関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 館山市 TY-02

館山市 --- 高ノ島(鷹ノ島)弁天閣の大正地震紀念碑) ---

  • 対象:高ノ島の陸化および大正地震紀念碑
  • 所在地:千葉県館山市富士見
  • 交通:JR内房線 「館山」駅から館山航空隊(バス)約10分(約2.5km)、さらにバス停から徒歩約8分(約500m)
鷹ノ島弁天閣

写真1

鷹ノ島弁天閣 階段に向かって左側にある石碑が大正地震紀念碑

大正地震紀念碑

写真2

大正地震紀念碑 幅1.75m、高さ4.4mの大型の石碑

篆額 大正地震紀念碑

写真3

篆額(石碑の上部に篆字で彫りつけた題字)は、右から上下に読んで「大正地震紀念碑」と刻まれている

大正地震紀念碑と戦没者慰霊碑

写真4

大正地震紀念碑の左側には海軍兵器整備予備学生の戦没者慰霊碑がある

西方から高ノ島(東方向)を望む

写真5

西方から高ノ島(東方向)を望む 左が館山湾で、右が海上自衛隊館山航空基地

り高ノ島(左)と沖ノ島(右遠方)を望む

写真6

館山市北条海岸より高ノ島(左)と沖ノ島(右遠方)を望む

撮影:2007/4

大正12年の関東地震が発生る前は高ノ島は沖ノ島とともに館山湾に浮かぶ島でしたが、関東地震によって生じた海底の上昇によって干潮時には高ノ島まで歩いて渡れるほどの浅瀬になりました(資料1より)。

旧館山海軍航空隊基地(現海上自衛隊館山航空基地)はこの浅瀬を埋め立てて建設されたものであり、昭和2年から昭和5年までの基地建設工事で埋立が高ノ島まで達することにより高ノ島は陸の一部に取り込まれました。

房総南部の段丘の研究によれば、1703年の元禄関東地震で離水した段丘面は5~6mの高さ(沼Ⅳ面*1)に分布しています。元禄地震で当地区の海底も同じように上昇し、結果的には1923年の関東地震で上記のような浅瀬になりました。

*1沼Ⅳ面:房総半島南部の段丘は大きく4面に分類され、高位のものから順に沼Ⅰ面、沼Ⅱ面、沼Ⅲ面、沼Ⅳ面と呼ばれています。沼Ⅳ面は1703年の元禄地震によって離水した段丘面であり、その他の面もそれぞれ元禄型の関東地震で離水・上昇した旧海食台に相当します。


大正地震記念碑の撰文は千葉県知事の元田敏夫によるもので、「大正十二年九月一日關東地大震震源在相模洋是以房總相武四州沿海之地受其殃甚如東京横濱猛火隨起都市大半歸焦土死者十餘萬傷者不知數……」とあり、次のような内容が記されています。

  • ・地震後も余震が頻発したこと、
  • ・津波の襲来があったこと
  • ・安房郡43町村*2 31,505戸のうち、全壊10,282戸、半壊3,104戸、焼失451戸、流出71戸であったと、
  • ・死者は1,206人、負傷者は2,954人であったこと、
  • ・湾沿岸の北条町・館山町・那古町・船形町・富浦村等*3で被害が甚大であったこと、
  • ・35万円を越える救護・復興資金を受けたこと、
  • ・安房震災復興会を組織して官民共同で復興に努力したことなど

*2安房郡(あわぐん):当時は10町33村よりなる郡でしたが、現在は鋸南町(きょなんまち)のみが安房郡です。

*3北条町・館山町・那古町・船形町・富浦村等(旧町村名と現在の自治体名

  • 北條町(ほうじょうまち):北条町は館山北条町を経て現館山市
  • 館山町(たてやままち):現館山市
  • 那古町(なごまち):現館山市
  • 船形町(ふなかたまち):現館山市
  • 富浦村(とみうらむら):現南房総市

 ⇒ 碑文を見る




参考資料

  1. 鏡ヶ浦をめぐる歴史 館山市立博物館 2002
  2. 近藤精造監修 千葉の自然をたずねて 日曜の地学-19 p.108-114 1992
  3. 千葉県の自然史 本編2 千葉県の大地 p20-29 
  4. 茅根創、吉川虎雄 房総半島南東岸における現生・離水浸食海岸地形の比較研究 地理学評論 59(Ser.A)-1 p18-36 1986
  5. 宍倉正展 完新世最高位旧汀線高度分布からみた房総半島の地殻変動 活断層・古地震研究報告 No.1 p273-285 2001