巡る季節に人生をなぞらえて 
            〜ミュージカル「葉っぱのフレディ」〜
                              平成17年8月20日 神戸オリエンタル劇場 (赤組出演)

 ミュージカルをこれまで意識して見たことなどあっただろうか?確かに少年時代よりいくつものミュージカル映画を見てきました。「マイ フェア レディ」「サウンド オブ ミュージック」「オリバー!」「チップス先生さようなら」・・・しかし、私は、ストーリーや音楽は主であっても、動きやダンスは従としてしか見ていませんでした。話が盛り上がってくると、突然歌い出し(そこまではオペラも同じなのですが)、踊り出すということがいかにも非日常的で不自然に感じられたのです。実際の舞台では 宝田明の弟子たちが体育館で演じた「オズの魔法使い」や花博のパビリオンで演じられていたものを見たことはありましたが、時が経つとストーリーさえ忘れていくようなものでした。オペラ→オペレッタ→ミュージカルという音楽史的な流れを知識として知っていても、進んでミュージカルの舞台を見に行こうというところまでは至りませんでした。
 
 ミュージカル「マイ フェア レディ」を見て、その底にあるピグマリオン効果(期待することによって、相手もその期待にこたえるようになる、という現象)を読みとる人はどれだけいるでしょうか。そんなことを全く考えなくてもこのミュージカルを楽しむことはできます。しかし、ミュージカル「葉っぱのフレディ」は、エンターテイメントだけでなく哲学的な要素の強い作品です。主題を理解しなければ、この作品を深く楽しむことはできません。それだけに、前者だけが強調されると浅いものになり、後者だけが強調されると重苦しいものになります。さて、この日の舞台は、両者が調和したすばらしい舞台になっていました。

 エンターテイメントの第1は、フレディをはじめとする葉っぱ役の子どもたちのよく統一された演技で、指先までピーンと伸びたきびきびした動きが、感動を呼びました。セリフも聞き取りやすく、一人一人が全体の中で何をすべきかをしっかりつかんでいることが伺える舞台でした。子どもたちの歌は、部分的にソロは入りますが、基本は合唱で、葉っぱ全体として表現しているという印象を受けました。ただ、セリフの上では、葉が散る場面でさらに哀愁を感じさせることができればという想いがあります。動きという点では、メフィスト・ザ・スパイダーの全身を使ったスケールの大きいダンスが、音楽や照明とあいまって強烈なインパクトでした。このミュージカルのダンスには、ジャズダンスとバレエとパントマイムの要素が渾然と溶け合っており、目を楽しませてくれました。エンターテイメントの第2は、色彩感のある舞台で、四季の移り変わりを繊細かつ大胆に表現していました。
 歌としては、ルーク先生(越智則英)のバリトン・ソロがさすがに重厚で、人生の重みを感じさせる歌を歌っていましたし、マーク(菊地創)の若々しいのに包容力のある歌とクリス(保泉沙耶)の恋に恋する雰囲気の明るくて軽い声の二重唱は、絶妙に絡み合っていました。

 哲学的な要素の第1は、幕前での日野原重明先生自らが演じるルーク先生。それは、演技の巧拙を超えて、何かを伝えたいという強い意志さえ伝わってきました。穏やかなまなざしと強い意志が同居することは可能なんだということを感じさせてくれました。第2は、人生を四季の移り変わりになぞらえているところ。ルーク先生がメアリー(小山菜穂)に、「人生の終わり」について話す場面は、特に印象的でした。メアリーがルーク先生の助けを得て苦悩の中に一条の光を見出し、マークとクリスが、けんかしながらも元の鞘に収まるというエピソードが一本の樹のもとで繰り広げられ、また、その樹の中でも葉っぱたちの人生のドラマが同時進行していくという二重構造がこのミュージカルを奥の深いものにしています。
 
 このミュージカルを見ながら、私は、吉田松陰の「留魂録」に通じるものを感じました。松陰は、人の一生を穀物の四季になぞらえて、人は何歳で死んだとしても、その人生には四季があるのだと考えました。そして、松陰はわずか三十歳で自分の四季を終えますが、まかれた種は残された弟子たちによって、見事に穂を出して実りました。たとえ松陰の身体は滅んでしまったとしても、彼の魂は、心ある志士たちに受け継がれ、永遠のものとなりました。
 フレディの一生は短くても何も残さなかったのではないのです。フレディの一生を知った人たちに、生きることの意味を考えさせてくれたのです。


ビリー・エリオットと山城力とを重ねながら
ミュージカル「ビリー・エリオット」
平成29(2017)年10月20日(金) 梅田芸術劇場

  
  「一通の手紙が人生を左右することがある。」という言葉は、まるで小説の一節のようですが、今回ミュージカル「ビリー・エリオット」を鑑賞するきっかけとなったのは、まさに一通のメールでした。今回上演するのを見逃したら、次のチャンスはいつになるかわかりません。

 ミュージカル「ビリー・エリオット」は、2000年に公開されたイギリス映画「リトル・ダンサー」をもとに作られたミュージカルです。ミュージカルとなった「ビリー・エリオット」は、演劇・ミュージカルの世界における世界最高峰のトニー賞をはじめとする多くの演劇賞を受賞し、既に世界中で1200万人が観劇してきた名作です。この作品の舞台は、1980年代のイングランド。主人公の少年ビリー・エリオットは、とある炭鉱町の父子家庭で育ちます。かつては基幹産業として栄えていた炭鉱も採算の取れない斜陽産業となり、当時のサッチャー政権は、炭鉱の閉鎖を決定。それに対して炭鉱労働者が立ち上がり、大規模なストが起こります。この話に深入りすると、サッチャー政権の功罪という政治問題になりますので、音楽サイトとしてはこれ以上ふれませんが、そのような社会的背景を押さえておかないと、このミュージカルの理解も浅くなります。数年前にやさしかった母を亡くし、頑固者の炭鉱夫の父と兄、認知症が始まっている祖母と暮らすビリーの家は貧しく、炭鉱ストの影響は家庭生活にも影を落とします。そのような中で、父は、ビリーに強い男になるようにボクシングを習わせようとしますが、ビリーが関心を示したのは、同じ会場を借りてレッスンしていたバレエ。父は「バレエなど男のするものではない。」と激怒しますが、やがて、バレエの才能を見出されたビリーは、名門ロイヤル・バレエ・スクールの受験を目指すうちに、反対していた父や周囲の人々の心にも変化をもたらしていくというストーリーです。
 
 「ビリー・エリオット」は長期公演で、しかも約2時間半の上演中ほぼ出ずっぱりなので、主役は5人で交互に出演しています。当初は4人だったのですが、5人目のビリーとして山城力が選ばれ、私の観劇した10月20日は、山城力がビリー役でした。オーディションは1346名から約1年間に及ぶトレーニングを経て4人が選ばれました。一度は不合格となっても、諦めずにがんばり、ビリー役を手に入れた山城力は、ダンスや演技経験がなかったそうですから、相当な努力をしてこの役を射止めたと言えるでしょう。逆境の中から努力によって栄光を勝ち得たビリー・エリオットと山城力とを重ねて鑑賞することができました。さて、このミュージカルは、ダンスの比重が8割ぐらいあり、しかも、バレエだけでなく、タップダンスや、ジャズダンス、フライング、アクロバットの要素まであり、ただ美声で歌がうまければつとまるという役ではありません。未来の自分と「白鳥の湖」を舞うところなど、舞台芸術の粋と言えましょう。このミュージカルにはビリーが歌う「「エレクトリシティ」という魅力的な独唱曲もあり、山城力は明るめの声を前に出すような歌いぶりでしたが、それがかすんでしまうほど、何よりもダンスが魅力的でした。

 日本語上演として面白かったのは、炭鉱夫たちの言葉が福岡弁で、昭和30年代の三井三池炭鉱を連想させるところです。また、脇役としてのマイケル役の古賀瑠が芝居もダンスもなかなか達者でしたが、翻訳上仕方がないのでしょうが、「オカマ」という言葉は、何とかならないものでしょうか。

 この日は、しかも100回達成を記念したスペシャルカーテンコールがあり、ビリー役の山城力、お父さん役の益岡徹、ウィルキンソン先生役の島田歌穂の3人が、スピーチをし、MBSの情報番組「せやねん!」の司会のトミーズ雅がお祝いにかけつけ、山城力に花束を贈呈というおまけつきでした。

ミュージカル「オリヴァー・ツイスト」
令和元(2019)年9月16日
(月・祝)
兵庫県芸術文化センター阪急 中ホール
 


 ディケンズの作品は、少年時代からいくつか読んでいました。「クリスマスキャロル」「オリヴァー・ツイスト」「デイヴィッド・コパフィールド」「二都物語」。ただし、その中には、翻訳というよりも、子ども向けの翻案に近いものがあったかもしれません。従って、ここでディケンズの作風云々を語ることは控えますが、読んでいた頃、当時の産業革命によって貧富の差が大きくなるという社会的背景はあるにせよ、貧=善、富=悪という単純な描き方がされていると感じたことはあります。「オリヴァー・ツイスト」は、何度も映画化されたものがあり、そのうちの2つと、ライオネル・バートが制作したミュージカル「オリバー!」も見たことがありますが、当然のことながら時間の関係もあって、どれも原作を忠実に描いたものではなく、原作を下敷きにした自由な取捨選択が行われています。

 岸本功喜が創った脚本は、「善の中にある悪・悪の中にある善」、オリヴァー・ツイストに接することでよい感化を受けて変容する人間像を描いた作品になっていました。救貧院の教区委員をしている社会の上流階級の人々の善を行っていると意識の底に潜む貧しい者を蔑む「善の中にある悪」と、子どもを使ってスリをさせ、その上前をはねる悪事で生活しながらも、子どもたちを愛していて少なくとも決して児童虐待に手を染めることのないフェイギンに代表される「悪の中にある善」が対照的に描かれていました。生まれたときに母親と死別し、親の愛を受けることもなく救貧院で育ったオリヴァーがどのようにして人を愛する心を身に着けたのかは、宗教的に見れば亡くなった母の祈りが通じたとも言えるでしょうし、想像の域を出ませんが、救貧院の中にも愛の心をもって子どもたちに接した人はいたのではないでしょうか。小島良太の作曲は、日本語の歌詞のイントネーションを踏まえて作られているので、たいへん聞き取りやすく、それは、「サイクスの想い ジャックの想い」の二重唱で、二人の言葉に添えられた想いを聞き取れたところに強く感じました。ただ、初めて聴くミュージカルで、ナンバーを予習してから行くこともできませんので、それぞれの曲を深く味わうところまでには至りませんでした。舞台は、基本的に上手側と下手側で交互に照明が当てられて劇が演じられ、舞台が一つになっているときは、オリヴァーが警官に追いかけられているようなスケールの大きい動きがある場面で、ただ舞台を裏側も使って左右に走り抜けるだけでなくバレエやアクロバットの要素を取り入れながら構成されていましたが、歌が中心に展開するこのミュージカルの中では、このような動きは視覚的に面白く感じました。  

 これまで、オリヴァー役は、原作では救貧院を出たときは9歳と描かれているので、映画でも舞台でも変声前の少年が演じていましたが、この「オリヴァー・ツイスト」では、原作よりも年上の変声後の声域に設定されていました。未来和樹が演じた主役のオリヴァーは、歌に華やかで大きく盛り上がる旋律が与えられていたわけではないのですが、表面的にはむしろ控えめで繊細な歌唱で歌にその時々の感情を盛り込んで、5月のライブとはまた違った歌声を聴くことができました。また、演技においては、いわゆる「子役」の演技ではなく、芯の強さを感じさせました。また、この作品では、オリヴァーは決して不幸なだけの子どもとして描かれておらず、オリヴァーの生き方が周囲の大人たちの生き方に徐々に感化を与えるという描き方がされていました。ドジャー役は、本来は少年から青年に移るぐらいの年齢の役かと思いますが、神田恭平は、安定したよく通る歌声で心の葛藤を抱えながら生きている姿を浮き彫りにしていました。悪役のビル・サイクス役の川原一馬の死は、警察に追い詰められての死というよりも自責の死という印象を受けました。ナンシー役の瑞希もまた、心の奥に眠っていた良心が触発されるところが伝わってきました。また、演技としては何といっても福井貴一のフェイギンが、ずるさとやさしさ等人間のいろいろな側面を併せ持った魅力的な人物像を演じていました。「子どもたちは何も知らなかったんだ。」と言って子どもたちを庇って逮捕されるフェイギンを見ると、できるだけ軽い罰で社会復帰させてやりたくなります。歌として印象に残ったのは、オリヴァーの母役の吉田萌美の母性愛を感じさせる歌唱力と、姜暢雄のノーブルな表現力です。この日のカーテンコールは、大千穐楽ということもあって、観客のスタンディングオベーションの中、何度も幕が上がったり降りたりして行われましたが、オリヴァー役の未来和樹が、「Yes! フェイギン。」と言ってフェイギン役の福井貴一にハグするところが、印象的でした。

 名作オペラを鑑賞する場合、事前にあらすじを本かCD等の解説を読んで、代表的なアリアを聴いてから行くことが多いのですが、このような初めて観るミュージカルでは、それができません。また、再演する機会があれば、ぜひ、もっと深いものを観たいと思いました。

 ミュージカル『ビリー・エリオット』
令和2(2020)年11月4日(水) 梅田芸術劇場


      コロナ禍の中で


 ミュージカル「ビリー・エリオット」が3年ぶりに再上演されることになりました。前回の日本初演は、東京と大阪で計126公演が上演され、合計16万人を動員する大ヒットとなり、数々の演劇賞を獲得し、多くのファンを獲得したため、初演の直後に再演が決まったようです。しかも、初演が好評だったために、初演時よりも多い1511人の応募者が集まったそうで、少年がバレエを習うことに対する偏見が薄まれば、それは喜ばしいことです。ところが、今年はコロナ禍のため、東京では上演予定は2か月と大幅に短縮され、とりわけ東京では座席を一つずつ上げるという対策をして行われました。大阪も当然その余波を受けて上演機関が短くなっています。しかも、演劇界はどこでも練習不足にもなるし、全員定期的なPCR検査は必須っだったことでしょう。もしも、来年夏まで延期したら、ビリー役とマイケル役は身長や変声期の関係で選び直さなければならないことになってしまう危険性もあったわけです。梅田芸術劇場では、公演にあたって、入場時に観客のアルコール消毒、体温チェック、セルフもぎり、トイレタイムの分散等の対策をして行われました。また、ビリーは、舞台から降りて通路を歩きますが、マフラーで口元をガードするなどのコロナ禍故の苦しい演出もありました。

       中村海琉の本領発揮

 この日のビリーは、中村海琉。ソプラノ♪7ボーイズのメンバーであり、歌とタップダンスが得意とのことですが、はっきり言って、歌声は1月よりも明瞭で優しい声をしていて(ソプラノ♪7ボーイズの1st発表会当日が、風邪気味で体調がよくなかったのではないかと思わせるほどの歌唱でした。むしろ、このミュージカルにおいては、メインナンバーのの「エレクトリシティ」は次第に感情をほとばしらせ、踊りながら歌う歌なので、むしろ、それ以外の短い歌で、その抒情的な歌声が発揮されていました。また、芝居のうまさも特筆できるところで、母親を失った寂しさが伝わってくるような繊細な演技を見せてくれました。ただ、このミュージカルは、ダンスの比重が7〜8割ぐらいあり、しかも、ダンスもバレエだけでなく、タップダンスや、ジャズダンス、フライング、アクロバットの要素まであり、ただ美声で歌がうまければつとまるという役ではありません。バレエにしても完成したものよりも、むしろまだ伸びしろがあると感じさせるようなものの方が望ましく、その点でも、よかったのではないかと思いました。さらに、手や指の演技は美しくて見事でした。マイケル役の佐野航太郎は、「Expressing Yourself」では特にコミカルな味を出していました。しかし、本当は、バレー学校に行くビリーと別れることが寂しかったのでしょうね。この日のお父さん役の益岡徹は、2回連続観ました。セリフがやや不明瞭なのは惜しまれますが、常に不器用な炭鉱夫でありながら、息子のビリーの才能に賭けるという「親馬鹿」の感じをよく出していましたし、ウィルキンソン先生役の安蘭けいは、華やかなナンバーよりもむしろ、ビリーとの別れの場面で、後ろを振り向くなと、本心と反対の味のある演技をしていました。また、演技のうまみを感じたのは、阿知波悟美演じるおばあちゃんで、初期の認知症らしさを表現していました。(これから、このおばあちゃんを介護する家族は大変だろうなと思いながら・・・)存在感を見せつけたのは、森山大輔で、ミスター ブレイスウェイ役で舞台に出ているだけで目につき、しかも、ダンスが敏捷という意外性が魅力的でした。

       型と様式美

 さて、ミュージカルは、歌舞伎と一緒で、セリフや演技(特にダンス)に一定の型があるのでしょうが、それは、「母ちゃんは死んだ!」という父の言葉に対して、ビリーが怒りの感情を爆発させる「Angry Dance」にも見ることはできましたが、これもただ、むき出しの感情をぶつければよいのではないことは、一連の動きに一種の様式美さえ感じました。Jリーグのテーマ曲「オレーオレオレオレ」の一節がアレンジされていたのには驚きました。(劇の本流とは違うので、3年前にもあったのかどうか記憶はありません。)また、このミュージカルでは、登場人物がたばこを吸う場面もたびたび出てきますが、あれは本当のたばこなのでしょうか。1980年当時は、法的な規制もなく、今よりも健康意識が低いため、喫煙者やポイ捨ては多かったと考えられますが、防火だけでなく、舞台の上と下の人の健康という点から少し気になりました。これは、原作のキャラクターがそうである以上、簡単に変えられないものだと思います。

ミュージカル『オリバー!』
令和3(2021)年12月7日(火)マチネー 12:30〜
                                                 梅田芸術劇場


      映画と舞台の違い

 このミュージカルを鑑賞する前に、ストーリーと見どころ、聴きどころを把握するため、映画『オリバー!』のDVDを鑑賞しました。そのことについては、本ホームぺ−ジ「ボーイ・ソプラノと映画」の中の3 世界少年独唱・合唱映画(15)『オリバー!』をお読みください。大きな違いは、舞台では、映画に描かれたスリをしたオリバーの裁判の場面がないことや、ナンシーが歌う「これが人生(It's A Fine Life)」や「ウンパッパ(Oum-Pah-Pah)」の位置づけが、それぞれ第1幕あるいは第2幕冒頭の酒場の場面であることや、終末のあり方ぐらいで、映画『オリバー!』を先に鑑賞することは、見どころ、聴きどころを予習することになっても、決してミュージカル鑑賞の邪魔にはなりませんでした。
 これは、舞台では大きな街のセットがある映画のようには簡単にできないだろうと思われていたロンドンの街の賑わいの中で歌われる「Consider Yourself(気楽にやれよ)」や「誰が買うのだろう(Who will bay)」の場面など、舞台上手と下手に階段があり、橋で空間をつなぐ立体的で奥行きのある舞台美術と、そこに生きる大勢の人々の動きやダンスを組み合わせた壮大な合唱が展開していました。また、大道具・小道具(特に救貧院の経営陣の豪華な湯気の立ち昇る食べ物・ビル・サイクスを探す松明)にいたるまで、リアル感のあるものが使われており、視覚的にも行き届いた舞台であることを感じました。また、マイクの小型化と高性能化で額に装着するようになったことが、ミュージカル歌手の演技をより自然なものにしてくれるようになりました。


   登場人物の人生と俳優
 

 このミュージカルは、題名が「オリバー!」で、オリバーを中心に話は展開していくのですが、物語の主人公はオリバーであっても、ミュージカルの主演は、フェイギンであり、同時に、フェイギン、ドジャー、ナンシー、ビル・サイクスたちも共に語っていく必要があります。そこで、この日鑑賞した出演者の演技を一口感想的に語るとともに、その登場人物の「人」について述べていきます。

 
    オリバー (高畑 遼大)

 救貧院の子どもたちの合唱の中で一声歌声を発するだけで、この少年が善なる存在であることを感じさせるような澄んだ美声で、「愛はどこに(Where Is Love?)」は、愛を求める歌であると同時に、このような汚濁と偽善に満ちた世界の中で、それに染まらずに生きてきたことが伝わってくる感じがします。第2幕で、きっと風呂にも入ってきれいな服に着替えると、そちらの方がよほどよく似合うと感じさせる・・・それだけで、オリバー役に高畑遼大を起用したことは成功要因の一つだと思います。ただ、誰がオリバーを演じても、オリバー役は、ほとんどすべての場面に登場するこの物語を牽引する「主人公」であっても、葬儀屋を逃げ出してロンドンに行く以外は、ほとんど自分の意思というよりも、周囲の人物の言われるままに動くため、このミュージカルの「主演」ではないと思います。


   ドジャー (川口 調)
 映画版のジャック・ワイルドに匹敵する存在感で、舞台に出てくるだけで目が吸い寄せられました。ダンサーとして体の芯がしっかりしているので、動きがぶれないし、細かいしぐさも巧みで、何よりも動きにオーラがあります。うまみのある歌と演技で、オリバーだけでなくステージ全体をリードしていきます。「生きる力」を感じさせる演技はたくましさを感じ、なかなか脱ごうとしないシルクハットは、未だに経験したことのない上流階級への密かなあこがれだったのではないでしょうか。何よりも、第1幕の最後の「必ずここに帰れ(Be Back Soon)」の場面で見せる特技でもあるバトントワーリング(ダンス・バレエ・アクロバットを併せ持った演技)の技を自然に採り入れた活力のある演技が輝いていました。ドジャーは、警察に捕まって、期間の長短にかかわらず牢獄の生活に入るのでしょうが、当時は、「教育刑」という考えはないので、生活力やリーダーシップもあるだけに、どうかビル・サイクスのように悪くなって出獄しないでほしいと願っています。

   フェイギン(市村 正親)

 「観るべきはこの至芸!」 市村正親は、決していわゆる「美声」のミュージカル俳優ではないのですが、それを大きく上回る芸の力。「ポケットからチョチョイと(Pick A Pocket Or Two)」という洒脱な歌もさることながら、宝箱から、宝石などを取り出して、「ルビーちゃん!!・・・」などと一人で悦に入る場面は、翻訳のセリフやアドリブといった軽薄なものでもなく、それを超えたまさにカデンツァ(独唱者がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な歌唱をする部分のこと)といったところです。フェイギンは、生きるための手段としてのスリを「悪」とは思っていませんが、哲学書を読み、ビル・サイクスのような暴力を嫌うところから、善と悪、目的と方法、職業とは言いにくい「スリの元締め」としてすべきことと、手先として働く子どもたちに対する情の間で揺れ、さまよっている感じがしました。その揺れが、このフェイギンという役の魅力の根源になっていました。


    ナンシー (ソニン) 

 正義感が強いナンシーがなぜ、ビル・サイクスに惚れこんだのかは謎ですが、ソニンの演じるナンシーは、歌声に人の心を震わせるような根源的な力があり、ナンシーの命がけの行動がなければ、オリバーが犠牲者になっていたのではないかと考えると、この作品のカギを握る人物でもあります。ナンシーの成育歴から、たとえはすっぱであっても、人間として一番大切なものを持っていることを感じさせる演技でした。ナンシーは、酒場で人間の醜悪な側面を見てきたからこそ、オリバーの中に、他のギャング団の少年たちにはない美質を見つけたのかもしれません。「彼に必要とされる限り」(As Long As He Needs Me)は、ナンシーのビルに対する想いが語られているナンバーですが、この想いが、どこまでビルに通じていたのかと考えると、悲しくなってきます。

     ビル・サイクス(spi)
 spiの演技からは、この役が20,000%憎まれ、嫌われる役であることに徹していることを感じました。しかし、考えようによれば、ビル・サイクスもオリバー同様哀れな孤児で、愛されることなく育ち、フェイギンの世話になりながらも、生きていくためにスリから始まって次第にコソ泥として盗みを働くうちに次第に腕前が上がって、元締めのフェイギンから褒められる一方、だんだん悪の深みにはまって凶悪化していき、抜け出せなくなっていったと考えれば、単に「どうしようもない悪人」と切り捨てたくなくなってきます。spiは、繊細な演技ができる俳優です。

  フェイギンのギャング団“ハックニ―チーム”のマセガキを好演したチャーリー・ベイツ(中村 海琉)、ディッパー(河合 慈杏)など、ギャング団のメンバーは、このミュージカルを何度も繰り返し見たら、そのうちその役割やキャラクターもよくわかってくるのでしょうが、彼らは、貧救院の孤児たちや、サーカス団の団員の役も兼任していて、早替えの妙も見せてくれました。ギャング団がスリをするときにも、一人一人に役割があるようですが、1回だけの鑑賞では、そこまで見抜くことはできませんでした。また、大人の俳優はもとより、名前も覚えてもらえないような子役に至るまで、手を抜かない精一杯の演技に心を動かされました。
  なお、その中で気になったのは、ディッパー(河合 慈杏)だけが一人眼鏡をかけているということでした。この時代の子どもが眼鏡をかけている理由は何だろうと考えながら、観劇が終了してから「ギャング団の役どころ」というチラシを見ると、「三兄弟の長男。スリとして一番優秀でギャング団の中で一番賢く、唯一読み書きができ、眼鏡をかけている。」という解説が書いてありました。そこから、生まれたときは、比較的豊かな家庭に育ち、教育も受けながらも、その後、産業革命の影響等で家が没落して家族が離散するとか、当時流行したコレラ等の疫病で両親が亡くなって面倒を見てくれる者もなく、まだ幼かった弟たちは文字を学ぶこともなく、ロンドンでフェイギンの手下になって悪事を働くようになったのではないかといった悲しい過去を想像することができます。
  ミスター・バンブル(コング 桑田)ミセス・コーニー(浦嶋 りんこ)は、強欲のかたまりのような役をこなしていましたが、幕を閉じた後の、抽選で、本来のキャラクターに近いであろう姿を見せてくれました。コング 桑田については、映画『お父さんのバックドロップ』のプロレスラー 松山のような本来は情愛溢れる人柄でありながら、好きなプロレスの悪口を言われてカッとなるような役がよく似合うと感じていましたが、こういう欲望をむき出しにする役もきちんとこなせることを発見しました。


   
この世の不条理を理解することから      

 
本ホームページの客員レポーターの道楽さんは、繰り返しこのミュージカルを鑑賞して、鑑賞記4で、
「個人的に言うとこのミュージカルの結末はすっきりしない。なぜかというとオリバーは幸福になるだろうが、他の出演者は不幸になるからだ。」
と述べています。その気持ちもわかると同時に、吉本新喜劇のように最後にはみんなが幸せになるようなハッピーエンドな作品は、笑ってひとときの憂さを吹き払うことはできますが、時に人を思考停止にしてしまうこともあります。人は何かを得ることで何かを失うことや、この世には不条理なできごとがあってそれに苦しむというのは永遠の真理です。音楽や芝居を楽しみながら、善と悪、悪と愚、幸と不幸を複眼的に考えればよいのではないかと思います。悪は世を滅ぼしませんが、愚は世を滅ぼします。


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