1995年(H7) 7月 〜8月〜12月
ごめんなさい。 当時の資料が全く見つかりません。 きっと、あのバインダーにあると思っていたバインダーがさっき、見つかり、 良かったぁ。(*^_^*) ・・と、思ったのも束の間、開けてみると、全く、違う中身(ノート)に変わっていました。 そう言えば、いつまでも思い出して「嫌だなぁ。」・・という思いで、 別な所、(場所移動か?廃棄か?覚えていません。)に移してしまったような・・・。 その頃は、まさか、のちのち、HPなどに細かく記入するなど、考えもせず・・・ どっかに、いってしまいました。 残念です。 ごめんなさい。<(_ _)> ウロ覚え記入ですが・・・。 <病院の選び方> 実家の近くのK共済病院での手術が決まると、・・・ とたんに、記憶が失せます。 それまで孤軍奮闘、一人で、「子宮ガンだ。死んじゃう。どうしよう!」・・と、あせってた気持ちが、 子宮ガンの手術決定という、避けられぬレールで、観念した。というか、 寧ろ(むしろ)、実家の近くの病院ということに、ホッとしたのかもしれません。 入院しても、実家の両親がお見舞に来やすいし・・・!(*^_^*) 毎日のように来てくれるかも・・・!という条件が、最も、私にとって大切な事でした。 嫁ぎ先から電車と徒歩で1時間ばかりのK病院は、 病院中歩き回っても、私の顔を知る人はいなくて、安心でした。 周りにビクビクしなくて済んだというのも、 長い闘病生活において、好条件でした。 知り合いがいっぱいいたら・・・、 「あら?○○さん。パジャマなんか着て、入院?・・・」 世間は狭いです。近所の奥さんが同じ時期に入院している方、 売店に行くにも入院がバレない様に着替えていく方・・・。など用意周到な方もいらっしゃいました。 病院が実家に近いということは、 長兄家族が実家に同居している為、気兼ねで里帰りを控えていた私にとって、 入院生活は、両親に気兼ね無く、甘えられる、実家の役わりを果たしていたのかもしれません。 <入院生活> 入院は8月1日から31日までのちょうど1ヶ月間でした。 7月、いろいろと検査を施されましたが、言われるままでした。 入院時、念入りに塗ったマニキュアも一発で落とす様に言われ、爪も短く切るように、 せっかく黄金色にブリーチしたすね毛も、剃毛タイムで、一切無駄であった事に気付きました。 この頃からもう自分を消す事に・・・。そして神さま仏さま。 恐怖のガンへの、命乞いの時間が静かに流れます。 主人はどんなに短い時間でも、バイクに乗って、毎日来てくれました。 それは、ラッキーな事でした。 今まで一人ぽっちでガン宣告を受けていた哀しく淋しい気持ちが、 6人部屋に通されて、どうやら、同じガン患者がいそうな気配で、 急に仲間を得た喜びで、饒舌にパワフルにアクティブに明るいものに、変わっていきました。 自己紹介、そして相手の具合。フムフム聞いて、「がんばりましょう!」・・とエール交換。 どんなにか、同じ仲間がいる事を知った時の喜びは深いものでしょうか! それでも、実際には、絨毛ガン、卵巣ガンの患者の方はいらっしゃいましたが、 子宮ガン患者はその時は、入院中、一人も会う事がありませんでした。 その後、再発までの2年間あまり、PCも知らない私は、世間という大海に、 子宮ガンという大罪を負って、一人プカプカ心細く、浮いていたのです。 再発の恐怖という錨(いかり)を引きずりながら・・・。 <手術> 手術は息子の誕生日と同じ日でした。 よりにもよって、同じ日に、私は息子を宿した大事な子宮を永遠に失う。 まして、もしかしたら、子宮ガンで死んでしまうかもしれないのだ・・・。 準広汎手術が決定。両方の卵巣を残しますと言った若い女医。 いつも左腹が痛む私は、「左の卵巣だけ取って下さい。」・・・と直前の説明時に頼みました。 ドクターに意見するのは、なかなか勇気がいるものです。 でも、その後左腹が痛んでも、卵巣ガン?!・・の恐怖までは、感じずに済みました。 麻酔医の説明って、単独にわざわざご説明受けますよね。 ベッドまで来て戴いて・・・。 あのナーバスな、あの時期に・・・。 でも、患者って、「はい、そうですか。どうぞ、宜しくお願いします。」・・・しか、言えないですよね。 術前の絶食、浣腸の儀式もイヤですよね。さながら、まな板の鯉状態ですね。 飲み慣れない眠剤の一粒が効いたのでしょう、 悲劇のヒロインの様な・・・。でも、私は運が良いんだ!って自分に言い聞かせた夜が明けました。 ・・・でも、ごめんなさい。<(_ _)>あんまり、覚えておりません。 当日の手術は、時間通りに終わった様です。 ・・・背を丸くして麻酔の注射を受けたり、笑気麻酔で気を失う直前まで、私は、 「どうぞ神様、このドクター達が一番いい仕事が出来ます様に!」・・・と いい方にいい方に、念じ続けるのでありました。 「ローズさ〜ん。ローズさ〜ん。」遠くの方から私を呼ぶ声がします。 麻酔が醒めた時の寒さは、歯の根がガチガチ鳴るほどでした。 麻酔から起こされた時、「ありがとうございました。」・・・とあらん限りの大声で ドクターに言った気がします。 いいぞ!いい人みたいだ。 ガラガラガラガラ1Fの長い渡り廊下を、ストレッチャーでデコボコ運ばれます。 生きてる!痛い! 脇を通る人々の声が遠くの音として聞こえてきます。 個室に戻ると、部屋の中の話し声が全て脳に入ってくるようで、気分が悪いのです。 特に姑の声が、耳障りで、わがままついでに、部屋から退室してもらいました。ヤッタ!(^_^)v 主人に手を握ってもらって、少し安心したかも・・・。 看護婦さんが、ご主人泊まっていっても、いいんですよ。・・とひやかされた記憶あり。 そんな、ラブラブじゃないんだ。痛くて、心細いんだぁ!・・・でもやがて、パパは帰ってしまった。 夜中に一人で寝ている時も、5分毎に目が覚め、時計を見るとグラングランして・・・。 ほんと、大手術でしたね。くわばら、くわばら・・・。 麻酔が醒めて、関西在住婦人科医の兄がなぜかいた様な?記憶うっすらあり。(来てくれたんだぁ。) 「痛み止めはナースに遠慮なく要求するように!・・・」・・・と兄が言ってくれたみたいな記憶。 だから、遠慮無く、さかんに痛い!痛い!、痛み止めを!!・・・と要求。 初期の頃、ナースコールいつも鳴らしていた様な・・・記憶あり。 絶対、正直に痛がる方が得策。 痛み止めは、さすがに痛みが緩和していきます。 <術後、〜退院まで> ごめんなさい。あまり詳しく覚えていません。・・・でも痛かったです。 お腹切ったんだもん。内蔵の一部、切ったんだもん。 痛いに決まってますよね。 食事をすると、排泄しなくてはならないので、困ったもんだ。 ナースはお下(しも)の事してくれて、ほんとうに、ありがとう!m(_ _)m ドレーンが股の間から左右ひかれている自分としては、 ベッドの上で体を動かす事も出来ず、数日間はほんとに辛かったです。 そのドレーンを研修医みたいな人が抜く時、左の方が痛くて、 ギャオウ〜オ〜!・・・と思わず叫んでしまった。 汚れきった髪を看護婦さんにシャンプーしてもらった時は、とても嬉しかったです。 人生のシャンプーのどんなタイミングより、嬉しいひとときでしょう。 優しい看護婦さんと、冗談まじりに、キチャナイ髪をシャンプーして貰えた時、 (シャンプー椅子にお腹の腹筋力が無くて横たわるの大変だけど・・・。) 少々襟あしの残った泡が気になっても、看護婦さんと患者の心を繋ぐ、 とても大切なそして幸せな時間だと思います。(*^_^*) 暫くは排尿がしたいとかの感覚、自己排尿の力(ちから)が失せきり、 時間を決めて、処置室で看護婦さんに導尿してもらいました。 これが、痛く、みじめで、特に自分は劣等生だった。 「道のりは長いはね・・・。」処置後にナースに言われた一言に、 ひどく傷ついた、繊細な時期だった。 でも、どうにか退院時までには、自発排尿出来たし・・・。(力んで・・・やっと) 個人差があるようだが、自宅で自分で自己導尿するような、大変な方も少しずつ良くなられるようだ。 周りには「子宮筋腫の手術なの・・。」と説明していたので、筋腫と信じ、 何チームかのお見舞が来てくれた。 これが、大変だった。 だって、筋腫じゃなくて、子宮ガンなんだもん。 筋腫は1週間で退院しちゃうから・・・と、わざわざ術後1週間もしない頃、見舞客が集中して来てくれた。 ベッドの上に座るのもお腹は痛いは、導尿の時間は必ず来るは・・・で、 嘘をつかなくちゃならない罪悪を、ガン患者であるばかりに、 ヒシヒシ感じなければならない。なんてこったぁ。 OH MY GOD! (*_*)(@_@)(?_?) オペ直後の、売店までの道のり、一歩一歩、それは長い長いとてつもなく遠い道だった。 手すりにつかまり、やっとの思いで、売店まで歩く。 リハビリも兼ね、本当に亀の歩み。 多くの人に追い抜かれる。歩く事さえままならぬ。 「私、歩ける様になるのかなぁ?」・・・急に自分の躰が自分のものじゃ無くなる日。 ・・・でも、いつかは、元気に走れるまでになるのだから・・・からだの不思議。日にち薬。 とにかくの問題は、この後、私は化学療法=抗ガン剤を受けるかどうか・・?だ。 卵巣ガンの皆さんが可愛いキャップを被って、いつも集まっている。 白血球の数をピーチク・パーチク小鳥の様に教え合ってる。 あの治療だ。 あの治療、ベッドの脇のポータブルトイレ置いて、真っ青な顔してる。 ああ、あの治療。仁科明子が今週号の週刊誌に書いていた、あの治療だ。 恐い。私も、あの治療で苦しみ、髪が抜けるんだ。きっと・・・。 退院前のドクターの小部屋での説明。 黒板に表記して、説明を受ける。 「リンパ節に転移が認められないので、後治療は一切しません。」 やった〜ぁ〜ぁ〜!!(^o^) 良かったぁ〜ぁ〜!!(*^_^*) それにしても、子宮ガンの患者が私しかいないなんて・・・。 お友達が欲しかったのに・・・。 「同病相哀れむ。」・・・の仲間が欲しかったのに・・。 卵巣ガンの再発治療の方が多く、病気分類では、私は一人ぽっちでした。 でも、入院患者の方達とは、和気あいあい、女ってすぐ仲良しになっちゃう! 退院の時、同室だった妊娠中で出血気味だった若いママAさん。新婚で筋腫オペのBさん。 子宮筋腫のCさん。その後、会食したり、Bさんの出産祝いしたり・・。 Aさんとは今でも、その時無事に生まれたお子さんの写真の年賀状のやりとりとか、あります。 退院の頃、ひどい、痛みに襲われた。腎盂炎だと感じた私。 ドクターは数値的に問題ありません。・・・というだけ。 標準より、長い入院生活だったので、もうこれ以上は・・・。ダメ。・・とばかりに、 追い出された気分だった。 ひどい!こんなに、具合が悪いのに・・・。 でも退院すると、腎盂炎の様な痛みは不思議とピタっと消えた。 本当に人間のからだは、不思議。妙なもの也。自然治癒能力?↑ <退院後の生活> 退院して、嫁ぎ先に戻る。 姑は結局なにもしない人だから、無理をしても、炊事をする事に・・・。 車の運転は早い時期からした。歩かなくて済むからだ。 勿論、食材を買いに行くハメに・・・。 その頃、「あなたが街をゆっくり、ゆっくり歩いているところを見たわ。 ・・けれど、あまりに気の毒で、声がかけられなかったのよ。」・・・と言われた。 もはや、子宮筋腫の嘘はバレバレでは・・・? 多くの役員仲間に、子宮筋腫について質問を受け、うろたえる。 医学書で子宮筋腫の勉強もした。小声で相談を受けたりした。OH MY GOD!(>_<) ・・でも、抗ガン剤も放射線治療もしていない私は、外見的には、OK!的普通人。 髪さえ抜けなければ、こっちのモン・・・とばかりに、普通にしていた。 手術前、象さんのお尻のようにヒビ割れたかかとが、手術を境にみるみるきれいになった。 「血の道」が改善されたせいか? 予想外のグッド・ニュースだった。 それにしても、薬とか処方してもらわなくて良いのだろうか? 漢方でも、いや、たとえ砂糖の粉でも良いから、なんか出して欲しいなぁ〜! あなたはガンです。とか言っといて、広〜い荒野に、一人で放り出された気分。 診療内科にかかる程では無いが、十分、心は虚(うつ)ろで、ギリギリ焦っていた。 脚がむくみ、運動不足で、腰痛がひどく、不健康だった私は、 ある日、金券ショップの格安のチケットが目に止まった。 「ワイルド・ブルー・ヨコハマ」の入場券だった。 今は無き、波の出る、常夏の温水プール。 恋人達のラブラブ・エキス満載のちょっとローズおばさんには場違いな、ナイス・アミューズメント・プレイス。 でも、1日中浮き輪にしがみつき、流れる温水プールに身をまかせていると、 アラ、不思議。 むくみも、腰痛も、帰る頃には、すっかり、消えてゆくので、ありましたぁ〜! 真夏の愉(たの)しみを手術で失ってしまった我々、ぶーちゃん家族は、 その後は、なにかと、「ワイルド・ブルー・ヨコハマ」にイベントするのでした。 実家とも行ったなぁ。母とも、甥っ子、姪っ子とも行きました。 滑り台滑って、微妙に水着に、穴も空きました。恥〜!(*^_^*) 息子のお誕生日会も、遅ればせながら、子供達を数人、車で連れて行ったりしました。っけ。 ある日、いつもの、模造岩のナイスな場所にシートで席を陣取ると、 TVカメラの人達に、場所をとられてしまいました。 ????? サンタの格好をした、ボディーボーダーがその後、波乗りしていましたが、 しばらく、フジTVの超早朝の音楽スポットイメージフィルムで、VTRとなっていて、 そのVTRが流れる度に、その時を想い出していたものです。 1包ずつのケチャップやマスタードも、いっぱい戴いてきちゃったりしちゃいました。(^-^) まさか、再発なんか、するとは、つゆとも思っていなかった、 ・・・・遠い、昔の、出来事です。 15/2/1 |