順次 制作中 | 嬉しい明るい気持ちはピンク赤の文字or背景 | |
; | 哀しい辛い気持ちはブルーの文字or背景になっていますので | |
; | 皆さんのその時の体調に合わせて、選んでお読みください。 |
入院日数考 | 〜以前より | ||
192日間 | 1994(平成6年) |
以前より〜
病気 | どちらかと言うといつも下腹がすぐれない感じ。 膀胱炎になりやすかったり、太目のせいか、下腹がすぐれない感じがありました。 1人目はすぐ妊娠したのに、5〜6年たって2人目が欲しい頃にはなかなか妊娠出来ませんでした。 不妊治療を受ける程では無い。と思っていました。 しつこい腰痛持ちでした。 |
心の中 | 母が子宮筋腫持ちだったので、筋腫の覚悟はありました。 主人が長男の為、主人の家族と同居して、心身ともに酷使しました。 専業主婦でお気楽なようで、PTAの役員も忙しく、なかなかハードな日々でした。 バブルがはじけ我が家の経済もより深刻になりました。 |
世の中 |
1994年(H6年)
病気 | 12月不正出血少しあり(ちょっとでも不安系人間)すぐ病院へ頼みもしないのにまたガン検診。 もちろん陰性でした。 ガン家系では無いので、ちっとも心配していなかった。 2人目も欲しいのですが、と女医先生に話すと、 「子供が欲しいなら、基礎体温を付けなさい。」と言われる。 低学年の息子が「弟が欲しい。」と、言い出す。 結婚して、すぐ子供が出来た自信あり。自然に今度は女の子に恵まれるだろう、と考えていた。 |
気持ち | 検査結果を聞く度、 ガンな訳ないじゃん!と毎回心の中で思う。 (頼みもしないのに、何故WHY検査するのか?不思議なくらいですぅ。(?_?) 我が家の家系はガンが一人もいないので・・・。全然、安心。 私は癌には、なるまい。・・と、強い確信を抱(いだ)き中の頃。 |
世の中 | 中華航空機名古屋空港着陸失敗 細川首相から村山連立内閣へ 家なき子 RAV4 ♪空も飛べるはず(スピッツ) ♪恋しさとせつなさと心強さと |
1995年
95年6月〜 | 病気 6月なんとなくチロっと出血。また、潔癖癖で受診。 6月中旬 な・な・な・なんと、「異形の細胞があり。」と即日宣告受ける。 「大丈夫よぉ!・・・アラっ。・・・!?」あの時医師がもう一度カルテを見直さなかったら、私はOKで済んだに違いない。 癌患者のカルテって、付箋紙が付いているとか、赤丸が付いているとか、そんな特別になってないのでしょうか? 「あのね。異形の細胞が見つかったので、えーっと。この日がいいわね。」と女医は普通にカレンダーを指指した。 異形の細胞って癌!?と思いながらも、 医師より最後まで癌と明言されず、即日検査入院日まで決められ、 その慌ただしさに、気が動転するヒマも無く、その日のうちに出来うる限りの簡単な検査にふり廻された。 兄より担当医師に確認TEL。 当時、没交渉ではあったが、関西の○○市民病院で産婦人科医師をしていた 次兄(8つ年上)に、母を通して聞きまくる。 結局、心配した兄は直接担当医師にTELでコンタクトをとってくれて、ごく初期の子宮体部ガンと判明。 広汎手術を予定と、担当医師より、(次回の診察日より早々に)兄に詳しい情報を戴く。 「いい医師だ。」と兄からの助言もあり。自分も同じ様なオペをする。とアドバイス。 実兄が、よりにもよって婦人科医師という事で、安心でも あったが、だからといって、 婦人科系の症状ををアレコレと 実兄に聞くことは、はばかれ、ビミョウーな感じだった。 でも肉親に医療関係者がいる事は、ガンのように大きな病気の時には、すこぶる安心感があるかもしれない・・。 始めの大病院。当時まだ移転前で古い建物でMRIが無く、そのあたりで 兄が、設備に疑問を持ちだした。 「他でも診てもらったら?」と兄に言われ、そうだ!と、鵜呑みにして ○○市大病院で紹介状無しに今までの説明をして婦人科の受付でガン検査及びオペの希望の旨で受診したら、 そこの若めの中年の医師にすご〜く怒られて、門前払いを喰らう。 「君なんかはここでは3ヶ月先だよ。前の病院での今までの検査の時間。料金。病院で使った君への検査の ムダな時間は戻ってこないんだぞ。いい加減にしろ!バカ言うな!帰れ!」まさに、そんな、対応でした。 (言い過ぎじゃないもん。ほんとだもん。そう感じたんだもん。)(-_-;) 突然吹き矢に当たったような苛酷な運命におびえきって弱っている私に対し、彼はにらみつけながらそう吐いた。 その病院、一瞬で大嫌いになった。 そのひどすぎる対応のまま、同じ駅にある、一番行きたいK病院へ、今度は黙って受け付けに初診の手続きをした。 若い女医だった。やさしい微笑みを浮かべ人間らしい受け答えで、私は満足して全てを委ねようと直感で決めた。 2週後に結果が出ると言うことだったが・・・早々に看護婦さんから直接家に電話が入った。 「出来るだけ早く結果を聞きにくるように・・・。」感激した。わざわざ家までTELを戴いて・・・カンペキにほだされた。 患者だって、大事な大事な宇宙より大事な自分の命を預けるんだ。 惚れた病院とその医師に、自分の運命を託したいもの。 セコンドオピニョンにも確定で、私は立派な子宮体ガン患者になった。 1週間後。病院を実家の近くのK病院へ変更すべく、1番目の病院にキャンセルのTEL.。 本当は同じ市内の病院へ移院したのだが、「遠い郷里の他県の実家の近くの病院でオペを受けます」と 受付に嘘TEL入れる。今までの検査結果資料を転院先の病院に送りますか?と聞かれドキドキしたが大成功だった。 直接医師とも話さず済んだし。どっと疲れた。大仕事だった。運命をきり拓くのは大変。 その後は病院の指定どおりに、検査を受けたのだと思う。 あまり、記憶が無い。 きっと、まな板に乗った鯉状態だったのでしょう。 痛い注射、検査の時は、子供の顔を思い出し耐えた。 母が35年前に受けた子宮筋腫の手術の時「お前の事を考えて、耐えたよ。」 と、言われたのを思い出したから・・。良く効く。 当時の書き込み手帳が、今どこかに紛れました。捜索中 |
95年6月〜 | 気持ち、心の中 癌宣告という、極めて、劇的なデリケートな事象を、薄〜いカーテン越しに、 大勢の見知らぬ女性患者の耳目の前で筒抜けの状態で受け、 その後の気の毒そうな多くの視線を浴びながらも、 「私、割と平気ですから・・。」のフリが辛かった。(何故平気そうに振る舞いたかったかは、分からない。) 急に今までの30ウン年。大事に構築してきた自分自身全てを(いいかげんな時が多かったけれど)、 一気に否定されたような、みじめな空気に一変した。 どうしてこんなことになちゃったんだろう・・・。 (気が動転しているのに考えたって、そんなの尚さら分かるはずがない) でも、どうして私が?・・・・ どうして私じゃなくちゃいけないの・・・・? 何か、気がつかないうちに、神様に対し恨まれるような事をしてきたのだろうか・・・? 焦る気持ちは、見ている物、全てのフォーカスを乱した。心ここにあらず。 ドキドキドキドキしていた。 急に全く思いがけずに受けた「異形の細胞宣告」。 その日のうちにあわただしく受けた検査の合間に 何回か公衆電話から、実家にTELを入れたり、主人にTEL入れたり 喉がカラカラで検査のお小水も出ず自販機で飲み物買ったり、外の空気を吸いに行ったり、 病室に戻るのが遅くなってしまった。 小太り看護婦に「先生に待っていただいたのよ!」とこっぴどく叱られた。 それにしても、レントゲン室とかすごく混んでいた事実もあるのに・・・・・・。 惨めな哀しさが、ジンジンこみ上げてきた。 もう2人目が欲しいどころか、癌で死んじゃうのかもしれない私。 宣告の日の帰り道。もうフラフラなのに、どっかで気持ちだけはしっかりしなくちゃ!モード入っていて・・・。 よくぞ歩いて帰れました。えらいぞ!私。 癌宣告の帰り道、昼さがりの繁華街。皆、元気で幸福そうに歩いている。 私は不幸がバレないように胸を張って歩いたつもり。 仲良くしていた幼稚園からのいっこ上の奥さん(同じ一人息子いっこ上)に偶然会った。 「久しぶり。」 正直に手術のこと、話したら、涙が出て来ちゃって、「ローズさんらしくない。元気出して。」・・と言われた。 あの時、優しい方(ほう)のママに会って良かった。イヤな苦手なママに会ってたら、哀しい。 (でも、筋腫止まりのウソの説明をしたけど) 本屋でも夢遊病者の様に、医学書、子宮癌読みあさる。 それから、喉から下。95%。寝ても醒めてもガンの事ばかりになる・・。 (気配) そう言えば写真写りが、最近老けてたかも・・・。と当時思っていた。年齢だろうし・・・。 腕の内側の皮膚のハリが、無さ過ぎたかも・・。 事実として受け入れなくてはならない事実と そんな筈無い!なんで私が・・!何か悪い事をしてきてしまったのか・・? と叫びたいような不条理への混乱感というか不信感。 ああ。森羅万象への命乞い、懐疑心、猜疑心のはざまの中で・・。 パニックった気持ちは、早鐘(はやがねの鐘)の様にどうきを刻み、ちっともそれに慣れる事が無かった。 一瞬無理に自分を導き置こうとする平静心は、全くの嘘っぱちだった。 ガンという悪名高きエイリアンは、「孤独感」という井戸の中に私を落とし込んだ。 気合い、拝み、体操、精神の持ちよう、呼吸・・・・etc・・・ ありとあらゆる事でそんなに初期の癌なら消えるかも・・・と信じる希望が溢れていた時期でもあった。 ガンにおいて奇跡のくりひろげられる本を本屋で探し、立ち読み、買った時期でもある。 7月 当時子供達10人(男女半々)近く連れて「トイレの花子さん」の映画を観にいく。親は私1人。 元気な一人っ子の専業主婦の私は、そういう役まわりだった。 どの親よりも不健康な私が、ふさぐ気持ちをおさえて、はしゃぐ子供達の引率をする。 心ここにあらずの、その只中の時期に・・・。 街を歩いても、映画館にいても今見るこの幸せなシーンは見納めか?もう見れないのかもしれない。 つぶされそうになる恐怖心に包まれていた。 しかし、多くの友人と一緒にはしゃぐ我が子の嬉しそうな笑顔を見るのは、親冥利につきた。 皆でキャーキャー言って映画館の暗がりではしゃいだり、その後、近くの噴水公園のせせらぎ水に脚を浸したり、 女の子が欲しかった私に、女の子たちのおませな可愛らしさは、大好物だった。 嫌味(けれんみ)の無い明るい子供達の元気な声、柔らかい肌の中で、 「今、この子を残して死ねない。誰が護るの?」 腹底から、薄く消えかけていた生きる生気を、呼び醒まし奮い起こさせる、いい機会となった。 「たんぽぽ」という映画で、死にかけた母が「母ちゃん、飯を作れ!」と言われ、その言葉で意識が戻り、ムクと起き、 食事を作り出すというシーンがあった。最後は赤ちゃんが母乳を飲むシーンだった。 すごく思いだしていた。 |
95 世の中 |
1.17阪神大震災 3.20地下鉄サリン事件 小室哲哉 キムタク NOMO TVドラマ王様のレストラン(ラストソング平井堅だったのね) MY LITTLE LOVER ♪蒼いうさぎ(星の金貨主題歌) ♪LOVE LOVE LOVE(愛していると言ってくれ主題歌) ♪ら・ら・ら(中居クンドラマ) ♪ズルい女 ♪風になりたい ♪逢いたくてしかたない(郷ひろみ) ♪TOMORROW(岡本真夜) ♪涙の数だけ強くなれるよ アスファルトに咲く花のように 見るものすべてに おびえないで 明日は来るよ 君のために〜(んーいい唄(^_^)v) |