『吾眠ハ猫デアル』その8



『吾眠ハ猫デアル』

 -- タイムスリップした漱石猫 --

 原作(猫語): 書き猫知らず


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人語翻訳:猫語翻訳支援ソフトウエア CAT-system Ver2.3


 吾輩は猫である。名前は、いまだにない。どこで生まれたのかも、いまだに思い出せない。いや、そもそも記憶すらしていないのだろう。薄暗く、じめじめしたところでニャーニャー泣いていた記憶が、うっすらとあるだけだ。
 吾輩は、そこではじめて人間なるものにであった。それは書生という、人間の中でももっとも獰悪な種族で、われわれを捕らえて煮て食うという。しかし、当時はそんなことを知らなかったから、べつだん怖いと思わなかった。彼の手にのせられて、スーッと持ち上げられたとき、フワフワした感じがあっただけである。

 だがしかし……

 吾輩も年月をへて、なるほど人間とは恐ろしい生き物だと理解できた。いや、狡猾というべきだろうか。さらになんの因果か、時間を飛び越え、吾輩の生まれた時代から遠く離れてみると……
 吾輩は、いまいる場所の、いまいる人間たちを見渡して、毛が逆立つような、しっぽが丸まるような、薄ら寒い恐怖を味わっていた。そう。ここは、吾眠という喫茶店だ。ふつうの猫なら、いや、ふつうの人間でも、永眠しかねない危険地帯と聞く。

「聞いてよ女将さん」
 shionという女が、カウンターの向こう側でおでんを煮ている割烹着の女にいった。
「ダーリンたら、また浮気してたのよ。それもわたしの目の前で」
「知ってるわよ」
 女将と呼ばれた女は、クスクスと笑っていた。
「あんたも、懲りずにTERUちゃんをとっちめたみたいじゃない」
「あら。なんで知ってるの?」
「駐車場であんだけ大騒ぎしてれば、だれだってわかるわよ」
「そうですよ」
 と、こんどは喫茶店らしくコーヒーを入れている男が口をはさんだ。
「うちの駐車場は各闘技場じゃないんですから、ほどほどにお願いしますよ」
「ははは」
 と、笑ったのは、ラビン髭の、和菓子を食べている男だった。
「マスター。駐車場が各闘技場になるくらい、かわいいものじゃないですか。ふだんは、この店の中が戦場みたいなものなのだから」
「それは、いわない約束ですよ、文字ゲリラさん」
 マスターという男は苦笑を浮かべた。

 戦場? ここが? なのに苦笑を浮かべるだけなのか。女将に至っては、いまだクスクス笑っているではないか。
 ふうむ。どうやら、shionという女が、ダーリンという男をとっちめるのは、日常茶飯事のことらしい。まったく信じられないことだ。あんな恐ろしいことを日常としてしまうとは。やはりここは、噂に違わぬ危険地帯らしい。
 そろそろ、おいとましたほうがよさそうだ。と、吾輩が思ったとき、都合よく吾眠のドアが開いた。吾輩は、さっと外に出るべくドアに駆け寄ったが、ドアを開けて中に入ってきた男が、吾輩を捕らえるとぐっと持ち上げた。

「なんだ雄か」
 その黒コートの男は、吾輩の股間を見て、つまらなそうにいうと、吾輩を店の中にポイと放り投げた。
 きさまは、雌なら猫でもいいんかい!
 床に着地した吾輩は、黒コートの男に抗議してみたが、人間である彼には、吾輩の声は、ニャーニャーとしか聞こえていないのだった。
「あら、ダーリン。もう復活したの?」
 shionが、冷やかな目を投げつけた。
「もうちょっと、駐車場で伸びててもよかったのに」
「ハニー。まだ怒ってるのか」
 黒コートの男は、苦笑を浮かべてshionのとなりに腰を下ろした。
「だから、誤解なんだってば。あれはただ、仕事関係の女性を近くまで送ってあげただけであって、きみが思っているようなことは一切ないんだよ」
「うそばっかり。モデルみたいにきれいな子だったわ」
「そりゃモデルだからね」
「なんですって!」
「ハニー。ぼくの仕事はなんだと思ってるんだ」
「つまり、仕事で会ったモデルをナンパしたわけね」
「ちがうってば。仕事関係の女性には手を出さないと決めてある」
「仕事関係の女性には? 仕事関係じゃなければいいわけ?」
「うっ……だから、そうじゃなくて……えっと」
 黒コートの男が言葉につまったとき、また吾眠に新しい客が入ってきた。吾輩は、それを見てギョッとなった。なんと、巨大な豆腐なのだ。
「やあ、やあ、どうも。みなさんおそろいで」
「あら、朧豆腐さん、久しぶり」
 shionが、豆腐の妖怪に声をかけた。
「どうもどうも」
 と、豆腐の妖怪。
「shionさんもTERUさんも、相変わらずお盛んなようで」
「だから、誤解だってば」
 黒コートの男は眉をひそめた。まったく、なにが誤解なんだか。真相は、この豆腐の妖怪が書いたとおりなのだ。吾輩は知っているのだ。その一部始終を見ていた……いや、見せられたのだから。
「朧豆腐さん。ちょうどよかったわ」
 女将が、にっこり応えた。
「おでんの具が心もとなかったところなのよ。ちょっと焼き豆腐にでもなって、鍋に入ってもらえないかしら」
「勘弁してくださいよ」
 豆腐の妖怪は、ぷるぷると、首を振った。いや、振ったように見えた。正確には、どこが首なんだかわからない。
「おほほ。冗談よ。でも、この寒さで冷や奴になるよりいいんじゃない?」
「冷や奴のほうがいいです」
 豆腐の妖怪は、そういってカウンターに座ると、マスターに熱い紅茶を注文した。豆腐の妖怪がいること自体、すでに常軌を逸しているのだが、それを不思議とも思わないのがこの喫茶店の常連たちらしい。吾輩は、だんだん頭が痛くなってきた。
 と、吾輩が頭を抱えようと思ったところに、こんどは、鹿の妖怪が入ってきた。
「こんにちは!」
「鹿の子さん、お久しぶりです」
 マスターが、ほほ笑みを浮かべた。
「うーっ、寒い寒い。鹿の子冷え性だから、冬は大嫌い。マスター、あつーいココアをくださいな」
「はい、お待ちください」
 吾輩は、その鹿の妖怪をよく見た。どうも、ふつうの人間が、鹿の着ぐるみを着ているようなのだが、ここは喫茶吾眠なのだ。やはり、鹿の妖怪なのだろう。きっと、奈良の公園で凍死した鹿が、化けて出てきたのにちがいない。くわばらくわばら。
「こんにちは」
 また、新しい客が入ってきた。こんどは……なんと猫だ! しかも猫又ではないか!
「これはこれは、猫又さん」
 ラビン髭の男がいった。
「人間との、新婚生活はいかがですかな」
「うふふ。おかげさまで、ダンナには猫の妖怪だってバレずにうまくやってます……あら、この猫ちゃんどうしたんですか?」
 人間と新婚生活を送っているらしい、猫又は、吾輩をじっと見た。
「ああ、それは」
 マスターが応えた。
「なんか、迷って入ってきたみたいなんですよ。この寒空に追い出すのもかわいそうなんで、ほってあるんです」
「ふうん……」
 猫又は、吾輩を見ながらニヤリと笑った。そして、吾輩にだけ理解できるように、猫語でいった。
『あんた、妖怪じゃないみたいだけど、ただ者ならぬ、ただ猫じゃないわね』
『い、いや、吾輩はその……』
 吾輩は、しどろもどろになった。まさか、こんなところで同属の妖怪に会うとは。遠い過去から飛んできたといって、信じてもらえるだろうか。
『吾輩なんて、古風ないいまわしね。まあいいわ。マスターがいうとおり、寒空に追い出すのもかわいそうだから、悪さしなきゃ、しばらくここで暖をとりなさい』
『どうも……恐縮です』
「なに話してたんですか?」
 マスターが聞いた。
「ええ、暖をとらせてもらってありがとうですって」
「それはよかった」
 マスターは、吾輩を見てニッコリ笑った。
 なんだ。常連たちの摩訶不思議さはともかく、こうしていると、ふつうの喫茶店ではないか。吾輩は、少しだけホッとした……のも束の間。この、一見平和な喫茶店に悲劇が訪れるとは、いったいだれが予想したであろうか……

「うううっ! く、苦しい……」
 豆腐の妖怪が、急に苦しみだしたかと思うと、顔と思われる場所を真っ赤にして、そのままカウンターに倒れ込んだ。
「あら、どうしたの朧豆腐さん。真っ赤になって倒れちゃって」
 女将が、べつに心配している風でもなく声をかけたが、豆腐の妖怪は、ピクリとも動かなかった。
「みんな、朧豆腐さんに触るな」
 そういって、真っ先に立ち上がったのは、黒コートの男だった。先ほどまでの浮気男の顔ではなかった。
「こ、これは……」
 黒コートの男は、朧豆腐を見下ろしながらいった。
「驚いたな。豆板醤になっている」
「トウバンジャンですって?」
 shionも席を立って、黒コートの男に並んだ。
「ホントだ。豆板醤の匂いがしてる」
「ああ。どうやら、唐がらしを盛られたようだ」
「唐がらし? それで豆板醤か……それにしてもすごい威力ね。ダーリン。ふつうの唐がらしでこんなふうになっちゃうものなの?」
「おそらく、レッドサビナだろうな」
「なにそれ? 唐がらしを使った毒薬かなにか?」
「ちがう。ハバネロ種に、レッドサビナという品種があるんだ。こいつは、世界一辛い唐がらしといわれている」
「ああ、知ってるわそれ」
 女将がうなずいた。
「ハバネロってたしか、お菓子になってるやつね」
「そうです」
 と、黒コートの男。
「ですが、お菓子に使われているような、辛味の調整されたものではなく、レッドサビナのペーストをそのまま飲んだのでしょう。レッドサビナの辛味は、一般的な唐がらしの100倍以上ありますから、考えようによっては、即効性の毒物ですよ」
「ふうむ」
 ラビン髭の男が、髭をなでながらいった。
「しかしTERUさん。その推理にはおかしな点がありますよ」
「と、いいますと?」
「いえ、そんな辛いものを飲んだら、ふつうはすぐに吐き出すでしょう。なのに、朧豆腐さんは、ぐびぐび飲んでいましたよ」
「それは、彼が豆腐だからです」
「というと?」
「いいですか、文字ゲリラさん。豆腐は、われわれ人間とは味覚の伝達速度がちがうんですよ」
「伝達速度?」
「こういっては、豆板醤になった朧豆腐さんに失礼だが、要するに鈍感なんです」
「つまり、自分の飲んでいるのが、じつは唐がらしペーストだとは気づかずに飲んでいたと?」
「そう考えるのが、この場合もっとも合理的でしょう」
「ちょっと待ってくださいよ」
 こんどはマスターが口をはさんだ。
「豆板醤って、そら豆と唐がらしが原料ですよ。豆腐から作るわけじゃない」
「マスター。それは彼が、ただの豆腐ではないからだ」
「どういう意味です?」
「妖怪だからだよ。きっと、彼の中で、唐がらしが複雑に変化して、こういう事態になったのだろう」
「うーむ。なんだか納得できないなあ」
 吾輩も、黒コートの男の説明に納得ができないが、それはそうと、ここの連中は、常連仲間が死んだというのに、そのこと自体は悲しまないというか、問題にしないのだろうか。
「まあ、なんでもいいわ」
 女将がいった。
「せっかく、豆板醤ができたんだから、なにかお通しでも作りましょう。そうね、大根ときゅうりの豆板醤あえなんてどうかしら」
「いいですねえ。一本つけてくださいよ女将さん」
「賛成ですな」
 黒コートの男と、ラビン髭の男は、うれしそうに応えた。
 どうやら、常連仲間が死んだことを悲しむような連中ではなかったというか、そもそも、悲しまないのかなどと、疑問に思うことからしてまちがっていたようだ。

 ところが……

「ふふふ」
 不気味な笑い声をあげたのは、鹿の妖怪だった。
「これは、日々楽々ワイド劇場、略して日ワイの再来だわ」
「日ワイの再来ですって?」
 shionが、眉をひそめた。
「そうですよ!」
 鹿の妖怪は、ここぞとばかりにいった。
「これはミステリだわ! 絶対、ここに朧豆腐さんを殺害した犯人がいるにちがいありません。さあ、みなさん! その明晰な頭脳で、朧豆腐さん殺害の謎を解きましょう!」
「鹿の子ちゃん」
 女将がタメ息をついた。
「最近、日ワイの原稿が届かないからって、なにトチ狂ってるの。ここは吾眠なのよ」
「出るものはところかまわずですよ」
「汚い例えねえ。ところかまって、トイレで出してちょうだい」
「だからぁ、せっかく朧豆腐さんが死んでくれたんですから、それをネタに楽しまなきゃ損じゃないですか」
「まあ、そりゃ、そうだけどねえ」
 女将は苦笑を浮かべた。
 なんという連中だ。悲しむどころか、楽しむのか。
「望むところですな」
 と、名乗りをあげたのは、ラビン髭の男だった。
「わたしは、日ワイに登場していないので、一度探偵役をやってみたかったのですよ」
「ぼくも出てませんよ」
 と、マスター。
「わたしも出てませんよ」
 と、猫又。
「わかったわ」
 女将がいった。
「それなら、文字ゲリラさんとマスター、それに猫又ちゃんに探偵役をやってもらいましょう。日ワイ役者のわたしたちは、彼らのお手並み拝見よ。いいわねTERUちゃん?」
「いいですよ」
 黒コートの男は、意外にも素直にうなずいて、席に着いた。
「わたしは……」
 shionは、ちょっと肩をすくめてから、黒コートの男のとなりに座った。
「本当は、久しぶりに、ダーリンの推理を聞きたいんだけどなあ」
「まあまあ、そうおっしゃらないで」
 ラビン髭の男がいった。
「浮気者でもなんでも、愛するTERUさんのカッコいいところを見たい気持ちはわかりますが、われわれだって、shionさんの期待を裏切りませんよ」
「そう願ってるわ。さあ、どうぞ。推理して」
「いいでしょう」
 ラビン髭の男は、コホンと一つ咳払いをしてから語り始めた。
「まずは動機からです。いうまでもないことですが、動悸息切れめまいのことではありませんよ、とくに鹿の子さん」
「ちぇっ」
 鹿の妖怪は、舌打ちをしながら、ポケットから出した茶色の小瓶をしまった。どうやら、動機と聞いた瞬間、反射的に『求心』を出そうとしたらしい。
「さて、問題の動機ですが、この中に朧豆腐さんを殺したいほど憎んでいた人間がいる可能性がありますね」
「ほう。それはだれですか」
 マスターが聞いた。
「簡単な推理ですよ。それはずばり、TERUさん。あなたです」
「ぼく?」
 黒コートの男は、さして驚く風もなく、自分を指さした。
「それは、自分でも気がつかなかったな。ぼくはなんで、朧豆腐さんを憎まなきゃならないんです?」
「簡単ですよ。TERUさん、あなたは過去に、朧豆腐さんによって、shionさんとの痴話喧嘩を暴露されている。ちがいますか?」
「まあ、仮にそうだとしても、吾眠のオーナーがいまだに健在なのが不思議だな。なぜなら、とっとさんこそ、ぼくの素行を暴露する大家だからね。もしそんなことが理由で、ぼくが殺人を犯すのなら、とっとさんを、五回ぐらい殺さないと理屈が合わない」
「そうよ」
 と、shion。
「だいたい、ダーリンの素行なんて、みんな知ってるんだから、いまさらそれが動機になんかならないわ」
「shionちゃんの意見に賛成ね」
 女将がいった。
「文字ゲリラさん。あんた、出発点からしてまちがってるわよ」
「どういう意味です?」
「いいこと、文字ゲリラさん。日ワイ劇場で起こる殺人事件はね、動機なんてあってないようなもんなのよ。順番に死体役と犯人役と探偵役をやってるんだから」
「う、うーむ……それをいわれると、推理の根本が揺らぎますな」
「それにね」
 と、shionが女将のあとを続けた。
「悪いけど、ダーリンが犯人ではありえないのよ」
「なぜです?」
「ダーリンの行動は、あたしがすべて把握してるから」
「ぼくの行動を把握してるだって?」
 驚いたのは黒コートの男だった。
「ふふん。なにせ今日はクリスマス・イブですもの。あなたがどこで浮気するかわからないから、そのコートに、探知機を仕込んであるのよ」
「探知機だって!」
 黒コートの男は、あわててコートをまさぐった。すると、コートの襟から、最新型の探知機が出てきた。
「い、いつの間に、こんなものを……」
「あら、乙女のたしなみってヤツよ」
「どこが! だいたい、ふつうの人間は、探知機なんてもの、持ってるどころか、見たこともないはずだぞ」
 そのとき。
「はい、はーい! あたしも持ってまーす!」
 鹿の妖怪が手をあげた。
「ほら、これのことでしょ?」
 そういって鹿の妖怪は、ポケットから、得意気に、求心とはちがう茶色の小瓶を取り出した。
「どれどれ」
 shionは、その小瓶を受け取って、裏に書いてある説明を読んだ。
「えーと、この薬品は、白せん菌に対して優れた抗菌力を持つトルナフテートを主成分とし、角質軟化剤サリチル酸、局所麻酔剤リドカインを効果的に配合した水虫、タムシの治療薬です……って、鹿の子ちゃん、これは探知機じゃなくて、タムシチンキよ」
「あれ? 鹿の子、まちがえちゃった。てへ」
「探知機とタムシチンキか……」
 黒コートの男は苦笑した。
「鹿の子さんのギャグもハイブローになってきたというか、苦しくなってきたというか、親父ギャグ化してるというか」
「それより鹿の子ちゃん」
 と、女将。
「あんた、そんな着ぐるみを年がら年中着てるから、水虫なんかになるのよ」
「いや〜ん、鹿の子、水虫じゃないもん」
「あのーっ!」
 いままで豆板醤になって死んでいた豆腐の妖怪が、むくっと起き上がった。
「さっきから聞いてると、わたしを殺した犯人探しはそっちのけで、なにかお笑い劇場に突入しているようなんですけど!」
「ちょっと」
 と、女将。
「だめじゃない、起き上がっちゃ。死体はおとなしく死んでなさいな」
 女将は、おでん鍋からおたまを取り出して、豆腐の妖怪の頭をパカンと殴った。その拍子に、豆腐の妖怪は、ぐちゃりとつぶれて息絶えた。
「とどめを刺しましたな」
 ラビン髭の男が、崩れた豆板醤を見ながら苦笑した。
「おほほ。どうせ料理するつもりだったし、手間が省けたわ」
「さすが女将さん」
 黒コートの男が、感心したようにいった。
「貫祿がありますね。だてに還暦間近じゃない」
「還暦ですって?」
 女将のこめかみにピクリと血管が浮かんだ。
「TERUちゃん、おもしろいジョークじゃない。そうそう、思い出したわ。あんたも来年、四十になるんですってねえ」
「うっ……思い出したくないことを」
「おほほ。そういえば、猫又ちゃんも三十の大台に乗ったそうじゃない。みんな年寄り仲間になってけっこうなことだわ」
「ひどーい、女将さん。あたしは猫又だから、歳なんて関係ないんです!」
「まあまあ、みなさん」
 マスターが、間に入った。
「仲間割れはやめて、女将さんがとどめを刺した朧豆腐さん殺害事件の真相を究明しましょうよ」
「要するに、女将さんが犯人だろ。とどめを刺したんだから」
 と、黒コートの男。
「いや、だから、そうじゃなくて、最初に唐がらしを盛った犯人をですよ」
「真相なんて、どうでもいいじゃないか。それよりぼくは、早く豆板醤料理のご相伴にあずかりたいね」
「あたしも、お腹空いてきちゃった」
 shionも、苦笑を浮かべた。
「ダメーッ!」
 と、叫んだのは鹿の妖怪だった。
「これは日ワイ劇場の再来なんだから、どんな結末でも、とにかく結末を迎えなきゃ読者が納得しないでしょ!」
 と、いう割りには、鹿の妖怪は、どこから出したのか、大きなタッパーに豆板醤を詰めていた。
「鹿の子ちゃん、あんたなにやってるの?」
 と、女将。
「えっと、おうちにもって帰って、お料理しようかなと」
「あんたの食欲が旺盛なのは知ってるけどね、そんなに豆板醤ばかりあっても困るでしょうに」
「大丈夫です。冷凍しときますから」
「そうね。あたしも、うちにもって帰りましょ」
 女将も、どこかからタッパーを取り出して、もと朧豆腐だった豆板醤を詰め込んだ。

 あらかた、豆板醤が片づいて一息つくと、ラビン髭の男がいった。
「どうやら、マスターの掃除の手間が省けたところで、話を続けましょう」
「いやあ、助かりました」
 マスターは、本当に掃除の手間が省けて、ホッとしたように応じた。
「では、こんどはわたしが推理をしてみますよ」
「どうぞ」
 と、ラビン髭の男。
「ええとですね。たぶん犯人は、文字ゲリラさん。あなたですね」
「わたし?」
「そうです。さっき、一度探偵役をやりたかったといったじゃないですか。ですから、これはあなたの自作自演でしょう」
「それはまた、突拍子もない推理ですな」
 ラビン髭の男は、肩をすくめた。
「マスター。そういう方向で推理をするのなら、shionさんのほうが怪しいよ」
「あたし?」
「そうです」
 ラビン髭の男は、shionを見た。
「さきほど、TERUさんの推理を聞きたいとおっしゃった。つまり、あなたはマジメなときのTERUさんが好きなんだ。だから、こういう謎をぶら下げてやれば、TERUさんがマジメに探偵役をやると思った。ちがいますか?」
「お話し中申し訳ないが」
 黒コートの男が口をはさんだ。
「ぼくは、いつだってマジメですよ。そうだろハニー?」
「そうね」
 shionは、黒コートの男を、キッとにらんだ。
「マジメに浮気するあなたが大好きよ」
「だから、誤解なんだってば。ぼくが、きみ以外の女を愛することなんてありえない。本当だよ。きみの美しい髪も、澄んだ瞳も、キュートな唇も、すべてぼくの心を捕らえて離さない。もし仮に、百歩……いや一万歩譲ってぼくが浮気をしているとしよう。でも、そんなものに愛はない。ぼくが愛しているのはきみだけだ。クリスマスの夜、きみに寂しい思いをさせたことは一度だってないはずだよ」
「そ、それは、そうだけど……」
「男なんて、哀れな生き物さ」
 黒コートの男は、大げさに両手を広げた。
「守るべきものがなければ、生きる希望はなにもない。ハニー。ぼくが守りたいのはきみだ。きみのためなら、ぼくはどんなことだってできる。お願いだから、その美しい瞳を曇らせないで、ほほ笑んでくれよ。きみの笑顔が、ぼくの生きる希望なんだから」
「ダーリン……」
 shionの瞳が揺れた。
「困った人ね。そうやっていつも、あたしの心を弄ぶんだから」
「退屈しないだろ。きみが百歳になっても、恋する乙女でいられるように、がんばってるんだよ、これでも」
 黒コートの男は、shionにウィンクした。
「もう、本当に困った人」
 shionは、ついに黒コートの男に抱きつき、彼の胸に顔を埋めた。
「でも、そんなあなたが大好きよ。愛してるわダーリン。とっても愛してる」
「ぼくもさ」
「TERUちゃん」
 と、女将。
「また、うまく誤魔化したわね」
「それにしても……」
 ラビン髭の男が苦笑を浮かべていた。
「目の前で見ると、なんとも、甘ったるいというか、鳥肌がたつ光景ですな」
「オホン」
 猫又が咳払いした。
「TERUさんたちの愛憎劇も片づいたところで、こんどはわたしの推理です」
「どうぞ」
 と、ラビン髭の男。
「ええと、わたし、犯人は女将さんだと思います。いっときますが、とどめを刺したからじゃないですよ」
「根拠は?」
 女将が、腰に手を当てながら聞いた。
「はい。犯人は、豆板醤料理が作りたかったのだと思います。でなければ、唐がらしを盛って朧豆腐さんを殺害しようなんて発想自体がなかったはずです。となると、一番料理に詳しい女将さんが犯人だと考えるのが妥当です」
「根拠が薄弱ねえ」
 女将は笑った。
「わたしが犯人だったら、そんな、もって回った方法はとらないわよ。最初から、堂々とみんなが見ている前で殺害するわ。そして堂々と料理を作るでしょうね。さあ、みなさん。さっき殺した朧豆腐さんの料理よ、どうぞ、召し上がれってね」
「うん」
 鹿の妖怪がうなずいた。
「日ワイに出てるときの女将さんなら、マジメにミステリするでしょうけど、吾眠に出てるときの女将さんは、そういうキャラじゃないかも」
「鹿の子ちゃんのいうとおりよ。shionちゃんもそう思うでしょ?」
「え?」
 黒コートの男に抱きついていたshionが顔を上げた。
「ごめん。いまダーリンとクリスマスの過ごし方を相談してて聞いてなかった。だれが犯人ですって?」
「もうういいわよ。あんたたちは、勝手にラブラブしてなさいな」
 女将は、やれやれとタメ息をついた。
「八方塞がりですな」
 ラビン髭の男も、大きなタメ息をついた。
「こうなっては、だれは犯人でもおかしくないし、だれが犯人でもおかしい。通常の意味でのミステリとは同列に語れない。つまり、論理的な推理は不可能ということですよ」
「ふふふ」
 shionが笑った。
「ダーリン。みんな困ってるわよ。ここは、あなたの出番じゃないの?」
「ぼくの?」
「そうよ。どうせ、その灰色の脳細胞は、犯人がだれかわかってるんでしょ?」
「さすがハニー。ぼくのことはなんでもお見通しか」
「やっぱりね」
 shionは、楽しそうに笑って、黒コートの男にキスをした。
「さあ、早くこのミステリもどきを終わらせて、ホテルに行きましょ。シャンパンが飲みたいわ」
「そうだな。そろそろ幕を引くか」
 黒コートの男も、shionにキスで応えた。

「では」
 黒コートの男は、席から立ち上がって、一同を見渡した。
「ハニーのお許しが出たので、ぼくの推理をお聞かせしましょう」
「わーい! TERUさんの推理のお時間だわ!」
 鹿の妖怪も、やんやと拍手を送った。
「ありがとう、鹿の子さん」
 黒コートの男は、舞台役者のように、大げさに頭を下げた。
「まったく、張り切っちゃって」
 女将は苦笑を浮かべていた。
「どうせ、下らない推理でしょうけど、しょうがないわね。聞いてあげるわ」
「どうも」
 黒コートの男も、女将に苦笑を浮かべて続けた。
「さきほど女将さんは、日ワイには動機などあってないようなものだとおっしゃいましたが、やはりここは、動機から出発するのがいいと思います。文字ゲリラさんがいったとおり、この中には朧豆腐さんを殺したいほど憎んでいたヤツがいる」
「ほう。それはだれですか?」
 ラビン髭の男は、挑戦的な口調で聞き返した。
「まあ、そうあわてないで」
 黒コートの男は、手をあげて、ラビン髭の男を制すると、マスターにいった。
「マスター。ここにはノートパソコンはあるかい?」
「ありますよ」
 マスターは、カウンターの奥から、ノートパソコンを取り出した。
「インターネットにアクセスは?」
「もちろん、できます」
「接続してくれ」
「はい」
 マスターは、いわれたとおり、ネットにアクセスした。
「しましたよ」
「オーナーが管理している、吾眠のホームページを表示してくれ。そこに、猫祭りと称する企画の第二会場があるはずだ」
「ええ、知ってますとも」
「その第七回の翻訳は、だれが担当している?」
「朧豆腐さんですね」
「ふむ。それで、朧豆腐さんは、どんなことを書いてるかな?」
「それは、さっき文字ゲリラさんがいったとおりですよ。TERUさんが、shionさんにとっちめられているところです」
「だから」
 と、ラビン髭の男。
「わたしは、TERUさんが怪しいと申し上げたんじゃないですか」
「そうでしたね」
 黒コートの男は、コートの内ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「たしかに、朧豆腐さんの書いた記事に注目したところまではいいでしょう。しかし文字ゲリラさん。あなたは、肝心な部分を見落としている」
「というと?」
「この記事の中で、本当に恐ろしい思いをしたのはだれなのか。そこに着目しないのはおかしいと申し上げているのです」
「本当に怖い思いをした人物ですって?」
「文字ゲリラさん。ぼくは、人物とは一言もいっていない」
「あっ……」
 文字ゲリラは、床に伏せている猫……つまり吾輩に視線を落とした。
「ま、まさか、この猫が?」
「そう。犯人は、朧豆腐さんによって、恐怖の体験させられたヤツですよ。すなわち、この三味線の材料がそうなのです」
 しゃ、三味線の材料とは、なんたる言いぐさであろうか! 吾輩は思わず立ち上がって、黒コートの男をにらみつけた。
「ほら、ごらんなさい。こいつは、人の言葉を理解しているようだ」
 し、しまった。誘導尋問だったか。ただの浮気者と思って油断した。この男に、これほどの知能があるとは……うむむむ。
 気がつくと、一同が、みな冷やかな目で吾輩を見ていた。吾輩は、尻尾をたてて威嚇しながらあとずさった。こんなところで、本当に三味線にされては、死んでも浮かばれぬ。
「なんだぁ」
 と、肩を落としたのは鹿の妖怪だった。
「猫が犯人だったのか。つまんなーい」
「すいません。同属がお騒がせしまして」
 猫又が、恐縮したように謝った。
「ま、解決してみれば単純なことだったわね」
 女将も、しらけたようにいった。
「さ、事件も解決したし、そろそろ豆板醤料理を作りましょうか」
「いいですな」
 ラビン髭の男も、吾輩にはもはや興味がないといわんばかりに、カウンターに戻った。
「女将さん、いよいよ冬らしくなってきました。熱燗を一本つけてください」
「いいわよ」
「ハニー」
 黒コートの男も、カウンターに座った。
「クリスマス・イブに日本酒とは、ちょいと興ざめだが、おいしいシャンパンは、あとで楽しむとして、まずは女将さんの料理をいただいておこうじゃないか」
「うふふ。そうね。女将さん、事件を解決したご褒美に、おいしい料理をダーリンに食べさせてあげて」
「はいはい。わかってるわよ。今夜はハッスルするんでしょ。せいぜいがんばれるように、うんと精のつく料理を作ってあげるわよ。TERUちゃん早いって噂だし」
「早くないですってば!」
 一同が、どっと笑った。
 もはや、だれも吾輩には注目していなかった。どうやら、殺人事件……いや、殺妖怪事件の犯人など、本当はどうでもよかったにちがいない。ここが魑魅魍魎の魔窟と呼ばれるゆえんが、吾輩にも、やっと理解できたのである。
 どれ、吾輩も、豆板醤料理にあずかるとするか。材料を提供したのだ。その権利はあるだろう。猫の舌で、豆板醤が食べられるかどうかわからないが。


 おわり