『国分寺物語』9
【第8回】喫茶「リリー」で僕らは漫画を描いた
1959年10月、川崎のぼると南波健二と、そして僕との共同生活は、短期間ではあったが仲良し三人組と呼ばれるほどいつも一緒に行動していた。僕がさいとう氏や辰巳氏宅へ手伝いに出かける日以外は銭湯に行くのも、食堂に行くのも、喫茶店に行くのも、映画館に行くのも、とにかく一日中一緒に過ごしていた。 そんな僕らに過酷な真冬がやってきて、小さな電気ストーブが1台しかない部屋で仕事をするのが困難になり、僕らは連日布団の中に潜ったまま、つまり寝そべったまま漫画を描いたりしていた。押入れの中は、部屋の中の部屋みたいなものだから、少しは暖かいかもしれないと、僕は押入れにミカン箱の机を持ち込んだり、川崎などは、顔が寒くて冷たいからと、包帯を買ってきてまるで重傷を負った人のように、額から首までを目と鼻と口とを除き包帯でグルグル巻きにするほどだった。 「全身に巻くといいや。そうすれば透明人間になれるぞ」と南波に冷やかされても、川崎はそれはそうだとマジに受け取り、「もう1、2本包帯を買(こ)うてこなあかんなぁ」と翌日ホントに包帯を買い込んできて、全身はともかく両肩や胸、太腿から膝下までを包帯でくるんでいくのだった。 そんな極寒の12月のある日、日当たりの良い喫茶「リリー」の窓際で、お喋りをしていた僕らはいよいよ石油ストーブを買わないとなぁ、と話していたが、プロとはいえ、若き川崎のぼると南波健二にそんな余裕はなかった。当時は、部屋を暖めるほどのストーブは一種の贅沢品だったから、現在の冷暖房機以上に高価だったのである。 「どうだろう。ストーブを買う金を工面するくらいなら、毎日このリリーに原稿用紙を持ち込んで、昼間ここで仕事をるってのは……」 南波の提案に、川崎が飛びついた。 決まりである。善は急げとばかり、川崎と南波は僕を一人残し、リリーを出ていき、そして原稿用紙やペンと墨汁など、漫画を描くための用具一式を抱えて戻ってきたのだ。 当時、「リリー」には二人のウエイトレスが居たが、普段はオーナーらしき人は居合わさず、そのらしき中年男性はいつも閉店間際にレジの売上金を計算するために現れるだけだったもので、ウエイトレスに好かれていると自負している南波は、四人掛けのテーブルに堂々漫画の原稿用紙を積み上げ、二人の女の子を呼び寄せて説明し始めた。 自分たちは貧乏な駆け出しの漫画家で、これが原稿。まだ新人だから、ぼろアパートに住んでいて、そこにはストーブがなく、隙間風は入ってくるわで寒くて寒くて仕事ができない。ついては、きょうから毎日この店で仕事がしたいのだが、しかしコーヒーとかカルピス1杯とかの注文しかできないけれど一日に5、6時間くらい粘らせてもらえないだろうか? 他のお客さんには迷惑にならないよう、目立たず静かにしているし、満員になった場合は出ていくからと、頭を下げて頼み込むのだった。 ウエイトレスたちは、ペン入れの済んだ原画を興味深げに眺めながら、「了解。別に時間制限はないんだし、好きなだけ居てもいいわよ。あんたたち、漫画家だなんて、すごいじゃん!」と、一人の方は確かに南波に惚れ込んでいる素振りで南波の肩を叩いた。 翌日から、10時の開店に合わせて僕らはアトリエ「リリー」に出勤?した。それぞれがコーヒーやミルクなどを1杯ずつ注文し、午後の4時くらいまで、川崎と南波はこの喫茶店のテーブルで下描きをしたりペン入れをしたりするのだった。僕は相変わらずベタ塗りを手伝っていたので、ベタ塗りに原稿が溜まるまでカウンターの隅っこに坐り、なるべく目立たないようにして小さなノートにネーム(漫画のストーリー運びの吹き出し内のセリフやコマ割り)を描き込んだり本を読んだりして過ごした。 昼になると川崎か南波の懐具合で、「リリー」でカレーライスやオムライスなどを注文できたが、たいていは「リリー」の近くに在った定食屋「金ちゃん」に50円の定食を食べに行き、食べ終わると「リリー」に戻ってくるのである。慣れてくるとたいしたもので、ウエイトレスと僕らの挨拶もいつのまにか、「行ってきまぁす」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「おかえりなさい」、になっているのであった。 今では時効だから話してしまうと、この喫茶店は映画館(オリオン座)の2階に在って、通常喫茶店の客がトイレを使いたいときは1階まで降りていって、映画館の廊下伝いにトイレまで行き、用を済ませばまた廊下を通り抜け、階段を上がって喫茶店内に戻ってくることになっていた。それだもので、その気になれば映画館の席に潜り込み、映画をタダ観できるし、映画を観なくとも映画館の出入口から出ていけば、喫茶店の勘定を踏み倒せるものだから、喫茶店からトイレに行くときは、一応一旦、飲食代を清算してからでないと席を立てない決まり事になっているのだったが、僕らはすっかりウエイトレスたちとは友人になっていたから、上映映画が代わると彼女らに頼んでトイレに立ってついでに、映画をタダ観させてもらったものである。 そのうちに、川崎がウエイトレスのひとりに惚れてしまい、地元のしかも常連の店に行くというのに、突然めかしこむようになり、朝出かける前にそのいでたちが可笑しくはないかと、南波と僕にくどいほど訊くのだった。しかしながらライバルが居たらしく、そしてそのライバル氏(実は劇画家の一人)は川崎のモーションに焦ったのか、「南波君とか川崎君は(ここに僕が入ってないのが気に入らなかったが)、女の子とのつきあいは遊びだけが目的で、それさえ済めばまた次の娘(こ)を探す連中だから、本気で付き合うとバカを見るよ」、などとまことしやかに告げたものだから、それを直接ウエイトレスからただされた川崎が怒り心頭に発し、後日某氏と出会ったときには大喧嘩になったものだ。 いやはや、皆が色気盛りの年頃だったから、こういう逸話もけっこう見聞きしてきたものである。かくいう僕もビリヤード屋の点取り嬢(今は見かけなくなったが、昔は玉突き屋には客のゲーム中、点を取って読み上げてくれる女性が居た)に片想いをして、けっこう通い始めたのである。ゲーム代がないときでも、さいとう氏を探しているふりを装って店を訪ね、氏を待っているような態度で1時間でも2時間でもそこに居て、その子をチラチラ眺めたり、点数を読み上げる声をうっとりしながら聞いていたものだった。 こんな風に片想いな恋をして、それである日一大決心をした僕は、デートを申し込んだのだった。その子が応じてくれたので、「でんえん」や「リリー」は諸先輩に出くわすだろうから、駅からは少し離れた「風車」という喫茶店で待ち合せたのだけれど、ルンルン気分の幸せはここまでで、会いに来てくれた彼女曰く、「自分は若く見えるけれど23歳で、夫がいるの」 ガガガァーン! それこそ劇画の擬音文字が頭の中で見えるほどの大ショック。けれどもこの人、この日は3、4時間も話し相手になってくれ、慰めたり励ましたりしてくれたのだった。 そうなのだ。そうなのだが僕の片想いの失恋話などはさておき、ともかく、さいとう・たかを氏だって、辰巳ヨシヒロ氏だって、殆どの人がまだ二十歳過ぎの青春真っ只中だったのである。余計な逸話の公表で、ご本人たちには叱られそうだが、以下に一つだけ、名曲喫茶「でんえん」でのマドンナ争奪事件を書いておきたいと思う。 |