高遠

天文14年(1545)甲斐の武田信玄は高遠の領主であった高遠頼継を降伏させこの地を奪取しました。その2年後、信玄は高遠城の大改修を命じ、この城を南信州の拠点としました。この大改修を取り仕切ったのが、かの山本勘助であるといわれています。

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城内には、本丸を中心に土塁や石垣や空堀をめぐらした曲輪が造られ、現在も山本勘助の名にちなんだ勘助曲輪や笹曲輪、南曲輪、法幢院曲輪などが残っています。古い絵図などによると、勘助曲輪は東西17間(約13m)南北24間(44m)の広さがあったといわれています。

高遠

古くから伊那谷の要所であった高藤城は、武田方仁科五郎盛信と織田信忠の攻防を最後に戦乱の時代の幕を閉じました。その後208年余が過ぎた明治4年(1871)廃藩置県となり、翌5年高遠城の建物は民間に払い下げられ、旧藩士達が桜の馬場から桜を移植した城跡は、明治8年(1875)城址公園となりました。

高遠

公園北口には休憩所・会合の場所として利用されている登録有形文化財「高遠閣」があり、その他公園内には太鼓櫓、当時の空堀や土塁、無字の碑を始めとする数々の碑文等があり古きを偲ぶことができます。

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タカトオヒガンザクラは明治8年頃から植え始め、樹齢130年を越える老木を含め、現在では1500本の樹林となっています。その花形はややこぶりで赤みを帯び、その可憐さと規模の大きさは「天下第一の桜」と称されるほどで県の天然記念物の指定を受け、平成2年には日本さくらの会の「さくら名所百選」に選ばれています。

高遠

高遠町歴史博物館近くに擬似天守の建物があります。(上から2番目の写真)どうも歴史的建造物ではなさそうですが、地元の熱狂的なファン?のご自宅の蔵のようなのです。どういういわれのある建物なのか真相をご存知の方がいたら教えていただきたいですね。