Abend Lied 17




 伝蔵はその後もしばしば見舞いに訪れた。その間にいろいろな話をした。
 半助は自ら好んで自分のことを語りはしなかったが、すでに出自を伝蔵に知られているせいか、伝蔵が問えば嫌がりもせずにぽつりぽつりと今までのことを話した。
 そのようなことも初めて話したのだという。決してだれにも話さず、本当の自分のことを隠し続けてきた。それはつまりだれにも心からうち解けることとてなかったであろう、その十数年という歳月を、伝蔵は思いやった。今もなお、つらかったとも悲しかったとも言わない半助の真情を、伝蔵は学園に戻っているときでさえ、ふと思わずにはいられなかった。
 半助が杖を使わずに歩けるようになったのは、すでに梅雨が明けるころだった。そのころになると半助は、これ以上ごやっかいになるわけにはと、一度翠庵の家を辞そうとした。が、翠庵がそれを留めたのだった。
「まだしばらくはここにおれ。ちゃんと使い物になるようになるまではの」
 半助は少し考えたが、その意味を悟って翠庵の言葉に甘えることにした。
 それから半助は、家の中のことを一切引き受けて翠庵を助けた。そればかりでなく、半助が薬に詳しいのを見て取った翠庵が仕事を手伝わすと、これが案外性にあったものかどうか、面倒見は良いし、年寄りや子供には優しいしで、あっというまに患者たちに慕われて、だれからともなく「半助先生」と呼ばれるようになってしまった。
 そうして平穏な月日が過ぎる中、半助はその胸のうちでは悶々としていた。自分がこれからどうしたいのか、それが見つけられなかったからだ。
 翠庵は時折、このままもっと勉強して医者になれと冗談半分で言うことがある。「そうすればいつわしがおっ死んでも皆安心じゃろうて」と。あるいはまた、子供になつかれる半助を見て、寺子屋でも開けとからかうこともある。あるときなどは、どこそこの村の庄屋がぜひ娘の婿にと言ってきたぞと、真面目に持ちかけられて閉口したこともあった。そのときは、わたしは一人息子ですので、と角の立たない断り方をしたのだったが。
 いずれにしても、そんなことを勧めるところを見ると、やはり自分はもう忍者としては復帰できないということなのだろうかと気分が沈んでくる。
 翠庵のところにはよく忍者たちが訪ねてくる。傷の治療に来て、その傷を負った状況を翠庵に説明する。薬や毒薬を調合してもらいにも来る。どのようなものがほしいと説明する。そのようなとき、その言葉の端々に独特の緊迫感が漂う。
 半助はそれをうらやましいと思ってしまう。なぜなのか自分でも分からなかったが。元々忍者になりたくてなったわけではない。そうするよりほかにない成り行きになっただけのこと。今もどうしても忍者に未練があるのかと問われればそういうわけではない。
 だからいっそ、本当にこのまま医者になろうかとも思う。裕福でもない、偉い人でも何でもないそこここの村の年寄りやら女子供、そんな家族を支えるために泥まみれになって働く男たち。そんな人々が心から「ありがとう」と言ってくれる。道で行き会えば裏のない笑顔を向けて声を掛けてくれる。そんなことは半助の人生で初めてのことだった。そして、そんなことがこれほど幸せなことだとは、今まで知らなかった。
 それなのに、なぜだろうか。頭の中のどこかに、納得しきれない自分がいる。いくらなりたくてなったわけではないといっても、一人前の忍者になるための修行と努力は並々ならぬものがあり、それがようやく波に乗りかけたところで、よりにもよってあの喜平次という男の手で切り断たれたことが理不尽に思えてしまう。それは若い半助にとっては当然であり、仕方のないことだった。
 そしてそんなことを思いながらずるずると、ついに翠庵の元に来て1年が過ぎようとしていた。

「ここからが正念場じゃの」
翠庵は半助たちが去ったのを確認して、もう一度茶をすすってから言った。
「正念場、とは?」
ここまでになれば、と安心していた伝蔵は意外な面持ちで翠庵を見た。
「あれはの、もしできることなら忍びに戻りたいのじゃろうて」
「それはもちろんそうでしょうけれど……しかし足のほうは?」
「今はまだ駄目じゃな」
「今は? ということは復帰できるほどにまで治ると言われるか?」
「それは保証できんわい」
翠庵は飄々として答え、身を乗り出しかけた伝蔵は、なんだ、と落ち着き直した。
「じゃがな、あいつは夜になると山へ行って、必死でリハビリしとるようじゃ。しょっちゅうあちこちに青痣やら擦り傷やらつくっとるわい」
伝蔵は少しじれてきた。
「それでどうなのです。もし見込みがないなら、そう言ってやったほうが親切というものでしょう」
「それがそうとも言い切れんのじゃて」
「なんとはっきりしない。名医とも思えぬ言いようですな」
伝蔵の皮肉にも、翠庵はまるでこたえない。
「名医じゃから断言できんのよ。藪ならとっくに見放しとるわい。そうでなければぬか喜びさせるかどっちかじゃろうよ」
伝蔵は黙った。それはそうなのであろう。
「じゃからの。あとは本人次第じゃよ。ほんのわずかでも見込みがあるならやるというなら、わずかの見込みも大きくなろうて。じゃが、それでももし駄目だったとき、どうしようもなくなるような柔な男なら最初から諦めたがよい。伝蔵殿はあやつをどう見るかの」
 そう言われても、伝蔵にしたって何もかも分かっているわけではない。むしろ、話せば話すほど土井半助という男がつかめなくなってくるような気がしていた。
 柔な男、ではないと思う。驚くほどの精神力を伝蔵は見せられてきた。年齢以上のしぶとさ、強さを持っていると思う。が、かといって強い人間だと思ってしまうとそれもまた、逆にひどく繊細で脆い一面があるようでもあり、これ以上絶望させることがあっては壊れてしまいそうで怖くもあった。
 どうしたら……。伝蔵は答えを出せぬまま、半助の帰りも待たずに自宅へと帰った。    








もっと短くするつもりだったのですが、1年間を凝縮するのは難しかったです。次回、いよいよ最終回です。




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