作成:2015/2

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 横須賀 YS-07

横須賀市 --- 関東大震災と記念艦「三笠」 ---

  • 対象:記念艦「三笠」
  • 記念艦として保存年月日:大正15年11月12日
  • 所在地:横須賀市稲岡町 三笠公園(白浜海岸)
  • 交通:京浜急行「横須賀中央」駅から三笠循環バスで「三笠公園」下車 徒歩約2分
  • JR京浜「横須賀」駅からバスで「大滝町」下車 徒歩約7分
写真1 三笠公園と記念艦 三笠

写真1 三笠公園と記念艦「三笠」

写真2 三笠の主砲と上甲板(艦首方向)

写真2

三笠の前部主砲と上甲板(艦首方向)

写真3 記念艦「三笠」

写真3 記念艦「三笠」

撮影:2014年12月

横須賀で保存されるに至ったいきさつ

東京湾の入り口に位置する横須賀は、幕末の横須賀造船所や明治の横須賀鎮守府から続く日本最大の軍港都市であり、現在も自衛隊やアメリカ海軍第7艦隊の基地が置かれています。このような横須賀に、日本海海戦の旗艦であった「三笠」が記念艦として存在することに不自然はありませんが、横須賀で保存されるようになったのは関東大震災が関わっています。

横須賀震災誌 附復興誌*によると、記念艦三笠の写真(下の白黒写真)とともに三笠が横須賀で保存されるようになったいきさつが次のように記されています。

写真 当時の三笠

日本の国宝、紀念艦三笠が横須賀軍港白浜に鎮座するに至りたるは、当時の横須賀市長奥宮衛少将、ジャパンタイムス社長芝染太郎氏の運動に依る処すくなからざるも震災が齎(もたら)せる偶然の好機に恵まれたるものであり。即ち震災に依り三笠鑑底大破して当初の予定地東京湾芝浦港に曳航する能わざるに至る。現在の位置に安置せるを得たるは当時の港務部員中村虎猪大佐の決死的冒険断行に因る。

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*横須賀震災誌 附復興誌 横須賀市刊行会編纂 昭和7年 写真・記述とも復興誌口絵の写真による




三笠の受難

< 資料 市史研究横須賀 第五号 横須賀市総務部総務課 2006 巻頭の写真と解説文(高村聰史)より >


写真 「三笠」の受難

「三笠」の受難

写真は戦後兵装解除中の記念艦「三笠」(昭和23年2月13日)。主砲の砲身は切断されて無造作に甲板に転がり、砲塔は木の板張りになっている。

日本海海戦100周年を迎えた平成17年9月27日、三笠公園では青空の下、華々しく記念式典が開催された。同年2月1日にリニューアルされた記念艦「三笠」では、開催にあわせて様々な記念イベントが行われ、今でも多くの見学者で賑わっている。

「三笠」が記念艦として保存、公開されたのは大正15(1926)年11月のことである。しかし、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦「三笠」のその後の歴史は、決して華々しいものではなかった。横須賀という < 安住の地 > をえるまで、そして横須賀に回航されてからも < 受難 >の日々は続いていた。

まず日本海海戦直後の明治38(1905)年9月、凱旋した「三笠」は佐世保港に停泊中、「原因不明」の火災に見舞われて後部弾薬庫が大爆発を起こし、前部艦橋の上部を水面上に見せたまま海底に沈座した。夥しい死者を出し、引上げ修復されたものの、其の7年後の大正元(1912)年10月には、神戸港において水兵の不祥事により全艦部火薬庫から出火、死傷者を出している。さらに大正10年9月は、ロシア沿岸警備中に暗礁の多いアスコルド海峡で座礁した。そしてウラジオストックで修復の後、横須賀に回航された「三笠」をまっていたものは、ワシントン条約軍縮による廃棄艦命令であった。横須賀海軍工廠での解体が決定したところで、今度は関東大震災による高波により沈没寸前の被害を受けた。これに前後して「三笠保存運動」が始まり、前述の記念艦への道を辿るが、厄難は終戦後にも待ち受けていた。

「三笠」は戦中の鉄材の供出にもかろうじて耐え、終戦後上陸してきた連合国軍の監視下におかれたが、前後して艦内から多くの展示物が何者かにより盗み出された。武装解除を進める連合国軍は、コンクリートで覆われ、戦闘能力を持たない記念艦「三笠」にまで兵装兵器の除去を指示したが、最も強硬だったのは日露戦争の敗戦国ソ連であった。ソ連代表デレビヤンコ中将 k.Derevyanko Lieutenant General は、英米の宥めにも応じず、「三笠」の解体を主張し、〔 MIKASA Destruction of 1945-1951,RG331.NARA 〕、結局、艦橋、煙突、マスト、砲塔を撤去することでGHQは妥協した。そして解体が惜しまれる中、形骸化した「三笠」保存の一方策として提案されたのが「海洋博物館構想」であり、横須賀市とB・Wデッカー司令官との間で合意がなされた。

写真はこの条件のもとで砲塔・マスト・艦橋が撤去される過程に撮影されたものと思われる。(撤去期限は昭和23年4月)。この直後、艦橋を含む兵備の大部分を撤去、さらに委託業者により昭和24年4月、艦後方砲塔部分にドーム型の水族館が建設された。そして27年には、前方甲板に米兵相手のダンスホールまでが建設され、変わり果てた「三笠」からは、かっての連合艦隊旗艦をイメージすることはもはや不可能になっていた。

受難多き「三笠」が再び記念艦として甦ったのは、講和条約発効後の昭和26年5月27日、日本海海戦から56年目の日であった。

< 写真 > National Archives and Records Administration

(資料は縦書き 漢数字をアラビア数字に変更)

<参考> 記念艦「みかさ」 三笠保存会 パンフレットより

記念艦「三笠」の由来

日露戦争は、ロシアの極東進出によって存亡の危機に立たされたわが国が、心身の限りを尽くして戦った防衛戦争です。東郷平八郎司令長官が率いる我が連合艦隊がバルチック艦隊を対馬沖に邀撃して圧倒的な勝利を収めた日本海戦により戦争は終局に向かい、ポースマス条約が締結されて両国の講和が成立しました。

「三笠」は当時最新鋭の戦艦であり、東郷司令官が乗艦指揮する旗艦として日本海海戦において常に連合艦隊の先頭に立ち、敵艦の集中砲火を浴びながら戦い抜き、歴史的な大勝利に大きく貢献しました。大正十五年、このような栄光の歴史を持つ「三笠」を記念艦として保存することになり、難工事を克服して現在の場所に固定され、以来民族の誇りの象徴として親しまれています。

三笠の略歴

  • 明治35年 3月1日(1902) 英国ビッカース造船所で竣工
  • 同 36年 12月28日(1903) 連合艦隊旗艦
  • 同 37年 8月10日(1904) 黄海海戦
  • 同 38年 5月27日(1905) 日本海海戦
  • 大正15年 11月12日(1926) 記念艦
  • 昭和36年 5月27日(1961) 復元
  • 平成4年 6月8日(1992) 海事遺産賞受賞

三笠要目

  • 造船所:英国ビッカース造船所、竣工・就役1902年、排水量:15,140トン
  • 船体:鋼鉄、全長:122メートル、幅:23メートル、速力:18ノット、乗員:860名、
  • 主砲:30センチ砲4門、副砲:15センチ砲14門、補助砲:8センチ砲20門、
  • 45センチ魚雷発射管:4基