『国分寺物語』7
【第6回】夢の共同生活
喫茶店での南波健二の振る舞いは、けっこうスマートで驚かされた。ウエイトレスを指をパチンと鳴らして呼び、コーヒーの注文を済ませたあと、「君、美人だねえ。北原三枝に似てるって言われない?」などと、しゃあしゃあと言ってのけるのである。 この南波は、キザではあったが善良で、女の子だけにではなく川崎や僕にも気配りのできる優しさも持ち合わせていて、初めは好きになれそうになかったが、「リリー」で話し込んでいるうちに、僕は南波健二を好きになっていた。 これはバカげた話だが、その日喫茶「リリー」で、川崎も僕もこの南波から、煙草の火の粋な点け方、そのかっこいい持ち方や吸い方などをマジに教わったのである。南波は、そのうち酒も飲みに行こうとか、立川のダンス・ホールにも行こう、ボーリングも、アイス・スケートやローラー・スケートも教えてあげようとか言うのだが、そういった遊びの知らない川崎と僕には、この南波が実に頼もしく大人びて見えるのだった。そうして数時間話しているうちに、いつの間にか、僕も南波健二のことを「健やん」と呼ぶようになっていた。 「じゃ、来週から、よろしくね! ボンちゃんに磯ちゃん!」 南波が実家に帰るのを、川崎と僕は国分寺駅の北口まで送り、その帰路僕は川崎に、「健やんて、けっこうキザやけど、おもろいとこあるし、ええやつやねえ」と感想を告げた。 翌週、南波健二が川崎のぼるのアパートに越して来た。自分で軽トラックを運転して来て、机と椅子と何箱かの段ボール箱や木箱をアパートの玄関に降ろした。川崎と僕が、それらを運ぶのを手伝った。南波は僕と同様居候の身のくせに、さっさと6畳の間の川崎の机の隣に自分の机を据え、僕のミカン箱を僕に断りもなく3畳の間に移動させる。 「磯ちゃんはここで、俺たちのベタ塗りを手伝ってよね」と難波は言った。この横柄とも言える自分勝手な場所変えについては僕にも異論があったけれど、部屋主の川崎が抗議しないかぎり、居候の身の僕がとやかく言う権利はなく、「ええよ」とは答えたものの、内心では頭にきていた。 でもまあ、彼は既にプロの劇画家だったし、僕は漫画家の卵に過ぎない身分だから、この配置は頷かざるを得ないことだろう。それよりも、そんな感情が吹っ飛ぶようなことを、突然南波がしでかしたのだ。彼は段ボール箱から、カウボーイ・ハットを取り出しそれをかぶると、モデルガンの収まったガンベルトを腰に着けたのだ。 川崎も僕も興味津々、南波を眺めていた。かなり練習をしたのだろう、彼は西武劇映画のガンマンよろしく、素早く拳銃を抜いてみせ、「映画館で、映画を見ながら計ったんだけどランカスター(バート)より、2秒遅いだけなんだぜ」と得意がるのだった。 川崎のぼるは後に少年雑誌で、「黒い荒野」や「大平原児」(編注1)、さらに後には「荒野の少年イサム」(山川惣冶・原作)など、西部劇漫画の名作を何本も描くことになるのだが、その頃はまだ西部劇漫画はほとんど描かれていない時代で、漫画では手塚治虫氏が数年前に「サボテン君」(注2)という西部劇を少年誌で連載していたり、雑誌『おもしろブック』の画期的付録でアメリカのコミック誌(いわゆる10セント本)を真似たサイズの『ライオン・ブックス』(注3)という読み切りシリーズで「荒野の弾痕」(注4)など、数本描いていたくらいで(正確には、かの奇才漫画家杉浦茂氏の西部劇ナンセンス・ギャグ漫画「アップル・ジャム君」(注5)があるにはあったが)、あとは挿絵家の山川惣冶氏や小松崎茂氏が絵物語としての西部劇を描いていたくらいの時代に、一度西部劇を描きたいと言っていただけあって、彼も「俺もガンプレイ上手いんやで」と、南波のガンベルトを腰に纏うと、南波にも負けぬ速さで拳銃を抜いたのだった。 「しもたなぁ。拳銃、大阪に置いてきたんや」 川崎は、よほど大事なものを忘れてきたかのように口惜しがっていた。「自分のガンやったら、もっと速く抜けるんやけどなぁ。ほんま、健やんと勝負したかったで……」 「こっちこそ、いつかボンちゃんと早撃ち勝負したいね。大阪のお袋さんに頼んで、拳銃送ってもらえないの?」 二人とも友だちとして、穏やかに話しているのだが、聞いている僕のほうは、ハラハラドキドキしていた。たかが、オモチャの拳銃での決闘ごっこをしたいだけだろうに、二人とも内心は俺の方が速いのだという自信ぶりがミエミエで、相手が速ぶるのが気に食わないらしく、それがヒシヒシ伝わってくるのだった。 「モデルガンゆうたら、佐藤さんがいっぱい持ってはるで」と、僕が教えると二人の目が輝いて、すぐに佐藤まさあき氏の家に遊びに行こうということになった。 川崎も南波も、佐藤氏とは面識はあったが、いきなり押しかけるほどには親しくなかったので、まず僕が電話で佐藤氏の都合を聞くことにした。 「忙しいけど、モデルガンを見に来たいだけやったら、勝手に見てたらええんやから、いつでも来てええよ」 佐藤氏の声が電話の向こうで聞こえてきたので、僕は二人にゴー・サインを出し、僕らは佐藤宅に飛んで行った。
(注2)「サボテン君」/ユーモラスな西部劇で、主人公の少年ガンマン・サボテン君は、サルーン(西部劇でおなじみの酒場)では、ミルクを飲んだりしている楽しい作品。 (注3)『ライオン・ブックス』/集英社の少年雑誌『おもしろブック』の付録で、昭和31年から32年にかけて薄いけれど大判サイズの、当時としては斬新で画期的なスタイルだった。アメリカのいわゆる10セント本を模倣したこのサイズは、少年たちに大受けした。 (注4)「荒野の弾痕」/昭和32年7月号の付録で、ライオン・ブックスのシリーズの1作。このころの西部劇漫画は珍しかった。因みにこのライオン・ブックスのシリーズには、「くろい宇宙線」、「複眼魔人」、「恐怖山脈」、「狂った国境」などがある。この時代の手塚氏は、ありとあらゆるジャンルに挑戦しつづけたにもかかわらず、一作として駄作や失敗作は無かった。 (注5)「アップル・ジャム君」/ご存知ナンセンス・ストーリー漫画の草分け杉浦茂氏の代表作。この作品は、超前衛的ミックで超ナンセンス・ギャグ漫画の金字塔である。
なお、調べてみたところ(根岸儀幸氏作成の「リスト」による)、川崎のぼる氏は「ゼロの秘密」(『少年ブック』)でメジャー・デビューし、連載は1960年10月号から1962年3月号まで(1961年の5月・6月・8月号は休載)続た。その間、「忍者城」が1961年4月号から12月号に、「黒い荒野」が1962年1月号から8月号に連載され、かなりの期間併載されていたことになる。その後、「忍び野郎」が1963年6月号から1964年3月号(続いて「忍び狼はやて」が1964年4月号から10月号)まで連載され、少し遅れて「大平原児」が1963年9月号から1965年8月号まで連載された。これには「ジャングル・キング」連載の時期、1965年1月号から12月号が重なっている。 川崎のぼる氏は、「忍び野郎」と「大平原児」の併載ははっきりと憶えておられるそうだが、「『ジャングル・キング』は重なっていないのでは……」というように、あとは確たる記憶がないようである。 とはいえ、「専属契約」のようなものがあったのかという私の問いには、一切無かったと断言されている。 思うに、1誌に同一作者の2作がかなりの期間併載されるというこの珍しい事態には、当時人気の高かった忍者ものも、また当時珍しかった西部劇ものも、かなりの水準で描くことができた川崎氏の力量があり、編集サイドにとって好都合であったという事情が根底にあったのであろう。川崎氏の記憶では、たまたま『少年ブック』での人気投票で川崎氏の2作が1位と2位になったりしたこともあり(これは「忍び野郎」と「大平原児」の頃であろう)、ごく自然に「しばらく2本連載を続けてくれ」との依頼があったりしたこともあったという。 川崎氏の別の記憶では、当時の集英社編集者の中野氏が「たんに稼がそうと2本の仕事をくれただけ」ということもあったようである。その背景には、デビュー直後に結核で入院(6〜7カ月間ほど)し、入院中に知り合った担当看護婦さんとの結婚による新婚生活を慮る、編集者の気持ちがあったのかもしれない。 あるいは、磯田和一氏の言では、「彼はその頃、結核の再発を心配していて、元気なうちに1作でも多くの作品を世に残したいという気概から、凄まじい勢いで仕事に打ち込んでいた」とのことであり、この気迫が長期の2作併載ということをもたらしかのかもしれない。 |
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