『国分寺物語』5

【第4回】素晴らしき国分寺の日々

 とにかくこんな風に、国分寺での僕の日々は善き先輩たちの間を往来したり、喫茶店や居酒屋に連れて行ってもらったり、ときにはビリヤードやパチンコにも連れて行ってもらったりと、それはそれは楽しい時間の連続だった。背伸びしてカッコつけて、さいとう氏のおさがりのベレー帽をかぶり、一人前を気取り始めていたものだ。そういえば、煙草を吸い始めたのもこの頃である。

 大久保に住む永島慎二氏も、実家が国分寺線の鷹の台に在ったことから頻繁に国分寺にやって来るようになり、さいとう氏らと交流を密にしていた時期で、僕もたまに喫茶「でんえん」に呼んでもらったり、これがまた感激でだれかの手伝いの約束がある日でも、その人たちに頼み込んで永島先生と会う時間だけはなんとか捻出したものである。

 「磯田君、稼いでいるそうじゃないか。先にさいとう君に会ったとき、俺より忙しくしてるよと言ってたけれど、そろそろ手伝いを減らして自分の作品を描かなきゃ上京してきた意味がないぞ。まさかアシスタントに成りに来たんじゃないだろ」 あるとき真顔で言われたものだから、それを機に自分の作品を描き始めようと決心したのだった。

 さいとう氏は、ベタ塗りの依頼を三度に一度は断るようになっても理解してくれたばかりか,事ある毎に励ましてもらっのを憶えている。佐藤氏は、ベタ塗りは別の人に頼むから、君は登場人物の特に女のキャラクターを僕の代わりに描いてほしいと言い、その後ほんの一時期だけだが佐藤まさあき作品に出てくる女のキャラクターは僕が代筆したのである。だが、当時の彼の作品には女のキャラクターがそんなには登場しなかったので手伝う時間も減り、自分の作品を描く時間が増えた。

 それでも手伝いを断り始めると、人によっては生意気に思われ悩んだこともあった。失礼を顧みず正直に言うならば、不思議にも後年ビッグになった人たちは、みな寛大にも生意気盛りの僕を叱咤激励してくれ、出版社への持ち込みの口添えまでしてもらえたのだが、逆に、けっきょくはビッグになれなかった人たちからは、ただ生意気なガキだと云われ、大いに嫌われシカトされていたのも今では懐かしい……。

 そうなのである。今思い起こせば17歳にしては実に小生意気なガキだったと思う。それだもので、この生意気さが嫌われた要因だったと思うが、道で出会っても無視されたりするとかなりこたえ、落ち込むこともしばしばだった。

 「ちっこい人間の、こまかい嫌がらせなんか、気にしとったら生きていかれへんど。そんな奴、お前も無視したらんかえ」と、ある日悩みを相談したさいとう氏に励まされ、頷けたのはいいが融通のきかない世間知らず、ほんとうに自分から諸先輩を無視し始めたものだから、ある人には本気で憎まれてしまい、喫茶店で出会ったりすると、「おっ、天才少年が来はったで」とか「今度、ベタ塗り手伝わせてもらおかなぁ」などと冷やかされる始末で、数年後ならこちらも、「もしかして喧嘩売ってはるんですか?」とかなんとか言い返せるのだろうが、当時はただ真っ赤になるだけで、泣きたいのを耐えるのがやっとこさであった。

 国分寺に来て、3カ月ほどがが過ぎたというのに同世代の川崎のぼるとは、まだ一度も会う機会がなかった。彼は、いわゆる劇画集団とか劇画工房という同人を作る人たちとは距離を置いていて、また他の人たちよりもはるかに若いのに絵も上手く既に人気漫画家だったこともあり、数人の先輩同業者からは妬まれていた。その上寡黙な少年であったことなども加わって、先輩たちの溜まり場には、滅多には顔を出さなかったのである。

 大阪時代に、川崎のぼるがアシスタントをしたことがあるさいとう氏とは、たまに会っていたらしいが、ある日ついに僕はさいとう氏宅で川崎のぼると出会えたのである。さいとう氏がよほど忙しかった時で,手伝いが僕だけでは間に合わず川崎も呼ばれていたのだ。



『国分寺物語』6

【第5回】川崎のぼるとの出会い

 「磯田君、お前川崎君のファンやゆうてたなあ。こいつが川崎のぼるや。お前と一緒ぐらいの歳やから仲ようしたらええ。川崎君も、この磯田のこと仲ようしたってな」 さいとう氏が互いを紹介してくれたのに、僕は挨拶ができなかった。川崎の方もまたぎこちなかった。おそらく、年齢が似かよっているのに、プロとアマという壁があったため、僕のほうは友だち言葉も使いにくかったし、川崎の方も同じような理由で話しにくかったのだろうと思う。

 「川崎です。よろしく」

 「磯田です。川崎さんの『乱闘炎の剣』以来、ぼく川崎さんのファンです」 僕はかなり緊張しながらそう言ったのだが、まるで女の子を紹介されているかのように、耳まで真っ赤になっていくのが自分でも分かっていた。

 さいとう氏の仕事を手伝っている一昼夜の間、川崎と僕が話ぐらい交わしたのか、交わさないままだったのかは、今は思い出せない。けれども、屋台のラーメン屋のチャルメラの音が聞こえてきたので、さいとう氏が「ラーメン喰いに行こ!」と誘い出してくれ、それで屋台まで歩いていくときに、「磯田君は、何歳やのん?」と川崎が訊いてきたのをはっきり憶えている。「17歳です。川崎さんは?」と訊く僕に、「僕も17やけど、もうすぐ18になるから僕のほうがいっこ上やね。けど、いっこぐらい上だけやから、川崎さんはやめてくれへんか。お互い呼び捨てにするか、自分(関西弁ではこれは一人称ではなく二人称になる)なんかニックネームないのん?」

 「そやそや、おまえらニックネームで呼びおうたらええやろ」 さいとう氏が割り込んできた。

 「川崎君、こいつなぁ、けっこう色白やろ? けどおもろいねんで。酒飲ませたり、飲み屋や喫茶店で別嬪はんに話しかけられたりすると、全身真っ赤になりよるし、それで飲み過ぎて気分悪なりよったら顔面蒼白や。それからババアッとあげよって、吐くもん吐いたら今度は真っ青になりよるんや。せやさかい、今思いついたんやけど、色ころころ変わりよるから、こいつの渾名はカメレオンちゅうのはどや? なあカメレオン君。きょうから俺もそう呼ぶからな」

 正直僕には愉快な命名ではなかった。で、むっとしたらしく、「あっ! 怒っとおる。怒っとおる。怒っとおるから、真っ赤になっとおるで。やっぱりカメレオンや。略してカメレ。カメレ君でいこ。けっこうかいらしい(かわいらしい)渾名やないか」 なにがかいらしいものかと思ったが、さいとう氏のご機嫌ぶりが僕にはすごく嬉しかった。

 「川崎は、ビンボ人の小せがれのくせに、どっかのええしのぼんぼんみたいに見えるやろ? せやから俺はときどき、ボンやんとかボンちゃんゆうて呼んでるんや。お前らも、今日からボンちゃん、カメレちゃんで呼びおうたらええ」

 このめちゃくちゃな仲介は、しかし気分の悪いものではなかった。おかげで川崎も僕も大笑いでき、大笑いし合ったものだから僕らはその場で急速にうち解け合えたのだ。

 「自分、今どこに住んでるんや」 翌日の夕方、さいとう宅からの帰路、川崎が訊いてきた。

 「国分寺の駅から、線路沿いに歩いて20分くらいかかる本村(現本町)のアパートやねん」

 「何畳の間?」

 「3畳ひと間」

 「それやったら、どやろ。俺とこは2畳ほどの台所と3畳と6畳のふた間あるからうちに引っ越してけえへんか? 家賃払うのん大変やろな。うちに来たら家賃もいらんし、一緒に漫画描こ。もしも気ィ遣うんやったら、たまにべた塗りでも手つどうてくれたらええし……」

 僕は舞い上がっていた。歳は変わらねど、雲の上の一人でもある憧れの漫画家川崎のぼると知り合えただけでも嬉しいことなのに、あったその日に友達になれ、翌日にはこうして同居を奨められているのだから……。

 「そら、めちゃくちゃ嬉しいけど、ほんまに引っ越して行ってもええのん?」

 「ええから、誘てんやで。ほな、決まりやな? いつから来る? そや。その前に、部屋も見といた方がええやろから、今晩うちに泊まっていき。ふとんも一人分余分にあるし」

 かくして数日後、川崎のアパートに居候することになるのだが、その晩はふたりしてけっきょくは明け方まで漫画のこと、互いの夢、互いの目標などを語り合っていた。

 川崎の目標は、いつかはきっと貸本漫画ではなく、『少年』や『おもしろブック』、『少年クラブ』などの雑誌で仕事をしたいと熱く語り、僕も目標は『少女』や『少女クラブ』などで少女漫画を描きたいなどと夢を語り合ったり、やれだれそれは絵が下手だとか、性格が悪いなどと悪口まで飛び出して意気投合。明け方川崎は眠りについたが、僕は眠れぬまま<ボンちゃんへ。おおきに。2、3日後、引っ越して来ます。カメレ>との書き置きを残し、川崎のアパートを出たのだった。


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