫デアル』 その6
『吾眠ハ猫デアル』
-- タイムスリップした漱石猫 --
原作(猫語): 書き猫知らず
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その6 人語翻訳:sleepdog
宵の刻を過ぎ、有象無象の影も朧に融け出した。吾輩はトラックの中の温かさを懐かしみ、沿道に腰を落ち着け、後ろの金戸が開くのを待ち侘びた。ガラガラと赤子をあやす電電太鼓のような音が寄って来る。帽子を被った若い男が大きな四角い緑色のつづらを押して小走りに現われた。緑のつづらにもトラックと同じ猫の絵がある。まさか吾輩の同胞達があのつづらに詰め込まれている筈はあるまいが、吾輩は一歩身を退き固唾を飲んだ。しかし、中身は空と見え、吾輩の杞憂であったと座り直した。
帽子の若い男は腰に提げた鍵を用い、金戸の錠前を外した。吾輩も薄墨の闇に混ざるように忍び足で中を窺う。隙あらばまたこの走る納屋の世話になり、未来の世の諸国漫遊と洒落込むのも悪くない。ここには吾輩の気侭な散歩に五月蝿く口を挟む主人もいない。それはそれで幾許か退屈でもあるが、時間旅行にはまたそれなりの趣があるものだ。男がつづらを畳む作業にもたつく合間に、吾輩は半開きの金戸の下を潜り、隅に丸まり出発を待った。
真っ暗な部屋に自動車の音が鳴り響く中、積み重なった荷物の向こうから何から会話が聞こえてきた。聞かずとも害も益もあるまいが、目蓋はあっても耳蓋はない。何かと鈍い太平の逸民はともかく、猫の耳の過敏さを思えば蓋くらい欲しいと願っても不思議はない。
「……国道××号線は事故のため渋滞しており……」
先ほどの若い男が舌打ちをした。しかし一方で、少し篭もった声の女は構わず喋り続けている。およそ意思疎通になっていないが、これもまた未来の一面なのであろうか。傍若無人たる女や、弁論する気配もない男の有り様には甚だ呆れるばかりである。吾輩は欠伸をして、むず痒い爪先を硬い床に擦りつけた。その瞬間である。
落雷か、鉄砲水か、はたまた喧嘩神輿が軒先を蹴殴る音か、凄まじい轟音とともに納屋の壁が揺れた。戦乱の古記に城門を丸木で打ち入る下りもあろうが、まさにその如き衝撃が襲いかかり、吾輩は山寺の坊主がついた鞠の猫より高く跳ね上がり、向かい側の壁に肩を打った。事態を察する間もなく、積み上がった荷物の一端が崩れ、吾輩めがけて落下してくる。舶来文字が書かれた箱(吾輩はさすがに外来語までは読めない)が頭上に迫り、僅か一分の隙間を残してそれをかわした。傷んだ肩を庇いつつ身を立て直すうちに、納屋の揺れは収まったようである。代わりに、散乱した荷物の奥に格子戸から男の喚き声が届いた。男が横の扉を開け、駆け寄ってくる足音が続く。女の声は同じ場所から一本調子で延々と続いていた。
金戸が開き、一陣の寒風が滑り込む。だが、それよりも刹那、ガス燈を間近に向けられたような苛烈な光が吾輩の目を射抜いた。男が荷物の惨状を見て呆気に取られている背後で、別の自動車からの白い光が放出されていた。
「うわっ、まじやべー!!」
男は慌てて駆け上がる。吾輩は踏まれまいと避けながら、その横をくぐり道へ下りた。後ろに停まった自動車から、吾輩の主人よりもやや年かさの男が顔を出す。年かさの男の乗った自動車はトラックよりも小さくて、屋根に提灯だか行燈だか黄色く光るものが載っている。未来でも太平の逸民が夜に頼るものは変わらないようだ。
「おい大丈夫か! 人でも轢いたか?」
年かさの男は野太い声でどやした。
「違います! 何か、そこの林から突然イノシシみたいのが――!」
「イノシシ? ここは山じゃねぇぞ」
「でも、でっかい動物の影が……――あっ!」
若い男が蒼白な面構えで向いた先に、確かに血生臭い獣の匂いがした。吾輩も毛という毛を張り詰めて、黒い輪の陰から様子を窺った。見える、赤黒い毛に覆われた爪だ。赤黒いのは指先だけで、海老茶色の滑らかな毛が屈強そうな四肢を覆い尽くしている。吾輩は見覚えのある足の形に一抹の猜疑心を向けつつ、そろそろと身を滑らせて自動車の横へと忍び出た。
確かに、仔牛か猪ほどもあろう獣が沿道に闊歩していた。大振りな錦蛇のごとき尾をぶらりと宙にはべらせ、血の鉄と泥の鉄とが混じった陰惨な匂いを発している。尖った耳と丸い背中と、醜く塞ぎこむような低い地鳴り声。ひゃあっ。若い男の叫び声で振り向いたその獣の面構えは、もはや疑うべくもなく吾輩と同類であった。
こいつは猫又である。かつて鎌倉の世に法師吉田兼好が綴った高名の雑文にも出てくるが、人里を離れ棲み人を喰らう猫を古来よりそう呼ぶらしい。猫が人に喰われることはあっても人を喰うなど微塵も信用ならなかったが、この眼前に聳え立つ猛虎のごとき同胞の悪態が現実のものと悟り、吾輩は戦慄した。猫が猫を喰うなどさらに言語道断であるが、この圧倒的な体躯の差を知れば、吾輩など鼠よりも容易くあの腹に収まってしまうのではなかろうか。
いや、その前にこの男が危ない。一刻の猶予もならぬのに、男は鼠より肝が小さいと見え、怯え切って身動き一つしないのだ。猫又にとっては格好の獲物である。吾輩がそう断ずるより先に猫又は疾風がごとく男に迫り、両手の鋭い爪を翳して飛び掛かった。
「バカ、しゃがんで――!!」
後方で女が叫んだ。若い声だった。男は咄嗟に、猟銃で撃たれた雉より悲愴な声を上げて身を縮めた。猫又の爪が空を切り、男の髪の毛先が千切れ舞う。その黒い塵の間隙を縫って赤い燕が一羽飛来し、猫又の鼻っ面を思い切り叩いた。猫又は目を瞑り顔を顰めて、横ざまに地面を駆ける。沿道に半端な円を描いて立ち止まり、鋭い眼光で燕の姿を追った。だが、燕など既にどこにもない。吾輩も見失ってしまった。
「事故って、こいつのせいなのね?」
先ほどの若い女が猫又を睨みつけていた。年かさの男が目を見張り、その横に女が仁王立ちしている。山の猟師の娘かと紛うほど豊潤な兎の毛皮を羽織り、黒塗りの薄衣を腿まで巻き、すらりとした首には純白の玉飾りという装いである。しかし、何よりも吾輩の虚を突いたのは、その女が玉虫色の眼鏡を掛けていることであった。明治の女は眼鏡など金満家の家人でもなければ到底持てない。そして、片足が何故か裸足だ。もう一方には赤い靴を履いている。もっともその靴も片歯しかない不恰好な下駄に見える。あれで機敏に歩けるとは思えない。
「お客さん――?」
横から年かさの男が問う。差し詰め、あの女は年かさの男の自動車に乗っていた淑女であろうか(淑女と呼ぶには肌の露出がきつ過ぎるが)。女は溜息をつき、玉虫色の眼鏡を額へとずらした。睫毛に黒い隈取りがされている。奇妙な靴といい、まさかサアカスの女ではなかろうか。
「ふざけんじゃないわよ。こっちは急いでんだから!」
猫又に向かって威嚇しているようだが、猫に人の言葉は通じた試しがない。まさか未来ではそれも進歩し日常化しているか、と息を飲んだが、猫又は威嚇し返すばかりだった。
「猫なら、人を見たらさっさと逃げなさいよ!」
女はそれに怯まず言い返した。しかし、それは乱暴な理屈である。猫又は弧を描くような構えでにじり寄り、足元に先ほどの赤い燕を見つけた。燕は地面の上で伸びていた。猫又に歯を立てられても何の抵抗も見せない。女が全身から発するきつい花の匂いのせいか、猫又は苦々しい顔を差し向け、燕を咥えたまま竹薮の中に逃げ込んだ。人喰いの猫又を一撃で退散するとは女の腕前は大したものである。だが、女は血相を変えて叫んだ。
「あっ、バカ猫! あたしのヒール持ってくなって!」
また馬鹿猫だ。猫の品位は未来では地に堕ちてしまうというのか。一方、当の女は一本足で唐傘のように跳び撥ねながら竹薮へ身を投じた。だが、猫又が竹薮の中に潜んでいないとも限らない。先ほど女は先手必勝で撃退したが、相手が待ち構えているなら命が危ない。吾輩なら猫同士で説得ができるだろうと意を固め、女の匂いの後を追った。
竹薮は入る者を五万の葉で酔わせ、羽虫の囁き声すら絡めとる夜の静寂に包まれていた。冬枯れに色を失った三千の筒が不惑を貫くように天を指し、葉の網を埋める闇に深く吸い込まれていく。この特異な風合いは未来でも何ひとつ変わっていない。吾輩は耳を張り、敢然と先を往く女の足音を拾った。ざわざわと風もなく竹薮が騒ぎ、常ならぬ気配を鳴り響かせる。
「いた!」
女の声と後ろ姿を吾輩は同時に捕らえた。その向こうに猫又の大きな影が揺れ、赤銅色の眼を見開いて女を的に据えた。靴を吐き捨て、爪を立てて地面を蹴る。危ない。このままでは靴を取り返すどころか、女がみすみす餌食になってしまう。吾輩は竹の葉を踏み鳴らしながら駆け寄った。待て!と諌める一声を発した。しかし、猫又は突進を止めなかった。あやつは既に猫ならぬ物の化となり果て、猫の理性を失念したのかもしれぬ。それなのに、女は微動だにしない。牛ほどの猫が迫り来るというのに。死を覚悟したか、はたまた豪胆な山の猟師の娘であるか。女は黒革の小さな手提げ鞄から何か取り出し、それを猫又の鼻先に差し向けた。
パァン!と風船が割れるような突拍子もない破裂音が轟いた。風船を膨らます間もなかったろうに。だが、その現に猫又は虚を衝かれてすこんとその場に立ち止まった。竹薮に住まう虫たちの囁きも消えた。当然吾輩もいま何をしようとしていたか忘れかけたほどだった。いったい何事かと女の手元を見れば、三角錐の派手な紙細工を持ち、七色の紐が幾本もそこから垂れていた。後に吾輩はとある喫茶店にて、この奇妙な紙細工がクラッカーと呼ぶ物であり、猫を騙すためではない本来の用途を知るのだが。
そして、女は愉しそうに笑い声を上げた。
「驚かせてごめんね。でも、その靴マルニだから高いのよ。さ、返してね」
しばし茫然と居竦む猫又を横目に、女はすたすたと藪を進んで捨てられた真っ赤な靴を拾おうと腰を屈めた。
「うそっ! よだれまみれじゃん。もう最悪!」
猫又は大きな背を波打たせ、ぶるんと武者震いをした。これほど手強い獲物もなかったと言わんばかりの眼光で徐に腰を起こす。一方、女は己の靴から竹の葉をちまちまと剥がし、猫又の様子を見落としていた。まだ先ほどの癇癪玉を隠し持っているのだろうか。
猫又は鼻息を抑えながら数歩退く。だが、眼差しは女の首一点を見据えたままだ。これだけ動けばさぞ腹も減ったに違いない。吾輩は一刻も早くこの藪を脱せねばと女を諭すべく、舞い上がる枯葉の中を駆け出した。女までは距離がある。そして猫又も三度踏み出し、大きな歩幅でぐいと加速したかと思うと、瞬間前のめりになった。
吾輩が視界の隅に捉えた時、猫又は中空へと跳躍していた。この状態では、たとえまた癇癪玉を使っても、猫又の巨躯がお構まいなく降って来るという計算なのだ。むささびの数十倍はある黒影が頭上に迫れば、どんな豪気な者でも怯まずにいられない。女は片方の靴がないせいもあり、咄嗟に身を崩した。
女への恩義云々を論じる暇などない。吾輩は人を喰う不貞の同胞の狼藉を見過ごすわけにはいかなかった。女は氷水に触れた時のような悲鳴を上げ、這いつくばった姿勢で靴のあるほうの片足を突き上げた。それで蹴返そうと言うのか。しかし、猫又の鋭い歯が剥き出しとなって襲来し、女の細い足を丸呑みにしようとした。吾輩は急いで舵を切り、女の白い足に己が身を当てた。帆の折れた帆船のごとく女の体が横転する。猫又の突き出した鋭利な爪が吾輩の半身を薙ぎ払う。背中に大火が踊り荒れ、降魔の儀のごとく騒然と枯葉が舞い上がった。
こやつ、同胞の肉を裂くとは何たるか! 背面に声高く叫べども猫又の鼻息は一層荒く、猫の意はもはや妖魔に届かぬようだ。一方、女は片膝を立てながら口に入った枯葉を吐き捨て、吾輩の傷む背中を長い指で優しく撫でた。革の鞄の中身は散乱し、小物やら黒光りする袋やらが転がっていた。女はその黒光りする袋を握り締める。
「こいつ、ただじゃおかないからね。あんたも協力して!」
吾輩は脇腹をむんずと掴まれると、抵抗する間もなく女に担ぎ上げられた。猫又と正面から睨み合う格好になる。待て、人身御供ならぬ猫身御供か。足に喰いつかれるところを救ったのに、太平の逸民は猫を盾にするのか。猫又に、救いを求める声は届かないのだ。
腕の中から逃げようとする吾輩を、女は手鞠のように高々と放り投げた。地面に力む猫又の大きな鼻先が眼前に迫る。嗚呼、吾輩の時間旅行が幾許かの難儀を経て、終焉の時を迎えようとしている。走馬灯が回るような暇もない。猫又の鬱血した両眼は吾輩の到着を待ち侘びているようだった。そして門戸が開き、艶めかしい喉の奥が覗いた。猫事を尽くして天命を待つ。吾輩は最期の言葉を慎ましく胸に刻んだ。
不意に、間際まで女の顔が迫る。吾輩を投げた張本人が吾輩を追って来たのか。いや、そうではなかった。女は、壺のように天に向かって開けた猫又の口の中に、先ほどの黒光りする袋の中身をぶちまけた。燃える石炭のように真っ赤なものが大量に口へと注ぎ込まれた。
刹那、吾輩は生への執着を振り絞り、四肢を伸ばした。猫又の顎に爪を引っ掛け、身を翻し口を逃れた。それが合図となったか、猫又は口を閉じ、放り込まれた燃える石炭を噛み砕き飲み込んだ。そして、これが猫又の健やかなる姿の見納めであった。突如猫又は悶絶し、この世のものと思われぬ絶叫を残して、藪の中に姿を消した。
吾輩は疲れた体を休ませながら、恐る恐る女の顔を見上げた。この女は劇薬までも隠し持っていたのか。靴の形の飛び道具といい、紙細工の癇癪玉といい、袋詰めの劇薬といい、未来では危険な道具が軍人ならぬ民間にまで広まっているのか。吾輩は空恐ろしさを禁じ得なかった。しかし、その懸念をよそに、女は黒い袋から一粒燃える石炭を摘み、口に運んだ。思わず絶句する吾輩に、女は穏やかな微笑みを向けた。
「うーん、爽快! さすがは唐辛子の十倍の威力。こんなもん喜んで食べる生き物って、地球上で人間くらいだもんね」
劇薬というのは吾輩の思い過ごしであったのか。どうやらそれは太平の逸民だけが食すものらしい。袋には「暴君ハバネロ」と得体の知れない文字が並んでいた。
女は靴を履き、竹薮から外に出た。吾輩も何となく横に付き添い、猫又が性懲りもなく再来しないかと気を張っていた。しかし、劇薬を大量に食わされて藪の奥で悶絶していると思われ、悲愴な叫びが藪の抜ける風の唸りとなって聞こえるようだった。
道には吾輩を乗せてきたトラックの姿はなかった。年かさの男の姿も既にない。女は道端に停めておいた真っ赤な流線形の自動車の前に立ち、ふと吾輩のほうに目を落とした。肩の切り傷を舐める吾輩をしげしげと見つめる。
「あんた……怪我してるの? もしかして、さっきのやつで?」
吾輩は首を垂れた。今夜の宿を探さねばならない。腹も空いた。傷口に夜風が凍みる。出血は止まっていたが、歩くと背中の皮が少し痺れた。
そのとき、女の鞄の中から突然誰かが歌い出した。女が銀色の金属板を取り出し、蓋を開けると歌は止まった。誰が歌っていたのか皆目検討も付かない。
「あー、もしもし? ごめん、渋滞とか変なのに捕まって、まだ東京出てないの。うん。今から高速飛ばしてそっちに向かうから。――ねぇ、みんな集まってるの? ああ、ほんと。一番遅くなるのはやだなー。でもしょうがないかぁ」
女は電話を終えると、蓋を閉じた。そして、吾輩の前にしゃがみ込んで頭を撫でた。
「うーん。恩人だもんなぁ、お前。暖かい場所で手当てもしてあげたいし……」
吾輩は疲れた体を休めるため、また自動車のお世話になりたかった。猫又のせいでとんだ災難に遭ったが、こんなおまけも悪くない。女は顔を明らめ吾輩の首筋を指で弄んだ。
「ね。ちょっと遠いけど、一緒に名古屋まで行くぅ? 知り合いの喫茶店でね、三周年記念のパーティをやるの。マスターが腕によりをかけて美味しいもん作ってくれるから、あんたもおこぼれに預かれるよ。どう、乗る?」
女は自動車のドアを開けた。見上げると、トラックにはなかった心地良さそうな座布団がある。吾輩は女の厚意に甘えて自動車の中に飛び込んだ。すると女の尻が迫り、吾輩はすかさず隣りに飛び移った。
「さ、急がなくちゃ!」
言うが早いか、真っ赤な自動車は凄まじい爆音を轟かせ、夜道を高速で泳ぎ始めた。他の自動車を次々に追い抜きながら一気に加速していく。吾輩なこの女の危険性を察知しながら、頭や首筋を撫で回した指の温かさを静かに想った。
「あ。ねぇ、あたしの名前はshionて言うの。――あなた、名前は?」
吾輩は座布団の上に丸くなり、にゃあと答えて眠りに落ちた。