2004年7月17日(土曜日)は諸々の事情で予備調査が出来ず、湿地の内部に標識テープを張り巡らしただけであったが、モンゴルの研究者にとっては、この調査方法自体が目新しいもののようであった。湿地の内部にある森林地帯は密林と一緒で、一度足を踏み入れたら、自分が現在どこにいるのかすら分からなくなってしまう。こんなとき調査場所を正確に知るためには、標識テープで道しるべを付けながら歩くことが有効となるのだが、第1調査地をフィールドにしているモンゴルの研究者を観ていると、どうも勘を頼りに、当てずっぽうで歩いているようであった。これでは、また別の日に同じ場所へ到達するのに、時間的なロスが大きすぎる。
サンショウウオ・チームに所属するメンバーは最終的に4名に落ち着き、私とモンゴル教育大学の教員1名・学生2名という構成であった。その中のひとり、19歳の大学2年生「フルッレ(Khurlee)」は、倒木に潜むキタサンショウウオの個体を探し出す名人であった。「彼がいなかったら、今回の研究は成立しなかった」と言っても、過言ではないだろう。その彼が、あるとき調査の途中で近道をしようとして「標識テープの通りに歩いて下さい」という私の注意を無視して歩き出したのだが、結局のところ道に迷ってしまい、30分近くも森林地帯をウロチョロしたことがあった。これに懲りて以来、彼は、私の言うことには素直に従うようになった。
ある地点に横たわる倒木は水分の含有量が少なく、見た目にも乾いていた(湿度計が壊れて数値で表せないのが、どうにも、もどかしい)。そこから捕獲したキタサンショウウオの個体を元に戻すとき、マスターコース1年生の「タイワン(Taivanjargal Batdorj)」が「可哀想だから、もっと湿り気のある倒木に戻しませんか?」と聞いて来た。「それはダメだよ。幾ら『可哀想だから』といって、その倒木を選んだのはサンショウウオ自身なんだから、ちゃんと元の場所に戻してよね」と、生態学の「いろは」を学生に教えながらの、今回の調査であった(2)。
調査中は、湿地の内部にある森林地帯を標識テープに沿って歩きながら、例えば、開けた場所にある倒木の調査をおこなう際には「生態学用語では、こういったところを『オープン・フィールド(open fields)』と言います」というふうに、説明するわけである(これに、ズラの同時通訳が入る)。すると、彼らは「一言も聞き漏らすまい」として、熱心にノートを執るのであった。「何かに、似ているな?」と思った。その何かとは、春と秋に毎年おこなっている白馬村の両生類調査で、参加者に対して両生類、特にサンショウウオの繁殖生態を説明するときの状況であった。
当初の予定では、一日に調べる倒木の数を50本に設定していたが、これを40本に減らすことによって「ゆとり」のようなものが生まれていた(私に限って言えば「50本、出来なかったか!!」といった、半ば「開き直り」にも似た心境であった)。その「ゆとり」とは「時間が空いたから調査を早めに終わらせよう」といった類いのものではなく、調査の合間の休憩時間を意味するものであった。私は転んでも只では起きない人間であるから、この休憩時間を無駄にせず、なんとか活かそうと試みたのであった。こんなにも休憩時間が多いと、今さら倒木の本数は増やせないから「この休憩時間を利用して、モンゴル教育大学の教員と学生への野外実習をおこなおう」というのが、私なりの「ささやかな抵抗」であった。こうして、調査の合間に教員と学生に調査方法をレクチャーすると同時に、調査機器の扱い方をも実習させたのであった。
もちろん、野外実習よりデータを採るための調査が主体であることは論を待つまでもないのだが、10年後、20年後のモンゴル教育大学の教育体制を考慮すると、ここで生態学的な調査方法の礎を築いておくことは、縁あって関わることになった私の使命であるのかもしれなかった。
[脚注]
[脚注の脚注]
(1) ○○さん(金沢学院大学)からモンゴル・ダルハディン湿地の総合学術調査への参加要請を受けたとき、モンゴル教育大学の教員や学生とは当然、英語でコミュニケーションするものだとばかり想っていた。ところが、6月1〜2日に金沢で開催された会議の際、○○さんに確認したところ、英語は通じないことが判明した(1)。では、どうやって調査方法の説明をすればいいのか? これは「通訳が1名と日本語の分かる教員が2名ほどいるので、彼女らを通して会話する」ということのようであった。幸いなことに、サンショウウオ・チームに所属する「ズラ(Zulaa=Hongorzul Tsagaan)」は、その「日本語の分かる教員」のひとりであった。彼女の年齢は31歳で、モンゴル教育大学生物学部の「講師」という身分であった。調査中は、日本語とモンゴル語、それに若干の英語が飛び交う、まさに国際色豊かな現場であった。ちなみに、ズラは、ロシアの大学に留学していたことがあり、ロシア語がペラペラであった。
(2) ある日の調査中、唐突に「羽角バクシとズラの2人で、タイワンのマスターコース(生態学)の指導教員をして欲しい(バクシは「先生」を意味するモンゴル語)」と要請された。ズラの専門は生化学なので、実質的には、私ひとりで指導することになる。しかも「今回の調査を元に、マスター論文を書きたい」というのが、タイワンの思惑のようであった。はっきり言って、今回の調査は、私が立案した研究計画書に詳述されている調査方法に沿って進めて行けば、確実にデータの採れるものであった。「他人の褌(ふんどし)で、相撲を取るようなものだなあ」とも思ったのだが、私としては学術論文が書ければ文句はないので、二つ返事で引き受けることにした。ところが、その後が問題で、タイワンは日本に留学して博士号を取得することを目論んでいたのであった。「羽角バクシのところで、博士号を取得したい」と懇願されたのだが、どうも私の身分を全く理解していないようで、困窮した私は「もう少し待ってね」と言うより他に、答えが見つからなかったのである。
(1) モンゴル側で、ちゃんとした英語が話せて、私との会話が成立するのは「ハタ」という地学の教員だけであった。「ハタ」というスペルは聞き逃したが、モンゴル語で「岩」という意味だそうである。彼の年齢は確か30歳で、スウェーデンに3年間ほど留学していたことがあり、そのため「英語が流暢に話せる」ということのようであった。他には、片言の英語を話せる教員や学生が何人か、いることはいるのだが、残念ながら会話にはならなかった。