第十二章

 すでに星が輝きはじめていた。
夏の盛りは過ぎ、宵の風は少しひんやりとし始めていた。
 ふえは、旅支度の半助と肩を並べ、心地よい風を楽しむように歩いていた。
「こっちのほうが近いのよ」
そう言ってふえは、小さな川沿いの道に半助を案内した。
 少し行くと、半助はふっと思い出し笑いをした。
「そういえば、ここらで初めて千沙さまたちに会ったんだった」
「そうだったの」
「足をくじいて泣いていたから、ついおせっかいしたのが運のつきだったなあ」
そう言いながらも半助は決して迷惑そうではなかった。
「あんな人騒がせな姫君だとは思わなかったでしょう?」
ふえはからかうように言いながらも、どうしても言葉にトゲがある。
「まあね」
半助は苦笑いしながら言った。
「でもわたしの周りには人騒がせなやつばっかりだから、慣れてるよ」
「おせっかいしなけりゃいいのよ」
「わたしだってなにも好き好んでかわわりになってるわけじゃないんだよ」
半助は少し頬をふくらませて主張した。
「おせっかいといえば…」
 ふえは城を出てからずっと半助に聞きたかったことを聞いた。
「なぜあんなことを言ったの? 一清さまに」
「……」
「びっくりして、一瞬どう答えていいのか分からなかったわ。せめて事前にあたしに言ってくれたらよかったのに」
自分は気が動転していたことなど棚に上げ、ふえは文句を言った。
「んー、なんでって言っても……」
半助は少し考えてから、ばつの悪そうな顔をした。
「わたしもどうしたらいいか分からなくて、土壇場で咄嗟に出たことだから、事前に打ち合わせようにもできなかったんだ」
 ふえは、あいた口がふさがらない、という思いだった。
「じゃあ、あたしに、自分に任せろって言ったときには……」
「うん。まだ何も考えてなかった」
平然と半助は言ってのけた。
 ふえは腹が立つのを通り越してあきれた。
「そういうやつよね、あんたって」
「悪かったね」
「いいけど、もしかして自分が手討ちになるかもしれないとは思わなかったの?」
「そうなったら逃げるつもりだったよ。おとなしく手討ちにならなければならない義理はないしね。逃げるのは専門家だからね」
半助は笑いながら答えた。
「あたしは心臓が止まるかと思ったのに。心配して損した!」
ふえはむくれて横を向いた。
「いや〜、悪い悪い。おい、頼むから今日は殴らないでくれよ?」
半助のまじな口調に、ふえはよけいにむくれた。

 小道はやがて街道へ出た。
「でも、どうして?」
ふえは機嫌をなおしてまた尋ねた。
「なんで一清さまのために、そんなに一所懸命やってくれたの?」
「なりゆき」
「うそ」
半助は困ったようにふえをちらと見やった。
「はじめは本当になりゆきだったんだよ。また妙なことに巻き込まれちゃったな、なんて思ってたんだんけどね」
 そう言って半助は何か思い出すかのような顔をした。
「わたしは、一清さまとは逆に弟を亡くしたんだ。戦でね」
 ふえは息をのんで半助を見た。
「まだ幼かったのに……わたしの目の前で……」
淡々とした口調だった。
「わたしはだれも守ってあげられなかった。だれも助けられなかった。だから加賀の人たちを守りたいという一清さまの気持ちが分かる気がするんだよ。わたしだって、今目の前にいて守ってあげられる人がいるなら、できるだけのことをしたかった。それだけのことだよ」
 ふえには半助の気持ちがよくわかった。
「いやな世の中よね」
 ふえはため息をついた。
 隆房は、だから戦のない世を夢に見て、自分なりにそれを追い求めたのだろうか。そう思うと隆房が言っていたことも、受け入れがたいにしても「間違い」ではなかったのかもしれない。加賀を裏切ったつもりはないというのも言い訳ではなく、彼にしてみれば誠心誠意そう信じていたのだろう。
 安住との関係も、「どうせお互いさま」と半助は言った。加賀を守ることだけが正しいことと信じて生きてきたふえは、この戦国の世の“正義”とは何なのか分からなくなって、暗澹とした気分になった。
「これから大変だね」
 物思いに沈んでいたふえに、不意に半助が声をかけた。
ふえははっと我に返った。
国境を告げる道標が見えてきた。
「わたしはもう二度とここへは来ないだろうし、元の生活に戻ればすむことだけれど、ふえ殿はこれから一生一清さまに嘘をつきとおさなくてはいけないんだからね」
 そうだ。そうなのだ。ふえは改めて覚悟を決めなければならなかった。
「無責任なことをしてしまって、かえって悪かったね」
「いいの。一清さまの手で隆房を殺させずにすんだもの。ありがとう」
そう言ってふえは笑顔を見せた。
ふえの言葉に半助も微笑んだ。
「あたしは大丈夫よ。きっと嘘をつきとおしてみせるわ。だってあたしが一清さまを守りたいんだもの。大義名分なんか関係ない。大切な人だから守る。少なくともそれは正しいことでしょう?」
 半助は、ちょっと理解しきれていない顔をしたが、ふえの決意をそぎたくなかったのか、
「そうだね」
と言ってうなづいた。
 言い足りなかったことを補足するかのように、ふえは静かに言葉を継いだ。
「あたしも守ってあげられなかった人がいるの」
「お父上?」
「いえ。父のことももちろんなんだけど……好きだった人がいたの」
言ってしまってからふえは自分で驚いた。ごく自然にそんな言葉が出てきたことに、何より驚いていた。
「身分違いだからあたしは諦めていたけど、あの方もあたしのことを好きだと言ってくださったの。そして、戦うことがお嫌いだったのに、『ふえのためなら強くなれる』とおっしゃって……そのまま帰っていらっしゃらなかった」
半助は黙って聞いていた。
「行かないでって言えばよかった。あたしと一緒に逃げてって言えばよかったのに、どうして止めなかったんだろう……」
「言ってたら、その人は生きてた?」
半助が優しく尋ねた。
「ううん、多分だめね。でも、もう後悔したくはないの。だから、一清さまのことはきっと守ってみせるわ」
「その意気、その意気」

 二人はもう、道標の前まで来ていた。
 ふえは、自分もそのまま国境を越えて遠くへ行ってしまいたい衝動にかられた。
(逃げるものか!)
踏みとどまるように、ふえは足を止めた。
(後悔したくない。だから……)
 ふえは半助に向き合って、今度は少し勇気を振り絞って言った。
「あたし、あたしね、あの方が亡くなられたとき、もう二度と、一生男の人なんて愛せないと思ったのよ」
落ち着いた口調だったが、結ばれぬままに恋人に死なれたその悲しみははかりしれなかった。
「だから、自慢じゃないけど縁談もあったし、言い寄ってくる男も山ほどいたけど、いつもあたしの理想は一清さまよって言っていたの。そうすればその人のことをいちいち話さなくてすむし、相手もすぐ諦めるからね」
「だろうね」
半助はくすりと笑った。
「ああいう手合いはめったにいない」
ふえと半助では、一清に対する評価に差があるようだ。
「でも、あんたに会ってから……」
ふえは言いかけて一度言葉を切った。それから続けようとして口を開いたが、すぐにつぐんで小さく首を振った。
「でも、世の中にはいろんな男がいるなって……いつか、あたしも誰かにもう一度恋することができるかもしれないって、思えるようになったわ」
 そう言ってふえは、半助の反応を確かめるかのようにじっと見つめた。
「え? えーっと……」
 半助はふえの意図をはかりかねているようだった。こういうときに気の利いたセリフの出てくるたちでもないらしい。
 ふえは、しばし半助の顔を見つめていたが、やがてくすっと笑った。それからコロコロとおかしそうに笑い出した。
「な、なんだよ」
笑われた半助はわけが分からず頬を紅らめた。
「いいの。とにかくありがとう」
そして何かを振り切るように付け加えた。
「さよなら」
「うん。さよなら」
 半助もそう言うと、安住に向かって歩き始めた。
ふえはそこに立ち尽くしたまま、半助の背中を見送っていた。
(ありがとう。あなたは一清さまのように優しくて、強くて、頭が良くて、その上ニブチンだったわね)
 半助が一度振り返って、笑顔で大きく手を振った。
ふえも笑顔で手を振った。
(そして、一和さまのように大人だったわ)
 半助はまた歩き出し、やがて夜の中へ消えていった。
 ふえはくるりときびすを返し、来た道を戻り始めた。
(明日、一清さまと顔を合わせづらいなあ)
つらつら考えながら、ふえは歩いた。
(でもまあ、きっと何とかなるわよね)
半助の顔が思い浮かんだ。そうすると、何とかなるという気がしてきた。
 ふえは晴れやかな顔で、一人星空の下を歩いていった。  







 

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