ギャラリー東栄個展会場
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渡邊榮輔の
川崎歴史ガイド
  川崎市民となってはや20年を超えました。考えてみれば、生まれ故郷の九州(福岡県直方市)より長くこの地のお世話になりながら、第二の故郷とも言うべき川崎の歴史的・文化的な背景や、先人の遺産について、何も知らないという事に愕然とし、たとえ表面的にでも川﨑の歴史的遺産を訪ねてみたいと思いたちました。幸い、川﨑は昔より矢倉沢往還〔後々の大山街道・厚木街道・国道246号〕や中原街道、江戸時代になって東海道が拓かれるなど東西交流の要衝として文物の往来が盛んであった土地柄の所為もあり、今回の歴史巡りは、愉しさばかりでなく無くいろいろ啓発される事も多く貴重な体験でした。


大山街道を歩く 〔10月16日〕

二子新地(田園都市線)…多摩川の渡し…岡本かの子(岡本太郎の母)文学碑…二ヶ水…溝口神社…ねもじり坂…笹の原子育て地蔵…梶ヶ谷(田園都市線)旧大山街道を訪ね歩いてきました〔歩行7828歩〕
上高地でバテナイ為の訓練で
す。

 註 大山街道は江戸赤坂御門を起点として、多摩川を渡り、二子、溝口を
   経て多摩丘陵をのぼり、さらに大山のふもとの伊勢原・秦野を経て
   足柄峠をこえます。

     東海道と甲州街道のあいだを江戸へ向かう脇往還として「厚木街道」
   とも呼ばれてきました。こ
の道は、また大山詣りの道として知られて
   います

         
〔岡本かの子の碑〕 〔溝口神社〕

二ヶ領用水を歩く 1 〔10月17日〕

今日は二ヶ領用水[徳川家康の命により多摩川の治水と新田開発のために建設された用水路]を歩きました
稲田堤(南武線)…中ノ島取入れ口…大丸用水…榎戸の堰…久地…宿河原の桜並木…登戸(南武線)歩行15907歩 爽やかな天気で快適でした。
  
   総延長32キロ。二ヶ領用水は現在の川崎市のほぼ全域を流れる県下
    で最も古い人工用水です。この用水が江戸時代、川崎領と稲毛領に
    またがっていたことに由来します。

      徳川家康から江戸近在の治水と新田開発を命じられて代官小泉次大夫
    が工事の指揮をとり14年の長い年月を経て完成した。 

      〔中野島取水堰〕 二ヶ領用水中野島取入口
〔桜並木〕 〔稲田堤の旧桜並木〕
〔宿河原取水堰〕 二ヶ領用水宿河原取入口

二ヶ領用水を歩く Ⅱ 〔10月23日〕          

二ヶ領用水用水の続きをあるきました。
久地(南武線)…鷹匠橋…円筒分水…高津(溝の口・二子宿の問屋跡)…高元寺(旧寺子屋跡)…武蔵小杉(南武線)
歩行 12755歩

〔二ヶ領用水の流れ〕その1 〔二ヶ領用水の流れ〕その⒉
〔久地円筒分水〕堰からあふれ出る流を、それぞれ異なった四つの幅にわけ、 かく堀ごとの水量比率を保つよう設計された分量樋で、昭和初期まで使われ  ていた。
〔二子宿問屋場跡地に建つ二ヶ領用水記念灯篭〕
次回は中原街道の予定

中原街道を歩く 〔11月2日〕

好天に誘われ中原街道 〔この街道は江戸虎ノ門を起点として、三田,馬込を通り、丸子で多摩川を渡り、さらに相模川を越え平塚の中原で東海道につながる脇往還としての生活道であった〕 を歩く。
久末(宮前区バス停)…武蔵中原(南武線)…泉沢寺…二ヶ領用水神地橋…小杉十字路…小杉陣屋…丸子の渡し場(多摩川)…多摩川園駅(東横線)歩行 11930歩 次回は川崎大師

  註  この街道は、江戸虎ノ門を起点として、三田・馬込を通り、丸子で多摩川を
    渡り、佐江戸・瀬谷を経てさらに相模川を越え平塚の中原で東海道につな
    がる
道です。家康・秀忠・家光の三代にわたる将軍が鷹狩などの際にここ
    小杉御殿
で休息し、さらに西国大名なども利用していた。
    
やがて、東海道が整備され、大名行列などの多くがそちらを通るようにな
    っ
た頃から中原街道は脇往還となり以前の賑わいを失っていく。

〔中原往還ルート案内図 〔小杉陣屋に近い西明寺〕
杉学舎発祥の地
〔旧名主安藤家の長屋門〕 〔丸子の渡し(現在の丸子橋付近)〕
次回は川崎大師

東海道と大師道を歩く 〔11月4日〕

川崎駅(JR)…川﨑宿…六郷の渡し跡…運河と水門の遺構…大師道・観音道…東門前…鬼を祀る千蔵寺 “鬼は内、福は外” 歩行 9090歩
少し物足りないので、多摩川堤を河口まで歩く
羽田空港を飛び立つ機影と葦の河原 のんびり一服 …大師河原(バス停)

歩行 7781歩 本日歩行合計 18000歩 約14・5キロ少々疲れた。
  註  東海道が一層活況を呈するのは、江戸時代も後期、一般庶民の中に経済的
     ゆとりもでき、遊山や参詣のための往来が頻繁になってからのことでした。

     川崎宿が賑つた大きな理由として、厄除けで知られる川崎大師の存在が
     あります。十一代将軍家斎が文化10年(1813年)、川崎大師へ公式
     参拝して以来、一層広く信仰されるようになり、関東屈指の霊場として
     江戸からの参詣客が絶えず、これに続く大師道を賑わした。

                                        
〔東海道と太師道案内図〕 〔旧東海道川﨑宿の当たり〕
川﨑宿を構成していた四町のうち、「砂子」は今も地名として残り、「子土呂」と「久根崎」はわずかながら、バス停や交差点にその名を留めているにすぎない。「新宿」という、かって賑った町の名残りを見出すことは困難になってしまったようです。
〔旅籠絵図〕 〔六郷の渡し対岸の風景〕
六郷大橋は、千住、両国と並び江戸の三大橋とよばれたほど立派なものでしたが、洪水の度に流され、ついに幕府も橋をあきらめる。その後は、広重の絵にあるような渡し舟の時代が明治の初期まで実に200年のあいだ続いたようです。
〔大師道〕 〔川崎大師正月風景〕
〔河港水門の遺構〕 〔多摩川堤防の葦原〕
註 明治以降、河口付近に工場群が進出。水路網つ つくりのため川崎河港の建設がすすめられ、このような立派な水門も完成(昭和3年)したが、財政事情の悪化などから計画は中断された。 註 河口から2km 干潟と葦原の茂るこのあたりは、水鳥・野鳥の観察地として知られ時期には多くのカメラマンで賑わう。
津久井道と枡形城址を歩く 〔11月14日〕

登戸駅(南武線)…登戸の渡し…登戸宿…多摩川の筏流し跡…二ヶ領用水…くらやみ坂…戸隠不動…枡形城址…生田緑地   歩行 9350歩 菅生バス停まで
歩行計11991歩      ポカポカ陽気に誘われて……


    「津久井道」は登戸から西へ生田・柿生・鶴川へ向かい、さらにその先は鶴見川に
     沿って橋本から津久井地方に至る道です。津久井道の往来が頻繁になったのは、
     津久井・愛甲地方の絹がこの道を経由して直接江戸へ送られるようになった江戸時
     代も末期の頃からです。東海道や中原街道・大山街道のように制度的に整備され
     た道ではなく、人々の生活、商人の活発な活動を通じて独特の役割を果たすように
     なった商業路だったのです。
     津久井道から分かれて枡形城址に向かう道は、鎌倉幕府の北辺の守りとして築か
     れた枡形城への古道であり、今では訪れる人に、ひとときの安らぎを与えてくれる貴重
     な散歩道になっています。

             

〔登戸の渡し付近〕  〔枡形城址の自然探勝路〕
稲毛丘陵(南回りルート)を歩く 〔11月16日〕
宮崎台駅(田園都市線)…泉福寺(大銀杏・境内相撲図〔絵馬〕…三ッ叉の庚申様…
有馬不動尊…梅林公園(影取大蛇伝説)…鷺沼駅(田園都市線)
歩行 12509歩  一汗かいた。

稲毛丘領(北回りルート)を歩く〔11月17日〕

梶が谷駅(田園都市線)―しばられ松(バス停)…東高根森林公園…等覚院〔つつじ寺〕…五所塚…妙落寺〔あじさい寺〕…東泉寺〔稲毛三十三ヶ所札所〕…白幡八幡宮…蔵敷(バス停)―溝の口駅(田園都市線)
道に迷い思はぬロスをした。歩行 16800歩

 宮前区の北部と多摩区の南側、高津区の西側の一帯を含むこの地域は
  古くから
の歴史があり、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡も数多
  く発見されている。多摩川とともに自然の要害であった多摩丘陵を含
  むこの地域を鎌倉幕府は防衛の拠点として重要視ししました。


稲毛という地域は古代・中世の稲毛荘に由来すると考えられているが、起源ははっきりしていません。 江戸時代には稲毛領(幸区~麻生区、横浜市港北区)に属していました。                               

旧王禅寺村を歩く 〔11月21日〕     

鷺沼(自宅)…多摩プラザ―保木(バス停)…山王社(日枝神社)…星宿山
 王禅寺
…琴平神社…化粧面谷公園とお江与の方…神明社…稲荷森稲荷社
 …高札場跡…籠口の池と白蛇伝説〔二代将軍徳川秀忠の夫人お江与の方に
 まつわる伝説
〕…白山神社…神福寺跡…柿生トンネル跡〔現在切通し〕…
 柿生(小田急駅)

 旧王禅寺村は広かった。 急速な都市開発の影響で旧い名蹟を探すのは大変
 な苦労
だった。  歩行 17913歩

 多摩丘陵にあって、川崎市域の北西部に位置する旧王禅寺村は、真言宗
  の名刹王禅寺をもって
村名が付けられた。その村域はほぼ麻生区の王禅
  寺・白山・虹ヶ丘にまたがりとにかく広い。
  王禅寺村は、初めは二代将軍徳川秀忠の夫人お江与の方の領地(お化粧
  領)であったが、後徳川家の菩提寺である芝・増上寺の御霊屋領となる
  。この地域は旧くから鶴見川に沿って多くの“谷戸”〔山に囲まれ狭く
  なっている地域‥谷あいの地〕があり、谷戸を中心とする集落の共同生
  活が営なまれ、その精神的な拠所としての王禅寺を取り巻くように村の
  鎮守5社が谷戸の背後に配置されている。このような山深い里であった
  王禅寺村も、昭和35年(
1960)には964人であった人口が、現在で
  は3万人を越え、かっての農村的な風景が、近代的な都市景観へと大
  きく変貌している。

〔村境の石仏群〕 〔禅寺丸柿発祥の地〕
〔王禅寺観音堂〕 〔入口谷戸の鎮守 神明社〕

 「柿生ふる柿生の里 名のみかは禅寺丸柿
   山柿の赤きを見れば まつぶさに秋は蘭けたり」 北原白秋

 星宿山王禅寺は新義真言宗豊山派の古刹で、本尊は聖観音菩薩です。
 奈良時代に建立されたが、新田義貞の鎌倉攻めの時焼失し、その後
 等海上人によって再興される。
 室町時代には真言密教の道場となり「東国の高野山」と称される。
 江戸幕府からは朱印地として30石が与えられていた。

〔夢見ヶ崎古墳群の案内〕 〔了源寺〕

  加瀬山台地一帯は関東地方でも有数の古墳群が有ることで有名です。特に第3号墳
   
(横穴式石室墓)は有名で、昭和26年の発掘時には、鉄釘・麻織断片・成人男子骨片が
    
出土した。

個展会場のご案内                               
 高橋秀治 渡邊榮輔
  東栄月間表紙