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3.開院して3年ほど経った頃
平成9年(1997年)
飯田選手とBBQをしたとき
接骨院の当時のスタッフとその家族が、
世界チャンピオンになる前の飯田選手とBBQをしたとき

飯田選手との挑戦と絆
飯田覚士選手が2度目の世界タイトルに挑戦した試合は、ヨックタイ・シスオー選手との引き分けに終わりました。しかしその試合中、彼は肩関節亜脱臼という、ボクサーにとって致命的なケガを負っていたのです。そのリハビリのため、飯田選手は毎日のように若田接骨院に通ってくれました。一般の患者さんに迷惑がかからないよう、私は昼休みの時間をすべて彼の治療に充てていました。昼食をとるわずかな時間だけが、唯一の休憩だったことを今でもよく覚えています。
彼が「世界チャンピオンになる」という夢を追いかけていた頃、私自身もその夢を一緒に見ていたのだと、今振り返って思います。この時期は患者さんの数も徐々に増え始め、朝8時から夜10時まで、1日約14時間治療にあたっていました。大変な毎日でしたが、「夢があったから頑張れた」と心から感じています。


肩のケガと学び
飯田選手の肩のケガは、関節唇と肩腱板の両方を損傷する深刻なもので、リハビリには約8ヶ月を要しました。この期間、私は肩の構造や治療法について徹底的に学び、その知識は今でも日々の治療に活かされています。まるで自動車メーカーがF1で技術開発を行い、それを一般車に応用するように、飯田選手の治療は私にとって“F1”のような貴重な経験でした。

中日スポーツ記事「ブルース・リーになった!?」
1997年11月30日 中日スポーツ 6ページ
(世界チャンピオンになる直前)

新聞記事の反響と、患者さんとの思い出
当時の新聞写真の私は、顔がパンパンに張っていますが、若かったからだと思います。ある日、この記事が掲載された新聞を手に持ち、親子で涙を流しながら来院された患者さんがいました。「どうしてもこの子をスポーツに復帰させたいんです。先生、お願いします!」そう真剣に訴えられたことは、今でも心に深く残っています。この出来事を通して、新聞やテレビといったメディアの持つ影響力の大きさを、改めて実感しました。

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