Abend Lied 16




 氷の山辺りに遅い桜が咲くころ。
 山の麓にある翠庵と名乗る医者の家から、篭を持った一人の青年が出てきた。近在の子友達がすぐに付いてくる。
「半助先生、また薬草を採りにいくの?」
「そうだよ」
“半助先生”は子供たちにまろやかな笑顔を向ける。
「おれも行くー」
「おいらも!」
「また?」
「うん! 先生、また食べられる山菜教えてね」
「ああ、いいよ」
明るく答えて、子供たちを引き連れて山へ向かう。
 そんな姿を家の中から見送って、伝蔵もまた笑みを漏らす。
「元気になりましたな。翠庵殿のおかげです」
「なんの。わしゃ傷の手当てをしただけですじゃ。伝蔵殿の支えのあったればこそじゃろうて」
「あれからもう1年になりますか……」
 伝蔵は茶をすすって感慨深そうにそう言った。

 あれから……。
 井尻を中心とする連合軍の不意の侵攻に遭い、六丸はあわてふためいて迎え討つために出陣した。そのころには街道に向けて砲撃していた和田水軍も、沖に引いていた。
 だが、ろくに準備の整わぬまま、しかも、いつまた水軍が砲撃してくるかとびくびくながらでは士気の上がるはずもない。あっというまに連合軍に崩され、退却し始めた。だがそこへ再び水軍が砲撃し、退路をふさいでしまった。
 六丸城主の波多野は、井尻内部から杉元が何かの動きを見せないかということに一縷の望みをつないだが、そこへ連合軍からの停戦勧告の使者が来た。その使者が最後に一言、こう付け加えたのだ。
「そうそう、それから家老の杉元殿は、謀反の動きの証拠を突きつけられ、昨日切腹されましたよ」
 事ここに至り、波多野は二度と水軍とかかわらないという念書を書くことを条件に停戦することとなった。六丸の被害は甚大だったが、連合軍もまた急ごしらえのため、また、内部にもめ事の種を作るのを避けるため、とりあえず六丸をつぶすところまではせずに停戦となったのだ。

 そして伝蔵は半助を、この翠庵のところに連れてきた。
 翠庵は医者といっても元は忍者であった。今でも氷の山近辺に住む忍者たちの治療のみでなく、求めに応じて様々な薬も毒も作っては渡しているのだから、「元」とも言い切れないかもしれない。
 近隣の村々に住む者たちにとっては、ちょっとした子供の腹痛でも、ある時払いで診てくれるありがたい医者だった。時には金がなくても野菜や麦などと引き換えにも診てくれた。実は忍者たちとの取引で儲けを得ていたから(むろん欲もないのであろうが)そんな鷹揚なことができたに過ぎないのだが。
 半助がようやくきちとんした治療を受け、薬を飲み、さすがに疲れ果てていたのかぐっすりと眠り込んだのを見届けて、伝蔵はいったん忍術学園に戻った。
 それからまたとんぼ返りに戻ってきて、半助の様子を見に来た。
 それまでの間、半助はただ茫然として過ごしていたそうだ。
「無理もないわい」
翠庵は言った。
「伝蔵殿の応急手当が良かったんじゃな。歩けるようにはなるわい。じゃが、忍びとしてはどうかの」
「そのことはもう本人に?」
「言ってはおらんよ。といっても本人がもう分かっているようじゃわい。なんとなくな。わしが話しかけたときの受け答えを見るとな」
「そうですか」
「自分で納得して引くのとはわけが違う。あの若さで、なまじ人並み以上の技能があって、まさにこれからだというときにこんなことになってはな。行く道を見失いもするじゃろうて」
 伝蔵が奥の部屋に行くと、半助は布団の上に起きあがって、裏庭をただ茫と眺めていた。眺めるほどの風流な木の一本のあるわけではない。色とりどりの花が咲いてはいるものの、すべて毒だの薬だのを取るためのもの。花を見て愛でるより先に、その一つ一つの効能が頭に浮かんでしまう伝蔵などにとっては、むしろ殺風景に見えるぐらいのものだ。そんな庭を、半助はただ見つめていた。
 伝蔵が姿を現すと、半助は軽く頭を下げた。
「顔色が良くなったな」
伝蔵は笑顔でそう言ったが、半助のほうはにこりともせず、
「このたびは本当に何から何までお世話になり、ありがとうございました」
と礼を述べた。その様子はあまりにも儀礼的で、伝蔵が来たら言おうと用意していた言葉を並べただけのようだった。
 それには構わず、伝蔵は一通の書状を半助に差し出した。半助は不思議そうな顔をして伝蔵を見た。
「あまり何度も頼み事をするのは気が引けたんじゃがな」
それは和田水軍、鬼宿丸からの手紙だった。
「開けてみなさい」
 たった2行の手紙だった。間違いなく鬼宿丸の無骨な字であった。
『歩けるようになったら遊びに来い。
  また船に乗せてやるぞ』
 たったそれだけの手紙を、半助は何度も何度も読み返していた。「船に乗せてやる」。その一言がただ嬉しくて嬉しくて。
 半助の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
 それは先日見せた涙とは全く違っていた。まるで幼い子のようだった。
 やがて落ち着くと、半助は照れくさそうに涙をふいた。
「わたしは泣き虫ではないのですよ。両親を亡くしてからこんなに泣いたのは初めてなんですから」
弁解するようにそう言ってはにかんだ笑顔を見せた。
 伝蔵は、なんとはなしに、ああ、これで大丈夫だと感じた。








壁紙変えました。「ただ今日咲いているというその事実」というタイトルです。




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