関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 館山市 TY-02
写真1
鷹ノ島弁天閣 階段に向かって左側にある石碑が大正地震紀念碑
写真2
大正地震紀念碑 幅1.75m、高さ4.4mの大型の石碑
写真3
篆額(石碑の上部に篆字で彫りつけた題字)は、右から上下に読んで「大正地震紀念碑」と刻まれている
写真4
大正地震紀念碑の左側には海軍兵器整備予備学生の戦没者慰霊碑がある
写真5
西方から高ノ島(東方向)を望む 左が館山湾で、右が海上自衛隊館山航空基地
写真6
館山市北条海岸より高ノ島(左)と沖ノ島(右遠方)を望む
撮影:2007/4
大正12年の関東地震が発生る前は高ノ島は沖ノ島とともに館山湾に浮かぶ島でしたが、関東地震によって生じた海底の上昇によって干潮時には高ノ島まで歩いて渡れるほどの浅瀬になりました(資料1より)。
旧館山海軍航空隊基地(現海上自衛隊館山航空基地)はこの浅瀬を埋め立てて建設されたものであり、昭和2年から昭和5年までの基地建設工事で埋立が高ノ島まで達することにより高ノ島は陸の一部に取り込まれました。
房総南部の段丘の研究によれば、1703年の元禄関東地震で離水した段丘面は5~6mの高さ(沼Ⅳ面*1)に分布しています。元禄地震で当地区の海底も同じように上昇し、結果的には1923年の関東地震で上記のような浅瀬になりました。
*1沼Ⅳ面:房総半島南部の段丘は大きく4面に分類され、高位のものから順に沼Ⅰ面、沼Ⅱ面、沼Ⅲ面、沼Ⅳ面と呼ばれています。沼Ⅳ面は1703年の元禄地震によって離水した段丘面であり、その他の面もそれぞれ元禄型の関東地震で離水・上昇した旧海食台に相当します。
大正地震記念碑の撰文は千葉県知事の元田敏夫によるもので、「大正十二年九月一日關東地大震震源在相模洋是以房總相武四州沿海之地受其殃甚如東京横濱猛火隨起都市大半歸焦土死者十餘萬傷者不知數……」とあり、次のような内容が記されています。
*2安房郡(あわぐん):当時は10町33村よりなる郡でしたが、現在は鋸南町(きょなんまち)のみが安房郡です。
*3北条町・館山町・那古町・船形町・富浦村等(旧町村名と現在の自治体名
参考資料