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開院して3年ほどが経った頃


飯田選手が2度目の世界挑戦のヨックタイ・シスオーと引き分けたときに、彼は肩関節亜脱臼と言う、ボクサーにとって致命的な負傷をしていた。

このケガのため当院にて、毎日のようにリハビリをしていたが、一般の患者さんに迷惑がかからないように、この当時はお昼休みを全て彼のリハビリにかけていた。この当時私が休憩したのはお昼ご飯を食べる瞬間くらいであった。

彼が世界チャンピオンになることを夢見ていた頃、私も同じ夢を見ていたと今になって思う事がある。この頃から、患者さんの来院数も少しずつ増え始め、朝8時から夜10時位までの1日14時間程くらい患者さんの治療をしていた時期でもあった。当たり前のことであるが、夢があったからガンバレたと思う。


接骨院の当時のスタッフとその家族が、世界チャンピオンになる前の飯田選手と、BBQをしたときの写真
(接骨院の当時のスタッフとその家族が、世界チャンピオンになる前の飯田選手と、BBQをしたときの写真)


飯田選手の肩のケガは関節唇と肩腱板を同時に負傷しており、リハビリには8ヶ月ほどを要した。この時に私も肩についての勉強をよくしたのが今に役立っていると思う。自動車メーカーがF1を走らせてむだなお金と時間を費やしているが、この時の研究開発が一般車の開発に役に立っているのが思う。つまり飯田選手が私にとってのF1であった。

実際に世界チャンピオンになったのは、この直後の試合になるが、練習を開始してサンドバックが打てるようになったのは、世界戦直前の3週間前であった。既にチケットが売れて、テレビの放映もスポンサーが決まり、派手にPRしていたが、実はまだ肩の痛みでボクシングが出来る状況ではなかった。私は、スポーツ選手のモチベーションが維持するための技法を、この時に最も学んだような気がしている。

私のモットーである、「汗をかけ、知恵を出せ、恥をかけ、全て人生は経験だ」は、この当時の人生全てを言い表わしてもいた。


ブルース・リーになった!?
(世界チャンピオンになる直前の中日スポーツの新聞記事)
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この頃の私の顔は確かにパンパンに張っていますが、若かったからですね。

この記事を手に持って、親子で涙を流しながら「どうしてもこの子をスポーツに復帰したいので、先生治して下さい!」と訴えてきた患者さんもいた。

新聞やテレビの影響はすごいと感じたときでもあった。



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