『国分寺物語』10

【第9回】「でんえん」でのマドンナ争奪戦


 件の名曲喫茶「でんえん」には、当時二人の美人ウエイトレスが居て、確か日替わりでバイト勤務をしていたのだが、その一人の小百合という名の娘に、さいとう・たかを氏が惚れたのである。彼は彼らしく常連仲間に堂々と宣言し、だれ憚ることはなかったので、仲間の全員が知ることになった。けれども実際のところ、辰巳ヨシヒロ氏や石川フミヤス氏も小百合嬢に気があって、それはさいとう氏の宣言前から、仲間内での周知の事実なのだった。僕などはこの三つ巴、四つ巴の結末がどうなるか、興味深々で傍観していたものだ。

 一方、もう一人のウエイトレス美津子さん(仮名/現在の「でんえん」のオーナー)は、既に相手が居たのを常連客は知っていたので、この娘に思いを馳せるのはそれを知らない新参客だけであった。

 さて、小百合嬢である。月日も過ぎ、けっきょくさいとう氏が小百合さんを恋人にするぞと、だれもが思っていた矢先だった。ときおり「でんえん」に顔を出していた、わが師匠永島慎二先生が久しぶりに姿を見せ、その場に居合わせたさいとう・たかを氏以下5、6名を前にし、「みんなに発表したいことがあるんだ」と切り出した。

 さいとう氏も僕らも何事だろうと、永島氏を見つめていたが、氏は大声で言った。
 「実はこの小百合君と僕は、この度結婚して所帯を持つことになったので、みんなどうか祝福して欲しい」 

 永島氏は、マドンナを手招きして傍らに呼び寄せたが、その発表の内容には一同が声を殺して、しばし唖然としているのだった。

 「冗談やったら、たちの悪い冗談やで。嘘やろ? 永島はん、嘘やゆうて……」 さいとう氏は、顔を真っ赤にして二人を見つめていた。

 発表は本当のことで、永島氏と小百合さんはそれから直ぐに結婚して、二人は中央線の阿佐ヶ谷駅近くに新居を構えたのである。

 「鳶にあぶらげ盗(さら)われた、ちゅうのはこのことやで」 さいとう氏はそんな愚痴をこぼしながら、しばらくの間は口惜しがっていたが、元来おおらかで屈託のない氏のこと、数日後には元通りの仲に戻り、むしろこの数ヶ月後には、東京トップ社の貸本向け雑誌『刑事(デカ)』(注1)の誌上で両氏は競い合い闘うかのように、たてつづけに短篇・中編の力作を発表していくのだった。

 興味深いのは、このトップ社時代の永島慎二氏の画風がいきなり劇画風のリアルなタッチになり、作品そのものもアクションものが多くなったことだが、後年永島先生に直接訊いたところ、「劇画に影響されたというより、さいとう・たかを氏の作品に惚れ込んだものだから、その彼に挑戦したくって劇画風ストーリィのアクションものを描くうちに、どんどん画風がリアルになっていったみたいだな」とのことだった。

 そういえば10数年後にも、梶原一騎氏原作の「柔道一直線」(注2)という、全く氏らしくない少年漫画を描いていた時期があるが、これなど後に徐々に劇画風タッチに変わっていく川崎のぼるの「巨人の星」での画風に似て、キャラクターまで、一徹や飛遊馬をそっくり真似ているのだったが、この作品の評価はともかく、氏の器用さに驚かされたものである。

 さて、とにかくこの見聞録の年代から1、2年後、件のトップ社発行の『刑事』は、老舗の『影』や『街』を追い抜くほどの人気を博し、永島慎二氏、さいとう・たかを氏を看板に、つげ義春氏、つげ忠男氏、ありかわ栄一ほか異才、奇才たちを頻繁に起用し斬新な貸本マンガ雑誌として、一世を風靡したのであった。

 そうこうするうちに、僕もセントラル文庫の『街』別冊でデビューできた。記憶では、すべて16ページくらいの短篇だったが、『街』で現代ものを3本、『渚』(少女マンガ誌)で2本、『斬る!』(時代劇マンガ誌)で2本を、国分寺在住中に描いたのだが、もちろん、これだけでは喰えないわけで、川崎と南波におんぶにだっこ、今思い出してもありがたいことだと感謝する次第である。

 セントラル文庫の編集長も気に掛けてくれ、僕に短篇を割り当てる余裕がないときには、見返し(表紙をめくった次の見開きページ)の絵、また扉、奥付ページのカットの仕事を与えてくれたり、その原稿料を先払いしてくれるのだった。

 懐かしいのは、この頃の作品だけ僕は叶和一のペンネームで描いているのだが、なぜ<叶>にしたかといえば、当時の人気女優、叶順子の大ファンで、あるとき『平凡』だか『明星』だかの雑誌で叶順子のインタビュー記事を読んでいたところ、「○○先生に付けて頂いた芸名ですが、かのうという姓は加納嘉納などはあっても、叶という字の姓は実際にはなくて、つまり全国で叶という姓は私一人だけなのよ」と言っていたものだから、では叶順子と叶和一、これは全国でたった二人だけの姓なのだと、喜んでペンネームにしたのだった。

 ところが、である。その後ある友人にその話をしたところ、「そんなはずはない。電話帳を見てみるとよい」と言われ確かめてがっかり、当時の北多摩郡だけでも3、4、東京都内では30以上も叶姓があるのだった。でも、既に叶和一のペンネームで2作を発表していたので、すぐには改名しなかったけれど、なんとも間の抜けた話である。おそらく叶順子の芸名の名付け親がそう思い込んでいただけなのだろうが、いやはや罪なことではある。


(注1)『刑事(デカ)』/『影』や『街』に挑むかのように、新しく刊行された貸本向けの雑誌だったが、異色の漫画家・劇画家を起用したので、たちまち大人気を博した。私見では、『影』や『街』の編集感覚を受け継ぎながら、もっと後に刊行される青林堂の『ガロ』に繋がる編集方針(異才の「劇画」作家を起用)は、画期的でありハイセンスだった。(筆者の記憶違いでなければ、このトップ社の前身は、島村出版という名だったと思う)。

(注2)「柔道一直線」/稼ぐということに無頓着で、自分の描きたいものだけを描きつづけていた永島慎二氏が、将来遊んでも暮らせるように、人生に一度くらいお金を稼ぐ仕事もしておきたいと、梶原一騎氏のスポ魂ものの連載を引き受け、画風も川崎のぼる風で描いた「不本意な作品」(永島氏談)。連載中も梶原氏とはしばしば意見衝突していたそうで、突然降板(以降、斎藤ゆずる氏が代筆)したという経緯がある(編注1)。


(編注1)斎藤ゆずる(ダイナマイト鉄)について/永島慎二氏が「柔道一直線」を降板した理由はおおむね推察できるだろう。が、その代筆になぜ斎藤ゆずる氏が指名されたのかはよく分からない。私の記憶では、斎藤ゆずる氏はさいとうプロ刊の短篇や単行本でどちらかといえば女の子を主人公とした作品に味があった。絵柄は、明るく分かり易いものであった。その後月刊誌に転進し、「斎藤ゆずる」「斉藤ゆずる」名義で何本か描いていたはずである。更に後には、「ダイナマイト鉄」名義で週刊誌等に連載も何本か持っていた。で、「代筆」の話だが、私の見たところでは、その頃斎藤ゆずる氏は幾つかの代筆を行っている。分かり易いものでは、園田光慶氏の「あかつき戦闘隊」(1967年〜1969年)の終盤部分である。そして、これは確言はできないが、堀江卓氏の「少年ハリケーン」(1967年〜)のこれも終盤部分である。永島慎二氏による「柔道一直線」の降板が1970年の春であるから、それらの代筆の実績によって斎藤ゆずる氏の代筆ということになったのだろうと、勝手に推察している次第ではあるが……。


『国分寺物語』11

【第10回】大晦日に初めて飲酒、元日に病院へ


 たとえ金は無くとも大晦日に貧乏臭い過ごし方は止めようと、川崎のぼるのアパートで酒宴を開くことになった。川崎と南波と僕、そして都内から遊びに来ていた飯田との四人での酒盛りは実に愉快な想い出の一つだが、そのころは僕だけが全く呑めなかったものだから、そのために非道い初体験をするハメになるのであった。

 銘柄は忘れたが、焼酎の一升瓶を1本とウイスキー・ボトルが2本、そして飲めない僕用に、赤玉ポートワインを1本買い込み、小さな電熱ストーブしかない部屋に全員がセーターとかコートとかを着込み、その上から毛布や布団を羽織ってそのストーブを囲んだ。つまみは、出し合って買ってきたおでんだけだったが、空腹が充たされるくらいの量はあったし、僕らにしてはかなり豪華な宴会ではあった。

 呑み始めたのは午後の6時か7時だったが、僕らは口々に新年の計画を語り合い、互いの作品を批評し合ったりして元日の夜明け頃まで喋りつづけていた。ところが、呑めない僕に用意された「赤玉ポートワイン」なる代物は、安物のジュースのように甘いものだから、僕は一人でボトルを空にしてしまい急性アルコール中毒でぶっ倒れたのだ。けれども、いつしか除夜の鐘が鳴らんとしている大晦日の真夜中である。まさか町医者の玄関戸を叩くわけにはいかぬだろうと、僕は横になるだけで回復するのを待つことにした。

 と、突然僕は嘔吐に見舞われ、口を手で塞ぎながらアパートの廊下を疾走し共同トイレへと駆け込んだ。だが、時既に遅しで、それまではなんとか自分の手の中に吐き出していた汚物を、遂に廊下に撒き散らし、共同トイレの床上に吐き出してしまったのだった。

 友とはかくもありがたいものである。飯田が廊下をふき掃除してくれ、川崎がトイレの汚物を水で流してくれ、南波は便器まで連れていってくれ僕の背を擦ってくれた。胃の中の物をすっかり吐き出した僕は、少し気分も良くなり、部屋に戻って布団を敷いて貰い横になっていたのだが、明け方(新年の!)に激しい頭痛と腹痛に見舞われ、たしか元旦の午前7時ごろだったかに、三人の友人に支えられ最寄の内科医院に担ぎ込まれたのである。

 現代なら考えられないことだが、町の内科医先生は、「君たち、元日から勘弁しろよ!」と喚きながらも奥さんを大声で起こし、診療所のベッドに寝かせてくれるのだった。横になったまま小一時間ほど診察を受け、薬を処方してもらい帰りかける僕らに、医者は「診療代とか薬代は払えるのかな?」と尋ねた。「すみません。後日必ず……」と答える南波に手を振り、「しようがないよなぁ、全く。新年の初めから金を払えだの払えないだの話はしたくもないやね。元日サービスってことでロハにしてやっから、呑み過ぎには気をつけんだぞ」と苦笑しながら玄関先まで送ってくれる始末……、このころはこんな人情話もけっこうあったのである。

 それにしても、この新年の思い出とともに憶えているのは、新年早々文無しになった僕らは、南波健二が田無の実家から持ってきた餅だけで、それこそ煮たり焼いたり味付けを変えたりしながら、数日間というもの餅だけを食していたことである。

 けれども、志を同じにする仲間のこととて悲愴感など全くなく、僕らは日がな一日雛人形みたいに布団を纏いながら輪なって喋りつづけ笑い転げて過ごしたものだが、僕など個人的にはこういった時の中にこそ、現在(いま)に繋がる人生の糧が培われたのではないかと思っている。

 町の風景から正月ムードもすっかり無くなったころ、餅も食べ尽くした僕らだったが、川崎が大阪の実家から生活費を送ぅてもらい、南波が友人から借金をしてきてくれたおかげで、僕らはまた喫茶「リリー」に通い始めたのである。

 同時に映画館の只見も始まり、ロードショーから2、3カ月遅れの上映だったが洋画2本立で、通算すると相当数の洋画を観たものだ。そんな次第で、僕の映画好きは国分寺時代に昂じていったのだった。

 今振り返ると、遊び人のような日々が過ぎていったように思う。以来僕は、遂に堅気の仕事に就くことがなく、60歳を悠に過ぎた今現在も未だにイラストレーターとかエッセイストといったヤクザ稼業に勤しんでいるのだから、今もって後ろめたい気がしないでもない。

 漫画家、イラストレーター、画家、小説家、音楽家、舞踊家、俳優、デザイナー、カメラマン、建築家などなど、クリエーターとかアーチストとかいわれて世間では良く見られがちだが、考えるにわれわれ、世の中には何の役にも立っていなくて、それでも人の心を癒したり、幸せなるひとときを提供したり、あるいは人生の指標を提示したりしているわけだから、目に見えない所で世間に貢献しているのだと不遜にもうそぶき、それも他人さまが言ってくれるならまだしも自分でそう確信している輩の多いこの業界、遠慮して生きることも無いと思うが、威張ることもまた無いはずだ。

 と、これは永島慎二氏の受け売りだけれど、こういった風にいつだって「傲慢」と「謙虚」の狭間で生きるべきで、どちらに傾きすぎても良くないといった考えを教わったのも、この国分寺での永島氏やさいとう・たかを氏からだった。



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