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飯田選手のお陰でたくさんの世界チャンピオンに出会うことが出来た


ガッツ石松さんと私の子どもたち
(ガッツ石松さんと私の子どもたち)


飯田選手の試合の時に、控え室から出てきたところ、どこかの子どもがガッツさんに遊んでもらっている子どもを見て、「うちの子に似ているな~」と思ってよく見たら、うちの子どもが遊んでも らっていた。どうやら私を探して控え室の近くにきていたようだった。本当に気配りのあるいい人である。


ボクシング世界チャンピオン 徳山 選手
(ボクシング世界チャンピオン 徳山 選手)


当時、世界チャンピオン戸高秀樹選手も通院していた、デビューは宮崎ワールドジムだが、1998年に緑ジムに移籍。同ジムから飯田選手に次ぐ世界王者となった。彼と出会った頃の私は、世界チャンピオンまでなるとは思っていなかった。普段から飯田選手を診ていた為、どうしても2人を比べてしまうところがあった。戸高選手は、飯田選手のように黙々と練習をするタイプではなく、試合前になると集中して一気に減量をして挑むタイプであった。スーパーフライの選手の契約ウェートは、112~115ポンド(50.802~52.163kg)であるが、体重が多いときの彼は、70キロ近くま で体重が増えていた。世界戦がなかなか決まらず先が見えてこないときに、彼のストレスを発散するのに一緒にお酒を呑みに行くこともあった。しかし、その後 とんとん拍子で試合が決まり、70キロを52キロにたった3ヶ月で減量して2002年3月、ようやく目の負傷も回復し、再起戦が行えるようになり、見事KO勝ち。その後も2試合を戦い、ともに勝利。

世界ランクにも復帰した戸高選手は2003年10月4日、WBA世界バンタム級暫定王座決定戦に出場。3年前にKO負けしたガメスと再戦することになったが試合は最初から最後まで真っ向からの打ち合いとなり、手数で上回った戸高選手が2-1の判定で勝利。因縁の相手に雪辱した。男の中の男である。


カリー・ミーハン
(カリー・ミーハン)


すごく思い入れがある、オーストラリア出身の東洋太平洋ヘビー級チャンピオン カリー・ミーハン選手。緑ジムにピーターと言うヘビー級のボクサーのスパーリ ングパートナーになるため、よく日本に来ていた。日本に来ているときは若田接骨院に通院していた。医院のドアーを開けて入り口の高さは190センチであっ たが207センチあった彼は、自分の頭を大きく下げてくぐって入ってきていた。当時の彼には妻も子どもがいて、お金を稼ぐ為に日本に来ておりとてもハングリースピリットを持った選手であった。

彼とは私の家族と一緒に食事をしたりしていた中で、お互いをブラザーと呼んでいた。「いつか俺も世界チャンピオンになって大金持ちになる」と語っていた。

当時のヘビー級のファイ トマネーはチャンピオンのデラボーヤが1試合40億円とかいっていた時代であった。まさか本当にヘビー級でタイトルマッチが出来るところまで行けるとは当時の私は思っていなかった。人生は何が起こるかわからないところが面白いと思う。何と、その後2005年にラスベガスにてWBC世界タイトルマッチを行うチャンスがカリーにやってきた。結果は惜しくも5ラウンドでKOされて敗れるが、ヘビー級の頂点が見えるところまで行ったのは本当にすごいと思う。もしこの試合に勝っていれば彼の人生は大きく変わっていたと思うが、負けて元の生活に戻るのも悪くはなかったのではと思う事もある、お金が全てではないからだ。



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