1 日本のソリスト
 
 ここでは、大正時代以来独唱者として、録音した少年の歌声について時代と共に述べます。ここで採り上げるソリストは、あえてクラシック系、ポップス系等と分類をしません。かつては、童謡・唱歌という共通項がありましたが、今では、完全に分離しています。細分化が困難なため、ジャンル別にはしていません。

     1 藤山 一郎 (1911〜1993)

  声楽家・歌手・指揮者として音楽の分野で初めて国民栄誉賞を受賞した藤山 一郎(本名 増永 丈夫 明治44(1911)年〜平成5(1993)年は、東京府東京市日本橋区蛎殻町にモスリン問屋・近江屋の三男(5人兄弟の末っ子)として生まれました。藤山は幼少期から音楽家としての資質を育むのに適した環境の下で育ち、幼少期からピアノを習ったり、親戚の作曲家・山田源一郎(藤山の姉・恒子の夫は山田の甥)が創立した日本女子音楽学校(後の日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったりしていました。大正7年春、慶應義塾幼稚舎に入学。この時期の藤山は楽譜を読みこなせるようになっており、学内外で童謡の公演に出演しました。その後、幼稚舎の音楽教師・江沢清太郎の紹介で童謡歌手となり、小学3年生のとき(大正10年 1921年)に『春の野』(江沢清太郎作曲)など5曲(『春の野』『山の祭』『はんどん』『何して遊ぼ』『はね橋』)をレコードに吹き込んだこともあります。この歌の録音は現在も残っており、「藤山一郎全集」にも収められています。ここでは、後年の明るく伸びやかな歌声の片鱗は見られますが、まだ特色のある歌声というほどにはなっていません。ただし江沢は「童謡歌手は大成しない」という考えの持ち主で、その勧めにより変声期の一時期は歌をやめ、楽典・楽譜を読みピアノ・ヴァイオリンを修練することに専念したそうです。進学した東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイ・バリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。とりわけ、1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』・『丘を越えて』・『東京ラプソディ』・『青い山脈』・『長崎の鐘』などを歌い多くがヒットしました。理論・楽典に忠実に歌い、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評されました。一方、本名ではクラシックの声楽家でもありました。藤山一郎が活躍した時代は、歌曲と歌謡曲の境目がはっきりしない時代とも言えましょう。その歌は、平成になってから、池井優の評伝「藤山一朗とその時代」と、テナーの五郎部俊朗による、「藤山一朗とその時代〜歌は美しかった〜」というCDで再評価されています。

      2 村山 忠義 (1917 〜 1945)

  村山忠義は、「村山音楽三姉弟」末っ子っとして、小学1年生の時に、ワシ印の旧吹き込み時代から歌声を録音しています。私が聴いたのは、『子供の大工』と『時計屋の時計』ですが、1928年 10歳頃の歌声と考えられます。まっすぐに声を張る歌い方は、当時の童謡歌唱に求められるものがそのようなものであったと考えられます。また、ピアノ伴奏は姉のダン道子=ジェームス・ダン夫人=村山道子です。その他『すかんぽの咲く頃』等も録音しています。第2次世界大戦では中国に出征しましたが、当時を知る人が述べたエピソードでは、「日本の子どもの歌」を中国の子ども達に教えていたそうですが、終戦の年に戦死しています。

   3 金子 一雄 (1918〜2012)

 日本のボーイ・ソプラノの草分けといえば、何よりも金子一雄(大正7(1918)年〜平成24(2012)年)の名を挙げるべきでしょう。
 山田耕筰が「この子は天才だ、僕が伴奏しよう。」と言って、「赤とんぼ」を録音したのは、昭和6年金子少年小学5年生のときです。これが、日本最初の「赤とんぼ」の録音であり、その後変声中も音域に合わせて録音し、昭和10年の変声後の「蘭の花」まで山田耕筰の作品を録音しています。よほど、気に入られた幸運な少年だったのでしょう。その後東京音楽学校に入学し、卒業後は兵役につき、戦後は埼玉県で高校の音楽教師をしました。という解説を先に読むと期待が膨らみますが、歌としてはよく歌えているものの、発声はかなり胸声で喉をしめたように聞こえます。当時はきっと完全な頭声発声などなかったのでしょう。同時期のウィーン少年合唱団の録音の復刻CDを聴くと、今とほぼ同じ発声であるのと比べると、日本のボーイ・ソプラノのレベルも70年の間にずいぶん向上したと思えます。それでも、日本の音楽史上金子一雄の録音は貴重なものです。中1の録音の「春が来た」「紫雲英田」ぐらいがボーイ・ソプラノとしての頂点ではないかと考えます。

      4 石井 亀次郎 (1918〜1991)

 東京出身で、少年時代の昭和の初頭に、長谷山雛菊音楽会に所属して、昭和3(1928)年、ニッポノホンより童謡歌手としてデビューしました。翌年、松竹映画「母の歌」主題歌「母の歌」(歌:佐藤千夜子)B面「母を慕う歌」を平井英子と共に吹き込んでいます。童謡歌手時代には、「春が来た」、「雀のお使い」、「ギックリカッコ」、「一茶さん」、「お祭り」などがあります。「赤い汽車」は、まっすぐな歌声で、「どんぐり」は、小節を効かせたところが面白い仕上がりになっています。
 
 童謡歌手引退後は、東洋音楽学校に入学して学びますが中退して、その後、テノールの奥田良三に師事し、ポリドールから再デビューします。石井肇及び、石井亀次郎名義で軍歌などを多く吹き込んでいます。主にポリドールレコードで活躍し、代表曲には、「健歩の歌」「少年航空兵」「愛国行進曲」「三国同盟の歌」「戦友の遺骨を抱いて」「嗚呼特別攻撃隊」などがあります。軍歌故に力強く声を張って歌っていますが、声質はハイ・バリトンです。また、戦後は、第1回日本レコード大賞童謡賞「やさしい和尚さん」(石井亀次郎とキングホウズキ会) を受賞しています。

       5 加賀美 一郎 (1933〜  )

  加賀美一郎(昭和8(1933)年〜)の名を知ったのは、その活躍していた時代に少年時代を送った人の本に載っていたのですが、当時歌好きの少年にとってはあこがれの的だったようです。美輪明宏も自伝で加賀美一郎にあこがれたと述べています。記録によりますと、7歳位から歌ってるようです。紅白歌合戦の前身である紅白音楽試合に終戦直後の昭和20(1945)年12月31日出演して、「ペチカ」を歌っています。ちなみに、この頃は、クラシック系の声楽家も出演していて、バスの下八川圭祐は、「ヴォルガの舟歌」を、テナーの 藤原義江は、「出船の港」を歌っていました。翌年、加賀美一郎は古川緑波 主演の映画「僕の父さん」(東宝)にも出演しています。
 さて、 私がその歌声に接した代表曲は、第2次大戦中に録音された「お山の杉の子」と、戦後に録音された「赤ちゃんのお耳」の2曲です。真っ直ぐな美声で、特に前者は非常に真剣に歌っており、この時代の緊張感が伝わってきます。また、そのあとにニッチクから「海國男兒」「戦闘旗が揚ってる」と、「海の子」(共演、岡本美智子)の2枚のレコードを吹き込み、昭和20年3月に発売予定でしたたが、戦況が厳しくなり、発売されずに終わったとのことです。一方、後者は、童謡をやさしく歌っているという以上のものを感じることができませんでした。ところで、CDに復刻こそされていませんが、東京九段の「昭和館」(戦中・戦後のくらしをテーマにした博物館)5階にある映像・音響室では、加賀美一郎の歌を約10曲も聴くことができます。全曲独唱も多く「村のうた歌い」「ゆうべの夢」「ウレシイ日曜日」「赤づきん」「茨の実」等を聴くことができます。高音の美しさやよく伸びる声に特色があり、当時評価が高かっただけでなく、現代にも通じることがわかります。
 戦後もしばらくは活躍してましたが、東洋音楽学校(現東京音楽大学)声楽科に進学しました。昭和30年には、映画「月がとっても青いから」出演しています。その後は実業家になられたようです。
  なお、後述する岡田孝の声もよく似た系統の声です。 

   6 河野 ヨシユキ (1943〜  )

  河野ヨシユキ(昭和18(1943)年〜)は、横浜生まれで、紅白歌合戦に2回連続出場した少年歌手です。この記録は半世紀以上破られていない大記録でしたが、平成19(2007)年の紅白歌合戦で9歳の大橋のぞみによって更新され、平成21(2009)年には、8歳の加藤清史郎によって破られましたが、純然たるボーイ・ソプラノとしての記録としては今でも燦然と輝くものです。紅白で歌ったのは童謡です。当時の日本は、童謡の黄金期でした。昭和29(1954)年が「キツツキの赤いトランク」、翌年が「街のヨーデル唄い」という記録が残っていますが、どんな歌なのか知りません。当時は、ラジオ放送ですから、初出場したとき歌唱曲「キツツキの赤いトランク」の曲間では白組司会をしていた高橋圭三アナウンサーが「立派な男性です。念のため。」と解説したそうです。ラジオの録音を復刻したものが、最近放送されたそうですが、「街のヨーデル唄い」を聴いた人の話によると、貧しい録音ながら、すばらしいボーイ・ソプラノだったそうです。なお、この2回は、川田孝子が紅組に出場しています。昭和30(1955)年5月8日公開の当時としては珍しいカラー映画「緑はるかに」の主題歌 「緑はるかに」 は、オーディションで選ばれた「浅丘ルリ子」がデビューした作品で、平成26(2014)年にCD化されましたが、この映画で:河野ヨシユキは、安田祥子と共に主題歌を歌っています。典型的な童謡発声で、男女差をあまり感じない歌声です。「赤銅鈴之助」のソロを歌ったCDを入手しましたが、これは変声後の録音で、若々しい美声ですが、この時点ではまだ特徴的な歌声にはなっていません。その後、ツイストが大流行した
昭和37年に「ツイスト天国」を、また、「君こそすべて」「スージーベビー」をレコード化しています。 現在ではジャズシンガーとして活躍されています。なお、平成24(2012)年6月24日放映の「NHK歌謡コンサート」(NHK総合。於:NHKホール)に出演し、『赤胴鈴之助の歌』を歌唱しました。

     7 三宅 広一 (1944〜  )

 昭和30年代前半天才少年歌手としてその歌声をレコード化した少年歌手に三宅広一がいます。昭和19(1944)年香川県仁尾町生まれの三宅広一は、昭和31年 文化放送「夢のステージ」で全国優勝後、船村徹 第一期門下生となり、翌年日本コロムビアレコードより「鐘つき小僧」でデビューしました。昭和33年に二作目『逢いに来ましたお父さん』を発表したほか14曲を発表。その後も船村徹に師事し、昭和62年 船村徹音楽事務所 岡山支社設立。現在も作曲家・歌手をしながら、香田晋などの後進を育成しています。少年時代の歌声は、ネットでも『逢いに来ましたお父さん』を聴くことができますが、典型的な演歌の歌唱で、戦争で父を亡くした少年が父の祀られている靖国神社を訪ねる歌です。島倉千代子の「東京だよおっ母さん」と似たものをそこに感じることができます。

     8 小畑 やすし (1945〜2010)

 小畑やすし(昭和20(1945)年〜平成22(2010)年)は、昭和30年前後、映画「サザエさん」「たん子たん吉珍道中」「少年探偵団」などの作品で可愛いというより美しい子役スターとして人気を博しました。出演した映画作品は30本を超えるそうです。また、少年雑誌の表紙を飾ったこともあります。昭和30(1955)年に公開された 映画「赤いカンナの花咲けば」では、共演した松島トモコと共に主題歌も録音しています。9歳頃の録音と考えられますが、これは、一言でいえば、コテコテの甘ったるい童謡歌唱です。しかし、このような歌唱法は、当時の童謡歌手に求められたものであり、指導者の指示通りに忠実に歌ったという感じがします。ところが、12歳頃に録音した「山彦船頭さん」では、演歌的な歌い回しもしており、歌声も子供らしさだけでないものを感じます。
 なお、小畑やすしは、中学進学後芸能界を引退。社会人としては、商社マンとして活躍されていましたが、退職後は、世田谷区の男声合唱団「メンネルコールけやき」に所属して歌っていました

   9  岡田  孝 (1948〜  )

 岡田孝(昭和23(1948)年〜)は、童謡歌手から声楽家になった貴重な存在です。兵庫県西宮市の出身で、父親の転勤の都合で小学校時代を東京で過ごします。上京したのは歌のレッスンのためでもあったという音楽少年は、9歳から日本コロムビアと専属契約を結び数多くのレコーディングを行っています。低音から高音までムラのない綺麗なボーイ・ソプラノで、丁寧な日本語の発音は見事です。
 ボーイ・ソプラノ時代の岡田孝の歌を聴くことのできるCDは、復刻「懐かしの童謡歌手達3」で、「鈴を振るような」というたとえのような歌声です。やや線は細いけれども、可愛い清純な歌声で好感がもてます。「角兵衛獅子」などとくに哀愁を感じるよいできばえですが、「木登り小僧」や「お山の大将」はややきれいすぎて、もっとやんちゃなところがあってもいいかなとも思えます。録音時から推定して小学校6年生、12歳ぐらいでしょうか。年齢より幼く聞こえます。これは、当時(昭和30年代)の童謡歌唱が何よりも可愛らしさを求めていたこととも関係がありそうです。また、当時の子どもは、今よりも晩熟ですから、(変声の平均年齢は13〜14歳頃と推定されます)そのようなことも関係しているかもしれません。いずれにせよ、この時点では、まだヨーロッパ的な響きではありません。
 やがて変声後は再び関西へ帰り、最初はテノールとして出発し、オペラにも出演しましたが、(プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」のパルピニョール役 この舞台を私は見ています)やがてカウンター・テノールに転向し、アルフレッド・デラーの指導を受けました。その後、日本だけでなくドイツ各地でも演奏活動を行い、LPを昭和53(1978)年に、CDを平成5(1994)年に出しており、いずれも高い評価を受けています。最近は、カウンター・テノールの分野も人材が増え、米良美一・藤木大地等が脚光を浴びていますが、岡田孝もお忘れなくと言いたいです。また、岡田孝は、いくつかの大学で教鞭をとるとともに、著したバロック時代の声楽に関する数多くの論文は、この分野における貴重な文献として評価されています。

   10 ラジオ・テレビの主題歌を歌う少年たち

 昭和30年代の子ども向きラジオ・テレビの主題歌は、少年合唱や、独唱の宝庫でした。「少年探偵団」「アラーの使者」から実写版とアニメの「鉄腕アトム」までのいくつもの番組とその主題歌を即座に思い出すことができます。そして、それらを歌っていた上高田少年合唱団という名前も浮かんできます。これらの歌は、まさに主題曲であり、元気よさと凛々しさがそのすべてでした。最近、これらの歌が「おじさん世代の子守歌」「懐かしのテレビ・ラジオ主題歌」などのCDに復刻されて発売されたので、改めて聴く機会を得ましたが、少年時代に聞いた声が、まだ耳の底に残っていました。最近「東京今昔探偵」という本が発行されて、そこに、上高田少年合唱団のことが詳しく載っています。
 この合唱団の母体は、中野区立上高田小学校の合唱部ですが、誕生した昭和23年当時は女子がほとんどであったそうです。2年後の昭和25年になって少年合唱団にして各種コンクールに出場したところ、次々と入賞し、昭和28、29年には「全日本学生音楽コンクール」合唱の部と「NHK全国唱歌ラジオコンクール」で全国一に輝きました。また、この合唱団から選抜された児童は、コロムビア少年合唱隊としてレコーディングしています。
 上高田少年合唱団は指導者の奥田政夫先生が練馬区立開進第四小学校(3年間)、さらにその後昭和50年まで板橋区立中根橋小学校に異動後もこの名前で活躍しましたが、その間多くの録音を残しています。ですから、1960年代の上高田少年合唱団の団員は上高田小学校の児童ではないのです。また、この合唱団の出身者には「水戸黄門」のうっかり八兵衛役でおなじみの高橋元太郎もいます。(高橋元太郎は上高田小学校出身)従って、上高田少年合唱団が、解散したのは、奥田先生が退職した昭和50年です。

   11 岩瀬 寛

 上高田合唱団のソリストとして名前がよく出てくるのは、岩瀬寛で、「赤胴鈴之助」や「まぼろし探偵」の主題歌を歌っています。やや硬質の声をピーンと張って歌うその歌いぶりは、元気で、凛々しい正義の少年を象徴するようなものですが、そこからは聖歌的な美や抒情性を感じることはありません。しかし、その歌唱は童謡的な歌い方とは一線を画するものです。これも、日本的なボーイ・ソプラノの典型といえましょう。

     12  高野 政次

 山城真吾が主演した「白馬童子」の主題歌でソロをとった高野政次は、西六郷少年合唱団出身ですが、これは日本の少年だからこそ歌えるというまっすぐな歌です。しかし、そこにはそこはかとない抒情味があって、ただ一本調子の歌でない歌唱力を感じます。なお、高野政次は、成人してからクラブ歌手として活躍していた時期もあったそうです。

     13 藤沼一美(千美)(かずみ)  (1950〜  )

 藤沼一美を一躍有名にしたのはテレビドラマ「少年ジェット」の主題歌を歌ったことでしょう。昭和25(1950)年 東京生まれで、昭和34年 童謡歌手としてビクターからデビューし、「雨乞いわらしんべ」「川」で文部大臣賞受賞しました。鈴を振ったような声というのがふさわしいその可憐な歌声は、当時の童謡歌唱の特徴でもありますが、一度耳にすると忘れられない強い印象を持ちます。変声後の昭和40年歌手として再デビューし、さらには作曲も行い、現在は、独自の発声法によるボイストレーニングの指導者として活躍しています。

     14 北野 修治

 北野修治は、童謡歌手の系列に入るでしょう。「カモメの船長さん」「ふしぎなポケット」「少年猿飛佐助」などの歌を聴くと、典型的な可愛い声の少年歌手と言えます。また、ステージマナーも茶目っ気たっぷりであったと言います。歌声喫茶のリーダーを経て、現在も音楽関係の仕事をしているそうです。

    15 永田 英二 (1955〜  )

 永田英二がジャニーズの弟分としてフォーリーブスの最初のメンバーだったことを知る人は少なくなってしまいましたが、ジャニーズ系の歌手の中では唯一ソロ歌手でデビューしたのが、この永田英二です。本名は、長田栄二。昭和30(1955)年5月29日生まれで、劇団若草での子役を経て、父親がジャニーズ事務所でダンスの講師をしていた関係から1966年に入所ジャニーズ事務所に入所。「永田英二」の芸名を与えられ、昭和42(1967)年4月1日にフォーリーブスの結成に参加するも、当時まだ小学生で年齢が低すぎるという理由で、半年ほどでメンバーから外されてしまします。以前古レコード屋でデビュー盤の「あこがれ」と第2弾の「恋をあげよう」を手に入れましたが、この頃は元祖ジャニーズ系の容貌と変声期直前の少年らしい歌声でなかなか聞かせてくれます。その後、何枚かのEPを録音したようですが、その中では、「昨夜の出来事」が最も持ち味を生かしています。しかし、「愛は何処へゆく」「美しい夢」など、歌詞がイマイチな上、変声期と重なってあまり魅力を感じない歌になっています。その後、名前を八田英二と変えて大人の歌手として再出発しましたが、残念ながらデビュー時の輝きは取り戻せなかったようです。しかし、その後は、音楽プロデューサー、作曲家に転身して多くの肩書をもち、大活躍しています。

      16 坂本 秀明(1961?〜  )

 ボーイ・ソプラノのソロのLPレコード・CDを出した忘れることのできない少年に坂本秀明がいます。坂本秀明は、声楽家・坂本博士(バリトン)の長男で、サカモト児童合唱団の中でで童謡を歌っているうちに注目されるようになりました。NHK「みんなのうた」では「マヌエロ」などを歌っていますが、可愛い声といやみのない歌い方で好感が持てました。「懐かしのテレビ・ラジオ主題歌全曲集U」のCDでは「ホームラン教室」の主題歌を歌っています。これも、とっても可愛い歌声で、歌そのものでは創唱者の小柳徹を超えています。昭和47(1972)年ごろ日本でも流行ったニール・リードの「ママに捧げる歌」の日本語版をレコード化まししたが、これはLPにも収録されています。この曲のレコーディングについては、父の坂本博士が、その著書「見はてぬ夢」で逸話を述べています。
・・・この曲は、なかなか難しい曲で、レコード会社では歌い手を捜すのに苦労していたが、息子に、と話があった時、私ははじめ反対だった。変声期前の大事な時、無理な声を出すのはよくないし、ヒット曲だっただけに、小さい頃から騒がれるようなことになると、ロクなことはないと思ったのだった。しかし、曲も詩も素晴らしかったことと、レコード会社の熱意にほだされて踏み切った。最初は、高音を出すための特訓からはじめた。発声の基礎はできていたので、腹筋を鍛えたり、両手を大きく広げて声を出させたりした。無事レコーディングが終わって、それがひとつのきっかけとなって、息子は自信が持てるようになってきたらしい。・・・
 LPは中学1年生当時(おそらくボーイ・ソプラノとして最高の時期)のものですが、童謡からジュニアソングまで16曲を集めています。ただ、16曲を続けて聞くと、同じ色調に聞こえてしまうときもあります。その中で特に心に残る歌は「ママに捧げる歌」「父さんとの約束」「白銀は招くよ」「マルセリーノの歌」などが伸びやかな声でよくできています。とりわけ「ママに捧げる歌」には祈り心がせっせつと感じられ代表曲と呼んでもよいでしょう。「父さんとの約束」も、歌詞に共感して歌っており心に迫る歌です。また、同じ頃、一家総出で、オレンジ色の服を着て、HI−CというオレンジジュースのCMにも出ていました。また、歌劇「カルメン」「フィガロの結婚」「ヘンゼルとグレーテル」やミュージカル「鹿吠えは谷にこだまする」などにも子役として活躍、少年時代から声楽家・舞台人としての基礎を築いていきました。
 変声後は、東京芸術大学声楽科に進学し、岡崎實俊、原田茂生氏に師事。さらに昭和59(1984) 年より7年間ウィーンに留学。ウィーン国立大学オペラ科、ウィーンコンセルヴァトリユウム声楽科卒業。1991年ディプロマ獲得。オペラ.オペレッタ、ドイツリートの研鏡を積み、平成3(1991)年、日本オペレッタ協会「白馬亭にて」で日本デビュー。平成7(1994)年「ジローオペラ新入賞」受賞。文部科学省主催の「シューベルトの青春」は全国で170回以上上演、シューベルト役を演じ好評を博すなど、わが国音楽界を代表するバリトン歌手・声楽家として国際的に活動中。また、サカモト・ミュージック・スクール副校長。 都立総合芸術高校講師。ロータリーフェローシップ合唱団、世田谷区民合唱団の指導、指揮者としても活躍。なお、その舞台に接した方から、歌声もさることながら、お茶目な役柄での演技力は、とても魅力的という評を聞いています。

      17 フィンガー5と玉元 晃(1961〜  )

 「フィンガー5」については、その長兄玉元一夫の闘病をめぐる兄弟(妹)愛や、そのデビューから終末までの姿が平成10(1998)年「驚き・ももの木・20世紀」で取り上げられました。また、平成13(2001)年夏の参議院議員選挙(比例区)に玉元一夫が立候補したことなども話題を呼びました。このグループの人気のピークは昭和49〜50(1974〜75)年ごろ。沖縄出身のこの五人の兄弟(妹)グループは、まだ沖縄がアメリカの占領下のこの頃、父 松市が経営するAサインバーのジュークボックスからいつも洋楽が流れる環境の中で育ちました。そしてその音楽に刺激を受けた兄弟3人(一夫、光男、正男)で小学生バンド『オールブラザーズ』を結成し、沖縄で音楽活動していました。オールブラザーズが沖縄テレビ『歌謡ワンダフル・ショー』エレキコンテストに出場して優勝。そして、東京へ行きたいと父に頼む子ども達の熱意に、ついに父は東京行きを決心します。上京後、長男のもとで幼い四男の晃、長女の妙子を加え猛特訓。そして4年間、米軍キャンプめぐりをしてステージを経験していましたが、昭和45(1970)年、「ベイビーブラザーズ」という名でデビューし、3枚のシングルレコードを出しましたが、あまり売れず低迷して、帰郷も検討していました。
 ところが、レコーディングディレクターの岸義測が彼らの才能に目をつけ、当時アメリカで流行していた「ジャクソン5」にあやかって、「フィンガー5」と命名し、でボーイ・ソプラノの玉元晃をボーカルにして「個人授業」をレコーディングしたところこれが大ヒット。「恋のダイヤル6700」「学園天国」次々とミリオンセラーのヒットを生み出しました。このときの玉元晃のかっこうが、丸いサングラス姿。ところが人気があるということは声を酷使するということで、しかも、変声期にも重なり、グループの人気は凋落。しかし、この兄弟は親の賢明な進路指導もあって、一度は別の道に進み、現在は、晃として現在もテレビ・ラジオに出演するほか、ライブ活動などの音楽活動を続けています。
「フィンガー5」のレコードは数多く発売され最近では45曲入りのCDも発売されています。玉元晃のソロLP『あきら ぼくの好きな歌』もあります。玉元晃の声は、ボーイ・ソプラノとしてはかなり強い声で、マイクを通しての声ということもありますが、ややきつく聞こえます。

      18 宮脇 康之(健)(1961〜  )

 今でこそ、子ども番組はアニメが殆どで、子役の少年が主演するドラマは、少なくなってしまいましたたが、昭和40〜50年代は少年が主演のドラマはけっこう数多くありました。NHKの「少年ドラマシリーズ」もその代表で、今新たな脚光を浴びてDVDが発売されています。さて、少年が主演したテレビドラマの代表は「ケンちゃんシリーズ」。昭和44〜57(1969〜1982)年まで続いた長寿番組で、初代は宮脇康之、2代目は岡浩也です。視聴率20%台の人気番組で、健全なホームドラマでした。最初は四方晴美主演の「チャコちゃん」に弟が生まれて、「チャコちゃん・ケンちゃん」になり、やがて「ケンちゃん」、「ケン兄ちゃん」になっていくのです。あたたかい家庭ですくすくと育つけんちゃんは、当時の理想の家庭像を現していました。また、ケンちゃんの父親役の牟田悌三は、理想の父親像としてPTAの講演依頼が多かったそうです。この番組はたいてい半年単位で「○○屋けんちゃん」と舞台となるお店が変わりましたが、そのたびに、主題歌を「けんちゃん」が歌っていました。
 昭和36(1961)年生まれの宮脇康之は、日本の子役史上最高と言ってもよい人気子役です。柔らかな横分けのヘアースタイルは、前で髪を切り揃える坊ちゃん刈り全盛のころ、「ケンちゃんロマネス」と呼ばれ、おしゃれなヘアースタイルでした。また、一年中半ズボンという少年服スタイルを日本中に定着させました。このように、宮脇康之はファッション分野でも児童文化に影響を与えた子役と言えます。ところが、自伝『ケンちゃんの101回信じてよかった』によると、
 ・・・ドラマの中では、宮脇康之でいることは許されなかった。ケンちゃんにならなければならず、必ず半ズボンを穿いていなければならなかった。6年生にもなったら、半ズボンがたまらなく嫌になり、やめさせてくれなければ役を下りるとプロデューサーに申し入れたら、聞き入れてくれたが、その代わりケンちゃん役からは下ろされ、たまに登場するだけの中学生のお兄さん役に回された。・・・
と、語っていますが、実際、『ケンにいちゃん』以降の作品では、主人公の「ケンちゃん」は、宮脇の演じる「ケンイチ」ではなく、岡浩也の演じる「ケンジ」であり、「ケンイチ」は「ケンにいちゃん」となり、脇役的な役回りになっています。ただし、これは、宮脇本人の言うような理由によるものではなく、「小学生をターゲットとした同番組の主人公としては宮脇が成長しすぎて、小学生の感情移入の対象としては無理な年齢になったための措置である」と、番組関係者は語っており、視聴者にとっても、ケンちゃん=半ズボン=ボーイ・ソプラノの可愛い少年というイメージがつながっていたと考えられます。
 歌のほうでは、舌っ足らずなかわいい声で必死に歌う姿は、歌唱力としてはそれなりでも、けなげに聞こえました。しかし、6年生の半ばで声変わりしてからは、主題歌を含めその歌声を聞くことはありませんでした。

        19 リトルギャング(松原秀樹 1961〜 曽我泰久 1963〜)

 男性二人のデュエットと言えば、以前は狩人やKINKI KIDS、最近ではゆずやコブクロを思い出しますが、(ぴんから兄弟はデュエットとは言えないでしょう。)ボーイ・ソプラノの少年のデュエットと言えば、これまでリトルギャングがおそらく唯一でしょう。なお、二人のうち片方がボーイ・ソプラノには、最近のさくさしめじがあります。当時から、ジャニーズ系の少年グループは変声後の3〜6人多ければ10人近くのグループが主でしたが、変声前の2人組は珍しいケースです。当時中2でやや落ち着きかけていた声の松原秀樹(ヒデキ昭和36(1961年・11・2生まれ 13歳 身長155cm)と、中1で甲高い声の曽我泰久(ヤッチン昭和38年(1963・1.7生まれ 12歳 身長138cm)の組み合わせでしたが、私が所持している「アイラブユー」と「幼な友だち」では、後者の方が持ち味がよく出ているように思います。
 なお、松原秀樹に対しては特別な思い出があります。彼が小学生の頃の昭和48年ごろから数年間読売テレビで「プリン&キャッシーのテレビ!テレビ!」という番組が大阪の千里セルシーで行われていました。オープニングから客との「まいど」、「おいど」の大阪弁が理解不能ならわからない下品なやり取りがあって、横山ノックの弟子の横山プリンという奇才タレントとキャッシーというハーフの女性タレントとアナウンサーの佐藤忠功が破天荒な司会をしている関西風のどぎつい番組でした。「プリン、ハゲー。キャッシー、ブス。佐藤忠功、スケベー。」で始まる視聴者参加番組の中には、「パクパクコンテスト」という突出して面白いコーナーがありました。大阪市から出場した松原秀樹は、当時流行していた山本リンダや西条秀樹のモノマネを毎週お母さんに作ってもらった自前の衣装で登場し相当な人気を博し、初代のグランドチャンピオンになりました。これは、運動的なリズム感が優れていたとも言えるでしょう。(同コーナーでは、草川祐馬、川崎麻世などが後のグランドチャンピオンに輝いています。)これがキッカケで彼はジャニーズ事務所にスカウトされ、いろいろとグループを変えながら、歌とお芝居をしていました。なお、本人は役者志望だったそうです。現在はプロのベ−シストとしてむしろ音楽を支える立場で活躍されているとのこと。ジャニーズ系の一部グループのステージソングがパクパクコンテストの延長線上にあるという噂を聴くこともありますが、松原秀樹は約40年前にそれを体現した少年であったと言えましょう。
 相棒であった東京都出身の曽我泰久は、昭和49(1974)年、音楽バラエティ番組『プラチナゴールデンショー』の中で、“君もジャニーズジュニアになろう”という募集を見た姉が応募。オーディションに合格し、小学5年生(11歳)の時にジャニーズ事務所に所属。いくつものグループを経て、ソロ活動を中心にミュージシャン、役者として舞台等で多くのミュージカル・演劇などに出演し、今も活動の幅を広げています。

      20 大  慶太(1962?〜  )

 昭和48(1973)年、バラエティ番組「となりの真理ちゃん」でデビューした大慶太は、交通事故で父を失いながらも素直に明るく育った当時5年生の少年でした。ボーイ・ソプラノの少年によくあるぽっちゃりした体型で、穏やかそうな雰囲気をもっていました。デビュー盤で、その生活を歌った「ママと僕の四季」は大ヒットでありませんでしたが、静かなヒットでした。歌声は明るいボーイ・ソプラノで歌い方は歌謡曲調。B面の「ふるさと」は文部省唱歌風の歌詞であるが、歌い方はやっぱり歌謡曲調。その年の第15回日本レコード大賞童謡賞を受賞しました。なお、この賞は、この年が最後となったことは、この頃、童謡が衰退してきたこととも関係するでしょう。また、「日本一のお母さん」という視聴者参加番組にもレギュラー出演し、そのエンディング・テーマも歌っていました。

   21 皆川 おさむ (1963〜   )

 少年歌手のレコードの売上高からいったら、何と言っても皆川おさむの「黒ネコのタンゴ」が最高でしょう。曲想が似ていることもあって、最近大ヒット曲の「だんご3兄弟」と比較されることもあります。この人気にあやかって、皆川おさむは、少年時代の「黒ネコのタンゴ」と今の声の「だんご3兄弟」のミニディスクまで発売しました。皆川おさむは昭和38(1963)年1月22日生まれで、この歌を歌ったときは目黒区立原町小学校1年生。曲はイタリアの子どもの音楽コンテスト「ゼッキーノ・ドーロ」の人気曲です。この曲は日本でも爆発的なヒットとなり、テレビにもよく出演していました。さて、皆川おさむは伯母の皆川和子がひばり児童合唱団の指導者ということもあって幼いときから歌っていたようです。ひばり児童合唱団の創立45周年記念のCDでは、「きしゃほっぽ」を歌っています。高学年の頃、「歌はともだち」に出演したのも見たことがあります。その歌声は、一言で言うと童謡的です。可愛く元気のよい歌声という言葉が似合っています。
 皆川おさむは、今でも「あの人は今」のような番組に登場することもありますが、今では白いものが混じったひげのおじさんになっています。また、工業デザイナーとして、ネコの置物も作っているとか。近年の大ヒットを記念して作られたCDで聴く「だんご3兄弟」も、カラオケが得意な人の歌というレベルの歌唱です。少年時代に幸運によって栄光を担ってしまうと、後が苦しいのではないかということを考えさせられました。ひばり児童合唱団の創立者が伯母であることから、現在は自身が代表を務めています。 平成27(2015)年8月には、叔母の思い出を綴った著書「太陽がくれた歌声」を出版することで、当時の想い出を語っています。

   22 ナル

 「ナル」、この少年歌手の名前を知ったのは、昭和50年頃、テレビで羽仁進監督の「動物家族」というアフリカの動物たちの生態を描いたドキュメンタリー番組のテーマ曲を歌う甲高いボーイ・ソプラノ歌手としてでした。しかし、この少年についてはそれ以上のことは何一つ知りませんでした。
 ところが、古レコード屋を探索しているとき、ナルが歌う「朝までナタリー」「愛する人に捧げる詩」のEPを発見しました。
 ナル(本名 坂井 成)は、子役として劇団ひまわりに在団して、「ウルトラマンタロウ」などにも出演していましたが、歌が好きで子供歌謡番組に出演するうちに歌唱力を認められ、「朝までナタリー」で、レコードデビューすることになりました。レコーディング時10歳(小5)ということです。これがなかなか優れた歌唱力、というか、なかなかおませな歌唱力と言った方がいいかもしれません。A面の「朝までナタリー」は、きれいなピアノとストリングスの前奏に続いて静かな語りで始まるところまではいいのですが、そこから、急に曲想が変わり、・・・あなたはいつもスケスケで(Go!Go!)と言うふうに歌詞がやや陳腐で、最後はWou wou wou wouと、カーペンターズ風の終末。最初の部分がよかっただけに、惜しまれます。それと比べるとB面の「愛する人に捧げる詩」の方が、ナルの歌唱力を生かしているように思います。また、その歌には妖艶な魅力さえ感じます。その後入手した「雨傘作戦」「哀しみの丘」では、特にB面の「哀しみの丘」は、セリフ入りの激しい感情をぶつける歌で、山場のつくりかたもうまく、また、感情表現にも優れており、ナルの持ち味がよく出ていると思います。
 ナルの歌声は、もちろんクラシックの歌い方ではありませんが、ダニー・オズモンドのナンバーなんか似合っているように感じます。それにしても、声にあった歌を歌うことは大切だと思います。
 なお、現在は坂井成紀の芸名で、ミュージカル歌手として歌の世界で活躍しています。「レ・ミゼラブル」はじめ多くの舞台に登場しているようなので、ご注目ください。

      23  加瀬田 直人

 昭和46(1971)年に再録音された「ジロリンタンの歌」で、2番のソロを歌っているのが加瀬田直人です。もともと「ジロリンタンの歌」は、NHK連続放送劇の主題歌で、創唱者は安西愛子です。日本の少年らしいまっすぐな歌唱が特色です。癖のない歌唱のため、強いインパクトはありませんが、作られたものはないため非常に清潔な印象があります。他にも「カバトットのサンバ」「マグマ大使」などの主題歌や童謡の録音をしています。現在ピアニストとして群馬交響楽団関連団体で活躍しています。

      24 のどじまん出身の少年歌手

 今は少なくなってしまいましたが、かつてはテレビにのどじまん番組がたくさんありました。その中で、よいボーイ・ソプラノに出会えるチャンスが高かったのは、獅子てんや・瀬戸わんや司会で高木東六、笠置しず子、市川昭介、五十嵐喜芳らが審査員をした長寿番組の「家族そろって歌合戦」。特に審査員長の高木東六はボーイ・ソプラノが大好きだったようです。
 また、子どもののどじまん番組と言えば、何と言っても、1960年代後半の「ちびっこのどじまん」が代表的。大村昆の司会、教育評論家の阿部進(カバゴン)、作曲家の藤家虹二らが審査員で、歌(特に歌謡曲)の大好きな子ども達を魅了しました。野口五郎や山田隆夫もこの番組に出演しています。
 野口五郎の「青空のある限り」(ザ・ワイルドワンズの歌)は、その録音が残っていて、ボーイ・ソプラノで大きく歌い上げるその歌は、後年を予測させるなかなかの出来ばえです。
 山田隆夫は当時からお笑い系で、それを生かして、今でも「笑点」で座布団を運んでいますが、かつては「ずうとるび」という歌とお笑いの人気グループを結成していました。この番組では飛び入りで「エンピツが一本」を歌い認められました。この人の場合、歌よりキャラクターの面白さ故でありましょうが。
 のどじまん出身のボーイ・ソプラノと言えば河村晃治もいます。この名前を知っている人は少ないかもしれませんが、大阪出身で、1970年代半ば、「チビッコアベック歌合戦」でグランド・チャンピオンとなり、続く全日本歌謡選手権子供大会」でもグランド・チャンピオンといろいろなのどじまん番組に出て優勝を総なめにしていました。得意だったのは「シクラメンのかほり」やルネ・シマールの「小さな生命」で、歌い方はいかにも歌謡曲的でした。レコードも、小学校3年生のときに入れた「僕ちんの夢」「ポチはお星様」があります。後者はその魅力がよく出ています。
 のどじまん番組には、いわゆる常連といわれる子どもが出ていました。その中で、特に印象に残っているのは福島かずお(漢字は記憶なし)と、辻伸也。福島かずおは、昭和50年頃登場していました。佐賀県出身で、「家族そろって歌合戦」には小6の頃、都はるみの「北の宿から」を最高のボーイ・ソプラノで歌い、審査委員長の高木東六の絶賛をうけました。演歌だけでなくクラシック系を歌ってもかなりうまそうに感じました。別番組では、「木綿のハンカチーフ」を女装して歌ったのも覚えています。中学生になって変声してからも、野口五郎の「風の駅」を熱唱し、たとえ声は変わっても歌心は健在であることを証明してくれました。
 辻伸也は、昭和60年頃登場していました。三重県三重郡の出身、ぬいぐるみを集めるのが趣味という可愛い系の少年でしたが、谷村新司の「昴」、小林旭の「熱き心に」などのドラマティックな曲を熱唱し、見た目と違う歌で、印象に残っています。
 みんな、今頃「カラオケの帝王」になっていることでしょう。なにしろ昔の記憶をたどってのことですので、不正確なことがあるかもしれません。

     25 鈴木 賢三郎(1965?〜  )

  この名前を聞いても、ピンとこない方でも、昭和53(1978)年ごろ放映していた(その後再放送もあり)アニメ「星の王子様」のテーマソングを歌っていた少年といえば、ああ、あの歌と思い出す人もあることでしょう。日本のボーイ・ソプラノソロの名唱としてこの歌は、ボーイ・ソプラノ愛好者の間で今でも語り草になっています。この歌を王子の声をアテた松野達也が歌っていた思っていた人もいるようです。鈴木賢三郎(吹き込み当時中1 放映時は中2)はフレーベル少年合唱団員で、正確に言えば、声質はメゾ・ソプラノだったそうですが、きちんとした基礎を感じる歌を聴かせてくれます。ただ、残念ながら、この歌の録音後変声期に入ったそうです。だから、最高のボーイ・ソプラノを聞くことができます。
 サン・テクジュベリの言葉を述べるセリフの部分は、別人によるそうですが、やや生硬です。しかし、鈴木賢三郎が歌う歌に入ると、見違えるように清冽な歌声の中に凛としたものを感じます。曲想が変わる「だけど、あるんだよ。」の部分など実にうまみのある歌唱です。
 現在も、フレーベル少年合唱団のOB会、明治大学グリーや、「ヴォーカル・アンサンブル」というバロック曲のアンサンブル団体で活躍されているそうです。
 (以前、「セリフは生硬だが、歌に入ると本領発揮」などと間違ったことを書いていましたが、フレーベル少年合唱団OB会との懇親会で、鈴木賢三郎さんのお兄様 鈴木雄一朗さんより、録音に関するエピソードをお伺いしました。)

   26 久世 基弘(1966〜   )

  竹宮恵子の漫画がブレイクした1978〜1979年、そのイメージの世界を音楽で表現するという企画でLP「ガラスの迷路」が発売され、続いて、好みの歌を日本のボーイ・ソプラノ・ソロで歌わせるというLP「過ぎゆく時と友だち」が発売されました。この企画には、当然のことながら、ブレインの増山法恵が参画しています。
 久世基弘は、この二つの企画に中心的ソリストとしてその歌声を記録しました。合唱団の一員というだけでなく、ソリストを育てることにも力を入れていましたがビクター少年合唱隊に、この企画への協力が要請されました。隊員の久世基弘は、甲高いソプラノというより、気品のある落ち着いたビロードのようなメッツォ・ソプラノですが、それが活かされています。また、小学校6年生から変声期に入った中学2年生までの歌声の変化を記録できたという意味でも価値ある企画です。「ガラスの迷路」では、「ぼくのピアノ」「会話」でその歌声を「宇宙」(連想ゲーム)でその話し声を披露しています。「ぼくのピアノ」は、ピアノを友とする孤独な少年の想いがせっせつと歌われています。「会話」では、映画「寄宿舎(悲しみの天使」)」を連想させる上級生との密会の場面が。また「宇宙」では、竹宮恵子との会話によって素に近い姿を垣間見ることができます。
 「過ぎゆく時と友だち」では、中心的メンバーとして、「虹の彼方に」「バンビーノ(ガリオーネ)」「ピノキオへの手紙」「逃げた小鳥」のソロを歌っています。この時期は、変声期にかかっていますが、しっとりとした感情を抑えた歌を聴かせてくれます。

    27 川橋 啓史(1966?〜   )

 昭和50年は、「みんなのうた」で「山口さんちのツトム君」がとりあげられ、ヒットした年でもあります。この作品は競作のような形で、当時の人気子役や少年歌手によって歌われました。記憶にあるだけでも、吉岡秀隆、岡浩也、川橋啓史、斉藤こずえがいます。その中で、本命盤はと言われたら、川橋啓史を挙げたいと思います。数年前、「みんなのうた」の特集番組をしていたとき、30代になった川橋啓史が、家族連れでゲスト出演していましたが、当時は小学3年生ということでした。技巧は感じませんが、素朴な歌い方がよい感じを出していました。また、この歌の続編のような「ユミちゃんの引っ越し」は、少年と少女によって歌われる歌ですが、音楽的にはこちらの方が情のこもった歌と言えます。これも、川橋啓史は、いやみのない素直な歌い方をしていました。

      28 宮本 浩次(ひろじ 1966〜 )

 今では、「エレファント カシマシ」の名前でロックバンドのボーカルとしてすっかり有名になりましたが、本名 宮本浩次は、少年時代には東京放送児童合唱団に小学校3年生から5年生まで入団して声楽指導を受けていました。幼少時からベートーヴェンのクラシックや沢田研二などの流行歌や歌謡曲を好み、当時隆盛であったラジオのベストテン番組を熱心に聴いていたそうです。当時からソロを任されるほど歌が上手くボーイ・ソプラノのスター的存在でした。また、内に地したウィーン少年合唱団との交流もあったそうです。「はじめての僕デス」は、岡浩也、加藤茶などと競作になりましたが、小生意気な歌唱で「うまい」との定評がありました。岡浩也の歌唱と対比すると面白いです。変声してからも、声域は裏声も含めhihiAを越える曲もあり「覚醒(オマエに言った)」「生命賛歌」「部屋」などがあります。昭和56(1981)年に結成したロックバンド「エレファントカシマシ」は、宮本浩次の急性感音難聴を理由に約1年活動を休止していた時期もありますが、平成25(2013)年に復活公演を果たし現在も活動しています。   

       29 岡 浩也(1967〜   )

 昭和42(1967)年生まれの岡浩也は、宮脇康之の弟という設定で、「ケンちゃんシリーズ」の2代目を引き継ぎましたが、むしろ最初はたよりない感じさえ受けました。中学生になっても半ズボンがよく似合う丸顔で目が大きい個性的な顔で、砂糖漬けのような可愛い声の少年でした。それでも、善意に満ち溢れ、育ちのよさを感じさせる岡浩也は、ケンちゃんシリーズの主題歌だけでなく「山口さんちのツトム君」や「ユミちゃんの引っ越し」をはじめとする童謡系の歌やクリスマスソングを多数録音しています。「はじめての僕デス」は、宮本浩次と競作になりましたが、聴き比べるとその特質がよくわかります。岡浩也の歌は通して聴くと、どの曲も同じ色彩で、ひたすら可愛く甘ったるい歌なのですが、この時代はいわゆる「マセガキ」ではなく、このような可愛い少年が高く評価されたとも言えるでしょう。「カレー屋ケンちゃん」では、やや音程が不安定になり変声期に入りかけているようにも聞こえますが、従来の可愛い歌唱を続けているところが魅力と言えるかもしれません。なお、このシリーズ最後の「なかよしケンちゃん」の途中では、話し声を聴くと声変わりをしていることがわかります。
 岡浩也がケンちゃんシリーズに出演していたのは7歳から15歳にかけてで、学年に置き換えると小学1年から中学3年にかけてですが、演じていたケンジ及びケンイチは、実年齢より2学年下に設定されており、初登場の「ケンにいちゃん」では幼稚園の年長で、最後の出演作の「なかよしケンちゃん」では中学1年生という設定でした。岡がケンちゃんシリーズに出演していた期間は、日本では半ズボンの全盛期と言える時代であり、ケンちゃんも劇中で小学校を卒業するまでは一年中半ズボンを穿いていました。岡本人は「カレー屋ケンちゃん」の出演中に小学校を卒業し中学生になっていましたが、次作の「ケンちゃんチャコちゃん」までは劇中で小学生であったため、半ズボンで番組に出演しているだけでなく、中学2年生のとき、いろんな番組の出演者が集まるパーティのような番組に出演するときの服装も、半ズボンスーツでした。そのようなこともあって、岡浩也の半ズボン姿は、これまでの日本の子役の中で最も美しいという者もおり、「なかよしケンちゃん」で中学生となり、半ズボンを卒業するのを残念がる声が多かったそうです。「なかよしケンちゃん」撮影前の企画段階ではケンちゃんをもう一度小学6年生にしないかという話が出たそうです。ケンちゃんシリーズ修了以後は、子供のロックバンド「P.T.A.」のメインボーカル&ギターとしても活動していましたが、10代後半で芸能界を引退して、現在は、精神科医として活躍しています。

      30 アグニ ジュン(粟国 淳)(1967〜  )

 イタリアの童謡コンクール「ゼッキーノ・ドーロ」に日本人の少年が出演して、しかも入賞したという記録を知っている人は少なくなってしまいました。しかし、第18回ゼッキーノ・ドーロで、日本では誰もが知っている「てるてる坊主」(フランコ・マレスカ作詞 中山晋平作曲)のイタリア語詞による「Teru Terubozu Terubozu/てるてる坊主」を歌唱、最終審査対象の14曲に残り「ゼッキーノ銀貨賞」を受賞した少年が、アグニ ジュン(粟国 淳)です。レコードに刻まれたその歌声はまだ幼く、息継ぎが聞こえてしまいますが、かわいい美しさと、しっかりした音程は特筆できます。この人が、日本オペラ界の奇才と称された沖縄県出身の演出家、故粟国安彦の長男で、父と同じ道を歩んだ後年のオペラの名演出家 粟国 淳であることを予測した人はどれだけいたでしょうか。

    31 古賀 潤(1967〜   )

 古賀潤はLP「過ぎゆく時と友だち」の中でオペラ「ポギーとペス」のアリア「サマータイム」を歌っています。声はハスキーで細く、どの曲にも合うというわけではありませんが、この曲にはかえってその持ち味が生かされてよい雰囲気を出しています。ただ、少年が歌うために母性的なものは感じません。

      32 日向 理(ひなた おさむ)(1968〜   )

 日向理は、LP「過ぎゆく時と友だち」の中で「マンマ」「シューベルトのセレナーデ」「君、恋し君」「グリーンスリーブス」を歌っています。ブレスが長くかなり声量のある歌いっぷりで、竹宮恵子は「日本人離れした豊かな声」と評しています。特に優れた歌唱を聴かせるのは「マンマ」で、その持ち味が生かされています。ここではドイツリートも歌っていますが、ブレスの長さが安定感のある歌につながっています。カンツォーネなどで持ち味を生かせそうです。
 中学時代から音楽関係の仕事に就きたいと考え、音楽高校に進み、学生音楽コンクールの東日本代表となり、シューベルトの「春の信仰」を歌いました。このときの声はバリトンです。さらに、東京芸術大学に進学し、声楽科を卒業。また、大学時代には劇団四季にスカウトされ、「オペラ座の怪人」や「ジョン万次郎の夢」などに出演しました。その後も声楽家としてミュージカル、オペラ、クラッシックなどの世界で活躍しました。2001年秋、長年の夢であったうたのおにいさんのオーディションに合格。2002年4月から8年間BS「おかあさんといっしょ」に平仮名の芸名で出演しています。現在も歌のおにいさんとして、ファミリーコンサート等で全国各地を飛び回り活躍中。また、『おかあさんといっしょ』の人形劇【ポコ ポッテイト】 のメインキャラクターの1人【メーコブ】の声を担当。また、姉で声楽家の日向由子とジョイントコンサートを行ったりしています。

    33 加藤 恵夫(1968〜   )

 加藤恵夫はLP「過ぎゆく時と友だち」の中でミュージカル「オリバー!」の中のナンバー「なんでもやるさ」を河村卓也と共に歌っています。作為のないまっすぐな歌い方で好感がもてますが、強いインパクトを感じることはありません。

   34 前田 晃一(1968〜   )

 昭和50年代、「おだいじに」「Gメン75」や「サンキュー先生」などテレビを中心に子役として活躍した前田晃一は、昭和55年映画「宇宙怪獣ガメラ」の中でエレクトーンの弾き語りで、主題歌「ガメラのマーチ」を歌っています。歌そのものは、歌謡調の平板なものですが、一言一言を表情豊かに山場をつくって歌っているところは、さすが少年俳優の歌と感じます。青年期にはTVドラマ「白虎隊」等にも出演。成人してからは俳優を続けながらも、宝生流の能や狂言の世界でも活躍されているようです。三味線も得意とのことです。

     35 河村 卓也(1969〜  )

 河村卓也は、ビクター少年合唱隊の中では長くソリストを務めており、既に 1977年にシングル『パンダの赤ちゃん』をソロレコーディング。ビクター少年合唱隊が5年間毎年出したLP『天使のハーモニー』シリーズでは3年連続「山口さんちのツトム君」「通りゃんせ」「ペチカ」などのソロを担当しています。LP「過ぎゆく時と友だち」の中でも、ミュージカル「オリバー! 」のナンバー「なんでもやるさ」、「マルセリーノの歌」、「グリーングリーン」の3曲を歌っています。特にあとの2曲は、バリトンの平野忠彦と掛け合いで歌っていますが、くせのない美声で流麗な歌い方が好ましく、軽々と歌っているという印象さえ受けます。3年間の歌の変遷を聴くと、可愛らしさからスタイリッシュな歌唱へと移ってきており、また、優等生的と言うこともできましょう。6年生の時には、委員長を務め、中華人民共和国演奏旅行の際、隊員代表として谷牧副総理の招聘を受け、その模様は人民日報(1980年8月1日)などでも報じられています。

       36 原田 潤(1969〜  )

 主演ではありませんが、水谷豊主演の「熱中時代」では、原田潤の「僕の先生はフィーバー」がなかなかの出来ばえです。純粋なボーイ・ソプラノではありませんが、現代的な感覚のノリのよい歌というべきでしょう。伸びやかな歌いっぷりは平尾昌晃ミュージックスクールで学んでいたためでもあります。パンチのある声は、当時はフィンガーファイブの晃くんの再来とも言われてたらしいです。この流れは、三浦大地などに引き継がれているようです。芸能活動は、1978〜1980年の3年間と短かったのですが、「みんなのうた」では、「ヒロミ」を歌い、映画「はだしのゲンPART3 ヒロシマのたたかい」などにも主演して「ぼくはハト」を歌っています。

   37 市場 衛(1969〜  )

  昭和44(1969)年生まれで、結成初期の森の木児童合唱団に在籍しましたが、ソリストとしては、『名犬ジョリィ』エンディング曲「ふたりで半分こ」(堀江美都子との共唱)、『NHKみんなのうた』の「父さんのつくった歌」などを歌っており、今でもYoutubeで聴くことができます。その歌声は世界的指揮者である小澤征爾や日本を代表する指揮者であった山本直純にも愛されました。舞台での歌唱も多く、中でも特筆すべきはNHKホールでの、ニコライ・ギャウロフとのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」。子役(王子役)共演は特筆されます。森の木児童合唱団を卒団してからは、中学校、高等学校とバンド活動をしていましたが、カリフォルニア大留学を機に音楽から遠ざかっていました。近年、六本木男声合唱団に所属していた時期もあるそうです。

      38 吉岡 秀隆(ひでたか)(1970〜  )

 映画「男はつらいよ」や、ドラマ「北の国から」シリーズで、子役から青年役までをこなした吉岡秀隆は、昭和45(1970)年生まれ。埼玉県蕨市出身で、5歳の頃に“吉岡ひでたか”の芸名で劇団若草に所属後、間もなくしてテレビ時代劇『大江戸捜査網』で子役デビューを果たします。同時期に、NHKの歌番組『みんなのうた』で放送された『山口さんちのツトム君』のツトム君役として、歌を歌ったりするなど、多方面で活躍していました。とりわけ「山口さんちのツトム君」はEPだけでなく、南らんぼうの歌を集めたLPを録音しています。まだ、年齢的にも5〜6歳ぐらいで幼くやや舌っ足らずな歌なのですが、南らんぼうの歌のイメージに合う歌を歌っています。また、EP「名物おばあちゃん」「パパが出張から帰ったら」では、歌の中にセリフが入った曲にも挑戦しています。少年期から青年期にかけては、国民的ドラマ『北の国から』に黒板純役、『男はつらいよシリーズ』に寅さんの甥の満男役で出演し、演技を磨いてきました。とりわけ演技に関してはとてもストイックで、子役時代か自分の演技に納得がいかないと悔し涙を流したりなど、負けず嫌いで努力家な面も持ち合わせています。また、「Dr.コトー」で僻地の医療に尽くす青年医師を好演しており、映画『ALWAIS 三丁目の夕日』シリーズでは売れない作家 茶川竜之介役等俳優としての活躍が顕著です。これまでに、優秀助演男優賞を4度、最優秀主演男優賞を2度受賞して、子役が成人後も俳優として成功した数少ない例ですが、映画「ラストソング」では同名の劇中歌を作詞作曲。47万枚以上を売り上げるヒットとなりました。それ以後も、数枚のCDをリリースしています。

      39  荒木 直也(1970〜  )

 ビクター少年合唱隊最後のレコードに登場する荒木直也は、「四季の歌」などの作詞・作曲で有名な荒木とよひさの長男です。荒木直也の代表作は、やはり「あばれはっちゃく」でしょう。この親子が歌った「息子よ」というレコードがあります、これは東京電力のCM曲として使われました。「グリーン・グリーン」みたいな少年と父親のかけあいの歌は好ましいものです。荒木直也の歌声はなかなかきれいですが、いかにも男の子らしい声といえましょう。だから、ビクター少年合唱隊との共演もよかったのではないでしょうか。俳優を引退し、現在は音楽プロデューサーをしているようです。

      40 林 牧人(1972〜  )

 主題歌を歌ったのは唯1曲だけですが、心のひだに触れる歌唱に感心したのは、昭和57(1982)年に映画「誘拐報道」の主題歌「風が息をしている」を歌った林牧人です。林牧人は、3歳からひばり児童合唱団に所属して歌っていたそうですが、この一曲だけでも、日本のボーイ・ソプラノ史上に残る歌唱と言ってもよいでしょう。抒情性を感じさせる歌いぶりであり、日本のボーイ・ソプラノとしては、ヨーロッパに近いタイプと言えます。静かな語りから始まって、大きな山場をつくり、しかも気品のある歌のセンスは実に優れたものです。1983年、「太田螢一の人外大魔境」のレコーディングにも参加して「謎の大洞窟」を歌っています。変声後は、カウンター・テノールとして歌い続け、17歳のときには、CD「心の翼」を出しています。このCDに収められた6曲は、どれをとっても素晴らしいできばえで、高校生の歌唱と思えないところがあります。現在はプロテスタント教会の牧師をしている林牧人の歌は、宗教的な雰囲気も付焼刃でないものを感じさせます。なお、「心の翼」はドイツの自動車「オペル」のコマーシャルのイメージソングとしても使われました。

   41 尾花 勉

 子どもののど自慢番組には、必ずと言っていいほど演歌系の少年が登場しますが、レコードを吹き込んだ少年となると極めて少ないと言えましょう。その中で、尾花勉は、昭和58(1983)年に、EP「男の一本道」(ヤサイ編)「つり師一代」を吹き込んでいます。レコードジャケットは、三波春夫ばりの着物姿で日の丸扇子を開いたポーズが決まっています。「男の一本道」(ヤサイ編)は、母の愛情のおかげで苦手な野菜を食べられるようになったという内容の演歌で、最後は、やはり三波春夫ばりに「お母様は神様です」のセリフで決めています。歌詞的には、親子の情を描いていますが、わざとらしさを感じます。また、「つり師一代」では、釣りに賭ける男の生きざまの世界を描いており、曲も演歌独特のうなりやセリフが効果的に使われています。

   42 大槻 武史

 「歌謡童謡」というジャンルがあれば、大槻武史の歌は、まさにそういう歌でレコーディング当時は、小学校低学年ぐらいと考えられます。内容的には日本昔話を下敷きにしながら現在から過去にワープする「むかしの国へ行きたいな」、電話の向こうは見えないことから起こるおかしな出来事を描いた「電話ってどうなってんの」の2曲は、歌声的には年齢的なこともあり、幼児を脱したというレベルですが、新鮮な歌詞に魅力があります。なお、大槻武史は、1976年から放送された人気バラエティ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」にも出演していたようです。

    43 佐々木 伸之

 「いたずららっこ」「虫歯のこどもの誕生日」などの録音を残している佐々木伸之のプロフィールはわかりませんが、「虫歯のこどもの誕生日」がみんなの歌で放映されていた70年代に活躍していたと考えられます。まだ小学校低学年時の歌唱であると思いますが、美声を聴かせるタイプではないのですが音程がしっかりしており、曲の山場をうまく作っていることが心に残ります。

      44 中島 義実(1975〜   )

  長寿番組「まんが日本昔ばなし」のエンディングテーマ「にんげんっていいな」を歌っていた中島 義実(1975〜)は、歌手としては、NHKみんなのうた「星うらないキラキラ」を歌っていますが、子役としてテレビや映画に出演しています。主な出演作にテレビでは、「仮面ライダーブラック」、「仮面ライダーRX」、「17才」、「半熟卵」。映画では「ビーバップ・ハイスクール」(85)、「ドン松吾郎の生活」(86)、「木村家の人々」(88)などがあります。また、声優としても変声後、映画「耳をすませば」(95)の野球少年、杉村君の声も担当しています。
 現在は、芸能界を引退して、電気工事会社を経営しながら、和太鼓チームを結成、地元のイベントなどで演奏を披露しているそうです。

      45  鈴木 義一郎

 ビクター少年合唱隊から、FM東京少年合唱団に移行する頃のトップソリストで、ブリテンの「ねじの回転」の日本初演でマイルズを演じた鈴木義一郎は、「ゆりかごの歌」「食べてみたいな」の歌唱をCDに残しています。やや硬質でマスクをかぶせたような感じのする声質ですが、憧れと気品のある歌を歌っています。食べ物の歌を聴いて、その歌唱に気品を感じたのは初めてですが、関係者の証言によると、この時世に希少な真摯な生きざまの少年だったということで、それが歌にも直接反映していたようです。「五百羅漢さん」のソロは、聴く人の涙を誘うものだったということです。

      46 貴島 康男(1977〜   )

  昭和52年「うたのしま」と知られる奄美諸島名瀬出身の貴島康男は、幼少より並はずれた歌唱力をもち、12歳で名人と呼ばれた坪山豊に師事しました。その少年時代の歌唱に接した人は、次のような言葉を残しています。
「くりくり頭の中学生の坊やだった。その可愛らしさから、幼い唄声を想像していた。それ以上とも、それ以下とも思わなかった。しかし、彼が歌い始めると会場は「ほうっ」とため息が漏れた。群島内最大規模の島唄イベント・奄美民謡大賞での出来事。唄にもまして彼のその美声!この瞬間、奄美は島唄の至宝を手に入れたのだった。唄の登竜門、奄美民謡大賞という大会で、制服もダブダブの中学1年生がいきなり少年の部優秀賞だ!翌年は、最年少・新人賞を受賞した。3年生の時は、新人賞以上、大賞未満という事で「特別賞」となった。驚異的な少年であった。順風満帆の貴島康男の島唄人生・・・」(出典 株式会社 セントラル楽器 島唄コラム)
 13歳のときには「美ら(きよら)の歌声」というテープを録音しましたが、これは店頭に並びました。また、14歳で日本民謡大賞・中国九州地区大会少年部門で優勝など、注目を集めました。しかし、身体の成長にともなって、彼は声が出なくなってきましたた。島唄は裏声無しには歌えません。変声期の壁は、想像以上のものでした。その失意の時期、彼とその家族は鹿児島移転をしますが、奄美を出て、生きている気がしなかったと言います。人情も文化も今までと違いすぎたのです。異郷で手に職をつけて奄美に帰ってきた貴島は再び、坪山豊に師事して歌い始めます。そして、9年ぶりの復帰、平成13年KTS主催民謡大会では、3年連続青年の部優勝、名人位についています。少年時代の声は、晴れやかで伸びのあり、民謡に見られがちな濁りがなく、奄美の紺碧の空を思い出させます。  

   47 
村上 友一(1979〜   )

 増山法恵は、音楽雑誌「ショパン」に連載していた“THE TREBLE”において、村上友一を「日本のトレブル」(トレブル:ボーイ・ソプラノのトップ・ソリスト)という名で世に紹介しました。また、その数年後自ら企画したCD「air」で、村上友一のボーイ・ソプラノを全国区のものにしました。その実力を高く評価した上でのことでありましょう。このCDは、レコード芸術1998年2月号にも紹介されました。日本のボーイ・ソプラノとしては異例なことです。私は、村上友一の人と音楽を、主として変声期前(8歳から11歳まで)の歌唱テープ、CD、ビデオ、本人と母の談話などをもとにして述べ、日本のボーイ・ソプラノ史上における位置づけをしようと試みます。(村上 友一の人と音楽やCD解説については詳述しますので、上記の青色の名前をクリックしてください。)

     48 福村 亮治

 福村亮治は、年代的には、おそらく昭和の最後頃活躍したソリストでしょう。「せいくらべ」「こいのぼり」など、端午の節句(子どもの日)にちなんだ童謡を、青竹のようにまっすぐなボーイ・ソプラノで歌っています。この歌に求められるのがそういうものなので、いかにも日本のボーイ・ソプラノの典型といった歌い方です。また、「みんなの歌」の人気曲「くまのぬいぐるみ」では、精一杯の感情移入で歌っています。そこでは、かえってその不器用さが好ましく感じます。あまり巧みにこの歌を歌うとかえってその曲想が生きないこともあるからです。

    49 市瀬 俊宗

 ひばり児童合唱団に所属していたという以外に市瀬俊宗に関する情報はありません。残された録音の「ヒロミ」のオリジナルは原田潤ということですから、もっと奔放磊落なノリのよい歌だったことでしょう。市瀬俊宗の「ヒロミ」は、よく言えば元気な優等生の歌と言えましょう。基本的な歌の勉強をしているだけに感情に流されることなく丁寧に歌っていますが、それを魅力と感じるかどうかは意見の分かれるところでしょう。そういう意味でこの歌は、当時の子どもの歌としては性を意識したかなり革新的な歌だったと言えます。市瀬俊宗には、「元気」を求められる歌が似合っているように感じます。
 
     50  林 幸生

 「春よこい」「鳩」「どんぐりころころ」などの童謡を森の木児童合唱団と共に歌っている林幸生は、録音時はまだ小学校低学年と推察されます。森の木児童合唱団の団員であるのかもしれませんがそれは不明です。歌は典型的な童謡歌唱で元気で可愛いのですが、それ以上のものを感じることはできませんでした。高学年になってどんな歌を歌ってくれたのでしょうか。この少年の成長を継続して聴き取りたいという思いに駆られました。

      51 後藤 秀典

 「せいくらべ」「ひなまつり」などの童謡を若草児童合唱団と共に歌っています。若草児童合唱団は、「劇団若草」の児童合唱部でしょうか。柔らかくて上品な歌いぶりで、前述した福村亮治とはまた違った魅力があります。しかし、はっきり言って、これらの歌をある水準以上にうまく歌うことは難しいかもしれません。

       52  KOUJI (1980〜    )

  中古CDショップで、『音楽がボクに生きていく勇気をくれた14才KOUJIデビュー』という謳い文句の「友よ」というCDを見つけたとき、CDジャケットの少年の表情からまだ変声前と直感して買ってみました。CDを開くとこの少年がシンガーソングライターであることもわかってきました。自分の心と向き合いながらも何かを求める歌詞がハスキーな声で歌われるとき、不思議な訴える力を感じずにはいられませんでした。昭和55(1980)年生まれというこの少年のCDをその後さらに2枚手に入れましたが、10才ごろから作詞作曲をはじめたことや、小学校6年生ごろから不登校であったことなどがわかってきました。この少年にとって、歌は心の慰めや叫びだったのでしょうか。それは、推測の域を出ませんが、この少年のそういった生活背景を理解することが、KOUJIの歌を味わう上で大切だと感じました。KOUJIは、変声後も、シンガーソングライターとして活躍しているようです。

      53 神林 紘一

 ひばり児童合唱団が創立45周年記念に作ったCD「なつかしの童謡・愛唱歌集」の中には、何人かのソリストが起用されていますが、「緑のそよ風」と「蛙の笛」で、張りのある美声を聞かせるのが、神林紘一です。「緑のそよ風」では、3番だけがソロになっていますが、とりわけ「ボールがポンポンストライク」というところのはじけるような感じは爽快で、持ち味を生かした歌が歌われています。また、「蛙の笛」では、日本の少年ならではの緊張感のある歌声が聞かれます。
 現在では、東京芸術大学大学院に学んで、声楽家(テナー)の道を歩んでおられるようで、今後その活躍が期待されます。

     54 水谷 任佑

 平成10(1998)年日本フォーレ協会が、ジャン・フルネを指揮者に迎えて日本で録音したフォーレの「レクイエム」のCDで、ボーイ・ソプラノソロとして「ピエ・イエズ」を歌っているのが、東京少年少女合唱隊の隊員の水谷任佑です。遅めのテンポで清澄でありながらどこか陰影のある歌唱は、なかなか魅力的です。また、映画「不夜城」のサウンドトラックにも参加しているようです。

       55 大塚 宗一郎(1985〜   )

  昭和60(1985)年生まれの大塚宗一郎は、TOKYO FM 少年合唱団入団後、トップソリスト時代から、卒団後にかけて、CD録音や数多くのCMソング等でも活躍しています。代表作は、TVアニメの「∀ガンダム」の「羽化」と、健康百歌の「ずっと、ずっと・・・」ではないでしょうか。ソフトな声で美しく歌うだけでなく、歌の底流に人間的なやさしさや温かさを感じさせます。また、「羽化」では前半はややほの暗い声で歌い始めて次第に高まっていき、後半はトリルのような技法も使っていますが、決して技を聴かせるという感じがしません。

       56 白尾 佳也(1986〜  )

 白尾佳也(かなり)を初めて見たのは、平成6(1994)年「タモリの音楽は世界だ」の中でTOKYO FM 少年合唱団メンバーと共に、ウェルナーの「野ばら」を歌ったときです。そのとき出演した十数人の団員の中では最年少と紹介されたので、きっと将来を嘱望されていると感じました。その後も、TOKYO FM 少年合唱団のトップソリストとして「魔笛」の三童子や、ビデオとCDの「くまのプーさん」のクリストファー・ロビンの吹き替えや、CD「おもしろ健康百歌」などで活躍しました。私が実際の舞台を見たのは平成10(1998)年TOKYO FM 少年合唱団のクリスマスコンサートで、「アマールと夜の訪問者」のバルタザール王を演じたときが最初で最後でしたが、このときには、すでに変声期に入っていました。しかし、多くの舞台で鍛えた役作りは見事なものでした。CDの「くまのプーさん」のクリストファー・ロビン役は変声期前のボーイ・ソプラノとして最高の時期に録音されたもので、気品のある歌声で魅了してくれます。ただし、クリストファー・ロビンはもっと年少であるため、原語盤ではもっと幼い歌声で歌われていたのですが。
  その後は、国立音楽大学音楽学部音楽文化デザイン学科音楽創作課程で、コンピュータ音楽や録音技術を学び、さらに、ベルリン芸術大学Sound Studies学科修士課程を修了して、音を見せるアーティストとして、形而上的な概念や現象の裏側に潜在する本質を抽象化したコンセプトを元に、音とオブジェクトによる視聴覚効果を伴う音響彫刻やサウンドアート作品を制作しています。 

       57 三浦 大知(大地)(1987〜  )

 三浦大知を初めて知ったのは、たまたまテレビの「ポンキッキーズ」で歌っていたのを見たときです。「Folder フォルダー」という男女混成グループのメインヴォーカルを歌っていた三浦大知は、美しい高音が軽々と出るボーイ・ソプラノであるという第一印象でした。声そのものは可愛い声なのですが、歌い方は、背伸びしているところもあり、そのアンバランスさがまた独特の魅力をつくっています。系列的には、フィンガー5や原田潤の後継といえるでしょうか。
 プロフィールをみると、昭和62(1987)年8月24日沖縄県生まれで、6才から沖縄アクターズスクールに通い、ダンスと歌を習っています。それを基礎にして約3年間で8枚のシングルと2枚のアルバムをリリースしています。平成12(2000)年5月、変声期を迎えたことを理由に、Folderでの活動を休業宣言し(結果グループはFolder5に改編)、芸能活動を休止し充電期間に入りました。変声期の間はダンスに重点を置き、ボイストレーニングは制限していました。変声期で活動休止中の間にはニューヨークで1年間、ダンスレッスンを受けていました。 そして、ニューヨークでの1年間のダンスレッスン後には日本に戻りピアノやギターを独学で学びました。平成17(2005)3月シングル「Keep It Goin' On」でソロデビュー。その後は、抜群の歌唱力と世界でも最先端に位置する卓越したダンスを併せ持ち、その世界水準のパフォーマンスから数少ない“本物”と言われ「天才」「和製マイケルジャクソン」などと称されています。平成29(2017)年には、最新シングル「EXCITE」(エイベックス)でオリコン(1月30日付)シングルチャート1位を獲得しました。

       58  Spi (ウィリアム W. スピアマン 4世 William W. Spearman IV  1987〜  )

 横須賀に生まれ、ボーイ・ソプラノとしてだけでなく、変声後の現在も希少なメール・ソプラノ(ソプラニスタ)として活躍していましたが、今では、俳優、歌手、モデルとして活躍しています。その名が広まったのは、平成13(2001)年、CD「JOYFUL JOYFUL」が発売されたためですが、繊細な美しさが魅力的です。また、いくつかの歌はただ、楽譜どおり正確に歌うのではなく、独自の節回しで歌っており、これが新鮮な感じを受けました。この少年は「自分の歌」とし、これらの歌を歌うことを覚えているのではないかと感じました。とりわけ「エーデルワイス」はこれまでに聴いたどれよりも清楚で、しかも、最後の盛り上げ方も全体と調和しており、この歌の本質をつかんでいると感じました。歌全体を大きくつかんで歌っていることは、他のいくつかの曲でも感じました。歌曲などにも、独自の叙情性が生きています。
 プロフィールを見ると、5歳の頃から、横須賀米海軍のシアターグループに所属し、「南太平洋」などのミュージカルに出演し子役を務めています。 横須賀芸術劇場合唱少年少女合唱隊に入団後は、「カルメン」「夕鶴」などに出演。また、東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサート等に 出演し、主にクラシック、宗教音楽を歌っています。
変声後も訓練の賜か高音域を維持・発展し、平成18(2006)年には、CD第2弾「美しい日本の歌」を出しました。「変声後もボーイ・ソプラノを維持」という言葉がふさわしい清らかな声質で歌われる唱歌・歌曲は、1曲ずつ情感豊かに歌われています。「浜辺の歌」「この道」「夏の思い出」のような抒情的な歌曲においてそのよさがよく現れていると思います。
 また、10代後半からはユニットを組んで東京都内のライブハウスやイベントスペースなどに出演しはじめ、ヴォーカル、ダンザーとしておおいに観客を沸かせました。また水夏希(元宝塚歌劇団雪組トップスター)とユニット「Guys☆From The Earth」を結成し、フジテレビジョンタイアップドラマ『スミレ刑事の花咲く事件簿』で主題歌を歌うなどの実績を残しています。その後、更に表現の幅を広げるためにニューヨークに渡り、舞台技術、ヒップホップ、クラシックバレーを学びました。『Take me out』(2016)の演出を担当した藤田俊太郎は、俳優 Spi について「台詞の分析、美しい体格、演技者として素晴らしいスタイルを持っています」と評しています。本人の公式ブログでは、目標として「トリプル・スレット・エンターテイナー」(演技、歌唱、ダンスのすべてに卓越した舞台人)を目指すと宣言しています。現在、ミュージカル、ストレートプレイなどの舞台、また歌手としての単独ライブと精力的に活動中です。

       59 鈴木 雅也

 ボーイ・ソプラノの歌声に心を癒されることはしばしばありますが、ぞくぞくさせられることは希です。そんな少年がTOKYO FM 少年合唱団の鈴木雅也。クリスマスコンサートで「マリアは歩みぬ」のソロを聴いたとき、たった一節でも心を奪われる清冽な美声でした。「血に染み白鳥」の一節は絶唱でした。しかも、歌声を姿に表したような美少年・・・天は二物を与えたという感じです。この美声はエッジの美しさが決め手と言えましょう。また、「11匹のネコ」では、お芝居も見せてくれましたが、こちらは意外と印象が希薄です。

     60 村田 悠典

  TOKYO FM 少年合唱団は、「ボーイ・ソプラノの図鑑」のように、個性的なソリストを育てていますが、村田悠典は、清純な声質が持ち味の典型的なボーイ・ソプラノらしいソリストでした。「アマールと夜の訪問者」のタイトルロール、「にじ」のオブリガート、「さとうきび畑」のソロ、「ぞっとする話」のジョバンニなど、重要な役どころをこなし、声はやや細めですが哀愁さえ感じさせる歌を歌いました。また、かの香織がプロデュースしたCD「コキュウ」にも参画していますが、これが、声を素材として使っているため、村田悠典の声の持ち味を最高に活かしているかと言えば、必ずしもそうとは言えません。当たり役のアマール役では貧しさの中でも美しい心を失わない少年という感じがよく出ていました。こういう精神的な美しさを表現できるところが村田悠典の美質と言えるでしょう。

    61 村上 賢
 
 ボーイ・ソプラノの名手はかなり存在しますが、ボーイ・アルトの名手となると、数少ないというのが現状です。それは、華やかなソプラノに比べてアルトは声質が地味であることが影響しています。そのような中で、TOKYO FM少年合唱団の村上賢(さとし)のボーイ・アルトには、「華」がありました。身長も高く見栄えがする舞台姿だけでなく、ソロはもとよりデュエットでも、ビロードのような艶やかな声は魅力的で、コンサートにおいて重要な役どころを担ってきました。特に、オペラや音楽劇において、その演技力もなかなかのもので、「11ぴきのネコ」のニャン太郎は名演でした。また、ディズニーワールドオンアイスの「トイ・ストーリー」のシド役の吹き替えもしています。卒団後もTOKYO FM少年合唱団にかかわり、最近では演出も手がけていました。

    62  高橋 理顕

 TOKYO FM 少年合唱団のクリスマスコンサートの最後を飾る「きよしこの夜」は、高橋理顕のオブリガードで幕を閉じるというイメージが、卒団後数年経つ今でも残っています。それほど強いインパクトのあるよく響く声が、高橋理顕の持ち味です。同学年の団員より頭一つ大きいと感じるほどの豊かな体格から発する豊麗な響きの歌声で、重要なソロパートを歌ってきました。特に印象が強いのは金子みすずの「ほしとたんぽぽ」からの「たいりょう」で、歌とオブリガードが絶妙の調和でした。また、卒団後も、歌劇「トスカ」の羊飼いの少年のソロを歌っています。

       63 八尾 英治

 TOKYO FM 少年合唱団所属のの正統派のきれいな声のボーイ・ソプラノで、クリスマスコンサートの冒頭を飾る「もろびとこぞりて」の歌唱は、聖なる世界へと誘ってくれました。パートとしては、メゾ・ソプラノを歌っていたようですが、きめの細やかな歌唱がもち味です。変わったところでは、ゲーム音楽の「ファイナルファンタジー10」で「祈りの歌/異界送り」を歌っており、CDでその歌唱を聴くことができます。

    64 Ya・Ya・yah

 ジャニーズ事務所所属の少年によるユニットは、次から次に誕生していますが、そのほとんどが変声期後の少年によって構成されています。そういう意味では、デビュー当時において小学生から中学生のメンバーによってされているYa・Ya・yahは、珍しいケースかもしれません。スタート時において5人だったメンバーも、入れ替わりがあるようですし、メンバー全員が変声期を迎えた今、以前と同じようにやれるのかという心配もあります。
 現時点において唯一CD化されているNHKテレビアニメーション「忍たま乱太郎」のテーマソングである「勇気100%」と「世界がひとつになるまで」は、はっきり言って素晴らしいできばえです。ニューミュージック独特のアクセントの「あく」はあるにせよ、これらの曲に求められる元気や盛り上がりをよく表現し、聴き込むうちにその「あく」さえ魅力に変えてしまっています。ソロをうまく使ったアレンジが活かされています。「勇気100%」のソロ部分は藪宏太と赤間直哉が、一節ずつ交替で歌っているようです。こういうソロのあり方も、Ya・Ya・yah独自のものです。

    65 延原 俊介
 
 平成11(1999)年広島少年合唱隊創立40周年記念演奏会では、フォーレの「レクイエム」が演奏されましたが、このときボーイ・ソプラノソロとして「ピエ・イエズ」を歌ったのが、当時4年生のの延原俊介です。このときの演奏はまだ線の細いところもありますが、清潔なリリシズムに満ちた演奏をしています。また、兄 英介のあとを継いで、日本テレマン協会が夙川カトリック教会で毎年演奏していた「メサイア」のソリストとしても2年間活躍しています。私は、平成12年にこの演奏に接していますが、ソロ3曲は歌うごとに次第に調子をあげて、繊細で曇りのない歌声を聞かせてくれました。また、この1年の間に声は一段と輝きを増しています。このうち「正しいことを述べる者の足は美しい」は、その年の8月にアメリカ・テネシー州で行われた「チャイルドフッドドリームズ世界平和コンサート」のCDにも収められています。平成13年の定期演奏会でも飛び抜けて輝かしい歌声を聴かせてくれました。
 
       66 林 直次郎  (平川地一丁目)(1990〜    )

  音楽デュオ「平川地一丁目」のメインヴォーカルの林直次郎は、平成2(1990)年生まれ。平成12(2000)年夏ごろから兄の龍之介が父の影響でギターを始め、家にあったフォーク歌手ののレコードをコピーしていましたが、同年暮れの地元イベントに出場するため直次郎を誘ったのが「平川地一丁目」結成のきっかけとなりました。その後、様々な地元のイベントで声が掛かり話題を集めるようになり、やがて、平成15(2003)年ソニーよりデビュー。平成20(2008)年の解散までの5年間に多くのCDやDVDを残しています。兄弟はシンガーソングライターでもありますが、その曲は、ジャンル的にはフォークソングに分類されるでしょう。デビュー当時(11歳 小6)ソプラノであった声は、新しいCD発売のたびに少しずつ変化し、変声後はむしろハイ・バリトンの力強い歌声になっています。また、映画「檸檬のころ」では、俳優としても出演しています。平川地一丁目解散後は、芸能界を引退し学生に戻りました。

        67 上野 琴久

 平成16(2004)年に誕生した新感覚のボーイ・ソプラノのCD「Chirping of the Last囀(さえず)り」によって、その名を海外にも知られるようになった上野琴久は、幼い頃からビートルズが好きで、特別な声楽の訓練をしていないという自由な音楽児だったそうです。このCDも、そのほとんどが副題の「声で遊ぶ」に見られるように、ボーイ・ソプラノという声を素材として、どのような表現が可能であるのかを追求した作品になっています。10歳で初めて歌のレッスンを受けて、ロイド・ウェッバーの「レクイエム」からの「ピエ・イエズ」などのボーイ・ソプラノの定番曲も歌っていますが、これもかなり高い水準の歌になっています。
 声質は、特に高音域が硬質で乾いた感じがして、それが父 上野哲生氏の作曲した曲とよくマッチしています。また、これらの曲の伴奏は、すべて古楽器によって演奏されています。このアルバムの慎ましやかな表現は、この伴奏によるところが大きいだけでなく、ボーイ・ソプラノと不思議な調和をしています。それは、音楽のジャンルを超えています。上野琴久は、この最初で最後のアルバムによって、日本のボーイ・ソプラノの新しいページを開きました。
 このCD評は、本ホームページの「LP・CD・書籍紹介」のコーナーに掲載しています。 CD/book
 また、上野琴久CDホームページもあります。  http://homepage2.nifty.com/tess

       68 稲垣  拓

 平成17年3月までボーイズ・エコー・宝塚のトップソリストとして活躍した稲垣拓の成長と活躍を私は、在籍した小学校2年生から6年生までの5年間にわたって見てきました。低学年の頃は、ピーンと張りのある声で元気よさが特徴でしたが、楽しい場面でも悲しい場面でも舞台上で自分がすべきことをつかみ、場に応じたステージマナーで、舞台を盛り上げました。また、ビッグマンモスの「星物語」の復活におけるソリストをつとめたことは特筆されます。高学年になってからは、元気よさだけでなく、強い意志を感じさせる歌を歌うようになってきました。また、郷土民謡の「千吉音頭」でも、張りのある美声を聴かせてくれました。そのような意味で、少年合唱が育てる少年の理想像を感じさせてくれました。なお、卒団後も、声が変わるまでは郷土のためにと、「千吉音頭」に出演していました。

    69 村上 諄

  日本のクラシック音楽界で活躍した実力派のボーイ・アルトの名手としては、 村上 諄(あつし)の名前を忘れることができません。また、TOKYO FM 少年合唱団と暁星小学校聖歌隊という日本を代表する2つの団体に在籍していたことも特筆できます。TOKYO FM 少年合唱団では、低学年時より頭角を現し、クリスマスコンサートでは、「サンタクロースがやってくる」のデュエットで、聴かせる演奏をしてくれました。4年生の定期演奏会では「大きな古時計」のソロをしっとりとした歌声と落ち着いた気品のある態度で歌いあげました。本格的な大活躍は、この後から始まり、オペラでも小澤征爾指揮の「ジャンニ・スキッキ」のゲラルディーノ(ゲラルドの息子)役や、「タンホイザー」、「題名のない音楽会」にも出演した輝かしい履歴をもっています。今では、変声してバリトンですが、暁星小学校聖歌隊のチャリティコンサートには、OBとして現在も出演しています。なお、前述した村上賢の弟(3兄弟の末弟)でもあります。最近では、TOKYO FM 少年合唱団の舞台監督を務め、OB会のリーダーとして活躍しています。

     70  大場 寛朗

 TOKYO FM 少年合唱団は、ソリストの育成においても、すぐれた成果をあげていますが、大場 寛朗(ひろあき)も、その一人です。オペラでも小澤征爾指揮の「ジャンニ・スキッキ」のゲラルディーノ(ゲラルドの息子)役を村上 諄とダブルキャストで演じましたが、この少年を一躍有名にしたのは、「題名のない音楽会」の「未来の大器」シリーズで、「カロ・ミオ・ベン」を歌ったことです。当時小学6年生で、変声期に入って声がだんだん下がってきていることを告白していましたが、しっとりとした歌声と落ち着いた態度でこの歌を歌っていました。きっと、その1年前がボーイ・ソプラノとしては最高の時期だったと考えられます。声楽家志望ということなので、将来を期待しましょう。

      71 
秋山 直輝(1994〜    )

 平成15(2003)年東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートのソリストとして彗星のように現れた秋山直輝(なおき)は、当時まだ小学3年生。その年の4月に横須賀芸術劇場少年少女合唱隊の入団オーディションに合格したばかりでした。日本のボーイ・ソプラノには珍しいヨーロッパ系の透明度の高い美しさが注目されたのでしょう。母の歌う賛美歌を子守歌のようにして聴いて育ったことが、歌心を育んだとも言えるでしょう。
 デビュー当時は、クリスタルな声質と祈り心が一致した演奏が持ち味で、宗教曲にその特質が活かされていましたが、次第に抒情的な表現ができるようになってきました。次第に、レパートリーも広がって、イタリア古典歌曲やトスティの歌曲や映画「オズの魔法使い」からの「虹を超えて」や日本歌曲などにも挑むようになってきました。また、小学6年生(平成18年7月)には、ア・カペラによるソロコンサート(リサイタル)を行いました。このコンサートは、ボーイ・ソプラノに別れを告げる前に、これまで応援してきた人を招待して行われました。なお、低音域の充実は、小学5年生の終わり頃から顕著になってきましたが、はっきりと変声の兆候が現れたのは、小学6年生の冬以降です。しかし、変声期も自然な受け止めで、落ち着いた態度が変わることはありませんでした。
 また、変声中・変声後も訓練の賜かソプラノ音域を維持し、平成25年3月横須賀芸術劇場少年少女合唱団を卒団するまでファルセットを駆使して歌い続けていました。また、ピアノ教室のミニコンサート等では兄 智紀(ともき)の伴奏よる息のあった二人三脚の歌を聴くことができました。
  (秋山直輝のコンサート評等については詳述しますので、上記の青色の名前をクリックしてください。)

       72 檜垣 友哉

 平成18(2006)年7月、平成19(2007)年8月と2年にわたって、エリザべート音楽大学同窓会主催のフォーレ「レクイエム」のソリストをつとめた檜垣友哉(ゆうや)は、現在広島少年合唱隊の研究科(中学生以上が所属)に所属しています。小学1年生から在籍していますが、小学4年生頃から頭角を現してきました。広島少年合唱隊の定期演奏会等では、「ピエ・イエズ」がsoli で歌われることが多いのですが、このたび、平成19年のエリザべート音楽大学同窓会主催のフォーレ「レクイエム」をDVDで視聴する機会を得ました。その「ピエ・イエズ」は、透明度の高い音色で柔らかい響きとあいまって、この曲に求められる美しい世界を創り上げています。また、長髪が可愛い檜垣友哉の魅力は、ダンスにも見られ、「カンタール」の振り付けなどでは、そこはかとない色気さえ感じさせます。変声後も、広島少年合唱隊で歌い続けています。

       73 カイ・シマダ(1994〜    )

 日本人初のウィーン少年合唱団員のカイ・シマダは、平成6(1994)年生まれ。平成16(2004)年、グロリア少年合唱団員だった10歳の時にウィーン少年合唱団のコンサートを聞いて感動し、両親にも内緒でプログラムに載っていた連絡先に問い合わせをしたところ、ウィーンでオーディションを受けるようにとの通知が来て、合格し入団することができました。
 平成19(2007)年の日本公演に凱旋帰国したことは、大きなニュースになりました。ブルックナー・コアに在籍して、パートはアルトを担当。しかし、日本公演では、ソロは与えられなかったようです。当然のことながら、辛かったことは、最初ドイツ語ができなかったことで、歌についても、歌詞の内容が分からず、丸暗記するしかありませんでした。日本公演でも、漢字での日本名を明かさず、インタビューでもドイツ語で答えるように指導されていたのは、団の方針でありましょう。
 プロ野球の大リーグでも、野茂選手が活躍したことがきっかけとなって多くの日本人選手が大リーグ入りしたように、カイ・シマダが果たした功績は大きいと言えましょう。

       74 小澤  賢哲(たかあき)

 TOKYO FM 少年合唱団は、数多くのソリストを育成してきましたが、小澤 賢哲は、「SONY」の創業者でもある故盛田昭夫氏の人生をテーマにした祈りのカンタータ「天涯。」のソリストを務めたことで特筆されます。2006年から2007年にかけてハワイやモナコ公演を含め全曲を4回、「第8番」の抜粋を1回歌っています。これは小学6年生から中学1年生にかけてです。その歌声は、くせのない明るい朗々としているだけでなく、やさしさや温かい慈しみを感じ、癒されます。その歌声はCD化されており、今でも聴くことができます。
  また、TOKYO FM 少年合唱団の20周年の記念誌を読むと、TOKYO FM 少年合唱団に入ってよかったこととして「@気が合う友が作れた。A前より確実に歌が10倍うまくなった。Bそして何よりマナーが良くなった。」と述べています。卒団前の定期演奏会では、少年少女のための「くいしんぼうの世界旅行」の中で「オー・ソレ・ミオ」を独唱しましたが、明るくよく伸びる声で、歌い上げました。この歌に対しては、「いよっ!待ってました。」と言う声がかかりそうな雰囲気を創り出していました。

      75 貞松  響(1995〜    )

 ウィーン少年合唱団員として活躍した貞松響は、平成7(1995)年生まれの関西(おそらく大阪)育ちということですから、2008年の「シューベルトコア」の一員としての来日時は12歳(日本の学齢では中1)です。オーストリアを中心とするヨーロッパ勢の中では、小柄に感じました。コンサートでは、部分的にではありますがソロのパートを与えられ、「ねむの木の子守唄」の一節を歌いました。このときは清楚で基本に忠実なボーイ・ソプラノというイメージしか感じませんでしたが、中国公演における「旅愁」で聴く歌声からは、さらに伸び伸びとした濃密な抒情性を感じることができました。来日の翌年は「シューベルトコア」のトップソリストとなり、韓国公演では華のある歌声を聴かせてくれています。 中学3年生で卒団後帰国し、音楽の伝統校 京都堀川音楽高校で学んでおり、オペラ歌手を目指して声楽を学んでいます。平成25年度には、全日本学生音楽コンクール大阪大会に入賞しましたが、入賞コンサートで歌ったメンデルスゾーンの「歌の翼に」と「シルヴィアによせて」、ドイツ語の歌詞の発音がはっきりしており、声質は低めのテノールという感じで、テノールでありながらも低音が美しく響いていたそうです。

       76 川綱 治加来

  ミュージカルの子役で、主として舞台で活躍してきた川綱治加来(かわつなちから)は、変声前に「ママに捧げる歌」をCD化しています。細めの声質でやや直球気味ながら、歌の中に演じる要素を盛り込んでいます。平成7(1995)年3月1日東京都生まれの川綱は、幼児期よりCM等にも出演してきましたが、ミュージカルとしては、2001年 帝劇「質屋の女房」(長屋の子供役 他)、2004年 東宝「エリザベート」(少年ルドルフ役) 2005年 東宝「モーツァルト!」(アマデ役)と着実に芸歴を積み重ねてきました。「ママに捧げる歌」は、毎年「母の日」前後に来日しているリチャード・クレーダーマンのCDにもカップリングされています。

       77 中島 信太郎(シンタロウ)

 川崎市出身で、オーディションに合格し単身ウィーンに渡り、少年合唱団の一員として世界各国を公演していましたが、平成21(2009)年春から夏にかけて日本へもワールドツアー公演で帰国しました。そのときは、13歳で、このときからウィーン少年合唱団では、団員名をファーストネームのみの表示にしています。従って、「シンタロウ」と紹介されました。Aプログラムではトップソリストを務めたばかりでなく、ソロと曲目の解説までやって大活躍しました。しかし、その当時の歌声は、やや細めで正統派の高音から低音まで均一の響きをもつものでした。また、耳になじんだ優雅で甘いウィーン情緒をもった女声に近いウィーン少年合唱団の歌声と言うよりは、日本とヨーロッパが融合したような澄んだ細めの少年の声でした。しかし、帰国後さらに歌声は艷やかに変貌を遂げていきます。
 14歳という年齢制限の関係で平成22(2010)年の6月には合唱団を卒業しましたが、その年の秋には、ヘンデルのオペラ「アルチーナ」にオベルト役で出演し好評を博しました。3幕からなるこのオペラでは、各幕にオベルトのアリアがあります。また、その年のクリスマスコンサートでは、ロイド・ウエッバーの「レクイエム」の「ピエ・イエズ」のデュエットをゲニア・キューマイアーと共に歌っています。この頃が、おそらくボーイ・ソプラノ((アルト)としての最後の時期ではないでしょうか。かなり艷やかな歌声になっていました。変声期の直前は、少年に歌も容姿も最高の輝きを与えると感じたものです。しかし、2011年1月の日常生活を描いた映像で歌声はソプラノでありながら、インタビューに応える声は既に低くなっていました。その頃は、カウンターテノールの技術を身につけていたのかもしれません。
 ウィーン少年合唱団は、東日本大震災により日本公演を中止しましたが、その代わりに、平成23(2011)年4月14日にチャリティー公演を行い、「ふるさと」など日本の歌を披露しました。その公演の中で、OBとなり同団付属高校(上級ギムナジウム)生となった中島信太郎は「勇気と希望を与えられるように歌いたい。」とメッセージを述べたことが、日本でも大きく報道されました。1年間、ウィーンで音楽を学び続けたあと帰国し、日本の高等学校に通っていました。

     78 北村 匠海(たくみ)(1997〜   )  

  NHK「みんなのうた」の「リスに恋した少年」で歌手デビューを果たした北村匠海(きたむら たくみ)は、その後俳優として映画「ブタがいた教室」「重力ピエロ」「TAJOMARU」「沈まぬ太陽」「シュアリー・サムデイ」等や「鈴木先生」などのテレビドラマで活躍していますが、新たなレコーディングは見られません。平成9(1997)年東京都出身の北村匠海は、2006年に芸能界入りし、「リスに恋した少年」が放映されたときには、10歳でした。歌い巧者とは言えませんが、声そのものの素朴な美しさは、この曲のイメージにぴったりしていると言えるでしょう。その後は俳優として活躍していましたが、若手俳優ユニット・EBiDAN内のDISHというグループでも音楽活動しています。

       79 浅賀 玲音(れお) (1998〜   )

  平成10(1998)年11月4日千葉県生まれの浅賀玲音は、NHKEテレの人気番組「天才テレビくん」の中で、「風の自転車」を歌い一躍人気者になりました。この歌は、柔らかくてしなやかな高音を駆使して歌われています。しかし、その年の夏に行われたインタビューでは変声期も始まっているとかで、この少年の声が最高の時期に歌声を残すことができたことがせめてもの幸いというべきでしょう。変声後も、歌は磨かれ、平成24(2012)年東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートのソリストとして迎えられました。J−POP系の少年ソリストとしては、初めてのケースになるでしょう。

       80 魚住 龍太郎

  北九州少年合唱隊は、合唱そのものよりもミュージカルに重点を置く少年合唱団という認識をしています。それが正しいかどうかは北九州少年合唱隊の定期演奏会をはじめとするコンサートを長年追い続けた人だけが出せる答えだと思います。きっと、これまで多くの素晴らしいソリストたちを世に送り出したことでしょう。魚住龍太郎は、よく伸びる輝かしい美声を輝かせる歌唱で、短期間にトップソリストとして踊り出ました。小学5年生までは特に目立つ歌唱をしたという印象はなかったのですが、小学6年生で演じた「ピーターパン」のウェンディ役の清純な歌唱は、中学1年生の「星の王子様」のタイトルロールとしてさらにパワーアップして芯のある輝かしい声で演じ抜きました。この役は、最初から最後まで殆ど出ずっぱりです。この演目の再上演が可能かどうかとさえと思わせるその歌唱は、ステージではむしろ抑制された知性に裏付けられていました。

     81 松本 遊(ゆう)

 全国童謡歌唱コンクールは、多くのボーイ・ソプラノを世に送ってきましたが、松本遊もその一人です。ただしこのコンクールの採点・評価は、審査員の好みやその時代が求めているものが何かがかなり影響しているように思われます。中学1年生の平成25(2013)年に開催された第28回全国童謡歌唱コンクール 北海道ブロック決勝大会(大人部門)に出場して、「待ちぼうけ」を歌いました。その歌は、歌詞をくっきりと浮き彫りにするような歌唱です。個人のYoutubeチャンネルを持っており、そこから、小学6年生のボーイ・ソプラノで歌われたカッチーニの「アヴェ・マリア」から変声期を経て最新の歌声までを聴くことができます。なお、変声後は、テノールとして歌い続けています。平成28年、全日本学生音楽コンクール北海道大会、声楽高校生の部で1年生でありながら奨励賞を受賞しており、将来が期待されます。

      82  加藤 清史郎(2001〜   )

  加藤 清史郎(かとう せいしろう)は、平成13(2001)年8月4日生まれの日本を代表する子役タレントです。平成21年放映の大河ドラマ『天地人』で樋口与六(直江兼続の幼少期)役を演じ一躍人気者となった加藤清史郎は、その後もトヨタ自動車の「こども店長」役でCMに出演。神木隆之介によってブーム化した「子役ブーム」を再現しました。そうなると、このブームに便乗するのが芸能界の常。NHKみんなのうたで平成21年夏に流れた「かつおぶしだよ人生は」で歌手デビューしました。この歌、題名からしてもわかるように「浪花節だよ人生は」を下敷きとしていますが、ネコの視点で描かれたかつおぶし讃歌の詩に、演歌風の曲がつけられています。さて、歌う加藤清史郎は、正確な音程で演劇的な歌を歌っています。なお、この曲は同年12月時点でCD売上約2万枚、音楽配信と着ボイスの合計で13万ダウンロードに達しています。同CDのB面?の「ランドセルどっかん」は、「1年生になったら」のような曲想の童謡で、背伸び感はなく、自然に聞こえます。なお、加藤清史郎は平成21年末の紅白歌合戦のスタートの司会を飾り、「かつおぶしだよ人生は」も歌っています。これは、8歳ということで、河野ヨシユキの男子最年少出場記録であった11歳を塗り替えました。
 その後、ミュージカルの分野にも進出。 レ・ミゼラブル(2011年4月12日〜6月12日 帝国劇場 2013年8月〜11月博多座・中日劇場・梅田芸術劇場・帝国劇場) - ガブローシュ役(トリプルキャスト)エリザベート(2012年5〜9月 帝国劇場、博多座、中日劇場、梅田芸術劇場) - 少年ルドルフ役(クアドラプルキャスト)にも挑んでおり、ドラマではハスキーな声ですが、ミュージカルでは透き通る声で次第に歌唱力を高めています。

    83 
栗原 一朗(2001〜   )

 この3年あまり、クラシック系のボーイ・ソプラノとして活躍の目覚ましい栗原 一朗は、平成13(2001)年東京生まれの中学1年生(平成26年6月現在)音楽歴は長く、3才からフレーベル少年合唱団に所属し、小学校低学年から次第に頭角を現してきました。平成20(2008)年の定期演奏会では、グリーグ「子どもの歌」「ノルウェーのおくりもの」から『神様のおくりもの』で出だしのソロを与えられ、将来を嘱望されました。翌年の定期演奏会では、歌劇「カルメン」ハイライトで、カルメンとミカエラの1人2役をやっています。ただ声質からして、ミカエラが適役と言えるでしょう。活躍はさらに広がり、最近では毎年10回以上コンサートに出演しています。とりわけ、六本木男声合唱団倶楽部のコンサートのカンタータ「天涯。」で、ボーイ・ソプラノのソロで4回出演したことは特筆されます。この曲では、ボーイ・ソプラノが曲全体を率いることが求められます。また、平成24(2012)年7月、日本福音ルーテル小石川教会で、ソロコンサートを行っています。また、同年、笛、フルート奏者の森田和美氏のアルバム「千年の渚」に収録されている『ありがとう』にソロ出演し、この歌はCD化されています。平成25(2013)年東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートのソリストとして迎えられました。久しぶりのクラシック系の少年ソリストで、このコンサートは、ボーイソプラノの繊細さを味わうという意味で記念碑的なものとなりました。
その他、平成23(2011)年、ディズニーチャンネルで放送された海外アニメ『スモールポテト』では、アフレコで主役の一人を演じ
CMソング
歌手としても、「泡のチカラ エクストラクリーン」「クロレッツ アイス」花王「セグレタ」日本通運「環境を考える」るなど、多方面でも活躍しています。小学校卒業を前に、7曲からなるCD「永遠」〜Engel Song〜を録音・発売しました。
 決して大きな声ではないのですが、その歌唱の特徴は、その清澄な響きと抒情性にあり、「祈り」と「感謝」が伝わってきて幸福と直結する歌を聴くことができます。また、品のよい哀愁を感じさせるところもあります。
(栗原一朗のCDやコンサート評等については詳述しますので、上記の青色の名前をクリックしてください。)

     84 田 彪我(さくらしめじ)

 中学生のフォークソングのデュオ「さくらしめじ」は、スターダストプロモーションの音楽グループで、EBiDAN39&KiDSの選抜ユニットです。平成26年7月に「雅功&彪我」としてデビューし、ストリート・ライブなどによって少しずつ頭角を現してきましたが、同年11月、「さくらしめじ」と改名し、シングルCD「いくじなし / きのうのゆめ」を発売するところまで至りました。翌年6月には「きみでした/せきがえのかみさま」をリリースし、平成28年1月「はじまるきせつ/さんきゅう」と3枚のCDをリリースしています。デビュー時点で田中雅功(がく)と田彪我(ひょうが)は二人とも中学1年生でしたが、田中雅功は既に変声期に入っており、現時点では音域的にはテノールで、田彪我のボーイ・ソプラノとの変声前後のデュエットという組み合わせというところに特色があります。また、ギターを肩に掛けタンバリンを首に掛けた姿で演奏するスタイルも特色です。
 田彪我の声質は、甘いロングトーンが特色であり、やさしそうな表情の歌と相まって癒し系の歌ややや背伸び気味の歌にそれが生かされています。
 田彪我を有名にしたのは、ドラマ「5→9」で女装した女学生役で俳優デビューしたことです。このような役でデビューすると、その印象が強すぎて役が狭められます。その後も、「家族ノカタチ」で今度は男子中学生役で登場していますが、変声後歌手か俳優かどちらの道に進むのか難しい選択を迫られそうです。

      85 小野 颯介

 TOKYO FM 少年合唱団は、数多くのソリストを育成してきましたが、小野颯介は、平成26(2014)年のクリスマスコンサートでは、14年ぶりの「アマールと夜の訪問者」の再上演でアマール役を演じました。本科3年の小学4年生頃から声に輝きが増してきましたが、5年生の時には、六本木男声合唱団のカンタータ「天涯」で、ソリストを務めるなどの活躍をしてきました。明るく輝かしい声質で、歌詞が非常にはっきりと聞き取れます。クリスマスコンサートの最後を飾る「きよしこの夜」では、輝かしいオブリガードを聴かせてくれました。なお、CD「天使のハーモニー 〜ボーイソプラノの魅力〜」では、Soliの一員として「赤鼻のトナカイ」「マリアは歩みぬ」「きよしこの夜」「BELIEVE」を歌っています。また、卒団後もその声はさらに輝きを増し、平成27(2015)年7月東京二期会オペラ劇場 モーツァルト:歌劇「魔笛」の3童子(1)役では、全体をリードする歌を聴かせてくれました。

       86 響一(吉原 響一)

  平成27(2015)年、Youtubeに、ボーイソプラノ 響一 として、ヘンデルのオペラ「 セルセ」より「オンブラマイフ」 とモーツァルトのオペラ「 フィガロの結婚」より「恋の悩みを知る君は」を歌う姿が公開されましたが、そのプロフィールはわかりませんでした。平成28(2016)年 東京ヴィヴァルディ合奏団のクリスマスコンサートのソリストとして迎えられることで、そのプロフィールの一端がわかるようになってきました。平成28年度において中学2年生の吉原響一は、小学校5年生の時に西宮市内のキッズコーラスサークル「ffキッズ」に入会。その後、声楽を始めます。伊丹市民オペラ「子供と魔法」「カルメン」子ども役で出演。小学6年生の時、第20回 神戸国際音楽コンクールでは、声楽部門で最優秀賞と兵庫県教育長賞を受賞し、 中学1年生の時には、大阪国際音楽コンクールで第3位を受賞している本格的なクラシック系のボーイ・ソプラノです。「オンブラマイフ」では、柔らかい発声と豊かな声量が際立っており、「恋の悩みを知る君は」ほのかな色気を感じる歌を憧れをもって歌っています。

       87 松井 月杜(つきと)(2003〜   )

 平成15(2003)年7月1日生まれの松井月杜は、ミュージカルを中心に活躍する少年俳優。小学2年生頃から音楽劇「赤毛のアン」のチャーリー役、「ブラームスとシューマン、そしてクララ」のオイゲ二−役、本邦初演のオペラ「ハーメルンと笛吹き男」のウィリー役ミュージカルなどに出演し、頭角を現してきました。さて、松井月杜を一躍有名にしたのは、2013年に各地で公演された『レ・ミゼラブル』ガブローシュ役で、加藤 清史郎や鈴木 知憲とトリプルキャストで演じたことです。その他CMソングなども歌っています。
 平成26(2014)年7月にはテレビのカラオケバトルで、「アナと雪の女王」の「生まれて初めて」を歌い、その実力を示しました。明るい声質の歌い巧者で、ドラマを創っていきます。同年 9月10月には、ミュージカル『ファントム』に ファントム(エリック)少年時代で、平成27(2015)年には「エリザベート」の少年ルドルフ役で出演するなど、キャリアを重ねてきました。同年9月に日本公開された映画「ボーイ・ソプラノ」の公開直前に開かれたトークイベントでは、さらに磨きのかかった歌声を聴かせてくれました。 平成28(2016)年 11月12月「ミュージカル『黒執事』〜NOAH'S ARK CIRCUS〜」にドール役で出演予定でしたが、10月末に変声期を迎えたため、設楽銀河と交代することになりました。ボーイ・ソプラノとして最高の時期に変声期を迎えたことは惜しまれますが、新しい歌声でステージに甦ってくれることを期待しています。

      88 小川 歩夢(あゆむ)(2003〜   )

 平成15(2003)年生まれの小川歩夢は、9歳より波田光保氏に師事して声楽を始め、半田市にあるFa Fleur児童合唱団に所属していました。平成26(2014)年度には第11回東海音楽フェスティバル 童謡部門で金賞、中日新聞社賞、翌年の平成27(2015)年度第11回東海音楽フェスティバル 童謡部門で再び金賞を獲得しました。さらに、小学6年生であった平成27(2015)年、常滑市に新たに誕生した常滑少年合唱団にも参加してクリスマスコンサートに出演しました。そこでは、ロイド・ウェッパーの「ピエ・イエズ」のデュエット等を歌っています。小学校卒業後の平成28(2016)年3月27日には、郷土半田市の赤レンガ建物で、午前午後2回のリサイタルを行いました。この時歌われた歌は、唱歌から日本歌曲、ミュージカルナンバーから「オンブラ・マイ・フ」「ハナミズキ」まで多彩です。声質は、まっすぐでありながらもしなやかで、低音から高音まで均一な音色でボリュームもあります。「オンブラ・マイ・フ」は、堂々たるつくりで輝かしい響きを聴かせますが、好みという「ハナミズキ」は、原曲を生かしながらも歌う崩すことなく、節度のある歌を歌っています。また、本来合唱曲である唱歌集の「日本の四季」を独唱で変化をもたせて歌い切るということにも挑みました。この歌声からは、多くの可能性を感じます。

       89 安藤 佑晟(ゆうせい)

 インターネットの発達は、Youtube等の形で、少年の歌声の成長を克明に記録するようになりました。栗原一朗もその一人ですが、もっと幼い時から小学4年生までの歌声の記録を残した少年に安藤佑晟がいます。木下音感学院の東京合同音楽祭で、その独唱を聴くことができます。1歳から歌を始めたそうですが、2歳9か月の時の「シックス・オクロック」から1年ごとに幼さから脱皮して、現時点では小学4年生の時のトスティの「理想(邦訳)」までを聴くことができます。特筆できるのは、小学2年生の「Believe」を境に飛躍的に歌唱力が高くなっていることです。やや細めの声ですが、明るい声質でくっきりとした美しい日本語の独唱を聴くことができます。なお、木下式とは、音楽教育家 木下達也が考案した音感教育法で、発声練習の過程で聴覚を磨き絶対音感を身につけさせる幼児期の音楽総合教育です。


 90 鈴木   福(2004〜   )

 平成16(2004)年生まれの日本の子役 鈴木 福は、幼児期よりNHK教育の「いないいないばあっ!」で芸能界デビューし、平成22年には、NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」などに出演しました。ところが、平成23年4月期のフジテレビ系ドラマチック・サンデー『マルモのおきて』に、双子の弟の笹倉友樹役で出演したことから、その主題歌「マル・マル・モリ・モリ!」でCDデビューすることになり、これが大ヒットしました。この年には、秋の運動会等でこの曲を踊った幼稚園や小学校が多く出ました。そして、同年12月31日に行われた第62回NHK紅白歌合戦に「マルモのおきて」で共演した芦田愛菜とともに白組最年少の7歳199日で出場するという記録をつくりました。翌年にはシングルCD「イヤイヤYO?!!」を出しています。そのほかにも、声優としても「ハッピー フィート2 踊るペンギンレスキュー隊」のエリック 役や「マクダルのカンフーようちえん」のマクダル役で活躍しています。明るくはっきりしたよく聞き取れる声で音程もしっかりしていますが、歌そのものよりも振り付けが見ものですので、あくまでも子役として評価すべきでしょう。その後、映画やドラマで大活躍しています。
 その後、平成28年には、「芸能人対抗!家族のキズナ歌合戦」で、おじや妹弟と共に、「君をのせて」を歌ったりしましたが、平成29(2017)年2月に東京・日生劇場で上演されるミュージカル「ビッグ・フィッシュ」のウィル・ブルームの子供時代に出演しました。さらに中学校に進学したこの年の10月8日にNHKホールで行われた全国学校音楽コンクール小学校の部の司会者に抜擢され、歌声を披露してくれました。ミュージカル「トゥモロー」のソロの一節をはじめ、即興的な歌を聴いても、かなり本格的な歌の勉強をしたことが伺える歌を聴かせてくれました。

       91 松野 孝昌

 大垣市少年少女合唱団に、近年稀に見る美声のボーイ・ソプラノがいるという評判は、真実でした。平成29年4月現在中学1年生の松野孝昌は、日本では珍しいヨーロッパ系の知的で繊細な歌声が持ち味の、日本では秋山直輝・栗原一朗の歌声の系列につながる少年です。小学6年生の4月に歌われたフォスターの「夢路より」は、1番は英語で2番は日本語で歌われましたが、特に英語の歌は、繊細で透明度の高い歌声が活かされていました。また、合唱組曲「くるみ割り人形」でも、ソロ部分の担当をしました。しかも、このような声質でありながら、声量もかなりあります。素材を生かした選曲をすることによって生かされることでしょう。さらに、中学1年生の4月に歌われたシューベルトの「アヴェ・マリア」は、日本語訳のものでしたが、よく響くゆったりした歌唱で、このようなリリックな声質としてはたっぷりとした声量もあり、昨年よりもさらに磨きがかかったように感じました。

       92 宮下 大輝

 TOKYO FM 少年合唱団所属で、平成27(2015)年小学5年生のときは、クリスマスコンサートでは、歌劇「アマールと夜の訪問者」のタイトルロールを歌い、翌年3月の定期演奏会では、フォーレの「小ミサ曲」の「Benedictus」を歌いました。声質は、やわらかで穏やかで、清純な歌声です。その歌声は、「アマールと夜の訪問者」においては、夢見がちなアマールの性格をよく表していました。また、「Benedictus」では、心の安らぎを与えていました。

       93 栗橋 優輔

  TOKYO FM 少年合唱団は、名ソリストを世に送っていますが、輝かしい声と演技力で心に残る演奏をしたのが栗橋優輔です。卒団したときは本科3年ということですから、3年生の時に入団しその後急に頭角を現したと考えられます。平成27(2015)年小学5年生のときのクリスマスコンサートでは、歌劇「アマールと夜の訪問者」のカスパール王は、繊細な高音が美しく、しかも芸達者で自分に都合のよいところだけ耳が聞こえているのではないかと感じさせるほどでした。実は、この年の7月には、東京二期会オペラ劇場 モーツァルト:歌劇「魔笛」の3童子(1)役をダブルキャストで演じているという記録も残っています。輝かしい声のピークは、平成28(2016)年3月の定期演奏会の"おぺら・オペラ・OPERA"におけるアマールと母のデュエットだったのではないでしょうか。

    94 込山 直樹

  三田少年少女合唱団に在籍していた込山直樹の名が広く知られるようになったのは、平成28(2016)年7月に兵庫芸術文化センターで行われた、佐渡裕指揮のブリテン「夏の夜の夢」公演で四人の精霊の内の一人、蜘蛛の巣役で出演した小学6年生の時です。さらに翌年、中学1年生の7月、バーンスタイン作曲「ミサ」特設児童合唱団のオーディションで、「ミサ」において重要な役となるボーイ・ソプラノに選ばれた込山直樹は、透明度の高いボーイ・ソプラノと自然な演技で期待に応える活躍をしました。指揮をした井上道義は、
「大人がいろんなものを背負って自滅したあと、ボーイ・ソプラノが現れて美しい希望の歌を歌います。これは良いボーイ・ソプラノでないとダメなのです。ボーイ・ソプラノは寿命が短い。でも大阪で込山君と巡り合えた。神様はいるなと思ったよ、本当に。」
と、語っています。

        95 中川 健太郎

  TOKYO FM 少年合唱団所属で、平成28(2016)年小学5年生のときの、クリスマスコンサートと翌年3月の定期演奏会で、「キャロルの典礼」の中で、「その幼な子」のソロに紀要されたのが、ボーイ・アルトの中川健太郎です。ビロードのようなたおやかで気品のある歌声で、しっとりと歌っていました。3か月の間にさらに磨きがかかり、声量もアップしたように感じました。また、「アメイジンググレイス」でも、そのようなことを感じました。また、小学5年生の秋には、新国立劇場 プッチーニ「ラ・ボエーム」の第2幕でで子ども役も演じています。

       96 山田 晋太朗

 平成28(2016)年童謡こどもの歌コンクール(旧名 全国童謡歌唱コンクール)で金賞を受賞した山田晋太朗は、それまでにも劇団四季のミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の次男クルト役を演じています。受賞曲の「かなしみよ さよなら」は、明るい声質ながら、曲想を生かして非常に表情豊かに歌っています。歌役者としての資質を感じさせる歌です。まだ、これからボーイ・ソプラノの頂点に向かって伸びていくものと考えられます。


      97 島田 裕仁(ゆうと)(2006〜   )

 平成27(2015)年12月22日に地上波でただ一度だけ放映されたゲームソフト「ドラゴンクエストビルダーズ」のCMであの歌を歌っているのは誰と評判になった島田 裕仁(ゆうと)は、平成18(2006)年11月28日生まれの当時8歳であることがわかりました。CMやミュージカル 『王様と私』の甘えん坊王子役等、舞台を中心に活躍しているようです。素直な発声で表情豊かな歌が歌われています。ボーイ・ソプラノとして今後の活躍が期待できそうです。なお、漢字で書けば昭和天皇と同じ名前ですが、「ゆうと」と読みます。

(続く)


         
                            
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