関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 館山市 TY-01
写真1 夕富士のみち案内板
写真2
沖ノ島と砂州(海上自衛隊脇の海岸道路より沖の島を望む)
写真3
津波避難場所案内図 「ここは海抜0.0mです」とある
写真4 照葉樹林で覆われる沖ノ島
写真5 タブの大木
写真6
JR館山駅ホームより館山湾北条海岸方向を望む
撮影:2007/4
館山航空隊停留所より沖ノ島に向かって数分歩くと、沖ノ島への案内板と米軍上陸の地であることを示す説明版があります。
説明版より
1945(昭和20)年9月2日東京湾上のミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将率いる米陸軍第8軍約 3,500名 が館山海軍航空隊水上班滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が引かれた。
沖ノ島はかっては陸(房総半島本島)から分離した離れ小島でした。関東地震による地盤の隆起とその後の砂の堆積によって砂州が形成され、沖ノ島は陸とつながって陸繋島(りくけいとう)になりました。
海岸に打ち寄せる波が小島周辺で屈折・回り込むことにより、漂砂が集積して陸側から島側に向かって砂嘴(さし)が成長することがあります。沖ノ島の場合は、漂砂の堆積によって生じていた海底の高まりが大正12年の関東地震による隆起によって砂州として急速に成長したものです。
関東地震といえば、1923年の関東大震災をもたらした地震をさす場合がほとんどですが、広い意味では、ヒィリピン海プレートが日本列島へ沈み込むことによって発生する地震のうち、相模湾トラフ沿いで歴史的に繰り返して発生している地震を総称して関東地震と呼ぶことがあります。 1923年の関東地震と1703年の元禄地震は同じ関東地震であることから、大正関東地震、元禄関東地震と呼んで区別しています。房総半島南部では、元禄関東地震の際に隆起して形成された海岸段丘が連続して分布しており、その段丘の規模は大正関東地震のそれよりも2~3倍高く、広いことが知られています。
さらに、元禄関東地震より前の地震は史料からははっきりしませんが、海岸段丘の分布などからは関東地震が数千年に亘って繰り返して発生していることを示しています。JR館山駅の海側は元禄関東地震(元禄地震)で広い範囲が陸化し、現在では写真6のように市街化しています。
なお、沖ノ島には縄文時代草創期~早期(1万年前)の土器や石器、イルカの骨などを含む遺跡が存在していますが、この遺跡を含む地層は砂の層で被われておいます。このような堆積物の分布状況から、人の生活の場が周辺の砂層とともに洪水や大波などによって一気に飲み込まれたのではないかと考えられています。(資料5)
参考資料