『吾眠ハ猫デアル』 その7



『吾眠ハ猫デアル』

  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

---------------------------------------

 その7 人語翻訳:朧豆腐

「あ、あれはーーーっ!!」
 心地よい夢の世界へと埋没していた吾輩の意識を突然現実の世界へと引き戻したのは、耳を直撃した絶叫であった。まるで、巨大な岩が頭上へ降ってきたかのようである。耳と頭の痛みを堪え、何事かと思い目を開けてみると、あのshionという女が、こめかみに青筋を走らせて般若の如き形相を浮かべている。はっきりいって怖い。吾輩、思わず粗相してしまいそうになったではないか。と文句の一つも言ってやりたいところだが、それは、人語を喋れたとしても決して口に出せぬであろう。見るがいい、この表情、この血走った目。今、運転席に座るこの女へ一言何か文句をつけようものなら、同族であっても喰い殺されかねぬ。
「つい三日前の晩は、あんなにあたしの耳元で『愛してるよ、ハニー』って囁いたくせに……くせに……」
 すっかり固まってしまった吾輩にまったく気づかないくらい、shionは、正面を睨んで歯ぎしりしている。何が起こっているのか分からない。席の上に乗っている吾輩には、ガラス張りの正面が見えないからである。とはいえ、少なくともその怒りが吾輩へ向いているわけではない、と分かって若干の安堵を覚えずにはいられなかった。この車内という密封され、かつ高速移動中の空間の中にあっては、吾輩の逃げ場はどこにもない。怪我を負った身では、目の前の般若と戦ったところで万に一つの勝ち目もないであろう。喰われるか、三味線へ生まれ変わるか。吾輩が今どれほど細い糸の上を歩くに等しい運命にあるか、つくづく思い知られる。
 と、急に車が停まった。どうしたのであろうと思っていると、shionが、鞄の中から何かを取り出した。見ると、それは先ほどの銀色の金属板ではないか。誰かから、また電話がかかってきたのであろうか、と思ったがそうではなかった。shionは、金属板の上を指で軽く叩いていた。叩くたびに、耳慣れぬ小さな音が聞こえてくる。それから指を離すと、先ほどとは違うがやはり聞いた事のない音を金属板は発したのである。その音が止むと、shionは、金属板を耳元へ持っていった。
「もしもし、ダーリン?」
 だありん?何者だ。まさか、遙か西の英国にて、進化論なる『人間や我らの先祖は共通である』という論を語ったとかいう人物なのではあるまいな?
『やあ、ハニー。どうしたんだい?』
「ううん、何でもないんだけど。ちょっと、ダーリンの声を聴きたかったの」
 金属板から男の声が聞こえてくる。この男が、『だありん』なる人物なのか。すると、今までの般若から一転、shionは、柔らかな笑みを浮かべて喋り出した。だが、目は全然笑っていない。こういう状況を、嵐の前の静けさというのであろう。
『僕だって、ハニーの声をずっと聴いていたいよ。でも、ごめん。今は運転中だからね。もうすぐ僕は吾眠に着くから、ハニーも早くおいでよ』
「そうね。あたしも、もうすぐ吾眠に着くわ。でも、今は大丈夫でしょ?信号は赤だし、助手席のコを降ろしたばっかりだし」
『……えっ?』
 だありんの声の狼狽した様子が、吾輩にもはっきりと感じられた。
『な、何をいっているんだい、ハニー?僕が、ハニー以外の女性を助手席に乗せるはずが……』
「白のブラウスとショートの髪がよく似合う、モデルみたいなコじゃないの」
『……は、ハニー。ど、ど、どうして!!』
「ふふっ。ダーリンったら、バックの確認が少し甘いんじゃなあい?」
 shionの声が、どんどん砂糖のように甘ったるくなっていく。しかし、吾輩には分かる。その砂糖菓子の声の中には、あの猫又を撃退した『ハバネロ』なる劇薬もどきと同様のものが含まれているのである。いや、もっと危険なものかもしれない。
『は、ハニー!!待ってくれ。ち、違うんだ。これは!?』
「もうすぐ、吾眠へ寄る時停めている駐車場よね。そこで、ゆっくり『お話』しましょうね。ダーリン」
 なおも喋ろうとするだありんの声を無視して、shionは電話を切った。
 どうやら、話を聞いていた限り、だありんとはshionの夫か恋人にあたるらしいが、他の女性に懸想したらしい。しかし、このような恐るべき女を伴侶としながら不貞を働こうとは、不届き極まりないというか肝が据わっているというべきか。
「じゃあ、出発するわね」
 車を動かしつつ吾輩へ声をかけてきたshionの顔は、不自然なくらいにとても清々しい笑顔だった。



 程なく、『駐車場』なる目的地へ到着した。けれども、それは同時に、嵐の訪れでもあった。
「た、頼む。ハニー!!僕の話を!?」
「問答無用。この浮気者があっ!!」
「ぎゃあああああっ!!」
 その惨状は筆舌に尽くしがたいものであった、とだけ言っておこう。